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1巻
1-1
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プロローグ
梅雨入り間近な、五月の東京――
湿気を含んだ生温かい風が肌を撫でる夜、ネオンのぎらついた歓楽街はいつも通りに喧噪に溢れ、賑わいを見せていた。
そんな都心部にある古びた雑居ビルから、すらりとしたスーツ姿の女性が出てきた。
艶やかなココア色の長髪を編み込み、涼しげで透明感のある整った顔をしている。
彼女は黒い瞳を苛立ちに細めており、腕時計を見ると、今度は驚きに目を見開いた。
「もう八時⁉ こんな時間まで粘ったのに収穫なしだなんて……! 大体、弁護士費用が一千万なんてぼったくりすぎよ。やりたくないのが見え見えで、失礼しちゃうわ!」
彼女の名前は、倉下凜風。老舗法律事務所の事務員をしている。
凜風はバッグから手帳を取り出すと、記載していた社名の幾つかをボールペンで消した。
「ふぅ。今日は五つの法律事務所を訪問して交渉したけど、またもや全滅か……」
ここのところ毎日歩き回っているせいで靴擦れができ、足がぱんぱんにむくんでいる。
正直しんどいけれど、そんなことを言ってはいられない。
「知り合いも、お父さんの仲間も、弁護士ランクを下げてもだめ。近県も都内も関係なし。この世には、困っている人を助けて、ヤクザを追い払えるくらい気骨ある正義の弁護士はいないの?」
凜風はぶつぶつと独りごちながら、帰路につく。
表通りはいかがわしい店が多いため、比較的ひっそりとした裏道を通り、駅へ向かう。
しかし俯きがちに考え事をしながら歩いていたせいで、なにかに肩がぶつかってしまった。
軽い衝撃に顔を上げた凜風は、その相手を見て思わず言葉を呑み込んだ。
横一列になって立っていたのは、屈強そうな三人の男たちだったからだ。
派手な服装、ガラの悪そうな強面の顔。
彼らから漂う独特の威圧感は、一般人のものではない。
(やばい、ヤクザにぶつかっちゃったんだわ!)
品定めしているような下卑た視線を向けられ、凜風は不快さに顔を引き攣らせつつ、下手に絡まれる前に、と素直に謝って退散しようとした。
しかし凜風が実行に移すよりも早く、ひとりの男が自身の腕を押さえて大仰に叫びはじめた。
「痛ててててて! ぶつけられて骨が折れちまったみたいだ!」
「そんな……。ちょっと当たっただけなのに……」
思わず本音が出てしまうと、自称骨折男はあっという間に逆上してしまった。
「だったら俺が嘘ついているとでも言うのか、あああ⁉」
普通の人なら、恐怖のあまり逃げ出してしまうくらいの迫力である。
けれど凜風は、ここのところずっとこうした輩と相対してきたのと、交渉による疲労のせいで本能的危機感が麻痺していた。
外出してもなお厄介な男たちを相手にしないといけないことに、心底うんざりしてため息をついてしまったのだ。
そうこうしているうちに気づけば凜風は取り囲まれ、退路を塞がれてしまった。
「骨折が本当だと証明すればいいんだろう? すぐそこに病院があるから一緒に来いよ」
凜風はがしりと腕を掴まれ、そばにある古びた建物に連れ込まれそうになった。
『楽園』と汚らしい看板が掲げられた、どう見ても怪しげなホテルである。
「な、なにするんですか。叫びますよ⁉」
両手が塞がれているために、警察に通報したくても、スマホが取り出せない。
疲労困憊の足は踏ん張りが利かず、ずるずると引き摺られるばかり。
腕を掴む男を蹴ろうとしても足は虚しく宙を切る。
「好きに叫べ。俺たち松富士組の界隈で、助けてくれる奇特な奴がいるといいなあ?」
「やめてよ。離してよ! 誰か、誰か!」
無我夢中で叫んだ直後。なぜか突如、骨折男が悲鳴を上げた。
同時に聞こえてきたのは――
「素人の女を相手に、なにをしている」
ぞくっとするほど、深く艶めいたバリトン。
派手派手しいネオンの看板を背にした誰かが、骨折男の腕を後ろに捻り上げている。
「誰だ、てめぇ! こんなことをしてただで済むと思うな。俺は松富士組の……」
反対に、凜風の腕を掴んでいた男たちはすぐさまそれを離すと、深々と頭を下げて声を張り上げた。
「御子神の兄貴、お疲れ様ッス!」
それを聞いた骨折男は、首をねじ曲げて後ろを見ると、先刻とはまた違う短い悲鳴を上げた。
「あ、兄貴……どうしてここに……」
「質問しているのは俺の方だ。素人の女を相手に、なにをしている?」
ゆったりと威圧的な声を発するのは、黒いワイシャツ姿の背の高い男だ。
ダークグレーの背広を左肩に引っかけている。
まるで濡れ髪かのようなセクシーさを感じさせる、長めの漆黒の髪。
野性味に溢れた彫り深い顔立ちは極上に整い、どこか寂しげな翳りがある。
なにより凜風の目を奪ったのは――透き通るような銀青色の瞳だった。
神秘的な色をしたその瞳は、なぜか不思議にも凜風に懐かしさを感じさせたが、それ以上に排他的で冷たく無機的なものにも思えて、すぐに勘違いだと考え直した。
こんなにも危険な雰囲気の男など、知り合いにいるはずがない。
男から漂う蠱惑的な大人の男の色香に、凜風の肌はざわざわと粟立つようだった。
「す、すみません兄貴! ちょっとからかって遊んでいただけですよ……」
骨折男が引き攣った顔で笑みを作り、へこへこと頭を下げて嘯く。
「素人相手に揉め事を起こすのなら、俺は松富士組の面倒を見ないぞ」
男がわずかに切れ長の目を細めただけで、チンピラ三人組は震え上がって謝罪する。
(格が違う。チンピラが〝兄貴〟と呼んで頭を下げているくらいだもの。この人は、きっとどこかの組の組長とか若頭とかに違いないわ)
ヤクザの幹部クラス以上なら、男のまとう空気が一般人のものではないのも納得がいく。
ごろつきを簡単に牽制することができる、裏社会では有名な人物なのかもしれない。
(……この人なら、ヤクザを抑えることができるの?)
悪を制することができるのは、正義だけだと思っていた。
しかし悪に強弱があるのなら、強い悪に頼るのもまた、有効手段なのかもしれない。追い詰められた今の凜風にはむしろ、それが得策に思えた。
(ああ、この出逢いは……運命かも!)
このチャンスを絶対逃がすものか。
回りくどいことをせず、すぐに彼を掴まえなくては。
そんな凜風の決意を知らず、彼女に運命を思わせた男は声を荒らげた。
「二度目はないからな。とっとと失せろ!」
その声を合図に、ヤクザたちはいとも簡単に走り去っていった。
ヤクザたちがいなくなると、御子神という名の美貌の男は長い前髪を片手で掻き上げ、凜風を悠然と見下ろした。
「これに懲りたら、夜、女ひとりでこんな場所をうろつくな。表通りを……」
しかし凜風はそれを聞き流して、単刀直入に切り出した。
「どうすれば、あなたを手に入れることができますか?」
「……は?」
「わたし、あなたが欲しいんです!」
御子神は、凜風の真意を推し量るように目を細めた。
そして――
「ずいぶんとストレートな口説き文句だな。頼まれれば無料でくれてやるような……俺がそんな心優しい善人で、安い男だとでも思ったのか?」
御子神は、凜風の顎を摘まんで、くいと上に上げた。
凜風の顔を覗き込む銀青色の瞳が、ナイフの刃のような剣呑な光を宿している。
善人とは思えない、アウトローな魅力を醸す美貌の男。
噎せ返るような男の香りにくらくらするのをぐっと堪えて、凜風はまっすぐに彼を見つめた。
「もちろん、ただとは言いません。いくら払えばいいですか?」
すると御子神は愉快そうに、くっと口の端を吊り上げた。
「俺が、お前に買い取れるような男だと?」
他の男の発言であれば、不遜な勘違い男だと思うだろうが、この男が言うと説得力がある。
極上すぎるこの男には、修羅場をくぐって生きてきた者特有のダークな貫禄があった。
情やはした金で動くようなタイプには見えない。
それでも――
「必ずお支払いします、ぶ……分割で」
その返答は御子神の意表を突いたらしく、彼は一瞬目を見開いたが、すぐに鼻で笑う。
「悪いが俺は、一括先払いしか受け付けない。高い買い物はやめておけ」
まるで相手にされていない。
凜風が悔しさに唇を噛みしめていると、御子神はさらに挑発的に笑って言った。
「それとも……手付金としてお前が身体で支払うと言うのなら、考えてやらなくもないが?」
これはきっと、そんな度胸もないだろうと軽んじられた上での揶揄いなのだろう。
カチンときた凜風は、半ば自棄になって言い返した。
「では手付金として、わたしをお支払いします! お気に召したら、わたしに買われてください!」
売り言葉に買い言葉とはいえ、凜風が話に乗ったのが意外だったらしい。
御子神はわずかに驚いた顔をして凜風の顎から手を外すと、すぐに艶やかな声をたてて笑った。
「俺の冗談を鵜呑みにするなど。本気でお前の身体には、手付金と同等の価値があるとでも? どれだけ自信があるんだ、自分に」
「こ、これでも評判なんですよ。すごいって! 男が離したくない身体だって!」
(……嘘つけ、自分!)
評判どころか経験もない。二十代後半なのに、彼氏すらいたことがない。
自虐的な虚言は自分でも痛々しいと思うが、こっちだって必死なのだ。
愛読雑誌のセックス特集を熟読しているから、相手が喜ぶラブテクニックとやらは十分身についている……はずだ。
記事によれば、とにかく相手を褒めること。そしてあざとく小悪魔的な女を演出し、相手の弱い部分を焦らして触って翻弄させ、あとは痛みを我慢してあんあんと喘げばいいだけだ……多分。
(この苦境を打開するためよ。もういい大人なんだし、ギブアンドテイクとして割り切らないと。今優先的に守るべきはわたしの身体じゃないし、利用できるものは積極的に利用するの!)
度胸と根性がウリの自分が、ここで臆してはいけない。
「ほう。すごい、ねぇ。具体的には?」
「ぐ、具体的には……その、男性が喜ぶテクニックを駆使できます」
「俺が喜ぶテクニック……それは頼もしい。みかけとは違い、経験豊富なんだな」
男は笑い続ける。
(絶対これ、信じてないわよね……。だからってそんなに笑わなくたっていいのに)
再度カチンときたところで、御子神は凜風に告げた。
「その腹にある魂胆を聞いてみたいところだが、まあいいだろう。手付金にしてはかなり負けてやることにはなるが、笑わせてもらった礼だ。そこまで言うのなら、骨まで食わせてもらおうか」
ぞくりとするのは、その言葉の内容のせいなのか、それとも色濃くなった危険な色香のせいか。
凜風はこの悪魔のような男に対して、なにか、取り返しのつかない契約を交わしてしまったかのような、一抹の不安を感じたのだった。
◇
某ホテルの一室――
月光が差し込むだけの薄暗い室内に、ダブルベッドの軋んだ音と喘ぎ声が入り混ざる。
「ふっ、はあ……あぁ」
赤い華が咲いた肌を曝け出し、時折仰け反りながらびくびくと跳ねているのは、御子神を翻弄させる予定だった、凜風の方だった。
節くれ立った指が凜風の肌をなぞるだけで、凜風の眠れる官能を煽り立てた。
ぞくぞくとした快感が止まらない身体に、ねっとりと舌を這わせられ、さらに熱く湿った唇で肌を吸い立てられるのだ。まだ行為の序盤だというのに、もうすでにあられもない声を抑えられない。
御子神の愛撫が上手すぎるのだろうか。それとも、自分が快感に弱すぎるのだろうか。
「いい顔で啼くな、お前……。もっと啼かせたくなる」
耳元で囁く男の声はどこまでも艶めき、凜風の肌をさらにざわめかせる。
声ですら恍惚感と快感を強められ、たまらずに喘いでしまう凜風に、御子神は妖艶な笑みを見せると、それまで触れてこなかった胸の頂きに吸いついてきた。
「や、あぁ……んっ、んん!」
じんじんと疼いていたところを執拗に舌で舐られ、電流にも似た甘い痺れが身体を駆け抜ける。
反対の胸は強弱をつけて揉みしだかれ、大きな手の中で卑猥な形に変えられていく。指先で先端の蕾を強く捏ねられると、凜風は悩ましげな声を上げて背を反らしてしまった。
故意にあんあん喘ぐ予定ではあったが、問答無用で喘がされるなど想定外だった。
考えが甘かったのだ。未経験者がこの男を手のひらで転がすことなどできるはずもなかった。その証拠に翻弄されているのは凜風の方で、男は余裕顔で服も脱がずに凜風を攻め立てている。
(ああ、やだ、どうしよう。気持ちいい……。この人の舌や指……おかしくなりそう)
頭の中は、初めての快楽に真っ白に染まり、はしたない声が止まらない。
二十九年間、破瓜はおろか怪我ひとつしたことがない丈夫な身体が、見知らぬ男の舌や唇、指先だけでこんなにも敏感に反応するとは思わなかった。
労るような優しさなどない。ただストレートに凜風の官能を引き出し、彼好みの食べ頃になるまで一方的に熟成させられている気分だ。それを詰る余裕がないのが、悔しい。
御子神は凜風の注意を胸の愛撫に惹きつけながら、ストッキングごとショーツを器用に引き抜いた。
大きな手のひらで凜風の足先からふくらはぎ、太股を撫で上げ、彼女の片足を持ち上げるようにして折り曲げると、秘処に指を滑らせる。
くちゅりとした音を合図にして、凜風の身体に、ぞくぞくとした強いものが走った。
「ひゃ……あああ!」
凜風を守っていた花弁は開かれ、濡れそぼった花園を大きく掻き回される。
湿った音が響く中、リズミカルな指の動きに合わせて、凜風の嬌声が弾み出した。
(なにこれ……。全身が蕩けそうなほど、気持ちいい……)
快楽の波は絶えず凜風を襲い、次第に追い詰められていく。
凜風は思わず御子神の精悍な首に手を回して縋り付き、引き攣った息を吐きながら快楽に身を震わせる。
御子神は、ちゅぱりと音をたてて胸から口を離した後、感嘆にも似たため息をついて呟いた。
「たまらないな、お前……」
高揚しているのか、その声音をわずかに上擦らせたまま、凜風に問いかける。
「俺が喜ぶテクニックがあるんだろう? 見たところ、お前ばかりが喜んでいるが」
「ご、ごめ……は、んんっ」
現実に返ったその一瞬、迫り上がるものが強い奔流となり、凜風はより乱れてしまった。
「そんなに色っぽい顔をして……ずいぶんと気持ち良さそうだ。そんなにいいのか?」
誘惑するような声に、凜風はたどたどしい口調で答える。
「……いい。気持ちいいの……。脳まで……蕩けそう……」
「そうか。素直でいい子だ」
御子神は緩急をつけて秘処を擦り続けながら、片手で凜風の頭を抱き、髪を撫でた。
そんな優しいことをされると、どうしていいのかわからなくなる。
抗おうとする力が抜け、迫り来る官能に身を任せていると、こちらを見ている端正な顔が間近にあることに気づいた。
互いの息が顔にかかる距離で、凜風を見つめる銀青色の瞳が熱を帯び、揺れている。
凜風はそれに惹き込まれ、彼の唇が欲しいと無意識に薄く唇を開いた。
御子神の顔がすっと真顔になり、艶めいた男の表情を浮かべる。
唇が近づいてくる――が、触れる直前でそれは止まってしまった。
御子神は眉間に力を入れて凜風から顔を逸らすと、彼女の耳に口づけ、荒々しく口淫をはじめた。
「は、やあっ、耳……だめ」
ぞくぞくが止まらず身体から力が抜ける。だが御子神はそんな凜風に容赦なく、秘処の表面を弄っていた指を蜜口に移動させ、ゆっくりと差し込んでくる。
「あ、あああ……」
異物が侵入しているというのに、恐怖や痛みよりも、奥からもたらされる深い快感を覚える。
指が抜き差しされ、内壁を擦られる。そのたびにぞくぞくし、声が止まらない。
「あぁ……中も熱くてとろとろだ。こんなにきつく俺の指を締め上げて。誘ってるのか? 離したくなくなる身体って、本当のことなのかよ」
耳に熱い息を吹きかけて、艶めいた声でそんなことを言わないでほしい。
彼の刺激に意識を向けるほどに切迫感が強まり、暴力的に膨れ上がるなにかによって弾け飛んでしまいそうだ。
見つめ合えば無性に唇を重ねたくなるのに、彼はそうしない。
御子神にとって凜風は、愛を交わしたい相手ではないのだろう。
だから今も鎧みたいに服をまとったままで、肌を合わせようともしないのだ。
しかしそれを詰るほど御子神のことを知らないし、そんな関係でもない。
凜風が御子神にしがみついて喘いでいると、やがて彼は官能的なため息をこぼした。
それを合図に行為が止まり、御子神の身体が離れる。
そして、カチャカチャとベルトが外される音がした。
「大した女だよ。俺を……昂らせるなんてな」
ゆったりと見下ろしてくる銀青色の瞳は、情欲に滾り、ぎらついている。
それが御子神の男としての色気をより強めているようで、凜風は思わずぶるっと身震いをした。
この男に女として求められているのだと思うと、凜風の女の部分が喜びに震い立つ。
しかしそれと同時に、彼の唇の熱や感触を知らずして終わるだろうことを寂しく思った。
快楽だけで繋がるのが割り切った大人の関係だということは、承知している。
しかもこの行為は、御子神を愉しませることを条件としてはじめたものだ。
知識で得たテクニックが頭から抜けて役に立たないのなら、せめて彼が望むがままに貪られなくてはと思うのに、これから愛のない行為をすることに、抵抗を覚えるのだ。
純潔を散らせることが惜しくなったからではない。
この魅惑的な男に、愛されて抱かれるわけではないことが、悲しくなったのだ。
凜風の足はいよいよ大きく開かれ、なにか熱く大きなものが秘処に触れた。
凜風が本能的な恐怖を感じてわずかに身を竦めさせた直後、今まで指を差し込まれていたそこに、大きな熱杭が押し込まれ、裂かれそうな痛みに声を上げてしまう。
御子神は動きを止めると、訝しげに口を開いた。
「まさか、……処女なのか?」
「ち、違います!」
言い当てられた凜風の声は、動揺するあまり裏返ってしまった。
それで察したらしい御子神は、長いため息をついて言った。
「……処女を、見ず知らずの男にやるな」
御子神は身体を離して立ち上がり、浴室へと向かった。
きっと、完全に凜風の身体に興味をなくしてしまったのだ。
もしかすると、処女は嫌いだったのかもしれない。
凜風は薄い掛け布団を身体に巻きつけると慌てて後を追い、鍵がかけられた浴室の外から叫んだ。
「お願いだから続けて! あなたに気に入ってもらえないと、お父さんが戻ってこれなくなるの!」
水音は止まることがない。
これは……凜風の言葉など聞くものかという、拒絶のアピールなのだろうか。
「あなたの力が……必要なの!」
しばらくして水音が止まると、カチャリと音がしてドアが開いた。
濡れ髪をタオルで拭き、セクシーさをさらに強めた御子神が出てくる。
バスローブを着ているが、筋肉質の逞しい肉体をしているのがよくわかった。
(右肩から胸のところにあるのは、入れ墨?)
黒一色だが、杖のようなものに一匹の蛇が巻きついていて、象徴的だ。
まるで悪魔の刻印かのような不気味さはあるが、不思議と彼の雰囲気にマッチする。
(どんな模様であれ、入れ墨をしているなんて、やっぱりヤクザなんだわ……)
御子神は前髪を掻き上げると、黙り込んだままの凜風に苦笑してみせた。
「俺に迫ったのはお前の父親が関係しているからなのか? 訳ありなら事情を話せ」
凜風の声は届いていたらしい。凜風はこくりと頷いて語りはじめた。
「わたしの父は弁護士で、法律事務所を構えているんですが……」
「普通の言葉遣いでいい。敬語は面倒だ」
「……わかったわ。一ヶ月前、広告代理店で働いていたわたしに、父の事務所で弁護士をしている兄から電話がかかってきたの」
『凜風、大変だ。父さんが倒れて昏睡状態なんだ』
倒れた原因は、心労による持病の悪化だった。
聞けば、数週間前から事務所にヤクザたちが押し掛けてきて、室内を荒らされるなどの嫌がらせを受けていたのだという。
ヤクザたちの目的は父の事務所を畳ませることだった。命までは取らないとは言われたものの、嫌がらせは従業員たちの家族にまで及び、みんな怖がって辞めてしまった。
その上、ヤクザが頻繁に出入りするせいで、事務所には反社会的勢力との繋がりがあるという悪評まで立ち、仕事の依頼は次々にキャンセルとなり、そんな中、父が倒れたのだ。
このままでは事務所を畳むことになってしまうと、兄は凜風に告げた。
『本当は凜風を巻き込みたくない。だけど父さんが倒れた今、僕ひとりの力では事務所の存続が難しい。凜風、父さんの事務所を守るために力を貸してくれないか』
「――退職して兄と力を合わせて頑張っているけれど、今も毎日のように事務所にヤクザが来て、嫌がらせは続いているの」
「……で、今日は別のヤクザに絡まれていたと? ヤクザに好かれやすいのか、警戒心がなさすぎるのか」
「それは、疲れてたから……。今度からは気をつける。でも、助けてくれてありがとう」
凜風が改めて礼を述べると、御子神は腕組みをしていた手を軽く上げて応えた。
「あいつらとは初対面だったようだが、事務所に来ているヤクザはどこの組の者だ?」
「知らない。組も名前も。お父さんがヤクザと関係があるなんて聞いたことないし、調べたけどそういう案件もなかった」
「とすれば、誰かに雇われてでもいるのか」
「多分。事務所を畳めって言うからには、お父さんに対して恨みがある誰かの差し金だと思うんだけれど……。見当なんてつかないし」
ため息をつく凜風に、少し考え込んでいた御子神は怪訝な顔を向けた。
「しかしお前の兄は弁護士なんだろう? 恐喝や器物損壊、業務妨害を受けているんだ。お前が奔走しなくても、法的な措置がとれるはずじゃないか。父親だって倒れる前に動かなかったのか?」
その問いに、凜風は微妙な表情をして口を開いた。
父親は放っておけばそのうち鎮まると楽観視していて、なにも手を打たなかったこと。
雇用していた弁護士が、耐えかねて法的措置をとったが、なぜか大した抑止力にならなかったこと。
逆に報復を受け、家族が酷い目に遭わされて退職したこと――
「わたしの兄は頭はいいけれど、弁護士になりたてだから経験が少ないの。ベテランの先輩弁護士ですらヤクザに負けたのに、兄さんが勝てるわけがない」
その上、気が弱く、優しい性格の兄は入院中の父や凜風になにかされたら困ると、すっかり臆してしまっている。
「警察も暴追センターも、積極的に動いてくれないし、父の知り合いの弁護士に頼んでも、うちの事務所の二の舞になることを怖れて突っぱねられた」
家族ぐるみの付き合いがあった、父の親友の弁護士ですら力になってくれなかった。
『凜風ちゃん。悪いことは言わない。事務所はすぐに畳んで遠くに行った方がいい。事務所が潰れるという目的さえ達成できれば、ヤクザたちが凜風ちゃんや涼くんを深追いすることはないだろう。お父さんが目覚めたら、またみんなで一からはじめればいいじゃないか』
そう言われても、父の命ともいえる事務所を、父の意向も聞かずに畳むなど、できるはずもなかった。
しかも、ヤクザが絡む悪徳弁護士という汚名を着せられたままでは、どの地でも再出発は難しいだろう。
父の親友で同業者なのに、簡単にそんなことを口にする彼を恨めしく思ったからこそ、凜風は固く心に誓ったのだ。
どんなことをしてでも、父の事務所を守ると。
「お父さんはわたしの誇りなの。ヤクザなんかに負けずに、事務所を守りたい。お父さんが安心してまた戻ってこれる場所をなくしたくないの!」
父は必ず帰ってくるのだから――強い思いを御子神にぶつけると、彼は静かに呟く。
梅雨入り間近な、五月の東京――
湿気を含んだ生温かい風が肌を撫でる夜、ネオンのぎらついた歓楽街はいつも通りに喧噪に溢れ、賑わいを見せていた。
そんな都心部にある古びた雑居ビルから、すらりとしたスーツ姿の女性が出てきた。
艶やかなココア色の長髪を編み込み、涼しげで透明感のある整った顔をしている。
彼女は黒い瞳を苛立ちに細めており、腕時計を見ると、今度は驚きに目を見開いた。
「もう八時⁉ こんな時間まで粘ったのに収穫なしだなんて……! 大体、弁護士費用が一千万なんてぼったくりすぎよ。やりたくないのが見え見えで、失礼しちゃうわ!」
彼女の名前は、倉下凜風。老舗法律事務所の事務員をしている。
凜風はバッグから手帳を取り出すと、記載していた社名の幾つかをボールペンで消した。
「ふぅ。今日は五つの法律事務所を訪問して交渉したけど、またもや全滅か……」
ここのところ毎日歩き回っているせいで靴擦れができ、足がぱんぱんにむくんでいる。
正直しんどいけれど、そんなことを言ってはいられない。
「知り合いも、お父さんの仲間も、弁護士ランクを下げてもだめ。近県も都内も関係なし。この世には、困っている人を助けて、ヤクザを追い払えるくらい気骨ある正義の弁護士はいないの?」
凜風はぶつぶつと独りごちながら、帰路につく。
表通りはいかがわしい店が多いため、比較的ひっそりとした裏道を通り、駅へ向かう。
しかし俯きがちに考え事をしながら歩いていたせいで、なにかに肩がぶつかってしまった。
軽い衝撃に顔を上げた凜風は、その相手を見て思わず言葉を呑み込んだ。
横一列になって立っていたのは、屈強そうな三人の男たちだったからだ。
派手な服装、ガラの悪そうな強面の顔。
彼らから漂う独特の威圧感は、一般人のものではない。
(やばい、ヤクザにぶつかっちゃったんだわ!)
品定めしているような下卑た視線を向けられ、凜風は不快さに顔を引き攣らせつつ、下手に絡まれる前に、と素直に謝って退散しようとした。
しかし凜風が実行に移すよりも早く、ひとりの男が自身の腕を押さえて大仰に叫びはじめた。
「痛ててててて! ぶつけられて骨が折れちまったみたいだ!」
「そんな……。ちょっと当たっただけなのに……」
思わず本音が出てしまうと、自称骨折男はあっという間に逆上してしまった。
「だったら俺が嘘ついているとでも言うのか、あああ⁉」
普通の人なら、恐怖のあまり逃げ出してしまうくらいの迫力である。
けれど凜風は、ここのところずっとこうした輩と相対してきたのと、交渉による疲労のせいで本能的危機感が麻痺していた。
外出してもなお厄介な男たちを相手にしないといけないことに、心底うんざりしてため息をついてしまったのだ。
そうこうしているうちに気づけば凜風は取り囲まれ、退路を塞がれてしまった。
「骨折が本当だと証明すればいいんだろう? すぐそこに病院があるから一緒に来いよ」
凜風はがしりと腕を掴まれ、そばにある古びた建物に連れ込まれそうになった。
『楽園』と汚らしい看板が掲げられた、どう見ても怪しげなホテルである。
「な、なにするんですか。叫びますよ⁉」
両手が塞がれているために、警察に通報したくても、スマホが取り出せない。
疲労困憊の足は踏ん張りが利かず、ずるずると引き摺られるばかり。
腕を掴む男を蹴ろうとしても足は虚しく宙を切る。
「好きに叫べ。俺たち松富士組の界隈で、助けてくれる奇特な奴がいるといいなあ?」
「やめてよ。離してよ! 誰か、誰か!」
無我夢中で叫んだ直後。なぜか突如、骨折男が悲鳴を上げた。
同時に聞こえてきたのは――
「素人の女を相手に、なにをしている」
ぞくっとするほど、深く艶めいたバリトン。
派手派手しいネオンの看板を背にした誰かが、骨折男の腕を後ろに捻り上げている。
「誰だ、てめぇ! こんなことをしてただで済むと思うな。俺は松富士組の……」
反対に、凜風の腕を掴んでいた男たちはすぐさまそれを離すと、深々と頭を下げて声を張り上げた。
「御子神の兄貴、お疲れ様ッス!」
それを聞いた骨折男は、首をねじ曲げて後ろを見ると、先刻とはまた違う短い悲鳴を上げた。
「あ、兄貴……どうしてここに……」
「質問しているのは俺の方だ。素人の女を相手に、なにをしている?」
ゆったりと威圧的な声を発するのは、黒いワイシャツ姿の背の高い男だ。
ダークグレーの背広を左肩に引っかけている。
まるで濡れ髪かのようなセクシーさを感じさせる、長めの漆黒の髪。
野性味に溢れた彫り深い顔立ちは極上に整い、どこか寂しげな翳りがある。
なにより凜風の目を奪ったのは――透き通るような銀青色の瞳だった。
神秘的な色をしたその瞳は、なぜか不思議にも凜風に懐かしさを感じさせたが、それ以上に排他的で冷たく無機的なものにも思えて、すぐに勘違いだと考え直した。
こんなにも危険な雰囲気の男など、知り合いにいるはずがない。
男から漂う蠱惑的な大人の男の色香に、凜風の肌はざわざわと粟立つようだった。
「す、すみません兄貴! ちょっとからかって遊んでいただけですよ……」
骨折男が引き攣った顔で笑みを作り、へこへこと頭を下げて嘯く。
「素人相手に揉め事を起こすのなら、俺は松富士組の面倒を見ないぞ」
男がわずかに切れ長の目を細めただけで、チンピラ三人組は震え上がって謝罪する。
(格が違う。チンピラが〝兄貴〟と呼んで頭を下げているくらいだもの。この人は、きっとどこかの組の組長とか若頭とかに違いないわ)
ヤクザの幹部クラス以上なら、男のまとう空気が一般人のものではないのも納得がいく。
ごろつきを簡単に牽制することができる、裏社会では有名な人物なのかもしれない。
(……この人なら、ヤクザを抑えることができるの?)
悪を制することができるのは、正義だけだと思っていた。
しかし悪に強弱があるのなら、強い悪に頼るのもまた、有効手段なのかもしれない。追い詰められた今の凜風にはむしろ、それが得策に思えた。
(ああ、この出逢いは……運命かも!)
このチャンスを絶対逃がすものか。
回りくどいことをせず、すぐに彼を掴まえなくては。
そんな凜風の決意を知らず、彼女に運命を思わせた男は声を荒らげた。
「二度目はないからな。とっとと失せろ!」
その声を合図に、ヤクザたちはいとも簡単に走り去っていった。
ヤクザたちがいなくなると、御子神という名の美貌の男は長い前髪を片手で掻き上げ、凜風を悠然と見下ろした。
「これに懲りたら、夜、女ひとりでこんな場所をうろつくな。表通りを……」
しかし凜風はそれを聞き流して、単刀直入に切り出した。
「どうすれば、あなたを手に入れることができますか?」
「……は?」
「わたし、あなたが欲しいんです!」
御子神は、凜風の真意を推し量るように目を細めた。
そして――
「ずいぶんとストレートな口説き文句だな。頼まれれば無料でくれてやるような……俺がそんな心優しい善人で、安い男だとでも思ったのか?」
御子神は、凜風の顎を摘まんで、くいと上に上げた。
凜風の顔を覗き込む銀青色の瞳が、ナイフの刃のような剣呑な光を宿している。
善人とは思えない、アウトローな魅力を醸す美貌の男。
噎せ返るような男の香りにくらくらするのをぐっと堪えて、凜風はまっすぐに彼を見つめた。
「もちろん、ただとは言いません。いくら払えばいいですか?」
すると御子神は愉快そうに、くっと口の端を吊り上げた。
「俺が、お前に買い取れるような男だと?」
他の男の発言であれば、不遜な勘違い男だと思うだろうが、この男が言うと説得力がある。
極上すぎるこの男には、修羅場をくぐって生きてきた者特有のダークな貫禄があった。
情やはした金で動くようなタイプには見えない。
それでも――
「必ずお支払いします、ぶ……分割で」
その返答は御子神の意表を突いたらしく、彼は一瞬目を見開いたが、すぐに鼻で笑う。
「悪いが俺は、一括先払いしか受け付けない。高い買い物はやめておけ」
まるで相手にされていない。
凜風が悔しさに唇を噛みしめていると、御子神はさらに挑発的に笑って言った。
「それとも……手付金としてお前が身体で支払うと言うのなら、考えてやらなくもないが?」
これはきっと、そんな度胸もないだろうと軽んじられた上での揶揄いなのだろう。
カチンときた凜風は、半ば自棄になって言い返した。
「では手付金として、わたしをお支払いします! お気に召したら、わたしに買われてください!」
売り言葉に買い言葉とはいえ、凜風が話に乗ったのが意外だったらしい。
御子神はわずかに驚いた顔をして凜風の顎から手を外すと、すぐに艶やかな声をたてて笑った。
「俺の冗談を鵜呑みにするなど。本気でお前の身体には、手付金と同等の価値があるとでも? どれだけ自信があるんだ、自分に」
「こ、これでも評判なんですよ。すごいって! 男が離したくない身体だって!」
(……嘘つけ、自分!)
評判どころか経験もない。二十代後半なのに、彼氏すらいたことがない。
自虐的な虚言は自分でも痛々しいと思うが、こっちだって必死なのだ。
愛読雑誌のセックス特集を熟読しているから、相手が喜ぶラブテクニックとやらは十分身についている……はずだ。
記事によれば、とにかく相手を褒めること。そしてあざとく小悪魔的な女を演出し、相手の弱い部分を焦らして触って翻弄させ、あとは痛みを我慢してあんあんと喘げばいいだけだ……多分。
(この苦境を打開するためよ。もういい大人なんだし、ギブアンドテイクとして割り切らないと。今優先的に守るべきはわたしの身体じゃないし、利用できるものは積極的に利用するの!)
度胸と根性がウリの自分が、ここで臆してはいけない。
「ほう。すごい、ねぇ。具体的には?」
「ぐ、具体的には……その、男性が喜ぶテクニックを駆使できます」
「俺が喜ぶテクニック……それは頼もしい。みかけとは違い、経験豊富なんだな」
男は笑い続ける。
(絶対これ、信じてないわよね……。だからってそんなに笑わなくたっていいのに)
再度カチンときたところで、御子神は凜風に告げた。
「その腹にある魂胆を聞いてみたいところだが、まあいいだろう。手付金にしてはかなり負けてやることにはなるが、笑わせてもらった礼だ。そこまで言うのなら、骨まで食わせてもらおうか」
ぞくりとするのは、その言葉の内容のせいなのか、それとも色濃くなった危険な色香のせいか。
凜風はこの悪魔のような男に対して、なにか、取り返しのつかない契約を交わしてしまったかのような、一抹の不安を感じたのだった。
◇
某ホテルの一室――
月光が差し込むだけの薄暗い室内に、ダブルベッドの軋んだ音と喘ぎ声が入り混ざる。
「ふっ、はあ……あぁ」
赤い華が咲いた肌を曝け出し、時折仰け反りながらびくびくと跳ねているのは、御子神を翻弄させる予定だった、凜風の方だった。
節くれ立った指が凜風の肌をなぞるだけで、凜風の眠れる官能を煽り立てた。
ぞくぞくとした快感が止まらない身体に、ねっとりと舌を這わせられ、さらに熱く湿った唇で肌を吸い立てられるのだ。まだ行為の序盤だというのに、もうすでにあられもない声を抑えられない。
御子神の愛撫が上手すぎるのだろうか。それとも、自分が快感に弱すぎるのだろうか。
「いい顔で啼くな、お前……。もっと啼かせたくなる」
耳元で囁く男の声はどこまでも艶めき、凜風の肌をさらにざわめかせる。
声ですら恍惚感と快感を強められ、たまらずに喘いでしまう凜風に、御子神は妖艶な笑みを見せると、それまで触れてこなかった胸の頂きに吸いついてきた。
「や、あぁ……んっ、んん!」
じんじんと疼いていたところを執拗に舌で舐られ、電流にも似た甘い痺れが身体を駆け抜ける。
反対の胸は強弱をつけて揉みしだかれ、大きな手の中で卑猥な形に変えられていく。指先で先端の蕾を強く捏ねられると、凜風は悩ましげな声を上げて背を反らしてしまった。
故意にあんあん喘ぐ予定ではあったが、問答無用で喘がされるなど想定外だった。
考えが甘かったのだ。未経験者がこの男を手のひらで転がすことなどできるはずもなかった。その証拠に翻弄されているのは凜風の方で、男は余裕顔で服も脱がずに凜風を攻め立てている。
(ああ、やだ、どうしよう。気持ちいい……。この人の舌や指……おかしくなりそう)
頭の中は、初めての快楽に真っ白に染まり、はしたない声が止まらない。
二十九年間、破瓜はおろか怪我ひとつしたことがない丈夫な身体が、見知らぬ男の舌や唇、指先だけでこんなにも敏感に反応するとは思わなかった。
労るような優しさなどない。ただストレートに凜風の官能を引き出し、彼好みの食べ頃になるまで一方的に熟成させられている気分だ。それを詰る余裕がないのが、悔しい。
御子神は凜風の注意を胸の愛撫に惹きつけながら、ストッキングごとショーツを器用に引き抜いた。
大きな手のひらで凜風の足先からふくらはぎ、太股を撫で上げ、彼女の片足を持ち上げるようにして折り曲げると、秘処に指を滑らせる。
くちゅりとした音を合図にして、凜風の身体に、ぞくぞくとした強いものが走った。
「ひゃ……あああ!」
凜風を守っていた花弁は開かれ、濡れそぼった花園を大きく掻き回される。
湿った音が響く中、リズミカルな指の動きに合わせて、凜風の嬌声が弾み出した。
(なにこれ……。全身が蕩けそうなほど、気持ちいい……)
快楽の波は絶えず凜風を襲い、次第に追い詰められていく。
凜風は思わず御子神の精悍な首に手を回して縋り付き、引き攣った息を吐きながら快楽に身を震わせる。
御子神は、ちゅぱりと音をたてて胸から口を離した後、感嘆にも似たため息をついて呟いた。
「たまらないな、お前……」
高揚しているのか、その声音をわずかに上擦らせたまま、凜風に問いかける。
「俺が喜ぶテクニックがあるんだろう? 見たところ、お前ばかりが喜んでいるが」
「ご、ごめ……は、んんっ」
現実に返ったその一瞬、迫り上がるものが強い奔流となり、凜風はより乱れてしまった。
「そんなに色っぽい顔をして……ずいぶんと気持ち良さそうだ。そんなにいいのか?」
誘惑するような声に、凜風はたどたどしい口調で答える。
「……いい。気持ちいいの……。脳まで……蕩けそう……」
「そうか。素直でいい子だ」
御子神は緩急をつけて秘処を擦り続けながら、片手で凜風の頭を抱き、髪を撫でた。
そんな優しいことをされると、どうしていいのかわからなくなる。
抗おうとする力が抜け、迫り来る官能に身を任せていると、こちらを見ている端正な顔が間近にあることに気づいた。
互いの息が顔にかかる距離で、凜風を見つめる銀青色の瞳が熱を帯び、揺れている。
凜風はそれに惹き込まれ、彼の唇が欲しいと無意識に薄く唇を開いた。
御子神の顔がすっと真顔になり、艶めいた男の表情を浮かべる。
唇が近づいてくる――が、触れる直前でそれは止まってしまった。
御子神は眉間に力を入れて凜風から顔を逸らすと、彼女の耳に口づけ、荒々しく口淫をはじめた。
「は、やあっ、耳……だめ」
ぞくぞくが止まらず身体から力が抜ける。だが御子神はそんな凜風に容赦なく、秘処の表面を弄っていた指を蜜口に移動させ、ゆっくりと差し込んでくる。
「あ、あああ……」
異物が侵入しているというのに、恐怖や痛みよりも、奥からもたらされる深い快感を覚える。
指が抜き差しされ、内壁を擦られる。そのたびにぞくぞくし、声が止まらない。
「あぁ……中も熱くてとろとろだ。こんなにきつく俺の指を締め上げて。誘ってるのか? 離したくなくなる身体って、本当のことなのかよ」
耳に熱い息を吹きかけて、艶めいた声でそんなことを言わないでほしい。
彼の刺激に意識を向けるほどに切迫感が強まり、暴力的に膨れ上がるなにかによって弾け飛んでしまいそうだ。
見つめ合えば無性に唇を重ねたくなるのに、彼はそうしない。
御子神にとって凜風は、愛を交わしたい相手ではないのだろう。
だから今も鎧みたいに服をまとったままで、肌を合わせようともしないのだ。
しかしそれを詰るほど御子神のことを知らないし、そんな関係でもない。
凜風が御子神にしがみついて喘いでいると、やがて彼は官能的なため息をこぼした。
それを合図に行為が止まり、御子神の身体が離れる。
そして、カチャカチャとベルトが外される音がした。
「大した女だよ。俺を……昂らせるなんてな」
ゆったりと見下ろしてくる銀青色の瞳は、情欲に滾り、ぎらついている。
それが御子神の男としての色気をより強めているようで、凜風は思わずぶるっと身震いをした。
この男に女として求められているのだと思うと、凜風の女の部分が喜びに震い立つ。
しかしそれと同時に、彼の唇の熱や感触を知らずして終わるだろうことを寂しく思った。
快楽だけで繋がるのが割り切った大人の関係だということは、承知している。
しかもこの行為は、御子神を愉しませることを条件としてはじめたものだ。
知識で得たテクニックが頭から抜けて役に立たないのなら、せめて彼が望むがままに貪られなくてはと思うのに、これから愛のない行為をすることに、抵抗を覚えるのだ。
純潔を散らせることが惜しくなったからではない。
この魅惑的な男に、愛されて抱かれるわけではないことが、悲しくなったのだ。
凜風の足はいよいよ大きく開かれ、なにか熱く大きなものが秘処に触れた。
凜風が本能的な恐怖を感じてわずかに身を竦めさせた直後、今まで指を差し込まれていたそこに、大きな熱杭が押し込まれ、裂かれそうな痛みに声を上げてしまう。
御子神は動きを止めると、訝しげに口を開いた。
「まさか、……処女なのか?」
「ち、違います!」
言い当てられた凜風の声は、動揺するあまり裏返ってしまった。
それで察したらしい御子神は、長いため息をついて言った。
「……処女を、見ず知らずの男にやるな」
御子神は身体を離して立ち上がり、浴室へと向かった。
きっと、完全に凜風の身体に興味をなくしてしまったのだ。
もしかすると、処女は嫌いだったのかもしれない。
凜風は薄い掛け布団を身体に巻きつけると慌てて後を追い、鍵がかけられた浴室の外から叫んだ。
「お願いだから続けて! あなたに気に入ってもらえないと、お父さんが戻ってこれなくなるの!」
水音は止まることがない。
これは……凜風の言葉など聞くものかという、拒絶のアピールなのだろうか。
「あなたの力が……必要なの!」
しばらくして水音が止まると、カチャリと音がしてドアが開いた。
濡れ髪をタオルで拭き、セクシーさをさらに強めた御子神が出てくる。
バスローブを着ているが、筋肉質の逞しい肉体をしているのがよくわかった。
(右肩から胸のところにあるのは、入れ墨?)
黒一色だが、杖のようなものに一匹の蛇が巻きついていて、象徴的だ。
まるで悪魔の刻印かのような不気味さはあるが、不思議と彼の雰囲気にマッチする。
(どんな模様であれ、入れ墨をしているなんて、やっぱりヤクザなんだわ……)
御子神は前髪を掻き上げると、黙り込んだままの凜風に苦笑してみせた。
「俺に迫ったのはお前の父親が関係しているからなのか? 訳ありなら事情を話せ」
凜風の声は届いていたらしい。凜風はこくりと頷いて語りはじめた。
「わたしの父は弁護士で、法律事務所を構えているんですが……」
「普通の言葉遣いでいい。敬語は面倒だ」
「……わかったわ。一ヶ月前、広告代理店で働いていたわたしに、父の事務所で弁護士をしている兄から電話がかかってきたの」
『凜風、大変だ。父さんが倒れて昏睡状態なんだ』
倒れた原因は、心労による持病の悪化だった。
聞けば、数週間前から事務所にヤクザたちが押し掛けてきて、室内を荒らされるなどの嫌がらせを受けていたのだという。
ヤクザたちの目的は父の事務所を畳ませることだった。命までは取らないとは言われたものの、嫌がらせは従業員たちの家族にまで及び、みんな怖がって辞めてしまった。
その上、ヤクザが頻繁に出入りするせいで、事務所には反社会的勢力との繋がりがあるという悪評まで立ち、仕事の依頼は次々にキャンセルとなり、そんな中、父が倒れたのだ。
このままでは事務所を畳むことになってしまうと、兄は凜風に告げた。
『本当は凜風を巻き込みたくない。だけど父さんが倒れた今、僕ひとりの力では事務所の存続が難しい。凜風、父さんの事務所を守るために力を貸してくれないか』
「――退職して兄と力を合わせて頑張っているけれど、今も毎日のように事務所にヤクザが来て、嫌がらせは続いているの」
「……で、今日は別のヤクザに絡まれていたと? ヤクザに好かれやすいのか、警戒心がなさすぎるのか」
「それは、疲れてたから……。今度からは気をつける。でも、助けてくれてありがとう」
凜風が改めて礼を述べると、御子神は腕組みをしていた手を軽く上げて応えた。
「あいつらとは初対面だったようだが、事務所に来ているヤクザはどこの組の者だ?」
「知らない。組も名前も。お父さんがヤクザと関係があるなんて聞いたことないし、調べたけどそういう案件もなかった」
「とすれば、誰かに雇われてでもいるのか」
「多分。事務所を畳めって言うからには、お父さんに対して恨みがある誰かの差し金だと思うんだけれど……。見当なんてつかないし」
ため息をつく凜風に、少し考え込んでいた御子神は怪訝な顔を向けた。
「しかしお前の兄は弁護士なんだろう? 恐喝や器物損壊、業務妨害を受けているんだ。お前が奔走しなくても、法的な措置がとれるはずじゃないか。父親だって倒れる前に動かなかったのか?」
その問いに、凜風は微妙な表情をして口を開いた。
父親は放っておけばそのうち鎮まると楽観視していて、なにも手を打たなかったこと。
雇用していた弁護士が、耐えかねて法的措置をとったが、なぜか大した抑止力にならなかったこと。
逆に報復を受け、家族が酷い目に遭わされて退職したこと――
「わたしの兄は頭はいいけれど、弁護士になりたてだから経験が少ないの。ベテランの先輩弁護士ですらヤクザに負けたのに、兄さんが勝てるわけがない」
その上、気が弱く、優しい性格の兄は入院中の父や凜風になにかされたら困ると、すっかり臆してしまっている。
「警察も暴追センターも、積極的に動いてくれないし、父の知り合いの弁護士に頼んでも、うちの事務所の二の舞になることを怖れて突っぱねられた」
家族ぐるみの付き合いがあった、父の親友の弁護士ですら力になってくれなかった。
『凜風ちゃん。悪いことは言わない。事務所はすぐに畳んで遠くに行った方がいい。事務所が潰れるという目的さえ達成できれば、ヤクザたちが凜風ちゃんや涼くんを深追いすることはないだろう。お父さんが目覚めたら、またみんなで一からはじめればいいじゃないか』
そう言われても、父の命ともいえる事務所を、父の意向も聞かずに畳むなど、できるはずもなかった。
しかも、ヤクザが絡む悪徳弁護士という汚名を着せられたままでは、どの地でも再出発は難しいだろう。
父の親友で同業者なのに、簡単にそんなことを口にする彼を恨めしく思ったからこそ、凜風は固く心に誓ったのだ。
どんなことをしてでも、父の事務所を守ると。
「お父さんはわたしの誇りなの。ヤクザなんかに負けずに、事務所を守りたい。お父さんが安心してまた戻ってこれる場所をなくしたくないの!」
父は必ず帰ってくるのだから――強い思いを御子神にぶつけると、彼は静かに呟く。
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