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1巻
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「だから、靴擦れを起こすほど歩き回っていたのか。事務所と父親を救える弁護士を探して」
なぜ靴擦れのことを知っているのかと思ったが、愛撫で足に口づけられたことを思い出す。
その時に気づかれたのだろう。凜風は妙に気恥ずかしくなり、咳払いをしてから答えた。
「……ええ。もちろん弁護士だって人間だし、自分の名誉や事務所を守りたいのはわかる。だけど、本当に困っている人たちを救うのが弁護士の仕事じゃないの? 少なくともわたしは、父の姿を見てそう思っていたわ。でも実際、そんな正義の味方はどこにもいなかった」
しばし沈黙が流れる。やがて口を開いたのは御子神だった。
「……なぜ俺が欲しいと?」
「ヤクザたちがあなたを怖れたからよ。あなたには力がある。きっと、どこかの組の偉い人なんでしょう? あなたなら弁護士とは違った形で、ヤクザを抑えられる……そう思ったから。そのための対価なら、なんでも支払う覚悟よ」
凜風は御子神の腕を掴んで、必死に訴えた。
「助けてください。あなたの力が必要なの。処女が嫌いなら、わたしどこかで……」
「その必要はない」
御子神はきっぱりと言い切った後、ため息をついて気だるげに尋ねた。
「……お前の父親の名前は?」
「倉下誠」
その瞬間、切れ長の目が驚きに見開かれた。
「だったら……お前の名前は?」
わずかに掠れたその声に、訝りながらも凜風は答える。
「凜風。倉下凜風よ」
すると御子神は瞳を激しく揺らしながら、なにかを言いたげに唇を開いた。
しかし、そこから言葉は出ない。
代わりに御子神はその表情を、見ているだけで胸が締めつけられそうなほどに切なげなものへと変えた。
それは喜びのようでもあり、苦しみのようでもあり――
しかし怪訝な面持ちの凜風を見ると、口を引き結んで目を瞑り、乱れた呼吸を整えてしまった。
「父やわたしを知っているの?」
凜風の問いには答えず、御子神はゆっくりと目を開いて凜風に言った。
「俺が欲しいなら、条件が三つある。……まずはこの先、他の男がどんなにお前の身体を求めても、絶対に差し出すな。誘うのは俺だけにしろ」
「……え? わ、わかったわ」
まるで独占欲のような条件だ。凜風は気の抜けた返事をしてしまう。
「次の条件は……とりあえず寝ろ。化粧がはげて、すごいクマが見えている」
なぜ化粧がとれたのかを思い出し、凜風は今更のように真っ赤になって手で顔を隠す。
「第三の条件は、お前が起きてから言おう」
「でもわたし、あまり眠れなくて……」
「俺が眠らせてやるから」
御子神はそう言うと、凜風を横抱きにして寝室に連れていった。
凜風は再びベッドの上に横たえられ、御子神はその隣に寝転ぶ。
てっきりセックスを再開するのかと思いきや、彼は凜風をぎゅっと抱きしめた。
……ただそれだけだった。
「寝ろ。せめて俺がいる時くらいはゆっくりと。ひとりで……よく頑張ってきたな」
彼にとってはただの慰めの言葉だったのだろう。しかし凜風はその言葉によって、強くあろうと緊張し続けていた心身が解れ、涙腺が崩壊してしまった。ぼろぼろと流れる涙が止まらない。
「大丈夫だ。お前の父親は死なない。事務所も潰れない」
御子神は薄く笑って、指で凜風の涙を拭った。
本当はこうやって誰かに、ただ抱きしめてもらいたかったのだ。
憂うことなどなにもないのだと、安心させてほしかった。
赤子をあやすように、ぽんぽんと優しく背中を叩かれる。
「必ず、またみんなが笑顔になれるから。昔のように」
御子神の声が心地いい。次第に、とろとろと微睡んでくる――
「似ていると思った……。だから、初めて女の誘いに乗ったんだ。それがまさか本人だったとは……」
くつくつと愉快そうな笑い声が響き渡る。
「会いたかった。……凜風」
そう耳元で囁かれた時、凜風は既に夢の中だった。
だから――しっとりと重ねられた唇にも気づかなかった。
第一章 法曹界の悪魔
都内。閑静な文教地区の一角、ビルの一階に『倉下法律事務所』はある。
凜風の父が、亡き母との思い出が深いという理由から、この場所で仕事をはじめて三十年。
四人の精鋭弁護士と三人の事務員が在籍し、日中は相談に訪れた依頼人の応対に忙しい――それが事務所の日常の光景だったが、今では所長代理を務める凜風の兄と事務員の凜風のふたりだけしかおらず、見る影もない。
そんな事務所に、足繁くやってくるのは、今となってはヤクザだけだ。
金髪のライオンヘアをした兄貴格の男と、若いチンピラ風情の三人の子分たち。四人は棚や机にあるファイルや書類を散乱させて、好きなだけ暴れた後はお決まりの捨て台詞を吐いて去っていく。
『いいか、今日中に事務所から出ていけよ。明日またこの時間に、確認しに来るからな』
しかし今日、予告された時刻を過ぎても四人はやってこなかった。
こんなことは初めてだ。来ないに越したことはないが、焦らすことで、なにか良からぬことを企んでいるのではないかと邪推してしまう。そうなると、諸手を挙げて喜ぶこともできない。
「ねぇ、凜風。ヤクザが来ないのは、ここから出ていかない僕たちに根負けしたからだと思う?」
凜風の三歳違いの兄、涼が、壁掛け時計を見ながら妹に問う。
凜風とよく似た整った顔立ちだが、妹より柔和で優しげな雰囲気を持つ。
「どうだろうね。黒幕とか上司とかと、わたしたちを追い出すための作戦会議をしているのかも。でも大丈夫よ。またわたしが昨日みたいに、竹箒を振り回して追い出してやるから!」
凜風の席の背後には、大きな竹箒がたてかけられている。それを見た涼が、不安げな声を出す。
「もしかして、竹箒に対抗して今度は銃とか用意してくる気かも……。今のうちに、僕もホームセンターで頑丈そうなフライパン、買ってきた方がいいかな」
「さすがに貫通するんじゃない?」
「だよね、あはははは。はぁ……」
涼は物騒な話に空笑いをした後、大きなため息をついた。
「でも、最近はあのヤクザたち、片付けやすい場所を荒らすよね。最初は窓割られたり、色々な備品を壊されたのに。脅してはくるけど、僕たちに怪我をさせないし、すぐに帰ってくれるようになったし。前は不定期にやってきたのに、今は次回の時間指定して、その時間にきちんと顔を出す。毎日顔を合わせているがゆえの良心の芽生えかな。このまま丸く収まらないかな」
平和主義者で温和な性格の涼にとって、大嫌いな暴力行為に怯える生活は苦痛だろう。
なにかを信じ、救いを求める気持ちは凜風もわかるが、毅然として悪と対峙しなければならない場合は頼りない。
ましてや涼は弁護士だ。法の知識や優しさがあっても、依頼人の問題を解決する実行力と経験、勇猛さに欠けていれば、弁護士としては失格だ。これを機に殻から脱皮してほしいと凜風は思っている。
「涼兄は甘い! 悪と馴れ合ってどうするのよ。わたしたち家族も、元従業員たちも、ヤクザたちから精神的損害を被って、物品も壊され営業妨害を受けているのよ。誰かがわたしたちをはめようとしているのなら、法の専門家らしく、現実的に、厳しく対抗しないと!」
そうは言うものの、涼もただ椅子に座って現実逃避しているわけではない。
ヤクザが来ても来なくても、法律事務所としてしなければいけない通常業務はあるし、大方の依頼をキャンセルされても、他に引き受け先がないような厄介な案件は残っている。
それを解決に導かなければ、凜風たちを見捨てた他の弁護士と同じだ。
父の事務所の弁護士は、涼ただひとり。それでなくとも処理に不慣れで、色々な判例などを調べながらの仕事は時間がかかるのに、それをヤクザに邪魔をされ、集中力を乱されているのだ。
睡眠不足で目を赤く充血させながら、それでも投げ出さずに懸命に仕事をしている姿は、父を彷彿させるもので、凜風は涼を鼓舞こそすれ、情けないと見下す気持ちになることはなかった。
むしろ兄の力になれない自分が口惜しい。
父と事務所がこんな事態になると予見できていたら、せめて法律関係の会社に就職して、事務員としてのイロハを学んでいたのに。
凜風たちの父である倉下誠は刑事事件を得意とし、どんな苦境に直面しても、依頼人の権利を守るために戦い、必ず勝利する無敗の、正義の弁護士として有名だった。
父に憧れる新米弁護士や恩義を感じる者たちは多く、幼くして母親を事故で亡くした凜風たちにとっては、愛情を注いで笑顔で育ててくれた、優しく尊敬すべき父親だった。
『この弁護士の金色のバッジはな、ヒマワリの中に天秤があるデザインなんだよ。ヒマワリは正義と自由、天秤は公正と平等を意味している』
父はよく、背広の襟につけている金の記章がどういうものか、教えてくれた。
『お前たちや、お前たちの大切な人が疑いをかけられて困っている時、このバッジをつけたお父さんたち弁護士は、たとえたったひとりになっても味方となり、守れるように最善を尽くすから』
幼い頃より、父からそう聞かされていた凜風は、父に感化されて、弱き者を守るために戦おうとする果敢な性格になった。対して兄は、弱き者に手を差し伸べる優しい平和主義者になった。
本当は兄とともに父と同じ弁護士の道を歩めれば良かったのだが、暗記が不得意な凜風は、あの分厚い六法全書を見ただけで気分が悪くなり、自分には適性がないと断念したのだ。
凜風は大学進学を機に独り暮らしをはじめ、大学卒業後、平凡な会社員になった。
相次ぐ従業員の辞職に追い詰められた兄の要請で、就職して七年目になる会社を先月退職し、父の事務所で無給で働き出した。今は事務所から目と鼻の先にある、実家のマンションに居候している。
(仮にヤクザの出入りを抑えられたとしても、今ある案件を早く終わらせて成功報酬を貰うか、新規の仕事を増やして処理していかない限り、事務所が潰れてしまう)
そのためには、もっと処理に慣れたベテラン弁護士が欲しい。涼ひとりでは重荷だ。
どうすればいいだろうと、黙したまま色々と考えていると、不意に涼が話しかけてきた。
「ところで凜風。前にはぐらかされた、五日前の無断朝帰りのことなんだけれど……」
単刀直入に切り出され、凜風の心臓がどきんと跳ねた。
「誰とどこで過ごしていたの?」
この話題になると、普段は温和に笑う涼のコメカミに青筋が浮かび上がる。
「だから、ストレス発散したくて立ち寄った居酒屋で、意気投合した集団とオールで……」
「オールで遊んでいたら、クマもとれて元気になれるんだ、へぇ……?」
いつも妹の背に隠れる兄のくせに、こういう時は父代理の威圧感を放つシスコンに変身する。
「別にいいんだよ、凜風にそういう相手がいても。だけど僕に紹介はしてほしいな。誠実に想い合っての交際なら反対しないし。こんな状況だからこそ、相手にはきちんとしてもらいたいんだ」
(これって……結婚する意思があっての真面目な付き合いかを確認したいということよね。ヤクザを買うために身体を捧げていたなんて告白したら、涼兄、卒倒しちゃう)
改めて思えばずいぶんと大胆なことをしたと思う。だがあの時は、それしか術はないと思ったのだ。未遂だったとはいえ、この件は絶対に黙秘を貫かねばならない。
「だ、だから。そんなんじゃないんだって。大学のサークルのノリで盛り上がって……」
「だったらその居酒屋と集団を教えてよ。僕も行って元気になりたいから」
「み、みんなの素性がまったくわからないから、もう会えないわよ」
そう、もう会えない――
『寝ろ。せめて俺がいる時くらいはゆっくりと。ひとりで……よく頑張ってきたな』
久しぶりにぐっすりと眠った凜風が目覚めた時、御子神はもういなかった。
結局、彼のスカウトは失敗に終わり、安眠している間に逃げられてしまったのだ。
とはいえ、ホテル代は支払い済み。御子神は、あの場限りの関係で終わらせ、姿を消した。
(条件その三とやらを聞いてみたかったなあ……)
ヤクザのくせして、身体を労わり励ましてくれる、変わった男だった。
『誘うのは俺だけにしろ』――もう二度と、会う気などなかったくせに。
彼の唇、舌、指……その感触も、彼の熱い吐息も、まだ身体から抜けない。
一夜で消えない熱は、しっかり刻まれたままだ。
割り切ろうと思っていたはずなのに、なぜこんなにもあの男を忘れられないのか。
初めての快楽を植えつけた男だから? それとも――
(あれは夢よ。だからすべて消えたの。現実にはありえない、夢幻……)
そして夢から覚めた現実は、かなりシビアだ。あれだけ詳しく事情を話したのに、凜風が眠っている間に黙って姿を消したのは、関わりたくないという意思表明だろう。
御子神の痕跡が身体に蘇るたび、彼に見捨てられた事実が深く心に突き刺さる。
ヤクザに対抗できる唯一の手段を見つけたと喜んでいただけに、御子神を失ったその空虚さは、甚大なダメージを凜風に与えている。
(今日ヤクザが現れないのが、過酷な展開の兆しだったとしたら、どうやり過ごせばいいの?)
兄の手前、強気でいるけれど、不安で仕方がないのだ。
竹箒一本で今後も乗り切れるとは思えない。
あの夜だって、御子神が現れなかったら、自分は簡単に拉致されて酷い目に遭っていた。それくらい非力だと思い知ったのだ。
自分の身を守れる強さも法の知識もないのに、ただの虚勢だけで兄と事務所は守れない。
わかっているのに、然るべき術が見つからない。
どうすればいい? どうすれば、八方塞がりのこの状況を打開できる?
(リスク覚悟で、またあの界隈を歩いて、彼が現れるのを待ってみる?)
凜風が握った拳に力を込めた時、涼のパソコンからメールの受信音が鳴った。
涼はメール画面を見ると、やや興奮気味に妹に問いかける。
「凜風……、昔、鏑木さんの家で遊んだ、マホちゃんを覚えてる?」
鏑木とは、事務所を畳んだ方がいいと助言した、父の親友の鏑木毅嗣弁護士のことだ。
鏑木家は代々続く法曹一家で、明治から続く旧家でもあり、毅嗣はその現当主だ。
苦学生だった庶民の父とは大学時代に知り合い、親友になったと聞いている。互いの結婚後も〝牡丹御殿〟と名高い、色取り取りの牡丹が咲き乱れる鏑木家本家に招かれ、家族ぐるみの付き合いがあった。
「マホちゃん……? 離れにおばあちゃんと住んでいた、あの美少女の?」
「そう、あのマホちゃん。彼女から今、会社の代表アドレスにメールがきた」
「なんですって⁉」
鏑木マホ――マホちゃんは涼と同い年で、鏑木家長男、鷹仁の双子の妹だ。
れっきとした長女であるのに、なぜか祖母とともに離れに住まわせられ、両親や鷹仁がいる母屋への立ち入りを禁じられていた、訳ありの神秘的な美少女だった。
当時、鏑木家からは鷹仁だけが紹介され、父も凜風たちも長女がいるとは聞いていなかった。鏑木家を訪ねると、両家の子供たち三人は別室で遊ばされたが、鷹仁はにこやかで優等生風な外面とは裏腹に性悪だった。
気の弱い涼は鷹仁のターゲットになり、言葉だけではなく、蹴られたり抓られたりと暴力をふるわれていた。
凜風はそんな涼を庇い、鷹仁とよく喧嘩をしていたのだが、鷹仁の外面の良さのせいで親たちから怒られるのはいつも凜風ばかり。
それでも凜風の父だけは真相を見抜いていたらしく、帰りに立ち寄ったレストランではよく、大きなパフェを兄妹ふたりに食べさせてくれたものだった。
兄妹にとって鷹仁は大嫌いな相手であり、大人になった今でも涼がヤクザに対して毅然と振る舞えないのは、鷹仁から受けた暴力行為がトラウマになっているからだ。
凜風が十一歳だった十一月のある日、鷹仁の手から逃れて涼と手洗いに行った帰り、ふたりは鏑木の屋敷で迷ってしまった。
どう歩いても、両親たちがいる母屋の部屋が見つからない。
途方に暮れていた時、庭の赤い牡丹を手折って口づけていた、赤い振り袖姿のマホと出逢った。
透き通るような白い肌に、背で切り揃えられた艶やかな黒髪。
日本人形風の美少女で、凜風はすぐに目を奪われた。
当時の凜風にはマホの姿が、大好きな白雪姫みたいに見えた。
だからこそ、マホが今にも消え入りそうな危うさを秘め、目に光がないことが気になった。
鷹仁と双子という割にはあまり似ておらず、同じ直系でありながら、なぜか祖母とともに住まう離れから出てはいけないと言われているらしい。
その理由を尋ねても、顔に貼り付けたみたいな微笑を見せるだけだった。
部屋までの道を教えられ一度は去りかけたが、凜風は来た道を再び駆け戻ると、彼女の手を握って言った。
友達になろう。外に出られないのなら、凜風が会いにくるから楽しく遊ぼう。
初めて見せたマホの〝戸惑い〟。それが嬉しくて、それから凜風は鏑木邸を訪問するたびに問答無用で涼と離れに向かい、マホに会って遊ぶようになった。邪魔しにくる鷹仁は撃退して。
マホは凜風より年上なのに、俗世のことや言葉をよく知らず、凜風と涼は得意になって色々と教えた。
聡明なマホはふたりの話すことを瞬く間に知識として吸収し、次第に人間らしい表情を見せるようになった。一方で、マホは鏑木家にとっては忌むべき存在らしく、鏑木家の面々はマホと会う凜風たちに不快感を示した。
それを救ったのは、母屋にやってきたマホの祖母の口添えだった。彼女は認知症を患い、マホが世話をしていたのだが、この時ばかりは正気だったように思う。
マホを最後に見たのは、凜風が熱を出して鏑木の邸で倒れる前。
回復した凜風は父に会いにきた毅嗣から、マホが海外に留学したことを告げられたのである。
そしてそれ以降、凜風たちが鏑木家に呼ばれることもなくなってしまったのだ――
(マホちゃん……懐かしい。きっとすごい美人さんになっているんだろうな)
マホを思い出そうとすると、なぜか頭がチリチリと痛み、鮮やかな赤色が脳裏を巡る。
無声音の場面の中で、赤い着物姿のマホがなにかを言っている。
奇妙なことに、その光景が思い浮かぶと、なぜか怖くなって戦慄を覚えてしまうのだ。
(なんなのかしら。あんなに慕っていたマホちゃんなのに……。最後に見たのが熱を出していた時だから、きっと怖い夢と現実を混同してしまったのかも)
マホと会わなくなって、十八年。記憶から抜け落ちていた相手からの突然のメール。
涼によれば、マホは七年前から弁護士をしているらしく、この事務所の噂を聞いて力になりたいと言ってくれているのだという。いつでもいいから、話を聞きにここに来たいと。
ぱあっと凜風の目の前が明るくなった気がした。
「涼兄、マホちゃんが救世主になって帰ってきてくれた! マホちゃんが助けてくれるかも! 今から会おうよ、すぐに来てもらえるよう返信して!」
「わかった!」
涼の顔も興奮によって紅潮し、キーボードを叩く音も軽やかだ。
「……ちなみに。初恋相手だからって、浮かれないでね。七年も弁護士をしているマホ先生は、涼兄の先輩なんだから!」
途端に、キーボードを打つ手が止まる。
「は、初恋って……」
涼はわかりやすく真っ赤になって、その目を泳がせた。
「え⁉ ばれてないと思ってたの? 十一歳のわたしですらわかったのに」
驚く兄を尻目に、凜風はふと思った。
もしも兄とマホが結婚してくれたら、大好きだったマホとは姉妹になれると。
今度はあんなに狭い箱庭ではなく、広い外界を楽しみながらずっと一緒にいられる。
(未来に希望ができたわ。まずはこのトラブルを解決するのが先決だけど、これをきっかけに涼兄とマホちゃんの仲が深まるように取り持たなくちゃ! こっちも頑張るぞ!)
凜風は微笑み、心の中でガッツポーズをするのだった。
◇
『立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花』という美人の形容詞があるが、まさしくマホがそうだった。優しく淑やかで品がある物腰、穏やかな口調は凜風の理想そのもの。
はじめこそ、マホの小さな世界に突然割り込んできた凜風と涼にびくついていたけれど、ふたりに心を開いていくにつれ、初めて嗅いだ牡丹の花の香りのような上品な艶やかさも漂わせるようになった。
学校には通っていなかったが、一緒に住む祖母から読み書きのほか、常識的な知識や礼儀作法を学んだという。
マホは、凜風と涼が外界から持ち込むものに興味津々だった。
『はい、マホちゃん。あーん。これね、凜風が大好きなイチゴのアメ。美味しいでしょう?』
『まあ、本当に美味しい! ……ねぇ、凜風ちゃん。その小さい箱はなあに?』
『これはねー、トランプっていうの。マホちゃん、今日はこれで遊ぼうよ!』
そして順応力も高く、頭も良かった。
『神経衰弱もババ抜きも、またマホちゃん、涼兄に勝っちゃった。すごい!』
『僕、記憶力だけは自信があったのに』
『ふふ、迷ったら、涼くんの目を見ると、正解がわかっちゃうのよ』
次回から、涼はサングラスを持参したが、それでもマホにはボロ負けだった。今度は眉毛の動きでわかったのだとか。涼がわかりやすいのもあるが、それ以上にマホは観察眼に優れていた。
『凜風ちゃん、牡丹によく似たこっちの花を芍薬というのだけれど、違いはどこかわかる?』
多弁の大きな花はそっくりで、凜風には見わけがつかなかったが、マホ曰く、牡丹の方が茎が太く、葉はギザギザしていて、蕾は尖っているのだという。
『普通、牡丹は初夏に花を開くけど、この家の牡丹には寒牡丹という秋咲きのものや、冬牡丹という冬咲きの牡丹があるの』
そしてマホは少し口籠もりながら、どこか必死に言葉を続けた。
『季節が変わっても別の牡丹が綺麗で……。だから……もし良かったら……』
『うん! ずっと一緒に牡丹の花を見ようね。涼兄も! みんなで指切り、約束ね』
表情が豊かになったマホは、凜風の返答に心から嬉しそうに微笑んでいた。
マホの膝の上が凜風の特等席になると、マホはおずおずと凜風を抱きしめてくれるようになった。字の練習と称して、マホに本を読んでもらい、マホの身体と声に包まれるひとときは至福。
だからこそ別れ際になるといつも、凜風は大泣きし、涼ももらい泣く。困ったように笑うマホに背を押され、次も絶対会いにいくからと何度も約束して、時間を告げる使用人と母屋に戻ったものだ。
手を振る凜風が見えなくなるまで、マホはずっと離れから見送ってくれた。
そう、今にも泣き出しそうな悲しげな顔をしながら――
いつからマホは、自分が外国に行くことを知っていたのだろう。
雪が降ったあの日、熱で倒れなければ、マホから別れの言葉を貰っていたのだろうか。
『凜風ちゃん、涼くん、いらっしゃい』
あの笑顔が、突然見られなくなるなんて。
赤い唇で赤い牡丹に口づけしていた、赤い着物姿のマホ。
まるで血のような赤色を愛でたマホ……
そこまで考えた時、頭がちりっと痛んだ。
今までマホのことを忘れていたのに、やはり思い出そうとすれば頭痛がする。
でもきっと、大人になったマホに会えば、そうしたものはすべて解消できるだろう。
涼がメールでやりとりをして数時間後、マホは事務所に来ることになったのだ。
「落ち着けよ、凜風」
「そういう涼兄こそ、うろうろしないで所長代理としての貫禄見せて、どしりと座っていてよ」
兄妹揃って、気もそぞろである。
約束の時間まであと十五分というところで、入り口で物音がした。
「マホちゃんがもう来たんだわ!」
凜風は涼と見合わせた顔を輝かせた。
どんな女性になっているだろう。たとえド派手になっていようと、体形が変化していようと、昔の面影がなくなってしまっていようと、マホであるのなら関係ない。
(マホちゃんに会える!)
凜風は童心に返り、全速力で入り口へ駆けた。
曇った硝子の奥に人影が見える。
早く入ってくればいいのに、もじもじしているあたり、マホは変わっていない。
まだ再会していないというのに、堪えきれぬ感動に涙腺を緩ませながら、凜風はドアを開いて、笑顔で歓迎した。
なぜ靴擦れのことを知っているのかと思ったが、愛撫で足に口づけられたことを思い出す。
その時に気づかれたのだろう。凜風は妙に気恥ずかしくなり、咳払いをしてから答えた。
「……ええ。もちろん弁護士だって人間だし、自分の名誉や事務所を守りたいのはわかる。だけど、本当に困っている人たちを救うのが弁護士の仕事じゃないの? 少なくともわたしは、父の姿を見てそう思っていたわ。でも実際、そんな正義の味方はどこにもいなかった」
しばし沈黙が流れる。やがて口を開いたのは御子神だった。
「……なぜ俺が欲しいと?」
「ヤクザたちがあなたを怖れたからよ。あなたには力がある。きっと、どこかの組の偉い人なんでしょう? あなたなら弁護士とは違った形で、ヤクザを抑えられる……そう思ったから。そのための対価なら、なんでも支払う覚悟よ」
凜風は御子神の腕を掴んで、必死に訴えた。
「助けてください。あなたの力が必要なの。処女が嫌いなら、わたしどこかで……」
「その必要はない」
御子神はきっぱりと言い切った後、ため息をついて気だるげに尋ねた。
「……お前の父親の名前は?」
「倉下誠」
その瞬間、切れ長の目が驚きに見開かれた。
「だったら……お前の名前は?」
わずかに掠れたその声に、訝りながらも凜風は答える。
「凜風。倉下凜風よ」
すると御子神は瞳を激しく揺らしながら、なにかを言いたげに唇を開いた。
しかし、そこから言葉は出ない。
代わりに御子神はその表情を、見ているだけで胸が締めつけられそうなほどに切なげなものへと変えた。
それは喜びのようでもあり、苦しみのようでもあり――
しかし怪訝な面持ちの凜風を見ると、口を引き結んで目を瞑り、乱れた呼吸を整えてしまった。
「父やわたしを知っているの?」
凜風の問いには答えず、御子神はゆっくりと目を開いて凜風に言った。
「俺が欲しいなら、条件が三つある。……まずはこの先、他の男がどんなにお前の身体を求めても、絶対に差し出すな。誘うのは俺だけにしろ」
「……え? わ、わかったわ」
まるで独占欲のような条件だ。凜風は気の抜けた返事をしてしまう。
「次の条件は……とりあえず寝ろ。化粧がはげて、すごいクマが見えている」
なぜ化粧がとれたのかを思い出し、凜風は今更のように真っ赤になって手で顔を隠す。
「第三の条件は、お前が起きてから言おう」
「でもわたし、あまり眠れなくて……」
「俺が眠らせてやるから」
御子神はそう言うと、凜風を横抱きにして寝室に連れていった。
凜風は再びベッドの上に横たえられ、御子神はその隣に寝転ぶ。
てっきりセックスを再開するのかと思いきや、彼は凜風をぎゅっと抱きしめた。
……ただそれだけだった。
「寝ろ。せめて俺がいる時くらいはゆっくりと。ひとりで……よく頑張ってきたな」
彼にとってはただの慰めの言葉だったのだろう。しかし凜風はその言葉によって、強くあろうと緊張し続けていた心身が解れ、涙腺が崩壊してしまった。ぼろぼろと流れる涙が止まらない。
「大丈夫だ。お前の父親は死なない。事務所も潰れない」
御子神は薄く笑って、指で凜風の涙を拭った。
本当はこうやって誰かに、ただ抱きしめてもらいたかったのだ。
憂うことなどなにもないのだと、安心させてほしかった。
赤子をあやすように、ぽんぽんと優しく背中を叩かれる。
「必ず、またみんなが笑顔になれるから。昔のように」
御子神の声が心地いい。次第に、とろとろと微睡んでくる――
「似ていると思った……。だから、初めて女の誘いに乗ったんだ。それがまさか本人だったとは……」
くつくつと愉快そうな笑い声が響き渡る。
「会いたかった。……凜風」
そう耳元で囁かれた時、凜風は既に夢の中だった。
だから――しっとりと重ねられた唇にも気づかなかった。
第一章 法曹界の悪魔
都内。閑静な文教地区の一角、ビルの一階に『倉下法律事務所』はある。
凜風の父が、亡き母との思い出が深いという理由から、この場所で仕事をはじめて三十年。
四人の精鋭弁護士と三人の事務員が在籍し、日中は相談に訪れた依頼人の応対に忙しい――それが事務所の日常の光景だったが、今では所長代理を務める凜風の兄と事務員の凜風のふたりだけしかおらず、見る影もない。
そんな事務所に、足繁くやってくるのは、今となってはヤクザだけだ。
金髪のライオンヘアをした兄貴格の男と、若いチンピラ風情の三人の子分たち。四人は棚や机にあるファイルや書類を散乱させて、好きなだけ暴れた後はお決まりの捨て台詞を吐いて去っていく。
『いいか、今日中に事務所から出ていけよ。明日またこの時間に、確認しに来るからな』
しかし今日、予告された時刻を過ぎても四人はやってこなかった。
こんなことは初めてだ。来ないに越したことはないが、焦らすことで、なにか良からぬことを企んでいるのではないかと邪推してしまう。そうなると、諸手を挙げて喜ぶこともできない。
「ねぇ、凜風。ヤクザが来ないのは、ここから出ていかない僕たちに根負けしたからだと思う?」
凜風の三歳違いの兄、涼が、壁掛け時計を見ながら妹に問う。
凜風とよく似た整った顔立ちだが、妹より柔和で優しげな雰囲気を持つ。
「どうだろうね。黒幕とか上司とかと、わたしたちを追い出すための作戦会議をしているのかも。でも大丈夫よ。またわたしが昨日みたいに、竹箒を振り回して追い出してやるから!」
凜風の席の背後には、大きな竹箒がたてかけられている。それを見た涼が、不安げな声を出す。
「もしかして、竹箒に対抗して今度は銃とか用意してくる気かも……。今のうちに、僕もホームセンターで頑丈そうなフライパン、買ってきた方がいいかな」
「さすがに貫通するんじゃない?」
「だよね、あはははは。はぁ……」
涼は物騒な話に空笑いをした後、大きなため息をついた。
「でも、最近はあのヤクザたち、片付けやすい場所を荒らすよね。最初は窓割られたり、色々な備品を壊されたのに。脅してはくるけど、僕たちに怪我をさせないし、すぐに帰ってくれるようになったし。前は不定期にやってきたのに、今は次回の時間指定して、その時間にきちんと顔を出す。毎日顔を合わせているがゆえの良心の芽生えかな。このまま丸く収まらないかな」
平和主義者で温和な性格の涼にとって、大嫌いな暴力行為に怯える生活は苦痛だろう。
なにかを信じ、救いを求める気持ちは凜風もわかるが、毅然として悪と対峙しなければならない場合は頼りない。
ましてや涼は弁護士だ。法の知識や優しさがあっても、依頼人の問題を解決する実行力と経験、勇猛さに欠けていれば、弁護士としては失格だ。これを機に殻から脱皮してほしいと凜風は思っている。
「涼兄は甘い! 悪と馴れ合ってどうするのよ。わたしたち家族も、元従業員たちも、ヤクザたちから精神的損害を被って、物品も壊され営業妨害を受けているのよ。誰かがわたしたちをはめようとしているのなら、法の専門家らしく、現実的に、厳しく対抗しないと!」
そうは言うものの、涼もただ椅子に座って現実逃避しているわけではない。
ヤクザが来ても来なくても、法律事務所としてしなければいけない通常業務はあるし、大方の依頼をキャンセルされても、他に引き受け先がないような厄介な案件は残っている。
それを解決に導かなければ、凜風たちを見捨てた他の弁護士と同じだ。
父の事務所の弁護士は、涼ただひとり。それでなくとも処理に不慣れで、色々な判例などを調べながらの仕事は時間がかかるのに、それをヤクザに邪魔をされ、集中力を乱されているのだ。
睡眠不足で目を赤く充血させながら、それでも投げ出さずに懸命に仕事をしている姿は、父を彷彿させるもので、凜風は涼を鼓舞こそすれ、情けないと見下す気持ちになることはなかった。
むしろ兄の力になれない自分が口惜しい。
父と事務所がこんな事態になると予見できていたら、せめて法律関係の会社に就職して、事務員としてのイロハを学んでいたのに。
凜風たちの父である倉下誠は刑事事件を得意とし、どんな苦境に直面しても、依頼人の権利を守るために戦い、必ず勝利する無敗の、正義の弁護士として有名だった。
父に憧れる新米弁護士や恩義を感じる者たちは多く、幼くして母親を事故で亡くした凜風たちにとっては、愛情を注いで笑顔で育ててくれた、優しく尊敬すべき父親だった。
『この弁護士の金色のバッジはな、ヒマワリの中に天秤があるデザインなんだよ。ヒマワリは正義と自由、天秤は公正と平等を意味している』
父はよく、背広の襟につけている金の記章がどういうものか、教えてくれた。
『お前たちや、お前たちの大切な人が疑いをかけられて困っている時、このバッジをつけたお父さんたち弁護士は、たとえたったひとりになっても味方となり、守れるように最善を尽くすから』
幼い頃より、父からそう聞かされていた凜風は、父に感化されて、弱き者を守るために戦おうとする果敢な性格になった。対して兄は、弱き者に手を差し伸べる優しい平和主義者になった。
本当は兄とともに父と同じ弁護士の道を歩めれば良かったのだが、暗記が不得意な凜風は、あの分厚い六法全書を見ただけで気分が悪くなり、自分には適性がないと断念したのだ。
凜風は大学進学を機に独り暮らしをはじめ、大学卒業後、平凡な会社員になった。
相次ぐ従業員の辞職に追い詰められた兄の要請で、就職して七年目になる会社を先月退職し、父の事務所で無給で働き出した。今は事務所から目と鼻の先にある、実家のマンションに居候している。
(仮にヤクザの出入りを抑えられたとしても、今ある案件を早く終わらせて成功報酬を貰うか、新規の仕事を増やして処理していかない限り、事務所が潰れてしまう)
そのためには、もっと処理に慣れたベテラン弁護士が欲しい。涼ひとりでは重荷だ。
どうすればいいだろうと、黙したまま色々と考えていると、不意に涼が話しかけてきた。
「ところで凜風。前にはぐらかされた、五日前の無断朝帰りのことなんだけれど……」
単刀直入に切り出され、凜風の心臓がどきんと跳ねた。
「誰とどこで過ごしていたの?」
この話題になると、普段は温和に笑う涼のコメカミに青筋が浮かび上がる。
「だから、ストレス発散したくて立ち寄った居酒屋で、意気投合した集団とオールで……」
「オールで遊んでいたら、クマもとれて元気になれるんだ、へぇ……?」
いつも妹の背に隠れる兄のくせに、こういう時は父代理の威圧感を放つシスコンに変身する。
「別にいいんだよ、凜風にそういう相手がいても。だけど僕に紹介はしてほしいな。誠実に想い合っての交際なら反対しないし。こんな状況だからこそ、相手にはきちんとしてもらいたいんだ」
(これって……結婚する意思があっての真面目な付き合いかを確認したいということよね。ヤクザを買うために身体を捧げていたなんて告白したら、涼兄、卒倒しちゃう)
改めて思えばずいぶんと大胆なことをしたと思う。だがあの時は、それしか術はないと思ったのだ。未遂だったとはいえ、この件は絶対に黙秘を貫かねばならない。
「だ、だから。そんなんじゃないんだって。大学のサークルのノリで盛り上がって……」
「だったらその居酒屋と集団を教えてよ。僕も行って元気になりたいから」
「み、みんなの素性がまったくわからないから、もう会えないわよ」
そう、もう会えない――
『寝ろ。せめて俺がいる時くらいはゆっくりと。ひとりで……よく頑張ってきたな』
久しぶりにぐっすりと眠った凜風が目覚めた時、御子神はもういなかった。
結局、彼のスカウトは失敗に終わり、安眠している間に逃げられてしまったのだ。
とはいえ、ホテル代は支払い済み。御子神は、あの場限りの関係で終わらせ、姿を消した。
(条件その三とやらを聞いてみたかったなあ……)
ヤクザのくせして、身体を労わり励ましてくれる、変わった男だった。
『誘うのは俺だけにしろ』――もう二度と、会う気などなかったくせに。
彼の唇、舌、指……その感触も、彼の熱い吐息も、まだ身体から抜けない。
一夜で消えない熱は、しっかり刻まれたままだ。
割り切ろうと思っていたはずなのに、なぜこんなにもあの男を忘れられないのか。
初めての快楽を植えつけた男だから? それとも――
(あれは夢よ。だからすべて消えたの。現実にはありえない、夢幻……)
そして夢から覚めた現実は、かなりシビアだ。あれだけ詳しく事情を話したのに、凜風が眠っている間に黙って姿を消したのは、関わりたくないという意思表明だろう。
御子神の痕跡が身体に蘇るたび、彼に見捨てられた事実が深く心に突き刺さる。
ヤクザに対抗できる唯一の手段を見つけたと喜んでいただけに、御子神を失ったその空虚さは、甚大なダメージを凜風に与えている。
(今日ヤクザが現れないのが、過酷な展開の兆しだったとしたら、どうやり過ごせばいいの?)
兄の手前、強気でいるけれど、不安で仕方がないのだ。
竹箒一本で今後も乗り切れるとは思えない。
あの夜だって、御子神が現れなかったら、自分は簡単に拉致されて酷い目に遭っていた。それくらい非力だと思い知ったのだ。
自分の身を守れる強さも法の知識もないのに、ただの虚勢だけで兄と事務所は守れない。
わかっているのに、然るべき術が見つからない。
どうすればいい? どうすれば、八方塞がりのこの状況を打開できる?
(リスク覚悟で、またあの界隈を歩いて、彼が現れるのを待ってみる?)
凜風が握った拳に力を込めた時、涼のパソコンからメールの受信音が鳴った。
涼はメール画面を見ると、やや興奮気味に妹に問いかける。
「凜風……、昔、鏑木さんの家で遊んだ、マホちゃんを覚えてる?」
鏑木とは、事務所を畳んだ方がいいと助言した、父の親友の鏑木毅嗣弁護士のことだ。
鏑木家は代々続く法曹一家で、明治から続く旧家でもあり、毅嗣はその現当主だ。
苦学生だった庶民の父とは大学時代に知り合い、親友になったと聞いている。互いの結婚後も〝牡丹御殿〟と名高い、色取り取りの牡丹が咲き乱れる鏑木家本家に招かれ、家族ぐるみの付き合いがあった。
「マホちゃん……? 離れにおばあちゃんと住んでいた、あの美少女の?」
「そう、あのマホちゃん。彼女から今、会社の代表アドレスにメールがきた」
「なんですって⁉」
鏑木マホ――マホちゃんは涼と同い年で、鏑木家長男、鷹仁の双子の妹だ。
れっきとした長女であるのに、なぜか祖母とともに離れに住まわせられ、両親や鷹仁がいる母屋への立ち入りを禁じられていた、訳ありの神秘的な美少女だった。
当時、鏑木家からは鷹仁だけが紹介され、父も凜風たちも長女がいるとは聞いていなかった。鏑木家を訪ねると、両家の子供たち三人は別室で遊ばされたが、鷹仁はにこやかで優等生風な外面とは裏腹に性悪だった。
気の弱い涼は鷹仁のターゲットになり、言葉だけではなく、蹴られたり抓られたりと暴力をふるわれていた。
凜風はそんな涼を庇い、鷹仁とよく喧嘩をしていたのだが、鷹仁の外面の良さのせいで親たちから怒られるのはいつも凜風ばかり。
それでも凜風の父だけは真相を見抜いていたらしく、帰りに立ち寄ったレストランではよく、大きなパフェを兄妹ふたりに食べさせてくれたものだった。
兄妹にとって鷹仁は大嫌いな相手であり、大人になった今でも涼がヤクザに対して毅然と振る舞えないのは、鷹仁から受けた暴力行為がトラウマになっているからだ。
凜風が十一歳だった十一月のある日、鷹仁の手から逃れて涼と手洗いに行った帰り、ふたりは鏑木の屋敷で迷ってしまった。
どう歩いても、両親たちがいる母屋の部屋が見つからない。
途方に暮れていた時、庭の赤い牡丹を手折って口づけていた、赤い振り袖姿のマホと出逢った。
透き通るような白い肌に、背で切り揃えられた艶やかな黒髪。
日本人形風の美少女で、凜風はすぐに目を奪われた。
当時の凜風にはマホの姿が、大好きな白雪姫みたいに見えた。
だからこそ、マホが今にも消え入りそうな危うさを秘め、目に光がないことが気になった。
鷹仁と双子という割にはあまり似ておらず、同じ直系でありながら、なぜか祖母とともに住まう離れから出てはいけないと言われているらしい。
その理由を尋ねても、顔に貼り付けたみたいな微笑を見せるだけだった。
部屋までの道を教えられ一度は去りかけたが、凜風は来た道を再び駆け戻ると、彼女の手を握って言った。
友達になろう。外に出られないのなら、凜風が会いにくるから楽しく遊ぼう。
初めて見せたマホの〝戸惑い〟。それが嬉しくて、それから凜風は鏑木邸を訪問するたびに問答無用で涼と離れに向かい、マホに会って遊ぶようになった。邪魔しにくる鷹仁は撃退して。
マホは凜風より年上なのに、俗世のことや言葉をよく知らず、凜風と涼は得意になって色々と教えた。
聡明なマホはふたりの話すことを瞬く間に知識として吸収し、次第に人間らしい表情を見せるようになった。一方で、マホは鏑木家にとっては忌むべき存在らしく、鏑木家の面々はマホと会う凜風たちに不快感を示した。
それを救ったのは、母屋にやってきたマホの祖母の口添えだった。彼女は認知症を患い、マホが世話をしていたのだが、この時ばかりは正気だったように思う。
マホを最後に見たのは、凜風が熱を出して鏑木の邸で倒れる前。
回復した凜風は父に会いにきた毅嗣から、マホが海外に留学したことを告げられたのである。
そしてそれ以降、凜風たちが鏑木家に呼ばれることもなくなってしまったのだ――
(マホちゃん……懐かしい。きっとすごい美人さんになっているんだろうな)
マホを思い出そうとすると、なぜか頭がチリチリと痛み、鮮やかな赤色が脳裏を巡る。
無声音の場面の中で、赤い着物姿のマホがなにかを言っている。
奇妙なことに、その光景が思い浮かぶと、なぜか怖くなって戦慄を覚えてしまうのだ。
(なんなのかしら。あんなに慕っていたマホちゃんなのに……。最後に見たのが熱を出していた時だから、きっと怖い夢と現実を混同してしまったのかも)
マホと会わなくなって、十八年。記憶から抜け落ちていた相手からの突然のメール。
涼によれば、マホは七年前から弁護士をしているらしく、この事務所の噂を聞いて力になりたいと言ってくれているのだという。いつでもいいから、話を聞きにここに来たいと。
ぱあっと凜風の目の前が明るくなった気がした。
「涼兄、マホちゃんが救世主になって帰ってきてくれた! マホちゃんが助けてくれるかも! 今から会おうよ、すぐに来てもらえるよう返信して!」
「わかった!」
涼の顔も興奮によって紅潮し、キーボードを叩く音も軽やかだ。
「……ちなみに。初恋相手だからって、浮かれないでね。七年も弁護士をしているマホ先生は、涼兄の先輩なんだから!」
途端に、キーボードを打つ手が止まる。
「は、初恋って……」
涼はわかりやすく真っ赤になって、その目を泳がせた。
「え⁉ ばれてないと思ってたの? 十一歳のわたしですらわかったのに」
驚く兄を尻目に、凜風はふと思った。
もしも兄とマホが結婚してくれたら、大好きだったマホとは姉妹になれると。
今度はあんなに狭い箱庭ではなく、広い外界を楽しみながらずっと一緒にいられる。
(未来に希望ができたわ。まずはこのトラブルを解決するのが先決だけど、これをきっかけに涼兄とマホちゃんの仲が深まるように取り持たなくちゃ! こっちも頑張るぞ!)
凜風は微笑み、心の中でガッツポーズをするのだった。
◇
『立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花』という美人の形容詞があるが、まさしくマホがそうだった。優しく淑やかで品がある物腰、穏やかな口調は凜風の理想そのもの。
はじめこそ、マホの小さな世界に突然割り込んできた凜風と涼にびくついていたけれど、ふたりに心を開いていくにつれ、初めて嗅いだ牡丹の花の香りのような上品な艶やかさも漂わせるようになった。
学校には通っていなかったが、一緒に住む祖母から読み書きのほか、常識的な知識や礼儀作法を学んだという。
マホは、凜風と涼が外界から持ち込むものに興味津々だった。
『はい、マホちゃん。あーん。これね、凜風が大好きなイチゴのアメ。美味しいでしょう?』
『まあ、本当に美味しい! ……ねぇ、凜風ちゃん。その小さい箱はなあに?』
『これはねー、トランプっていうの。マホちゃん、今日はこれで遊ぼうよ!』
そして順応力も高く、頭も良かった。
『神経衰弱もババ抜きも、またマホちゃん、涼兄に勝っちゃった。すごい!』
『僕、記憶力だけは自信があったのに』
『ふふ、迷ったら、涼くんの目を見ると、正解がわかっちゃうのよ』
次回から、涼はサングラスを持参したが、それでもマホにはボロ負けだった。今度は眉毛の動きでわかったのだとか。涼がわかりやすいのもあるが、それ以上にマホは観察眼に優れていた。
『凜風ちゃん、牡丹によく似たこっちの花を芍薬というのだけれど、違いはどこかわかる?』
多弁の大きな花はそっくりで、凜風には見わけがつかなかったが、マホ曰く、牡丹の方が茎が太く、葉はギザギザしていて、蕾は尖っているのだという。
『普通、牡丹は初夏に花を開くけど、この家の牡丹には寒牡丹という秋咲きのものや、冬牡丹という冬咲きの牡丹があるの』
そしてマホは少し口籠もりながら、どこか必死に言葉を続けた。
『季節が変わっても別の牡丹が綺麗で……。だから……もし良かったら……』
『うん! ずっと一緒に牡丹の花を見ようね。涼兄も! みんなで指切り、約束ね』
表情が豊かになったマホは、凜風の返答に心から嬉しそうに微笑んでいた。
マホの膝の上が凜風の特等席になると、マホはおずおずと凜風を抱きしめてくれるようになった。字の練習と称して、マホに本を読んでもらい、マホの身体と声に包まれるひとときは至福。
だからこそ別れ際になるといつも、凜風は大泣きし、涼ももらい泣く。困ったように笑うマホに背を押され、次も絶対会いにいくからと何度も約束して、時間を告げる使用人と母屋に戻ったものだ。
手を振る凜風が見えなくなるまで、マホはずっと離れから見送ってくれた。
そう、今にも泣き出しそうな悲しげな顔をしながら――
いつからマホは、自分が外国に行くことを知っていたのだろう。
雪が降ったあの日、熱で倒れなければ、マホから別れの言葉を貰っていたのだろうか。
『凜風ちゃん、涼くん、いらっしゃい』
あの笑顔が、突然見られなくなるなんて。
赤い唇で赤い牡丹に口づけしていた、赤い着物姿のマホ。
まるで血のような赤色を愛でたマホ……
そこまで考えた時、頭がちりっと痛んだ。
今までマホのことを忘れていたのに、やはり思い出そうとすれば頭痛がする。
でもきっと、大人になったマホに会えば、そうしたものはすべて解消できるだろう。
涼がメールでやりとりをして数時間後、マホは事務所に来ることになったのだ。
「落ち着けよ、凜風」
「そういう涼兄こそ、うろうろしないで所長代理としての貫禄見せて、どしりと座っていてよ」
兄妹揃って、気もそぞろである。
約束の時間まであと十五分というところで、入り口で物音がした。
「マホちゃんがもう来たんだわ!」
凜風は涼と見合わせた顔を輝かせた。
どんな女性になっているだろう。たとえド派手になっていようと、体形が変化していようと、昔の面影がなくなってしまっていようと、マホであるのなら関係ない。
(マホちゃんに会える!)
凜風は童心に返り、全速力で入り口へ駆けた。
曇った硝子の奥に人影が見える。
早く入ってくればいいのに、もじもじしているあたり、マホは変わっていない。
まだ再会していないというのに、堪えきれぬ感動に涙腺を緩ませながら、凜風はドアを開いて、笑顔で歓迎した。
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