愛蜜契約~エリート弁護士は愛しき贄を猛愛する~

奏多

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1巻

1-3

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「いらっしゃい! マホ……」
「歓迎ありがとよ、姉ちゃん」

 そこにいたのは――ヤクザだった。
 しかもいつものライオンヘアの男ではない。見るからに極悪そうな顔をした見知らぬ男だ。スーツ姿にサングラスという古典的なスタイルで、修羅場慣れしていそうな四人の男を連れている。
 男には今までのヤクザがしてきたことが子供の遊びと思えるほどの、暴虐的な威圧感があった。それに相対した凜風の顔は強張り、血の気が引いていく。
 そんな凜風の横を擦り抜けて、彼らは凄みながら中に入ってくる。

(ああ……これは最悪な予想通り、悪夢のような展開になるかも)

 電話もスマホも近くにない。涼が中にいる以上、ひとり外に助けを求めにいくわけにもいかない。
 サングラスの男が指を鳴らすと、背の高い子分が肩に背負っていたなにかを床に叩き付けた。
 小さく呻いたそれは、ライオンヘアの男だ。顔が腫れ上がっている。
 その凄惨な姿を見て、凜風は思わず両手で己の口を押さえて、震え上がった。
 サングラスの男が言う。

「一ヶ月経ってもこの事務所を潰せず、お前たちを追い出すこともできず、言い訳ばかり。これからはこいつ……有村ありむらに代わり、鮫邑組さめむらぐみの若頭、この新谷しんたにがやらせてもらう」
(わ、若頭⁉)
「痛い目に遭いたくなかったら、ここからとっとと出ていけ!」

 新谷が怒鳴り、再度指を鳴らしたのを合図に、男たちがさっと動く。彼らは鉄パイプのような凶器を取り出すと、それを振り回して室内を壊しはじめた。

「やめて、やめてよ!」

 凜風の絶叫は、破壊音に掻き消される。
 今までが平穏すぎたのだ。涼が言っていたように、ライオンヘア……有村にも幾許いくばくかの良心があり、あれでも抑えてくれていたのかもしれない。
 新谷たちには良心も躊躇ちゅうちょもない。ただの破壊者だ。
 壊されていく。父が大事にしてきたものすべて、再生不可能なまでに。

(なんとか、しなきゃ……なんとか!)
「やめろおおおお!」

 涼が叫び声を上げてひとりの男を止めに入るが、簡単に突き飛ばされ壁に背を打ちつけた。

「涼兄!」

 凜風は走り寄り、涼を介抱しながら、ただカタカタと震えて傍観することしかできなかった。
 なぜこんなことをされないといけないのだろう。
 なぜこうしたやからを抑えることができないのだろう。
 自分に揺るぎない絶対的な力があれば、大切なものを守ることができるのに。

(動け。動け、わたしの足! 動くの!)

 自身を叱咤して、震える足が少しだけ動いた、その時だった。
 なにかが飛び込んできた――そう思った瞬間、破壊者たちは当て身を食らい床に倒れていく。

「なにをしてるんだ、阿呆が!」

 そう怒声を上げて、新谷の手を背後に捻り上げたのは、漆黒をまとった男。
 冷静さと非情さを際立たせるかのような眼鏡。固められた髪。

「お、お前……まさか御子神⁉ どうしてここに!」

 吸い込まれそうなほどに魅惑的な銀青色シルバーブルーの瞳。
 御子神だ。
 もう二度と会うことはないと思っていた男が、ネクタイを締めたダークスーツ姿で、ヤクザを倒してここにいる。

「お前に説明する義理はない。俺が一番嫌うのは、素人相手の暴力行為だ。鮫邑組の若頭と聞こえたが、ここはお前らの界隈シマじゃないだろう。組の休戦協定を破って戦争でもする気か?」
「ち、違う。これは仕事シノギで……」
「個人的な理由でないのなら、誰からの依頼でこの事務所を潰そうとしている?」
「い、言えるわけがないだろうが! く、組の信用……沽券こけんに関わる!」
「ほう。言えない上得意がいるわけか。では組長オヤジに伝えておけ。近々御子神が訪ねると。もしそれを拒んだり、今後もこんなことを続けたりするのなら、俺が相手になる。今後一切、鮫邑組の者は助けないし、過去の表沙汰にしたくない件が流出する覚悟をしておけと」
「ヤ、ヤクザを脅すの……イテテテテテ!」

 きりきりと腕に力を入れられ、新谷は悲鳴を上げた。

「それがいやなら、即刻全員、ここから立ち去れ!」

 御子神の迫力ある威嚇に身を竦ませた新谷は、床でのびている男たちを蹴り飛ばして覚醒させると、有村を担いで一目散に出ていった。

「み、御子神さん⁉ ど、どうしてここに?」

 御子神は、凜風の動揺した声に軽く笑ってみせると、背広の内ポケットから黒革の名刺入れを取り出した。そして引き抜いた名刺をぴんと指で弾いて、凜風に投げ寄越す。
 その名刺には――

『MK Law Office 弁護士 御子神真秀』
「べ、弁護士⁉」

 思わず声を上げた凜風に、御子神は己の襟元につけている、金色の記章バッジを指さした。
 ヒマワリの中にある天秤の模様。それは間違いなく、弁護士だと証明するものだ。

「ヤ、ヤクザじゃないんですか⁉」

 あまりの驚愕に、凜風の声がひっくり返ってしまう。
 御子神はそんな様子を愉快げに見つめながら、凜風に告げた。

「残念だが違う。ヤクザやアウトローを含め、社会的弱者を守る側の者だ」

 ようやく身体を起こした涼は凜風の手にある名刺を見ると、声を上げた。

「この珍しい苗字――まさか、〝法曹界の悪魔〟⁉」

 すると御子神は、にやりと口角を吊り上げて笑った。

「よく知っているな。そう呼ばれることもある」
「ほ、本物……」

 涼は、興奮と恐怖をない交ぜにした表情で固まった。その理由がわからない凜風は、涼の身体をゆさゆさと揺さぶりながら、説明を求めた。
 涼いわく、法曹界には、どんな難しい案件でも必ず勝利するが、その強引さと非情さから怖れられる、ふたりの若手辣腕弁護士がいるという。
 ひとりは〝法曹界のプリンス〟。由緒ある法曹一家に生まれたエリート御曹司で、手段を選ばずに勝利するところから冷血漢とも言われているらしい。

「そしてもうひとりが〝法曹界の悪魔〟。凄腕の検事だったのに突如弁護士に転身し、草薙くさなぎ組というヤクザの顧問弁護士を務め、二年前に組が解散してからは合同事務所に移り、反社の者たちの駆け込み寺的な存在になってるって聞いたことがある。裏社会の守護神として、ヤクザたちからも畏怖されている異色の弁護士……父さんも一目置いていたから余計記憶に残ってるんだ。それが、御子神弁護士……、あなたで?」

 御子神は否定せずに、薄く笑っている。

(元……ヤクザの顧問弁護士……。裏社会の守護神……)

 御子神にアウトローの香りがしていたのは、そうした経歴が関係するのかもしれない。
 そんな経歴があるがゆえの『悪魔』という通り名であり、彼に守られているヤクザは頭が上がらないのだろう。
 考えてみれば彼は一度だって、自分のことをヤクザとは言っていない。ヤクザが彼を怖れる理由を聞いたわけでもない。凜風が勝手にそう思い込んでいただけだ。

(でも入れ墨があったわよね。弁護士も入れ墨ってしていいのかしら……)

 彼自身ヤクザでないとしても、反社的な思想があるのかもしれない。そんな男に、正義と自由、公正と平等を意味する弁護士バッジをつける資格があるのか、よくわからないけれど。
 ただ――それならば、なぜここに御子神が現れたのだろう。

(あの時は名前しか告げなかったのに、わざわざ事務所を調べて、助けにきてくれたの……?)

 しかし、兄の涼はまったく正反対のことを考えていたようだ。

「ヤクザたちを守る、有名なやり手弁護士さんがここに来たなんて、うちに来ているヤクザの弁護人を引き受け、示談交渉でもするつもりですか? 父も僕たちもあなたとは面識がないはず」

 涼は、凜風と御子神の関係を知らない。だから、誤解するのも当然だろう。
 説明をしようとした凜風を背に隠して、涼が続ける。

「ヤクザが来た直後にあなたが登場した。それを偶然だと言われて信じるほど、バカではないつもりです。助けたふりをして僕たちを信用させ、その実はあのヤクザたちとグルなんじゃないですか?」
(確かにタイミングが良すぎるわ。でも、まさか……)
「御子神弁護士。妹と僕は情報を共有している。妹は確かに弁護士を探していましたが、今まで妹の口からあなたの名前は出てこなかった。いつから妹と顔見知りで、なぜここに来たのか理由を教えてください」

 凜風は信じたかった。御子神との出逢いは本当に偶然で、彼は敵対する側の人間ではないと。
 でも、もし、違ったら――
 兄妹の緊張した視線を浴びながら、御子神は余裕めいた笑みを浮かべた。

「ほう。聞いていたのとは違い、気骨はあるようだ。頭も回るし弁も立つ。ただし、いまだ妹に関することのみ、のようだがな」

 知ったような口調でそう笑うと、御子神は眼鏡を外し、固めた髪に指を入れた。
 途端に、あの夜のような野生的な色香がぶわりと強まり、凜風の身体を熱くさせる。
 御子神はゆったりと笑って言った。

「悪いが、俺はこの事務所潰しには一切関与していない。今日訪ねたのは、お前たちが、ここに来いと俺を呼んだからだ」

 凜風は涼と顔を見合わせ、そしてふたり揃って首を横に振る。
 呼んだのはマホであり、御子神ではない。

「まさか……!」

 そんな声を放ったのは涼である。もう一度名刺を見ると、涼は恐る恐る御子神に聞いた。

「お名前は、〝みこがみ まさひで〟さんか〝みこがみ ましゅう〟さんですよね?」
「涼兄、突然どうしたの?」

 凜風が怪訝な顔を兄に向けた時である。

「俺の名前は、〝みこがみ まほろ〟。幼い頃はマホと呼ばれ、俺もそう名乗っていた」
(まほ……?)

 凜風の心臓がいやな音をたてている。
 鏑木家の長女のことをマホと呼んでいたのは、相手がそう名乗ったからだ。その名はどんな漢字で表すのかなど、確認する必要性すら感じてこなかった。
 良からぬ予感に、凜風が引き攣った顔を御子神に向けると、彼は告げた。

「鏑木から、遠戚の御子神に養子に出され、今は御子神姓を名乗っている。昔は訳あって牡丹御殿……鏑木本家で女として育てられ、祖母と本家の離れにいた。あの当時は声変わりがまだだったから、今とは声色も違うが」

 他人にしては、あまりにも情報が正確すぎる。

「俺がメールの差し出し人。弁護士の、マホだ」

 しかしあの頃のマホとは、あまりにもかけ離れすぎている。
 涼はその場で膝をつき、涙声で独りごちている。

「違う。たまたまマホちゃんと同じ瞳の色をしているだけの別人で……」
「本名も書いていないあのメールで、よくマホだと信じて会おうとしたな。匂わせたとはいえ、あの返信……あんな大量のハートマークで大歓迎されるとは思わなかった。弁護士として人を信じるのはいいが、もっと慎重になった方がいいぞ」

 さらに肩を落とす涼にくすりと笑い、御子神は、喜びと切なさを織り交ぜたような声で言った。

「十八年ぶりか。久しぶりだな、凜風、そして涼」

 色香を漂わせたその顔は、少し照れ臭そうで、ほんの少しだけマホを彷彿させた。

『ふふふ、凜風ちゃん、涼くん。いらっしゃい』

 凜風の中で、奥ゆかしい美少女だったマホとの思い出と、〝義姉になってもらって家族になろう計画〟がガラガラと音をたてて崩れていく。
 ありえない、こんな現実は。
 大体、鏑木家の面々は、マホのことを長女だと言っていたじゃないか。家族ぐるみで次男を長女として育てるなんて、どんな特殊事情があればできるものなのか。

(古くから続く、閉鎖的な旧家だから? いや、だけどそれにしても……)
『私も凜風ちゃんのこと、大好きよ』
「マホちゃんは、わたしがなりたい理想の女の子で……こんなダークな悪魔なんかじゃないわ。わたしのマホちゃんは清純乙女で、天使……そう、天使な美少女で……」
「そりゃあ残念だったな」

 にやりと笑うのは、儚げな天使ではない。どこまでも不敵な笑みを浮かべる魅惑的な男だ。

(なにかの悪夢よ。マホちゃんが、アウトローみたいな男になって……しかもあんなことやこんなことをした相手だったなんて。なにもかもがショックすぎて、今にも倒れそう……)

 しかし先に倒れたのは、

「僕のマホちゃんが……」

 絶望的な表情を浮かべて、失恋に涙を流す……涼の方だった。


      ◇


 事務所には、従業員が仕事をする執務スペースの一角に、来客用の応接ルームがある他、従業員が利用できる仮眠室や簡易シャワー室がある。
 ショックを受けてしまった様子の涼は、今は仮眠室で眠らせている。
 ここのところ涼も睡眠不足だったようだから、ちょうどいい機会だろう。
 凜風は応接ルームで、淹れ立ての珈琲を男に差し出した後、所長代理の代理として黒革のソファに座った。向かい側には、御子神――真秀が長い足を組みながら、ゆったりと座っている。
 まるで彼がこの事務所の所長かの如く、尊大で不遜なオーラを放っており、涼と同い年ながらも格の違いを感じさせた。

「最初からわかっていたの? わたしが幼馴染だということを」
「いいや。わかったのは、お前の父親とお前の名前を聞いてからだ。まあ、お前っぽい女だなと思って誘いに乗ったのは認めるが、まさか本人だとは思ってもいなかった」
「わたしっぽいってなに?」
「それは秘密」

 真秀は意味ありげに笑うと、唇の前に人差し指を立てた。
 その仕草がとてもエロティックで、凜風は思わず目を逸らす。

(いちいち、ドキドキするな。これはマホちゃん、わたしの憧れの女性で……)

 そう自分に言い聞かせても、脳が真秀とマホを同一視してくれない。

(あの頃のマホちゃんは十四歳。あれから第二次性徴がはじまったとしても、ここまで変われるものかしら。……あ、忘れていた)

 大事なことを思い出した凜風は、殊勝に頭を下げた。

「今日も助けてくれてありがとう。マホちゃ……ええと、御子神さん」

 どの表現が正しいかわからないが、言い直すと真秀は笑った。

「マホ……いや、真秀でいい」
「けど、さすがに呼び捨てなんて……」
「知らない仲じゃないだろう。俺はお前の過去も現況も身体も知っている」

 さりげない最後の単語に、凜風は思わずせ込みそうになった。
 その上運悪く、ちょうど目覚めた涼がやってきて、真秀の言葉を聞いてしまった。

「……身体ってなに?」

 涼から、メラメラとなにかが立ち上っている。

「はは。相変わらずのシスコンだな」

 真秀は愉快そうだが、兄の剣幕に青ざめる凜風の元に涼がやってくる。

「凜風、それって例の五日前のことだよね。マホちゃ……いや、御子神さん……」
「似たもの兄妹だな。真秀と呼び捨てにしていい。俺もお前たちをそう呼ぶ」

 やはり涼も呼び捨てには躊躇ためらいがあるのか、咳払いをしてから言葉を変えて、凜風に尋ねた。

「居酒屋で意気投合した見ず知らずの集団とオールしたから、朝帰りしたんだよね」
「そ、それはその……」
「へぇ、そういうことにしたのか」

 真秀はフォローする気がないらしい。それどころかわざと煽っている気もして、凜風は慌てて叫ぶ。

「してない、してません! ヤクザに絡まれたところを彼に助けてもらったの。それで寝不足を見抜かれて、うっかりぐっすりと寝ちゃっただけ」

 嘘は言っていない。過程を少し省いただけだ。
 なおも目を吊り上げて物申そうとした涼をなだめたのは、真秀だった。

「……なぁ、涼。少し寝たら気分が良くなっただろう? 凜風も同じだ。無理をさせすぎている。せっかく凜風の気分が解れて元気になったのに、なにを責めることがある? たまには妹をいたわれ」

 真秀に諭され、涼はなにも言えなくなったようだ。

(フォロー……してくれたのかしら。論点をずらしただけのような気もするけど……)
「そんなことより、目覚めたのならちょうどいい。お前もそこに座れ」

 偉そうな来訪者にそう言われて、涼はしゅんとしながら凜風の横に座った。

「俺はお前たちよりも、裏社会では顔が広い方だ。この五日間で、過去にお前たちの事務所がヤクザに恨みを買うような案件があったのか、独自に調べてみた」

 五日間――というと、凜風と別れて今日までの日数だ。

(自分には無関係だと背を向けたのだと思っていたけれど、調べていてくれたんだ……)

 誰からも見捨てられている今、真秀の行動は素直に嬉しいと思った。

「だが、なかった。新谷も言っていた通り、ヤクザ以外の何者か、『上客』の依頼で鮫邑組が動いていたのだろう」
(その上客に、相当恨まれているということ?)

 しかしそんな存在は、調べても出てこない。

「鮫邑組の歴史は浅くない。武闘派でも過激派でもない、大人しい部類の組だ。主な経営手段シノギは金持ちの用心棒くらいで、それでも俺の記憶では、今まで素人相手に事件らしい事件を起こしたことはない。……詳しく教えてくれないか。鮫邑組の奴らがどうやってこの事務所を脅かしていたのか」

 真秀の要請を受けて凜風と涼は説明する。それを聞き終えた後、真秀は言った。

「昔はともかく、今は暴対法だの組対法だの、ヤクザを取り締まる法律は厳しい。その中で、法の専門家相手に、白昼堂々と暴力行為をしているのは妙だ。普通、法は一方的に破壊活動をしているヤクザを守らない。組長の責任を問われたり、警察や司法が関わってくることで逆に足を掬われ、組の存続にも関わってくる場合だってある」

 切れ長の目を光らせて語る真秀に、凜風も涼も頷く。

「だが実際、法的効力は薄く、天敵である警察も暴追センターも動きが鈍い。……これはまずありえない。考えられるのは、警察機構を抑えられるだけの力を持つ奴が裏にいること。だからこそ新谷も堂々と鮫邑組を名乗って、公然と事務所潰しに動いたんだ。捕まらない確証があるんだろう」

 続けて真秀は、その上で金銭などの見返りもなく、有村が一ヶ月以上も事務所潰しを引き延ばしていたのも引っかかると言った。
 確かに凜風自身、自由に外を歩き回れたし、事務所内限定の暴力であることを不思議に思っていた。さらに毎日来るとはいえ、滞在時間は短い。しかも次回の訪問時刻の予告までしていく。
 その気になれば一日中居座り、凜風たちを力尽くでねじ伏せて事務所から追い出すのも可能なはずだ。警察や法律が怖くないのであれば一層のこと。

(そう考えると、涼兄が言っていた……ヤクザの良心の芽生え説は信憑性がありそうだけど)

 有村は組の命令を受けていたが、独断で引き延ばしていたのではないか。最終的にどのようにして、事を収めようとしていたのかはわからないけれど。

「でも不思議だよ。警察を抑えられる力を持つ人物なら、ヤクザに頼らなくても、ここの事務所を潰せたんじゃないかな。どうしてヤクザなんだろう」

 涼の疑問に真秀も頷いた。

「ああ。なにかすっきりとしないな。それと倉下さんだが、倒れるほど状況が悪化していたにもかかわらず、なぜ動かなかったのかも気になる。もしかすると彼は、自分たちを追い詰めようとしている人物に心当たりがあったのでは? 倉下さんが弁護をした事件で、引っかかるものはあったか?」
「僕も調べたけど、恨みを買うようなものも特殊な案件もなかった。依頼人も一般人ばかりで、ヤクザの上客になるような権力のある金持ちは思い当たらない」
「ヤクザが来る前、倉下さんの様子がいつもと違ったことはなかったか?」
「父さんの様子? うーん……。あ、ヤクザが来る直前に、父さんが初めて裁判で負けた事件、あれはいつもと少し違ったかも……」
「負けた? 無敗を誇る倉下さんが?」

 真秀の目が訝しげに細められる。兄の言葉は凜風も初耳だった。

(お父さんが負けるほどの事件って……?)
「うん。父さんは、ある製薬会社から解雇されて横領罪に問われた依頼人の弁護を引き受けたんだ。だけど、横領の証拠を正当に示してきた原告側の製薬会社が全面勝訴した。あそこまできちんと証拠を提出されたら、いくら父さんでも勝てない事件だった。ただ……」
「ただ?」
「攻め方が父さんらしくないというか、ずいぶんと大人しいな……と感じたのを覚えてる。弁護していることに迷いがあるような様子だったから。いつもはまっすぐに正義を貫こうとしているのに」

 勝利できないと感じていたからなのだろうか。

「依頼人は、判決を受けてどんな様子だったんだ?」
「最後まで冤罪えんざいだと主張していた。判決後、父さんは依頼人の元に通って、フォローしていたよ」

 真秀は考え込むと、カップを手に取り珈琲を口に含んだ。その仕草はどこまでも上品で、凜風が思わず見惚れてしまうほどだ。

(マホちゃんも、動きのひとつひとつが上品だった……)

 特にあの指。がさつだった凜風とは違い、優美で楚々として……などと、昔のことを思い出していると、不意にその指で愛撫されたことを思い出し、凜風は顔を赤らめてうつむいた。
 彼と一夜を共にしていたのに、その間、まるでマホを思い出すことはなかった。
 十八年の月日が流れているのだから、記憶は曖昧でも仕方がないとは思うが、あれほど慕っていた相手だったのに、なぜ記憶の片鱗もちらつかなかったのだろう。

『違う。たまたまマホちゃんと同じ瞳の色をしているだけの別人で……』

 涼は、マホが銀青色シルバーブルーの瞳をしていたことを、すぐ思い出したのに。
 しかし凜風も彼の瞳にどこか懐かしさを感じたし、彼を怖いと思いながらも欲して、抱きしめられると安心できたのは事実だった。
 覚えていたのだろうか、自分の身体は。いつも膝に乗せて抱きしめてくれていたマホのことを。
 カチャンと小さな音がして、凜風は我に返った。真秀がカップを皿に戻したようだ。

「その事件が引っかかるな。なにか関係があるのかもしれない」
「依頼人が逆恨みして、ヤクザを雇ったということ?」

 涼の言葉に、真秀は静かに首を横に振る。

「素人が、報復するために組ごとヤクザを雇えるとは考えにくい。さらに鮫邑組の派手な動きを考えても、バックについて動かしているのは、資金力も権力もある人物と考える方が自然だ」
「なんでうちが狙われるの? ただ依頼人を弁護しただけなのに。もし依頼人とその人物が繋がっていて報復しているのだとしたら、うちではなくてその製薬会社にすればいいと思うけど」

 腕組みをする真秀は、凜風の言葉に肩を竦めた。

「やはり、ヤクザが押しかける直前に弁護したその事件をよく調べる必要があるな。倉下さんがなにかを隠していたのなら、それを暴くことで名誉挽回できる可能性もあるかもしれない。鮫邑組には俺が出向く」

 凜風は涼と顔を見合わせて喜んだ。暗闇に突然光が差し込んだのだ。

「ただ、新谷にはああ言ったが、鮫邑組の打撃となる情報は手元にない。それに今の俺には現役ヤクザの直接的な後ろ楯がないから、完全には鮫邑組を抑えきれないだろう。だが俺の力がどの程度働くかで、その黒幕とやらの規模を推し量ることはできる。俺の力が効く間に、解決するのがベストだ」
(すごい……。彼は噂通り有能なんだわ。今まではただヤクザに怯えているだけで、どうすればいいのかわからなかったのに、やっと解決の糸口が見えてきた気がする)

 たとえ悪魔だと言われていても、凜風にとって彼は救世主だ。
 そんな時、涼が言った。

「色々ありがとう。でも後は凜風とふたりでなんとかするから、ここまででいい」
「涼兄⁉ 真……マホちゃんがせっかく言ってくれているんだから、頼ろうよ」
「正攻法ではなく裏からヤクザの力を抑えて解決させるのなら、結局は反社と付き合いがあると周囲に示すことになる。それじゃだめだ。うちは法律事務所なんだから」


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