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  Final Moon 6

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 ***


 東京都港区白金台――。

 恵比寿や目黒、高輪にほど近いその場所は、バブル期に「シロガネーゼ」と形容されたようにお金持ちのマダムが住まうイメージが強いが、実際は大邸宅というより高層の建物が建ち並び、お洒落なカフェやレストラン、ブティックや美容室が軒を連ねる。

 あたし達を乗せたタクシーは、外苑西通りから明治通りに入ってすぐの場所にある、洋風の大邸宅に向かった。

 高い土地値だろう場所に、贅沢すぎる広大な敷地面積と、それに比べれば小さくも思えるほどの白亜の洋館。

 明治や大正時代の館のレトロな雰囲気を引き継いでいながら、やはりどこか己の権勢を顕示したいかのように華々しい。

 自動で開いた正門を潜ったタクシーは、噴水のある中庭を横切りながら、建物の正面……いわゆる車寄せと呼ばれる屋根のついたエントランスで停まり、そこで専務と朱羽と共に降りた。

 大きい木の扉を開けると、広すぎる玄関。

 両側から色とりどりの光を差し込むステンドグラスの窓を背に、白いエプロンに黒いワンピースという、昔ながらのメイド姿の女性がずらりと並び、その中に前歯がないやにやして見ている老人、虚ろ顔の痩せ細ってひょろひょろしている若い男、そして小太りの短躯の男が端に並んだ。

 あたしが誰なのかという好奇の視線と、朱羽に寄り添われているその嫉妬の視線は、従業員として控えめながらもあからさまな悪意で。

 あたしは密やかに嫌な汗をかいた。

 


 ***


 当主は、応接室に座っていた。

 重厚な雰囲気のその空間は、よくドラマに出てくる華族の部屋のよう。

 恐らくは名だたる欧州の逸品なのだろう。

 繊細な細工が家具に施されている。

 大きな大理石のテーブルの向こう側に当主が、そして側面に専務が、あたしと朱羽は当主の真向かいに、ふたりで光沢のあるソファに座っている。

「約束は約束だ。君が本家に入ることは認めよう」

「ありがとうございます」

「こうなってしまっては真下家との縁談は続くまい。美幸のスキャンダルを君が掴まなくても」

「………」

「美幸は自室に色々なものを隠し持っているから、叩かず見渡すだけでも恐らくは、忍月にとって不利なスキャンダルの証拠が出てくる。それで陽菜さんはどうしたいんだ。スキャンダルをマスコミに売るのか? しかし忍月はそんな世論で倒れるものではない」

「答える前に、ひとつお聞きします。ご当主は、美幸夫人のなんらかの不正を知りながら、なぜなにもせずにいたのですか? 早くに芽をなぜ摘み取ろうとはしなかったんでしょう」

「………」

「美幸夫人に、なにか脅されているんですか?」

 目を背けた当主。老人特有の濁ったその目には、微かな動揺があった。

「それが解決すれば、ご当主は美幸夫人をどうしたいのです?」

「……っ」

「美幸夫人に抱いている感情は、怨恨ですか? 愛情ですか? それとも哀れみですか?」

「なぜそんなことを聞く」

「それにより、あたしの行動が変わるからです」

「なに?」

「あたしは、ご当主を追い詰めるためにここに来たのではありません」

「は……。ワシから朱羽を取り上げようとして、なにを言う」

「あたしが望んでいるのは、忍月を普通の家にして貰いたいんです。殺意や不信感にまみれた家ではなく、朱羽と専務が好きになるような、そんな家に。……あたしは美幸夫人が朱羽や専務にしてきたことを知っています。それに対してご当主がなにもなされなかったこと。朱羽をも見殺しにしたこと。それも存じ上げてます」

「……っ」
 
「本音を言えば、あたしが慕う者達の心の傷をつけただけではなく抉って塩をつけたその落とし前をつけて欲しいと思います。彼らは、ご当主達がしたことが起因で、忍月を嫌っている。だからご当主が幾ら、朱羽や専務に跡継ぎになってくれと、力で推し進めようとも、それは虫がよすぎる話だと思ってます。ふたりに忍月というプレゼントをした気でいても、結局はふたりに体のいい玩具を押しつけ、自分の望む操り人形としてしか見ていない、と」

 当主の瞳が揺れた。

「最初、そう憤りを感じていました。なぜ家族というのなら、ふたりの望む未来をあげないのかと。なにが家族なのだと。だったら、あたしの望む未来を与えようとした名取川さんの方が、よほど家族です」

 専務と朱羽の視線を感じる。

「だけど、そうしたご当主と美幸夫人のおかげで、専務は朱羽を助けるような人柄になりました。自分がされて嫌なことを朱羽にはさせるまいと、育った自己犠牲の精神が、専務にはあります。そのおかげで朱羽の心は専務に守られ、そしてあたしと出会ってくれました。もしもご当主と美幸夫人が専務を愛して朱羽を愛していたら、あたしとは巡り会うことがなかった。そう思えば、ご当主に感謝しなくてはなりません」

「………」

「すべての過去は、今に繋がるための意味のあるはパズルの欠片。だとすれば、朱羽と専務が忍月に生まれついたのも意味があると思います。そのパズルの嵌め方を、ご当主は間違えられた。美幸夫人という他人に唆された形で。あたしは、ご当主や美幸夫人を責められるだけの、おふたりのことを知りません。おふたりを非情だ、人間ではないと責められるだけの、おふたりの本当の心を知らない。そして朱羽や専務もまたそうでしょう。ご当主達は、まるで会話がなかった。ご当主は、あたしに……祖父として揺れる心があると仰せになられました。それをふたりにお伝えになっていますか?」

 当主はすっと目をそらした。

 あれだけ言っても、本家で話合いはなされてなかったらしい。
 きっとふたりは怒られたのだろう。スマホを見れないほどに。

「朱羽、専務。ふたりはこんな目になっても、それでも当主に反撃をして忍月をどうこうしようという結論にはなっていないはず。奪われたものもあるけれど、忍月だからこそ与えられたものもあるはず」
 どうかお願い。

 どうか――。
 
「どうか、話合いをして下さい。あたしは、一方的に弾劾して忍月財閥を解体させようとか、そんな気持ちはありません。だって、ふたりの実家なんですから。ご当主の孫なんですから。冷え切った関係ではなく、必ず一筋でも光があるはずです。それを見失いたくない」

 朱羽と専務が考え込んだのがわかった。

「あたしも理解したい。お祖父様にも、ひととしての優しい心があるということを。そしてあたしは、美幸夫人にもお話をお伺いしたいと思います。恐らく彼女は、同性で同じ"下民出"であるあたししか、理解出来ないと思いますので」

 ここから見る当主は、やけに年老いて見えた。

「朱羽も専務も、まず心をお祖父様に見せて下さい。なぜ継ぐのが嫌なのか、どんな心を抱えているのか。専務、いかがですか?」

 専務は当主に向き直った。

「俺の心には、美幸さんが母を生きながら焼き殺したあの残像があります」

 生きながら、焼き殺した……。

「美幸さんは笑い、そしてあなたと亡き父はそれを見て見ぬふりをした。それは俺の心の深い傷です。なぜ、美幸さんを怒らなかったのですか? 愛人であるのなら、正妻はなにをしてもいいのですか!?」

 専務の怒気を帯びた声に、胸を突かれる。

「……すまなかった……」

 当主は言った。

「誰にすまないと? 助けることが出来なかった無力な俺にですか? 違うでしょう、無念で死んだ母でしょう! 父すら助けなかった忍月に囚われる俺が、恥ずかしくて堪らなかった!」

 いつもあたし達を引っ張り上げてくれた、専務の真情。

「俺が美幸さんを抱いていたのを、あなたも父も知っていた。俺が喜んであのひとを抱いていたと思いますか!? 俺が生きるために母の敵を抱かないといけなかったその気持ち、誰がわかってくれましたか!?」

 専務の目から涙が零れた。

「女が嫌いでした。それでも吐きそうになりながら、たくさんの女を抱いていました。あなた達に弱みとして見せたくなかったから。余裕だと、親を殺されても弱ってなどいないと見せたかったから。強くないと、あなた達に殺されるから!」

 朱羽の目からも涙が零れた。
 
「だけど父にひとつ感謝したいことは、俺に弟がいたということ。俺と同じ傷と悲しみを、朱羽達が持っていたということ。それで俺は、ひとりではないと思えました。たとえ傷の舐めあいと言われても」

「それは俺も同じです、渉さん。どうしようもない母がいて、それでも俺がなんとかしなくちゃいけなくて、そのストレスに心臓発作で死に目にあったのを、渉さんが助けてくれた。母が殺されたとしても、祖父に殺されそうになったとしても、俺には渉さんがいて、ひとりではなかった」

 朱羽は当主を見た。

「俺は忍月が嫌いです。俺と渉さんの母を殺した美幸夫人が嫌いです。それを黙認して、都合のいい時だけ俺を必要とするあなたが嫌いです。だけどあなたは、渉さんを育ててくれていた。殺さないでいてくれていた。渉さんが居て、忍月があったから陽菜を引き寄せて貰えた。それだけで俺は……あなたを許せそうな気がするんです」

「朱羽……」

「俺は彼女が好きです。彼女が俺の未来を作ってくれた。彼女と共に居たい。彼女と離れたくない。彼女以外と結婚したくない!!」

 朱羽はあたしの手を握りしめて頭を下げた。

「彼女を諦めろというのなら、今ここで俺を殺して下さいっ!!」

 あたしの手が震えた。

「あたしも覚悟ができています。命をかけて、朱羽を愛してます! あたしは、身分差で諦めたくない。あなたと名取川さんのように別々の人生を歩みたくないんです!」

 当主はなにも言わなかった。
 
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