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Blue Moon 14
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最上階はワンフロアがレストランのようで、奥がBARもあるようだ。
入る前に耳にマイクをした黒服の店員がやってきて、一般客はお断りしていますと朱羽に言ったけれど、朱羽はカードキーを見せた上で、身を屈めた黒服の耳になにかを囁く。
「失礼致しました、香月さまですね? こちらへどうぞ」
黒服は打って変わったような慇懃な笑みを浮かべて、あたし達を中へと案内する。
中は暗い。
回り一面が硝子窓でほぼ夜景の明るさの中、それぞれの席についている照明がほんのりと各テーブルを照らし出しているようだ。
中央にはグランドピアノが置かれ、そこに座っているスパンコールを散りばめたゴールドのドレスを着た女性が、ジャズのスタンダード曲を弾いている。
「あのひとになにを言ったの?」
「予約しているって言ったんだ」
「なんで内緒話?」
「なんでだろうね」
朱羽は意味ありげに笑った。
案内された席を見て、朱羽がはっとしたように尋ねてきた。
「っと、窓の近くなら辛いよね。真ん中にして貰う?」
「ううん、今夜は大丈夫そう。前に朱羽が連れてくれたイタリアンレストランに結城と衣里と行った時はちょっと危なかったけれど、今は大丈夫。あたしの意識がしっかりしてる」
「本当?」
「うん、外が晴れているのなら、十年ぶりに満月見てみたい」
なんで今夜は穏やかなんだろう。
なんで意識がはっきりとあるんだろう。
案内係とは別のウェイターがやってきてメニューを見せた。
「日本語じゃない……」
朱羽はメニューを見たが驚く様子はない。
朱羽が注文したと思われるそれは、英語ではなかった。
「なに料理?」
「ああ、イタリアンにしたよ。本当は見栄はってフランス料理とかがいいかもしれないけれど、堅苦しいし緊張するだろう、作法とか」
「あたし行ったことないし、そんなとこ。朱羽は行ったことあるの?」
「渉さんに連れていって貰ったことがあってね。じゃあ、今度行ってみようか」
朱羽はあたしを見て笑った。
……次があるんだ。
そう思うと嬉しくなる。
「イタリアンということは、さっきのメニューイタリア語なの?」
「そうだね」
「イタリア語喋れるの!?」
「ちょっとね。渉さんほどは喋れないけど」
「ちょっとって言っても、メニューにあるのがなんの料理かも聞かないで、ちゃんとわかってあんなに流暢に発音したんでしょう!?」
「まあ、メニューくらいはわかるよ」
……絶対、このひとイタリア語堪能だ。宮坂専務が現地人のように喋れるだけで、比較対象がレベルが高すぎる。あたし何語かもわからなかったもの。
ソムリエらしき黒服がやってきて、赤ワインを大きなグラスに注いだ。
赤ワインらしいが、あたしの知る毒々しいほどの赤色や、どす黒い赤色ではなく、やや薄目の色だ。
「乾杯」
「お誕生日おめでとう、乾杯」
飲みやすい、美味しい赤ワインだった。
コンビニの赤ワインとも、衣里といく飲み放題の赤ワインとも違う。
「美味しい、これイタリアワインなの?」
「そう。バローロ・リゼルヴァ・モンフォルティーノと言うんだ。年代物にしてみたけど、やっぱり美味しいね」
呪文のような単語が出てきたけれど、あたしはさっぱりだ。
さらりと言われたけれど、あたしにはわかる。年代があるなんて、安物のワインではないんだろう。
窓の外には、星が見えた。
そして……満月も。
「大丈夫? 無理しないでね」
「うん、大丈夫。ちょっとだけ身体むずむずする程度」
すると朱羽は、伏し目がちに笑った。
「それは後で、ちゃんと治してあげるよ」
……意味するところがわかって、あたしは赤くなりながら赤ワインを飲んだ。よかった、ここにお酒があって。
朱羽は身を乗り出すようにして、テーブルに組んだ両手の肘をついた。
「あなたと来れてよかった」
照明が彼の美貌を艶めかせる。
「ここに居てくれるのが、嬉しい」
朱羽が手を伸ばして、あたしの頬を撫でて綺麗に笑った。
「これからも居てね、俺の隣に」
暗さと照明の明るさが、あたしの心をじんわりとさせる。
一ヶ月前、忘れていた朱羽が現われ正直最悪だと思った。
だけどそれから、少しずつ少しずつあたしの心に朱羽が住み着いた。
あたしは、頬にある朱羽の手の上にあたしの手を被せ、少し顔を傾かせた。
「この手、離さないでね……」
視線が絡む。
切ないくらいに朱羽が好きでたまらない。
朱羽に抱きつきたくてたまらない。
朱羽に……。
「はあ、間違えたかな、このレストラン」
朱羽が苦笑しながらあたしを見ている。
「え?」
彼は頬の手の向きを変え、あたしの手を握って指を絡ませた。
照明の下、ふたりの絡む手がやけに艶めかしい。
「あなたを抱きしめたい」
「……っ」
「この距離がもどかしいよ」
朱羽の指があたしの手を弄りながら持ち上げ、唇を落とした。
周囲の暗さも影響しているだろう。その一連の動きがあまりに神々しいほど美しくて、惚けてしまった。
「……あなたを抱きしめて、もっとキスしたい」
その感触と、挑むように見つめる朱羽の視線だけで、満月に疼く身体が限界だと甘い悲鳴を上げそうだ。
「あなたに触りたい」
熱い身体はじんじんして、彼に触られたくて仕方が無い。
だけど理性があるから、ここでは我慢するしかないのがやけに辛かった。
「お待たせしました。サラダでございます」
やがて料理が運ばれ、少し正気に戻る。
サラダの後には、ポタージュスープ、うにの濃厚スパゲティー、仔牛のフィレ肉と旬の野菜とホタテのソテー、そしてデザートはキャラメルとアールグレイのアイスだった。
こんな美味しい料理を、好きなひとと微笑みながら食べられる幸せは夢見心地で、視線が絡むと無性にキスをしたくて、あたしから目をそらしてしまう。
流れてくる切ないジャズナンバーが、さらに恋しさを募らせる。
気持ちが溢れて、想いを伝えたくなったあたしに、朱羽はそれを知ってか知らずか、微笑んで言った。
「あっちのBARに行こう。ペア席をとってる」
朱羽が示したペア席とは、窓際を正面にした、他三面コの字型に仕切り戸で区切られたボックス席のような場所だ。
出されたメニューは英語とカタカナだったから、今度はあたしも読めた。
その中に、"ブルームーン"というものがある。
「朱羽、ブルームーンだって。あたしこれにする」
「……違うのにしない?」
朱羽はなにか乗り気ではないようだ。
だがあたしは、今夜の記念にしたくてブルームーンを強行する。
「そっか……。まあ俺が話す後なら嫌だけれど、前だからいいか」
「え?」
朱羽はブルームーンとドライマティーニを頼んだ。
「マティーニ、渋いね!」
「ちょっと、景気づけ」
「景気づけ?」
どこかでシェイカーを振るシャカシャカと音がする。
雨は完全に上がったようだ。
満月は真ん前にあり、どこか青白く見えた。
いつもはあたしに邪な力を与えてきている気がするのに、今夜はなにか見守っている気がして仕方がない。
「満月は心理面に影響があるというのなら、やはりあなたの心境が変化したんだと思うよ」
朱羽はあたしの腰に手を置き、引き寄せる。
それまで開いていた距離が急に縮まり、膝がコツンとあたる。
それだけなのに、はしたなく声を上げたくなる。
「お待たせしました。ブルームーンと、ドライマティーニになります」
あたしの前におかれたブルームーンは、紫色のカクテルだった。
「確かブルームーンは、ジンとバイオレットリキュールとレモンジュースで出来ていたと思うよ」
朱羽はオリーブが入った透明なカクテルを口に含む。
かなり辛口のジンのはずなのに、ごくりと三分の一は喉奥に落としたようだ。
あたしも綺麗な紫色のカクテルを口に含んでみる。
「美味しい!」
「本当はね、俺……ポートワインを一緒に飲もうと思ったんだ。俺が勧めてあなたがそれを飲めば、さらに縁起がよくなるから」
ブルームーンを飲みながら、目を瞬かせた。
「縁起ってなに?」
朱羽はほんのりと目元を赤くさせて言う。
「ん? 告白の成就」
思わずあたしはぷっと吹き出し、紙ナプキンで口を拭う。
「ちなみにブルームーンは、断りのカクテルなんだって。だから俺、カクテルの意味を無視して景気づけのマティーニ飲む羽目になった。誰かさんのせいで」
拗ねたような声。
膝で膝をガツンガツンと叩かれる。
「な! そんなこと知らないし!」
「知っていたら、たまったもんじゃないよ」
朱羽の手があたしの肩を引き寄せ、あたしの頭を彼の肩に凭れさせた。
しばしぼんやりと満月を眺める。
満月をこんな風に見ていられるなんて、不思議な気分。
だけど、もっと朱羽に抱きつきたい。
お酒のせいもあるかもしれないけど、もっと朱羽に触りたい。こんなに近い距離でぼんやりしているくらいなら、キスをしたい。
キスをして、好きだっていいたい。
あたしのものにしたい。
「ごめん、もう限界。今まで我慢していたこと、話していい?」
朱羽があたしの頭の上で頬擦りしながら言った。
「ちょっとだけ、昔のこと話していい?」
頭を優しく撫でながら尋ねてくる朱羽。
あたしは朱羽の肩に頭を凭れさせたまま、頷いた。
ゆったりとしたスローテンポで奏でられるもの悲しげなジャズ。
まるで誰かがチークダンスでも踊りそうな雰囲気の中、朱羽は手だけを伸ばすと、またマティーニを口に含んだ。
暗いBARの中、真上から垂れる落ち着いた色合いの照明が朱羽のもつカクテルグラスに反射して、星が散ったように幻想的に思えた。
朱羽の横顔がとても綺麗で、まるで星の王子様だなんて考えたあたしは、朱羽に凭れながら、ひとり声を立てずに笑う。
「俺ね……」
微かに酒気を帯びた吐息まじりの声は、朱羽自身が漂わせる匂いに混ざりとても甘く、あたしの身体の中の女の部分を刺激する。
「父親は知らないし、母親がちょっと男に目がなくてね。俺……昔から大人にも子供にもいい目で見られてきたことがなかったんだ」
朱羽の心の吐露。
朱羽はセレブに生まれて、セレブに育っていたと思っていたあたしは、軽く驚いた。
「そうなんだ……」
「うん。だからひとりしかいない親に頼ったり甘えたりできなかったから、荒れた結城さんの気持ちがよくわかる。片親だというだけで、同年代の子供からは馬鹿にされるんだ。それでも子供って、友達と呼べるものが欲しいものだろ? だから自分の心抑えて相手に合せていた。楽しいなんて思えなかった」
「………」
「俺の母親は、金にもだらしなくてね。お金なんてないはずなのに、俺に学歴だけをつけさせたかったのか、私立の中学校に行かせたんだ。俺の学費だけはちゃんと出してくれて」
朱羽は伏し目がちに笑う。
「それが母なりの愛情なのかなと思ったから、言い出せなかった。同級生のレベルがあまりに違い過ぎて、肩身が狭い思いをしているなんて」
九年前に見た朱羽の写真。
あの制服は名門私立のものだったけれど、どれだけお金がかかるか見当もつかない。各地からの名士の子供が集うあの学校は、偏差値だけではなく暮らしのレベルも高そうだ。
「だけどやっぱり、そうした格差を見抜いて王様になりたがる奴はいて、低い奴らを奴隷のように扱ってね、表面的には友達ぶるけど、裏では酷くて。あの頃はしかも裕福層なら、身体を傷つけるということはなかったんだけれど、うまく万引きをさせることが流行っていて」
朱羽は自嘲気に口元を歪ませた。
「なんでも買える身分に生まれついているのに、そいつらが欲しい些細なものを盗ませてくるんだ」
あたしはじっと朱羽の横顔を見つめた。
「うまくいけば仲間はずれにしないでくれるけれど、うまくいかないと犯罪者だ。俺、そういうのが嫌で、万引きさせられないようにうまく取り繕ってきたんだ。へらへら笑ってね」
「うん……」
「それが面白くなかったんだね、ある時一緒に入ったコンビニで奴らが俺のかばんに未精算のプリンを入れたんだ。俺が気づかないうちに。それで奴らが先に外に出たから慌ててついていこうとしたら、店長に呼び止められた。勿論、万引きの疑いで。カバンから出てきたプリンを俺は入れていないと言ったけれど、その店長は信じてくれなくて。店長の背後の硝子の向こうで、奴らが腹を抱えて笑い転げていた。店長は警察を呼ぶと言って、奥の部屋につれて行こうとしたんだ」
あたしが居たコンビニでも、学生が多く訪れてその後特に万引きの被害が多かった。だから店長は、学生服を着た客が入ってきたら、目を光らせていて。
「店長は見ていなかったの? 朱羽が陥れられたことに」
「うん。店長の怒りは凄まじくて、俺は違うと言っているのに信じてくれない。……その時ね、ちょうど客もいなかったこともあるけれど、レジで立っていた店員さんがやってきて、俺がちゃんと会計をしていたと言ってくれたんだ。俺が要らないと言って受け取らなかったという、レシート持って」
「へぇ。だけど会計はしてないんでしょ?」
「そう。その店員さんは俺が店長に捕まっている間、先にレジを打って、自腹を切ってプリンを買ったレシートを作ってくれた。それで店長を退けてくれたんだ。自分は間違いなく俺がプリンを買った時にレジをしていたと」
朱羽の顔に柔らかな笑みが浮かべられていた。
「そのひとは俺から事情を聞いて、こんなことをさせる奴らとは友達じゃないから切れと言った。そのひとは奴らが俺のカバンに入れた瞬間は見ていなかったみたいだけれど、それでも俺はやっていないと信じてくれた。感動した俺がお金を払おうとすると、笑って言ったんだ」
"あたし、バルガー限定のプリン大好きなの。これ、お姉さんのおごり。ちゃんと代金は払っているから安心してね"
どきりとした。
その台詞に、ひっかかる記憶があったのだ。
訝るあたしに、朱羽が顔を見せる。
「あなただよ、陽菜。俺はあの満月の夜より半年以上も前から、あなたに会っていた。あの時、俺は笑うあなたに一目惚れをしてしまったんだ」
切なそうな表情で。
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