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1巻
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しおりを挟む第一章 ウサギの足は、逃げるために速いんです
その昔、旧家の令嬢だったという祖母は、リンゴのウサギを作りながら孫娘に言った。
『おとぎ話のお姫様には、何かから逃げている子が多いでしょう? 幸せになるためには、逃げきらないと駄目よ。おばあちゃんもね、駆け落ちして逃げきったから、とても幸せなのよ』
それを聞いた孫娘は、幼心に思った。
幸せのためには、逃げきるだけの脚力をつけねばならないと。
祖母が大好きなウサギのように。
◇ ◇ ◇
鷹宮トータルインテリアコーディネート――通称TTICのビルは、東京の一角にある。
日本屈指の巨大グループ鷹宮ホールディングスが母体の、インテリア業界大手の企業だ。
オリジナル家具の開発や販売だけではなく、インテリアのデザイン設計や提案ができる、経験豊かなデザイナーやプランナーが多数在籍している。
そういった最前線で活躍する社員たちが戦いに集中できるのは、総務部の後方支援があるからだ。中でも総務課は雑用係とも言われ、体力と忍耐力が要求される激務な部署であった。
上層部や他部課への連絡、書類を作成する事務補助、接客応対。消耗品や備品などの確認以外にも、トイレが詰まっただの、機械の調子がおかしいだのといったトラブル対応まで引き受ける。
総務課に所属する社員は現在六名。
その中のひとり、今年二十五歳になる宇佐木月海は、今日も元気に社内を駆け回っている。
彼女は大学四年だった三年前、総務での勤務を強く希望して、入社面接を受けた。
『五年前に他界した祖母が、御社の展示会で見つけた非売品のリクライニングチェアを大変気に入りまして。祖母を笑顔にさせた御社で、是非働きたいと就職を希望しました。わたしには家具を生み出せるような技術も知識もありませんが、代わりに学生時代、陸上部で鍛えた脚力と体力があります。これらを活用して、インテリア業界で活躍する皆さんの、縁の下の力持ちになりたいんです!』
とはいえ、面接当日はトラブルが発生し、五分ほど集合時間に遅れてしまっていたのだ。面接は受けられたものの、遅刻などあるまじきこと。落とされるだろうと思っていたが、熱意が伝わったのか、見事内定を獲った。
そして、入社して二年目――
「大変お待たせしました。総務課の宇佐木です」
栗毛色の少し癖っ毛なミディアムヘアの月海は、企画二課のオフィスにいた。明るい笑顔と小柄な体型が、小動物を思わせる。
企画二課では、大至急が口癖の吉澤課長が、コピー機の前で待ち構えていた。月海は「大至急、動かなくなったコピー機をなんとかして欲しい」と内線で呼び出されてやって来たのだ。
月海が用紙収納トレイを引き出すと、案の定、紙がぱんぱんに詰められている。紙の量を減らし、奥に詰まっていた紙を取り除く。持参したエアクリーナーで細かなゴミを飛ばせば完了。
「ウサちゃんはいつも早くて助かるよ。他の皆は、そば屋の出前だからねぇ」
「お褒め頂き光栄です。用紙を少なめにセットすると、紙詰まりしにくくなりますよ」
にこにこと笑顔でアドバイスをする。
「ああ、そうか。いいことを聞いたよ」
毎回、月海は吉澤課長に同じことを言っているのだが、どうも覚えてくれない。
しかし総務の基本は笑顔第一だ。気持ちよく仕事をして貰えるよう、どんな時も笑顔でいなければいけないと、月海は思っている。
彼女が戻ろうとすると課長が引きとめた。
「ついでで悪いけれど、これ五百部ずつコピーをして、六枚ワンセットで郵送して欲しいんだ。これは宛名データ。タックシールに印刷して封筒に貼って。うちの課は皆が忙しくてさ、総務課なら時間がありあまっているだろうから、片手間にできるだろう?」
まだ返事もしていない月海の手に、書類とUSBメモリが入ったクリアファイルが渡される。
「あの……。他部課のお手伝いや、お客様の個人情報が含まれるデータの受け渡しは、部長の承認がなければいけないので、上を通して頂けると……」
「いやあ、ウサちゃんはイノちゃんみたいに堅苦しいことを言わずに、困っている社員をにこにこと助けてくれるからいいねぇ。あ、大至急で頼むよ」
(……いつものことだけれど、まったく聞く耳を持ってくれない)
他部課でも上司命令には違いないが、個人の裁量で安易に受けるべきではないのではないか。そう思案していたところ、手からファイルがなくなった。
「勝手なことをしちゃ駄目でしょう、吉澤課長」
背の高いスーツ姿の男性が、片手にファイルを持っている。
垂れ目がちな、女性受けしそうな甘い顔立ち。彼は、総務部長の鷲塚千颯だ。
「社内ルールの意味がわからないのなら、総務課で勉強し直します? 人事に掛け合いますよ」
彼がにこりとして言うと、課長は真っ青な顔で震え上がり、首を横に振る。そしてファイルをひったくるようにして席に戻ってしまった。
企画二課を出て廊下を歩きながら、月海は鷲塚に頭を下げる。
「鷲塚部長、ありがとうございました」
「あの場に居合わせてよかったよ。きみは人が好すぎるから、ああいう強引な社員には気をつけて。上司相手でも総務部の一員として、社内ルールを徹底させてね」
鷲塚は優しいが、上司としてきちんと注意してくれる。
月海が尊敬する上司のひとりだ。
「はい……。以後、特に気をつけます」
鷲塚は、月海が入社した年に、営業一課の課長から総務部長に昇進した。
エリート街道を進んでいるだけあり、かなりやり手らしい。総務部……特に総務課が、ただの小間使いにならぬよう、社内改革を推し進めたのは彼だという。
「はは。頑張れよ、子ウサギちゃん」
鷲塚は月海のことを子ウサギと呼んでいる。
「はい、頑張ります。この不肖宇佐木、このまま総務課に骨を埋める所存です!」
拳に力を入れてそう言い切ると、鷲塚は声を上げて笑った。
「あはははは。そんなことはさせないだろうけれどね、あいつが」
「はい?」
「いやいやこちらの話。はは……しかし、目敏いな。ほら、鷹の王様の凱旋だ」
途端に月海は、突き刺さるような視線を肌に感じた。
それは玄関ホールに立つ、長身の男性から向けられている。
黒い前髪から覗く、鷹のそれに似た琥珀色の瞳。
鋭い眼光と共に、まとうオーラは覇者特有の圧を放つ。
(またわたし、睨まれている!)
月海を震え上がらせたのは、専務の鷹宮榊だった。
彼は、鷹宮グループ会長の孫であり、TTIC社長の次男だ。
鷲塚とは大学時代からの朋友で、ともに今年二十九歳の同期でもある。
鷲塚が優しげで甘い美貌ならば、鷹宮はクールで凜とした美貌で、ふたりは女性社員の視線を二分していた。
TTICでは、三十歳手前で課長になればその後も出世コース間違いなしと言われている。鷹宮も鷲塚も出世コースにあるが、鷹宮が鷲塚よりも早く出世したのは、なにもその血筋だけによるものではない。混迷期だったTTICの海外進出を成功させ、利益を拡大させた功績が評価されてのことだ。
月海が入社した時から、肩書き・頭脳・美貌と三拍子揃った若き専務には、伝説級の逸話が色々あり、社員の憧れの的だった。しかし、当時の月海にとって鷹宮は、せいぜい月に一度、役員会議でお茶を出す程度の遠い存在。他人事のように噂を聞きながら、仕事を覚えることで精一杯だった。
そんなある日、突然鷹宮から呼びとめられたのだ。
一対一での対面は初めてで、鷹宮の迫力に背筋がざわついた。
特にあの琥珀色の瞳で見つめられると、襲われる直前の小動物めいた気分になって怖くなる。
何事かと思ってぎこちない愛想笑いをしたところ、彼は表情を崩すことなく言った。
『今日は何日だ?』
怯えつつ答えたが、鷹宮はなにか言いたげに目を細めるのみ。本題があるのかと、月海は辛抱強く鷹宮の言葉を待っていたものの、彼は不機嫌そうにため息をついて立ち去った。
それ以降、社員と立ち話をしている最中に鷹宮に遭遇すると、忌々しげに顔を歪められるようになった。そして、嫌悪を露にした攻撃的な眼差しを向けられるのだ。
公然と睨まれるのはさすがにへこむし、とにかく怖い。だが伝説級の重役に、自分を嫌う理由を直接聞けるほどの度胸もない。月海は、いかに自然に逃げることができるか、方法を模索し始めた。
そんな中、鷹宮に関する非情な噂を聞いた。
仕事に厳しい鷹宮は、会社に貢献できない社員を嫌い、容赦なく切り捨てる。特に総務課は、能力的に底辺に見られる社員が多いため、鷹宮から攻撃対象にされているらしいと。
自分は落ちこぼれだから、彼に嫌われているのかもしれない。彼の行動は、俗に言う『肩たたき』というものではないのかと、月海は思ったのだ。
月海は震え上がり、退職に追い込まれてたまるかと、仕事に励み懸命にスキルを磨いた。
しかし入社して二年、『肩たたき』具合はヒートアップしている。月海の恐怖心を煽るような嗜虐的な笑みを向けられたことも、専務室に連れ込まれそうになったこともある。月海の苦手意識は日々募るばかりだが、鷹宮の手からも、退職からも逃げきれていた。今のところは、なんとか。
「凄く睨んでいるな。まったく、僕を睨んでどうするんだよ……」
苦笑交じりの鷲塚の声に、月海は慌てて言った。
「専務と仲がいい部長を睨むはずないじゃないですか。睨まれているのはわたしの方で……」
月海がそう言った瞬間、鷹宮が黒のトレンチコートの裾を翻しながら、こちらに闊歩してきた。
まるでランウェイを歩くモデルのように颯爽とした姿を見て、月海は竦み上がる。
(な、なんで来るの? もしかしてとうとう……左遷かクビの勧告!?)
距離を詰めてくる猛禽類は、小動物にとっては脅威だ。生存危機に関わる。
月海が涙目で鷲塚に助けを求めると、彼はにっこりと笑った。
さすがは理解力があるエリート上司……と思ったのは数秒間のこと。彼は助けてくれるどころか、がしりと月海の腕を掴んで言ったのだ。
「すまないね。僕が賭けに勝ったら、奢ってあげるから。それで許してな」
女性を虜にするキラースマイルを浮かべる。彼は、掴んだ月海の手を持ち上げると、鷹宮に向けてぶんぶんと大きく振り、朗らかな声を上げた。
「いやあ、鷹宮専務。出張からお戻りですか? お疲れ様です!」
(部長、わたしを生餌にして猛禽類を呼ばないでぇぇ!)
「ほら子ウサギちゃん。総務課の一員として専務にご挨拶を」
鷲塚に物申したい気持ちは多々あるものの、その間にも凶悪な目をした猛禽類は、月海との距離を縮めてくる。月海は怯えながらも深く息を吸い、一気に言葉を吐き出した。
「鷹宮専務、お疲れ様です。では部長、急ぎの仕事がありますので、わたしはこれで!」
鷹宮が警戒領域に踏み込んだ瞬間を見計らい――ダッシュ。
短距離で鍛えた月海の足は、TTIC一番の加速力を誇る。持続性にはいささか欠けるが、特にスタートダッシュはここ二年で飛躍的に向上した。そのフォームは見事なものだ。
鷹宮が到着した時には、鷲塚の手を振りきった月海の姿は見る影もない。
そう、脱兎の如き速さにて、月海は今度も、鷹宮からの逃走に成功したのだ。
月海が総務課に戻ると、課内にいたのは女性課長である猪狩結衣だけだった。
艶やかな長い黒髪を耳にかける結衣は、憂いを帯びた美しい顔をしている。
今年二十九歳になる彼女は、鷹宮と鷲塚の同期だ。三人はともに容姿に優れ、仕事ができてエリート街道を突き進んでいることから、『プラチナ同期』と呼ばれている。
月海が席に戻ると、隣に座っている結衣が電話を切り、ため息をついた。
「どこの部課も気軽にDM発送依頼をしてくるわね。今、別室にいる総務課三人でとりかかっているのは、二課合計七千通分。それ以外の仕事の対応だって大変なのに」
「あ、課長。わたし企画二課の課長にも頼まれて、鷲塚部長に助けて貰いました」
「ふぅ、上を通せというルールがあっても、無視してくる社員ばかりよね。ページ順に揃えてくれるコレーターとか、紙折り機くらい入れてくれたら、たくさん引き受けられるかもしれないのに。専用機械は高価すぎると、常務から却下されるし」
初老の常務は、若齢で出世している鷲塚を妬ましく思っているとかで、なにかにつけて総務課の稟議に反対する。そんな私情のために総務課も、DMを出したい他の部課も迷惑を被っているのだ。
「大量のDM発送作業をこの人数でするには限界がある。せめてそれ以外の仕事を減らしてくれたら」
結衣が再び盛大にため息をついた時、げっそりとした顔つきの女性社員が戻ってきた。
彼女――月海の先輩社員が請け負ったトラブルは、かなり大変だったようだ。
月海が給湯室に向かい、先輩と結衣の分の珈琲を淹れていると、電話が鳴る。
受話器をとったのは、条件反射的に動いた先輩だったらしい。
月海が珈琲を持って戻った時には、彼女の姿は席になかった。結衣が苦笑交じりに言う。
「パソコンの実地指導に行ったわ。電話対応じゃ埒があかなくなったみたい」
「わたしが代わればよかったですね。戻ってきたばかりでお気の毒です」
冷めないうちに戻れることを願い、月海は先輩の机に珈琲を置いた。
結衣は月海が淹れた珈琲を飲みながら、パソコン作業を始める。電話が鳴らない限りは、月海には急ぎの仕事がない。
先輩たちのDM発送の手伝いをしたいが、総務課から離れれば、この先結衣ひとりに電話対応を任せてしまうことになる。それも忍びなく、月海は結衣の事務処理の手伝いを申し出た。
「ありがとう! じゃ、この書類作成を頼むわ。宇佐木も、少し休憩入れなさいね」
「ご心配ありがとうございます。でもわたし、体力だけはありますので!」
カタカタとキーボードを軽やかに叩き始めた月海に、結衣は笑って答える。
「そんなこと言って、宇佐木も戻ってきた時、げっそりとしていたわよ?」
「それは……専務から逃げてきたもので」
「あれ、鷹の王様がイギリスから戻るのって、明後日のはずだったけど?」
「そうなんですか? 色々なところを飛び回ってお忙しいはずなのに、どうしていつもばったり会っちゃうんでしょう。ああやってあからさまに睨まれると、わたしもう本当に怖くて。おかげで短距離のタイムが、現役の頃より短くなった気がします」
「ふふふ。鷹に狙われた小動物も大変ね。でも、びくびくしている宇佐木をいまだ捕まえられない鷹もどうかと思うわ。いつもは狙った獲物は逃がさない、能がありすぎる鷹のくせに、いつまで爪を隠しておくんだか。本気を出せば、さっと捕獲できそうなものを」
月海は震え上がる。
「恐ろしいことを言わないでくださいよ。大好きだったおばあちゃんが、幸せになるためには逃げきれと言うから陸上部で足を鍛えたんです。わたしは幸せのために、逃げきります!」
「心から応援しているわ、私の幸せのためにもね! 私は宇佐木に大金を賭けているんだもの」
途端に月海は、鷲塚からも『賭け』という言葉を聞いたことを思い出す。
「賭けているって、もしかして部長とですか?」
「そうよ。鷹との友情をとる鷲とは違って、私は可愛い部下である宇佐木を信じているの。だから私のためにも是非、あの鷹から逃げきってね」
「了解です。課長のためにも、頑張ります!」
賭けの内容はよくわからないながらも力強く月海が断言した時、内線が鳴る。
「はい、総務課の宇佐木です」
すると数秒の間を置いて、声が聞こえた。
『……ひとりで専務室に来い』
そして、ぷつりと切れてしまう。
深みのある透明な声音で、恐喝じみた言葉を吐いたのは――
「逃げきったと思ったら、また専務からお呼び出しがきました」
項垂れて疲れた声を出すと、結衣は気の毒そうな目を向けてくる。
「私も一緒に行こうか?」
「ひとりでと言われたので、お気持ちだけで結構です」
「そう? いいこと、宇佐木。十分以内に総務に戻ってくるのよ」
月海の肩に手を置き、どこか必死に結衣は言う。
「……それも部長との賭けですか?」
「そう。私は、宇佐木の味方よ。とりあえずは……年末までは逃げきって。死に物狂いで」
「はい……」
(課長、わたしでいくつ、部長と賭けをしているんだろう……)
考えながら、月海は重い足を引き摺るようにして専務室に向かった。
専務室は総務課のふたつ上のフロア、ビルの六階にある。
エレベーターから出るとふかふかのワインレッドの絨毯が広がり、重役フロア独特の静謐で重々しい空気が漂う。
あるドアの前で立ち止まった月海は、ノックをして名乗った。
すぐ中に入るようにと返答があったため、息を整えてドアを開く。
「失礼します」
東京を一望できる大きな窓の前に、鷹宮が座っていた。
燦々とした日差しを後光のようにまとう、モデル顔負けの端整な顔。
月海を見据える目はいつもの如く鋭い眼光を放ち、威厳に満ちている。
鷹宮の横にある応接ソファには鷲塚が座り、ちょうど女性秘書が珈琲を出していた。
彼女は、志野原寧々といい、月海より二歳年上の専務専属秘書だ。
美貌の男たちにはにこやかに応対するが、月海に向ける視線には常に敵意が込められている。
今日も、月海が専務室を訪れたことを快く思っていないのか、キッと睨まれた。
(好きで来ているわけじゃないんだけどな……)
そう言いたいのをぐっと堪えて作り笑いをし、月海は鷹宮に尋ねる。
「ご用はなんでしょうか」
すると鷹宮は超然とした笑みを浮かべ、引き出しから取り出した書類とホチキスを机の上に並べた。
「これは今度の会議で使う資料だ。七部ある。上から五枚ずつホチキスでとめてくれ」
「……承知しました」
(順番通りに書類が揃っているのなら、あとは七回、ホチキスでパチンパチンとするだけなのに、なぜ自分でしないのかしら。電話で呼びつける方が、時間と手間がかかると思うけど)
御曹司の専務さまの考えることはよくわからない。しかし、どんな命令でも従わなければならないのが、宮仕えの辛いところだ。月海が書類を受け取ると、寧々が横に立って鷹宮に言った。
「専務。それくらい私が……」
「いや。きみの手を煩わせることもない。ここはいいから、きみの仕事に戻りなさい」
鷹宮に却下された寧々は渋々と了承し、月海をひと睨みして、退室する。
(そうよね、こんなどうでもいい仕事は、秘書さんの手を煩わせることもないわよね)
そんな仕事を与えられたのは、自分がどうでもいい存在だからだろう。別に大切にされたいわけではないが、あからさまに差別されたようで面白くない。
立ったまま、黙々とホチキスで綴じていくと、鷹宮が妙に慌てた声を出した。
「そんなに急いでやらなくてもいい。そこのソファに座ってゆっくりとやってくれ。……鷲塚部長、見ての通り今は仕事中だ。また後で来て欲しい」
こんな仕事に、そこまで時間がかかると思えるのだろうか。
馬鹿にされたみたいに思い、月海はますます面白くない。ついホチキスを握る手に力が入る。
「専務。せっかく寧々ちゃんが熱い珈琲を淹れてくれたのに、それを口にしないで去るのは彼女に失礼でしょう。だから珈琲を飲んでからお暇させて頂きます。……ぶっ」
鷲塚は言葉の最後に噴き出すと、堪えきれないと言わんばかりに肩を揺らして笑う。
(なにがそんなにおかしいんだろう。笑える要素があったかしら)
だが鷹宮は、理由を鷲塚に問い質すこともなく、脅すような強い語調で退室を促した。
「鷲塚。お前はここで無駄な時間を過ごせる暇人じゃないだろう、帰れ」
(そうか、わたしはここで無駄な時間を過ごせる暇人だと思われているってことね)
鷹宮のひと言ひと言に、やけにカチンときてしまう。月海は意地になって、ふたりが会話をしている間に仕事を終わらせた。
「専務、終わりました。部長とごゆっくり」
一礼した月海は迅速に動き、ドアの前で振り返る。すると、鷹宮がなぜか片手の拳を前に突き出した横向きポーズのまま、固まっていた。
(時々見るけれど、あれはなんなのかしら。ガッツポーズでもなさそうだし……。まあいいや)
「失礼しました」
月海がドアノブに手をかけようとした時、鷲塚が笑いを滲ませた声を上げた。
「ちょっと待て。専務がきみを呼び出したのは、別の用事があったからだ」
「え?」
「さあどうぞ専務。僕はお邪魔にならないよう、静かに珈琲を飲んでいますので」
鷹宮はため息をつくと、背広の内ポケットから小さな包みを取り出し、月海に渡す。
「これは、イギリスの土産だ。いつも世話になっているから」
『世話になっているから』――その言葉が月海の頭の中でリフレインする。
今まで彼から好意を向けられた覚えがないのに、どんな意図があってのことなのか。
「きみが喜びそうなものを選んできたつもりだ。開けてみてくれ」
いつにない優しげな声も、ただ恐怖を煽るもので、月海の警戒心は強まるばかりだった。
「し、仕事をしているだけなので、お気になさらずとも。それならば志野原さんに……」
やんわりと拒絶して速攻で退去したいのに、鷹宮はそれを許さない。
「これはきみのために買ってきたものだ。頼むからこの場で開けろ」
お願いなのか命令なのかよくわからぬ語調。どうしてもこの場で見て貰いたいらしい。
嫌な予感を覚えた月海は、鷲塚に目で助けを求める。だが彼はなぜか肩を震わせて笑っており、「鷹宮に従え」とジェスチャーをしてきた。月海は仕方がなく包みを開ける。
出てきたのは、掌サイズのキーホルダーだ。白くて長い、なにかの動物の尻尾らしきものがついている。
「これは……」
「ラビットフット」
鷹宮は高らかに言う。その単語に、月海は怪訝な顔をした。
(ラビットフット? 訳したら……ウサギの足だけど、まさか本物なんてこと……)
すると鷹宮は、月海の疑問を見透かしたかのように、得意顔で言う。
「本物のウサギの後ろ足だ。きみはウサギが好きなのだろう?」
それを聞いて、ラビットフットを載せた月海の掌がぷるぷると震えた。
(つまり、元は……生きていたウサギなの? なんて残酷な……)
なにより自分は、愛情を注ぐ動物の屍の一部を貰って喜ぶ死体愛好家に見えるのだろうか。
(それとも、お前の手足もこんな風に簡単にもげるとでも言いたいの? ただの嫌がらせで、わたしの反応を見て愉しんでいるとか?)
あまりに残酷なプレゼントだ。とてもじゃないが、ウサギ好きとしては受け取れない。
「……申し訳ないのですが、お気持ちだけで十分です」
「え?」
「わたし……、ウサギは好きですが、ウサギの死体を愛でる趣味はなくて……せっかくのプレゼントですが、すみません」
悪趣味だと詰りたい気分をぐっと堪え、やんわりと毒を含ませるので精一杯だ。
月海は包装紙ごと、ラビットフットを鷹宮の手に戻した。すると、色々な負の感情が交錯して、思わず悔し涙がこぼれてしまう。それを見た鷹宮が目を見開き、驚きの表情を向けてきた。
月海はハッとして慌てて目頭を拭い、ぺこりと頭を下げ、小走りで退室したのだった。
◆ ◆ ◆
月海が退室してからしばらくして、鷹宮がため息をつきながら専務室に戻ってきた。先程、出ていった月海を追いかけたのだが、探しても見つからなかったのだ。
鷹宮は鷲塚の向かい側のソファに座ると、むすっとした顔をし、長い足を組む。
「また逃げられたか。だが、榊。今日の子ウサギちゃんの専務室滞在時間は、なんと七分五十二秒。過去最長だぞ? これなら十分間の専務室滞在も夢じゃない……ぷはっ」
鷲塚が堪えきれず笑い出す。しかし鷹宮はそれには無反応で、悩ましげな吐息を漏らした。
「……千颯、お前……俺にアドバイスをくれたよな。彼女はウサギ好きだから、ウサギに関するものでも土産に買ってくれば、きっと態度が緩和するって」
「そうだな」
「これ以上ないってくらいのウサギだったろう? それがなぜ泣かれた? あれは、嬉し涙じゃないよな……」
解せないと腕を組んで考え込む鷹宮に、鷲塚は呆れ返ったように言った。
「お前、なぜあれを選んだ? イギリス発祥の……なんだかラビットとかいう、絵本で有名なウサギとか、アリスに出てくるウサギとか、万人に愛されるものにしておけよ」
「別に他から愛されていなくてもいいんだよ。ラビットフットは幸運のお守りとして有名だろう? 模造品ではない本物だし、ベストなプレゼントだと思ったんだ」
「お守り? そんなこと初めて聞いた。彼女も、あの様子なら知らないぞ? 意味がわからない奴にとっては、ウサギの死体の一部なんて気味悪いだけだ」
鷹宮は、鷲塚の言葉に大いに驚くと、悔しそうに舌打ちをした。
「くそ、俺の選定ミスか。早めに仕切り直しをしないと……」
だが、月海の泣き顔が思い浮かび、いい案が思いつかない。
「それと。総務課ホープの子ウサギちゃんを呼びつけて、あんな仕事はないだろうよ。もっと仕事らしい仕事はなかったのか?」
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