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  Lovely Moon 6

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 ***


 あたしが買ったケーキを思い出したのは、ルームサービスが来る前。

 昨夜ドレスに着替えていた時は、箱から雨水が染み込んで、崩れに崩れたケーキはドロドロに蕩け、無残な有様だった。

 昨日、ドレスに着替えた時点でそれでも食べようとする朱羽から奪い取って、一応はローソクに火をつけてふうだけさせて、腹を壊させまいとゴミ箱行きにしたはずだったのに、食後に氷を貰いにホームバーに行ったところ、片隅にその箱は綺麗に畳まれて置かれており、どこにもその中のブツが捨てられている形跡がない。

「ねぇ、朱羽! まさかこれ食べたの!? 食べてないよね?」

 気怠げな顔で、首に巻き付けたネクタイをしゅっしゅっと締めている朱羽に、畳まれてもカビでも生えてきそうな湿った空箱を持って訴えると、朱羽はただ笑った。

「食べたよ、あなたにあげたくないから、あなたが伸びている間に。糖分補給していたから、俺元気だっただろ?」

「食べたの!?」

「そりゃあ、プレゼントなら。ありがとう、美味しかったよ」

 そこまで大きなケーキではなかったとはいえ、あたしも食べたら腹を壊す恐れがあるからと朱羽はひとりで食べたんだろう。

 なんて律儀で優しいひとなんだろうね。

 そんな危険のあるものを食べさせて、気持ちよくて伸びていたあたしが恥ずかしい。

「お腹大丈夫?」

「大丈夫だけど、今度あなたのケーキを一緒に食べたい。今度俺の家で作って?」

「え、オーブンあったっけ?」

「あるよ、何回か使ってるから、動くと思う」

「……オーブンでなにを作ってるの? 最近作ったのは?」

 あまり使われたような形跡がなかった朱羽のキッチン。それを思い出しながら好奇心から聞いてみると、朱羽は答えた。

「渉さんと沙紀さんに、七面鳥(ターキー)を焼いた時だから、去年のクリスマスか。あのふたり、ふたりでどこか行けばいいのに、毎回クリスマスには必ず俺の家でパーティーしようとするから。あのふたりが来ると本当に賑やかで、俺こき使われるんだ」

「あはははは。専務も沙紀さんも、朱羽を可愛がっているんだね」

 朱羽が寂しい思いをしないようにと、彼らなりの愛情表現なんだろう。
 
「渉さんも、渉さんが選んだ沙紀さんも、俺の家族みたいなものだ」

 そしてそれをきちんと朱羽は受け取っている。

 今の落ち着いた朱羽があるのは、専務と沙紀さんのおかげだろうと思ったら、ちょっぴり妬けてしまった。

「だからあなたも、あのふたりを家族みたいに思ってくれたら嬉しい。俺の好きなひとが、俺の大切なひとを好きになってくれたら……」

「あたし、あのふたり好きだよ? 楽しいよ?」

「……よかった。だったら……今年のクリスマス、今から予約入れるよ?」

「え?」

「あなたと恋人同士になっても、遠慮無くからかいに渉さんと沙紀さんは来るだろうし、中々ふたりにはなれないかもしれないけど、夜はふたりになれるから。一緒に過ごそう?」

「……っ」

 まだ二ヶ月くらいあるけれど、それでもその先も傍にいてくれるんだね。

 あたしの誕生日、朱羽と過ごせるんだったら嬉しい。

「あなたはどう過ごしていたの、クリスマス」

 あたしは……結城と衣里がクラッカー鳴らして家にやってきて、いつもわいわいだった。

「結城さんと真下さん?」

「うん、そう。壁薄いのにクラッカー鳴らしたから苦情が出た」

「ふふ。だったら……、彼らがいいと言ったら、彼らも呼べばいい。俺にとって渉さんと沙紀さんが家族なら、あなたにとって結城さんと真下さんが家族なのは俺も十分わかっているつもりだから。俺もあなたもお互い過ごしてきたクリスマスがあるんだから、それを壊さないで皆で一緒に楽しめるといいね」

 結城を傷つけて朱羽の元にいるのに、そんなこと……出来るのだろうか。

 そう思えども、そうした風景を想像するだけで笑みが零れる。

「ということで、オーブンの調子を見るためにも、その前にうちに来て作ってね」

「うん……」

 愛するひとのためにケーキを作るなんて、すごく幸せだ。……だけど、朱羽の家で作る前に、必死で家で練習しなきゃ。絶対朱羽の方が料理は上手そうだから。
 

 ***

 下腕を上向きにしてカフスボタンをとめ、背広を着た朱羽は、妖艶さを潜めて理知的でクールな上司の顔になる。

 瞳から熱情を抑えて冷ややかなものになるから、あたしを求めてくれた情欲がなくなったようで寂しい気もするけれど、どこまでも掴めないこの……ミステリアスにも思える美貌の男に愛されていると思うと、やけに胸の鼓動が高鳴る。

 なんであたしなのかわからない。

 数多く美人がいる中で、選り取り見取りの環境にあるのに、朱羽は再会してもあたしだけにまっすぐ手を差し伸べてくれた。

 最初の残業の時にキスをするところを遮った結城からの電話や、歓迎会の時にあんなに必死にあたしの手を握って結城と抜けることを止めたり、満月が明けた朝あたしのマンションの前で、バルガーのプリンを持って待っていたりした朱羽は、どんな気持ちでいたのだろう。

 最初あたしは朱羽の本音がわからず怖かった。逃げたかった。

 衣里や結城に逃げ込むあたしの態度は、恐らく朱羽を傷つけただろう。

 それでもあたしは、朱羽に惹かれていた。

 そんなあたしの手を引き、あたしの過去を克服させてくれたのは朱羽だ。

 結城の話を聞いてやれとあたしの背中を押して、結城を嫌わない今がある。あたしは喪ったものも多かったけれど、それでも満たされたものも多かった。

 それはすべて、結城と……あたしにとっては突然に現われたこのひとのおかげだ。

 香月朱羽があたしを強くさせてくれた。
 彼に永遠にしたい愛を教えて貰った。

「ん、どうした?」

 聡い彼はあたしを助けてくれるけれど、あたしだって彼の力になりたい。

 マンションに彼が囚われていると行った彼の様子は、冗談に思えなかった。彼はきっとなにかに縛られている。

 強靱な精神を持つ彼を悩ますほどのなにかを。

「朱羽……、あなたのことを凄く知りたい」 

 今の大人びた姿は、朱羽というより香月課長と呼んだ方がいいのかもしれないけれど、それでもあたしはあえて名前で呼ぶ。

 何度もこの姿で、あたしに名前を呼ばせようとしたから。

 ふたりの時くらいは、思い切り。

「なに、まだ足りないの?」

 レンズ越し、朱羽の目が柔らかく細められる。

「そうじゃなく……朱羽が悩んでいることとか、あたしに話してね。あたし全力で朱羽を助けたいと思う」

 朱羽はふっと笑った。

「……ありがとう陽菜。俺が挫けそうになった時、傍で俺の手を引いてね」

 朱羽は言わない。

 あたしがなにを言おうとしているのか悟っているくせに、曖昧にしてぼかす。……それでも、挫けそうになりそうな時があるかもしれないと臭わせた。ならば、話してくれる時を願って。

「朱羽、なにがあろうとも大好きだよ?」

「俺の方こそ、……愛してるよ」

 朱羽は絶対、あたしが好きだと言ったら、それ以上の言葉で返そうとする。むきになっているようで、それに笑いが込み上げるけれど、それ以上に朱羽への愛おしさが増して切なくなった。


   ・
   ・
   ・
  
   ・


「じゃあ行こうか」 

 朱羽が差し出した手を握り、あたしは部屋を振り返る。

「どうした? 忘れ物?」

「ううん、そうじゃなくて。……この部屋を後にするのが、なにか悲しくて」

 朱羽は笑いながらあたしに言う。

「これからはもっと愛し合えるよ? 過去ではなく、未来を向いて行こう。ずっと一緒なんだから」

 そうやって、朱羽はいつもあたしに未来に向かせる。

 その未来に、居てくれてるならなにも不安に思うことはない。 

「……そうだね」

 あたし達は微笑みあいながら、何度も何度も愛し合った部屋を後にした。



 ***



 ……精算凄いことになっているんじゃないだろうか。

 現実に返れば、現実問題があたしを焦らせる。

 朱羽はフロントにあたしを立たせようとせず、行っても追い返されて、結局幾らになったのかわからない。しかも小さいながらも酒まで飲んだ。

「お待たせ」

 内ポケットに財布を入れながら、朱羽が戻って来た。

「お幾らで……」

「……大丈夫だよ、これくらいは。俺は忍月でも働いていたのあまり使ってなかったから。それに全然安い安い」

「でも……」

 朱羽は笑った。

「If I get night to love each other with you, I don't mind to pay the large sum of money.
(あなたと愛し合うための夜が手に入るなら、どんなにお金をかけても構わない)」
 
 また英語だ。

「なんて言ったの?」

「前に言っただろ? お金が気になるのなら俺の家に来て、なにか作ってって言ったんだ。愛情料理食べさせて?」

「……っ」

「男に恥をかかせない。ほら、行くよ?」

 あたしの頭を軽くぽんぽんと手のひらで叩いて、朱羽はあたしの手を握り、ホテルと棟続きになっている、あたしが契約している携帯電話会社のショップへと向かった。

 お店で朱羽に見惚れるお姉さんに何度も咳払いをして、画面がひび割れて電源が数秒で消えるスマホを出したら、保守契約をしていたためにその場で新しいものに交換してくれた。

 朱羽はあたしとは契約している携帯電話会社は違うけれど、彼と同じ機種がこちらにもあったようで、一緒にしたいと勧めてきたが、あたしのスマホの機種は出たばかりで替えたばかりだし、使い慣れたものがいいと却下。

 データは復旧できなかったが、クラウドで外部保存していた電話番号や写真データ、アプリなどを、お店のひとが取り込んでくれた。

 店から出たあたし達は、復旧できたあたしのスマホのLINEのアプリをじっと見て、おずおずと自分のスマホを出した。

「あのさ……」

 言いにくそうにして、少しだけ顔が赤い。

「LINEのID……教えて」

「うん、いいけど?」

「……やった」

 朱羽は小さい声で歓喜の声を出し、嬉しそうに綻んだ顔をする。

「え、それだけ?」

「うん。あなたは……、俺の会社のメールアドレスも知っているのに、メールとか、してくれないな……欲しいな……とか、思ってて」

 朱羽は恥ずかしそうに伏し目がちに俯いた。

「渉さんから俺の電話番号を聞いて、電話してくれた時嬉しかったのに、それから電話も来ないし……」

「大体一緒にいたから、メールや電話しなくても用件は伝えれるし」

「用件じゃなくてさ、もっとプライベートなこととか、話したいなとか思ってたから。結城さんや真下さんとみたいに」

「普通、上司にそんなこと出来る?」

「だから、早く上司じゃなくなればいいな……とか……。LINE、結城さんと楽しそうだな……とか。俺も、結城さんみたいにハートがついたスタンプ……押してみたいなとか。渉さん相手にさすがに使ったことないし、最初はあなたに使いたいなあとか」

 この生物、どうしよう。
 なんでこんなに可愛いこと言ってるの?
 
「普通にID聞けばいいでしょ? あたしだって、見知らぬひとでもないし、もったいぶらないで教えたのに」

 朱羽がLINEをしたがっているとは思わなかった。だけど確かに結城や衣里とLINEしている時、じっと見ていた。あの時、いいなとか思っていたのか。

「ナンパとか思われるの嫌で。そういう男、軽蔑されそうだし。他の女にそんなこと聞いたこともなかったし、さりげなくどうすれば聞けるんだろうとか……、どうすれば連絡できるだろうとか……」

「ぶぶっ」

「吹き出すなよ、俺あなたに嫌われたくなくて必死なんだ」

 レンズをきらんとしていた上司が、こんなに愛(う)い奴だったとは。

「朱羽、女慣れしていないというより、考え方が硬派だよね。だけど朱羽らしい。これあたしのID。専務とLINEしてる?」

「うん。大体はわかる。……よし、繋がった」

 あたしはスタンプの中で、ウサギが真っ赤になってもじもじしながらハートを差し出し"大好き"と書かれたスタンプを送った。

 すると朱羽は口元に手をあてて真っ赤になった。

「ごめん……今見ないで。俺やばいから」

「え?」

「いやその……嬉しくて」

 朱羽は背中を向けてしまった。

 ……オトメか!!

 スタンプひとつで喜ぶ朱羽を見て、朱羽から送られてきた『愛してます』と花束を差し出した猫のスタンプを見たあたしも、朱羽みたいに嬉しくてたまらなくなってしまい、背中合わせでひとり悶えた。



 ***


 外は快晴で、昨日の雨がなぜ降ったのかよくわからない。

 本当に秋の気候は気まぐれで、晴れているのにうすら寒くなる放射冷却といい、あたし以上にへそ曲がりだ。

 朱羽はトレンチコートを身につけた。裾を翻しながら颯爽と歩く様は男らしい。朱羽が左側なのは、そちらが車道だからだ。

 ドライヤーで乾かしたあたしのコートはもう完全に乾いてはいたが、思わず外気にぶるっと震えてしまったら、朱羽が繋いだ左手ごと、朱羽のコートの右ポケットに入れた。

 さらっと。あたしの中に隠れていた乙女心を刺激するようなことを、本当にさらっとする。

 レディーファーストが板についているのは、外国暮らしをしていたせいか。それでも朱羽から漂う優雅さを思えば、こういう男なのかもしれない。
 
 そうした女にとって極上の男と歩いていれば、やはり当然、通行人が振り向く。

 特に地下鉄に乗るために地下に潜ると、人の波が多くなり、狭い空間で向けられるその目が痛くて、手を離して朱羽と距離をあけて歩こうとしたのだが、朱羽の手が離れず、さらに力を入れてお仕置きとばかりにぎゅうぎゅうと握ってくる。

 この状況を見たまえ、朱羽くん。

 私鉄を待つために並んでいるこの列ですら、あちこちから見られているじゃないか。あなたは芸能人以上の美貌と、どんなにスーツで隠していても普通以上の色香がにじみ出ているんだから。

 人の波に押されるようにして椅子の前のつり革に立つと、座っているひとからも立っているひとからも、羨望と嫉妬の眼差しを一斉に浴びたあたし。さすがに朱羽もこの視線に気づいて諦めたのか、手を離してくれてほっとしていたら、その手を持ち上げてあたしの右肩を抱き、そのままあたしの頭を彼の肩に凭れさせる。

「あのね、ちょっと……」

 さすがに恥ずかしい。
 公開羞恥プレイだ。

「ん?」

「ん? じゃなく、あたし見なくていいから、今すぐ手をどけてまっすぐ立つ、普通に!」

 小声で言ったのに、手は離れるどころかぎゅっと力を込められる。

 これはドSが発動しているのか!?

 朱羽の声が耳に囁かれる。

「そんなに抵抗されたら、俺、あなたに嫌われているように思えて悲しいんだけど」

 この……一見冷たくも思える黒髪眼鏡が、そんなことを言っているとは誰も気づいていないだろう。

「俺のこと、好きじゃないの?」

「く……っ」

 それ反則!!!

 ……そしてあたしは、いい子いい子というように頭を撫でてくる朱羽に肩を抱かれたまま、目的地まで真っ赤になって踏ん張った。

 いろんな意味でドキドキが止らない。
 
 目的の駅で降りた時、軽く睨み付けて物申した。

「人様の前でなんということを!」

「だって牽制しないと」

 つらりとしながら、出口まで先導する。

「その分あたし、嫉妬の視線を浴びるんだよ!? 女は怖い集団だよ!?」

「俺が牽制したのは女じゃないよ、そんなのは本当にどうでもいいけど、むかつくなあ、あなたを見てた男達!」

「お、男……?」

 あの視線を向けていた女達以外に、男が居たのかすら記憶にない。

 だけど朱羽の言い方では、男は複数居たようだ。

「そう男だ! あなたが色っぽさを増して可愛くなったから、鼻の下のばして見てたじゃないか。だからあなたは俺のものだと見せつけてやったんだ」

 してやったりと上機嫌。

「いや、それはないって」

 ましてや色気なんか。

「あたしいつもと同じ顔だよ、それは考えすぎ」

「違うよ」

 朱羽はむくれている。

「男なら、あなたから立ち上る女の色香も、あなたが男をそそる女なのもよくわかる。だって俺、一生懸命あなたを愛して女にしたもの。元々綺麗で可愛かったけど、抱く度にますます俺を煽るように女っぽく色っぽくなっていったから俺、ひと箱使い切ってしまったんだぞ」

「ぶはっ」

 思わず赤面して、吹き出した。

「あなたをずっと熱愛中の俺の恋人だって見せびらかそうとしたけど、この分じゃ邪な視線が気に障るなあ。絶対、あなたに俺は不釣り合いだと思ってるんだよ」

 ぷりぷりして怒る朱羽。どうやら冗談ではなく本気らしい。

 あ り え な い。

 このひとどこまであたしを女神様にしてるんだろう。抱き合ってわかったじゃないか、よくて凡の女だって。

 朱羽の台詞はすべてあたしが朱羽に向けたいものだと思いながら、クールな外見に似合わず、朱羽が可愛くて笑ってしまうあたしは、端から見ればかなりのバカップルだろうなと考える。

 愛される喜びに幸せを感じながら、まだぶちぶち言っている朱羽を見て、とうとう堪えきれずに声をたてて笑ってしまった。
 
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