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  Funky Moon 2

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 ***


 向島専務が去った後、あたし達に残されたのは、突然発生した嵐が引き起こした無残な爪痕。

 あたしか杏奈か朱羽が、ただひとり犠牲になればいい――。

 向島専務はそういった軽い口調で言ったけれど、一丸となって会社を守ろうとしているあたし達にとっては、かなり重いものだった。

 杏奈と朱羽は会社を好転させる技術を持つ。

 だけどあたしは……。

 ねぇ、あたしは会社に価値があるの?

 そんな疑問が沸々と胸の奥に湧いている。

「やめろよ、絶対お前ら犠牲になろうなんて考えるなよ!!」

 結城が厳しい面持ちで、あたしと真っ青な顔をしている杏奈に言った。

「いいか、鹿沼、三上。お前らがいてシークレットムーンなんだよ。抜けたらそれだけで、今のチームは総崩れになる。技術的に精神的に、お前らは要なんだ」

 結城はそういうけれど。

 だけど、だけど……。

「遅くなりました!!」

 その時朱羽が乱れた髪と汗を滴らせて、病室に入ってくる。

「すみません、エレベーターが点検中だったんで階段できたので」

 あたしは自分が飲んでいたお茶のペットボトルを差し出すと、朱羽が苦しそうに笑ってごくごく飲んだ。

「朱羽、無理すんなよ? お前……」

「渉さん、俺の心臓はもう大丈夫です。後で木島くんと真下さんがこちらに来ます。それより……向島専務が来たって」

 朱羽にすぐ渉さんが電話していたらしい。

「ああ、訴訟取り消し条件に、お前か三上かカバかを向島に差し出せと。そいつが明日の夜7時、あいつのオフィスに行く……らしい」

 向島専務が去る時、宮坂専務はなりふり構わず向島専務を追いかけて怒った。だが聞く耳を持たずに、さらにこう笑ったようだ。

――俺のものを奪った罪だ。お前も苦しめ。
 
 朱羽は内容証明を持ってきていた。
 それを見てあたしは震え上がった。

「特許権侵害としてあのプログラムソフトの販売差し止めと、2600万円の損害賠償請求ですね。裁判所に提起したそうですが、この裁判所は……向島一族が司法に携わっているところですよね」

「……ああ。わざわざそこで俺達に不利に動くつもりらしい」

「無効の抗弁をしたところで、長引きそうですね」

「ああ。かなりの金が出るぞ、この訴訟の一件で。お前らが作ったものが回収されるとなると、そこからネットで向島の時のように騒がれるかも知れねぇな。もしくは向島が積極的にリークするか。それを知った顧客の信用が失墜しなければいいが」

「……私が、私がちゃんと考えていなかったから」

 杏奈は皆の前で、泣きながら土下座をした。

「私が向島に行く「それはダメです」」

 朱羽は杏奈の肩を手でぽんと叩いて、顔をあげさせる。

「なに向こうの思う壺になるんですか。鹿沼さん、あなたも。俺達はひとりも抜けることはしてはいけない」

「だけど……っ」

「訴訟したのはこちらへの威圧行為です。三上さんのほどの実力がなく、俺達の声だけに囚われたプログラムを作るような技術者が、比較して検証など出来ない。他の機関に依頼したのだとしても、この内容証明は昨日送られている。月、火、水の3日間で、俺達が暗号化したソフトがプログラムごと丸々解析されたとは思わない。三上さん、どう思います?」

「私は……」

 皆が杏奈を向く。

「俺と三上さんが作ったプログラムレベルを、三上さんが解析するのは、どれくらいかかります?」

「……杏奈ひとりなら、二週間はたっぷり」

「でしょう。俺もそれくらいだと思います。大した検証していないと思いますよ。多分、向島専務が来たのは、その脅しが正しかったのか直接様子を見に来たのだと俺は思います。もし本気で特許権に抵触する粗を見つけたのなら、差し止めの仮処分なり、断行権があるものを平行して手続きしてくるはずだ」

「つまり、ありえそうなこちらのミスを予想で拾い上げて、はったりで訴訟起こしたと?」

 結城が問うと、朱羽は頷いた。

「ええ。事後確認だと。訴訟沙汰で忍月の副社長が喜ぶ、攻撃材料にもなりますしね」
 
「確かに、あいつが出向いてくる必要はないわな」

 宮坂専務は、眉間を指で揉み込みながら言う。

「意味がなければ、あいつは自分で動かないだろう。シークレットムーンを潰す気だから、要の三人のどれか欠けても連携崩れるだろうし、三人が行かないとしても、訴訟に勝つには金がかかる。向島は財閥があるから長引いても金は出せるが、シークレットムーンに忍月は金をかけないと思っているから、資金を削っていこうとしているんだ。株主総会でそれを指摘されたら、痛いな」

 ……言えばいいのに、あたしに行けと。

 あたしはきっと、ただの朱羽のダシだ。表参道で向島専務がそんなことを言っていたのが、頭に蘇る。朱羽を操れるとか、言っていたっけ。あたしが朱羽を行かすわけないじゃない。

 杏奈も朱羽も実利を生む働きをしているのに、あたしは誰にでも出来る仕事をして技術力も営業力もない。そんな人間が必要とされてるなんて思い込んで、会社を危機にしていいの?

 昔、損害賠償沙汰にしてしまった時、本当に怖かった。結城と衣里が土下座して謝ってくれて、回避出来たのだ。

 あたしが皆の役に立ってあげられることって、向島に行くことくらいじゃない?

 シークレットムーン好きだけれど。社長となった結城を、朱羽と衣里とそして他の社員達とで支えて、月代社長と宮坂専務を安心させてあげたかったけれど。

 愛社精神だけでは、厳しい現実を打開するにはどうにもならない……すべては実力と能力次第だと、それを向島専務に言われた気がした。

 あたしが出来る最大のこと――。

 そんなあたしを朱羽はじっと見ていたのを知らずに。




 話し合いは、訴訟されるという前提で進んでいった。

 途中で木島くんと衣里も帰ってきて、話は怒気を帯びる。

 なんと木島くんのお父さんは有名な弁護士らしく、さらに衣里の知り合いが向島一族を牛耳る裁判所にいるらしく、どんな状況か聞きにでかけた。

 あたしだけなんだ、話を聞くだけでなにも出来ないのは。

 出来ることは買い出しと、社長の看病くらい。

 あたしは、静かに病室から出てコンビニで夕食を調達に行った。
 白熱していたから、きっとあたしが抜けたことに誰も気づかないだろう。

「……陽菜っ」

 ため息をついてコンビニに入ったあたしの腕を引いたのは、朱羽だった。
 
「あ、朱羽。どうした?」

 こんなに卑屈になって、向島に行こうとしていることに気づかれたくなくて、出来るだけ笑顔を作った。

「なんでいなくなった!!」

「ごめん。夕飯買おうと思って。こっちは大丈夫だよ、あたしひとりで買えるから、上に戻って」

「俺も一緒に買う」

「それくらいあたし、出来るし」

「……嘘くさい笑い顔」

「え?」

 朱羽は、お弁当をレジカゴに入れ始めた。
 横顔が冷ややかだった。

「あなたは、"いらない人間"じゃないから」

 眼鏡が照明に光る。

「シークレットムーンに必要な人間ばかり残った。どうしてあなたもその一員だって、信じ抜かないかな」

 朱羽はあたしの手首を掴みながら、飲み物もカゴに入れていく。

「なんのために、あなたはここまで頑張ってきたんだよ」

 怒ったようにして、乱暴にカゴの中に放られる。

「なんのために……俺は、シークレットムーンに来たんだよ」

「朱羽……」

「いいか、向島専務の目的は三上さんなんだ。三上さんかあなたかが向島専務の元に行くとしたら、よくて彼の愛人だ。シークレットムーンに残された俺が、嬉しいと思うか!?」

「……っ」

「いなくなったらいいのは俺なんだよ、陽菜。だけど俺は、月代社長にも渉さんにも言われた、"化学変化"を起こさないといけないんだ。それが俺に課せられた、最大の仕事だから。俺は、結城さんやあなたが出来ないことをしないといけない」

 朱羽がレジにカゴを出す。お金を支払おうとしたら、朱羽が自分の財布から支払ってしまった。

 さらにふたつになったレジ袋を朱羽が奪うようにして、両手に持った。

「あなたがいなくなるシークレットムーンなら、俺が来た意味がない」

 朱羽が誰もいない暗い廊下で呟く。

「渉さんをここまで追い詰めてしまった意味がないじゃないか」

「朱羽……?」
  
 エレベーターが来て、扉が開いた。
 中に居るのはあたし達だけしかいない。

「結城さんもあなたを心配しているから、すぐに戻るけど」

 朱羽が顔だけあたしに向け、そして腰を屈めてあたしの唇を奪う。

「俺はあなたが好きなんだ」

 切なげな顔が離れる。

「シークレットムーンのあなたを追って、ここまで来たんだよ」

 チンと音がして、目的階で扉が開く。

「明日、夜7時……夜景を見にドライブデートしよう」

「朱羽……っ」

 朱羽が必死にあたしを引き留めようとしているのがわかった。

 エレベーターから出ないため、また扉がしまる。

 視線が絡み合う。

「………」

「………」

 朱羽はやるせなさそうに目を細めると、レビ袋をその場に落とした。

 そしてあたしの後頭部に手を添えると、堰を切ったように荒く口づけてきて、舌を激しく絡め取った。

 エレベーターで、キスの音と声が重なる。
 朱羽の匂いが、あたしを包んでいく。

「……俺を頼って」

 掠れた声がエレベーターに響いた。

 しっとりと濡れた朱羽の目があたしを魅縛する。

「俺は、あなたの恋人であり、……上司なんだよ。あなたを犠牲にすることなく、ちゃんと切り抜けるから」

「……っ」

「俺を信じて。……信じろ、どこまでも俺のことを」

「朱羽……っ」

 感極まったあたしは朱羽の胸に頭を寄せた。
 朱羽の手があたしの背中に回る。

「あなたの明日の夜は俺のものだからね。ブルームーンの時みたいに、愛し合おう? 朝、あなたの手料理食べさせて?」

 耳元に、甘く熱く……囁かれる声は、この上なく魅惑的で。

「あんな男に、あなたを抱かせない。俺の……、俺だけのものだ」

 ああ……、彼の独占欲があたしの胸を突いてくる。

「好きだよ、陽菜」

「……っ」

 胸がぎゅっと苦しくなって、心臓が早鐘を打った。 
 
「陽菜、言って? 俺のこと好き? ブルームーンの時みたいに、俺のこと、好きって言って?」

「……」

「……陽菜、もう俺のこと嫌いになっちゃった?」

 あたしは慌てて頭を横に振って、朱羽の目を見つめながら言った。

「……好き」

 朱羽から仕掛けられた唇が、重なっては離れる。

「朱羽が、好きっ」

 ちゅっ。

 良い子とでも言うかのように、唇を啄まれる。

「俺の方が好きだよ、陽菜」

 ちゅっ。

「あたしの方がっ」

 ちゅっ。

「……俺を捨てて、あいつの元に行かないで」

 ちゅっ。


「愛してる――」


 キスが深くなった。


「んん……っ」

「ん……もっと舌……んっ……」

 何度も頭を撫でられ、もみくちゃにされながら、激しくあたしの口内を攻める朱羽の舌が、彼の想いの熱さをあたしに注ぐ。

 ああ、朱羽が好き。
 好きなの。

 朱羽があたしを必要としてくれている――。

 束の間の孤独感は、朱羽に癒やされ、満たされて。

 あたし達は何度も何度も、狭い空間の中で抱き合いながら、キスを交わした。


 久しぶりの朱羽とのキスは、……あたしの涙の味がした。


 
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