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  Waning Moon 10

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 ***


 月曜日――。

 社長のOKが出て、翌日の午前十時十四分に東京駅を出発する新幹線で、N県の「やじまホテル」に赴くことになった。

 帰りは六時くらいまでの新幹線で東京に戻ったら、そのまま社長の入院している病室に行き、社長に直接打ち合わせ結果を報告しようと、課長と話している。


 月曜の夜は家に帰されたあたしと課長は、火曜日の朝、病室で待ち合わせ、社長にふたりで挨拶をする。遠回りにはなるが一度会社に立ち寄り、皆の激励を受けながら、課長と共に東京駅に向かった。

「今日はあいにくのお天気ですね」

 指定席を取り、あたしの横の窓を見ながら、あたしは課長に声をかけた。

「雨に降られないうちに帰れればいいですが」

 課長が腕組しながら言った。

 窓と課長に挟まれて、なんだか居たたまれないような気がするあたしだが、課長が窓側の席はあたしが座るように強く勧めたため、あたしが座った。

 いつも隣の席とはいえ、机に隠されていたからその距離感はあまり意識したことはなかったが、こうして足が触れあいそうな距離を目で見てしまうと、なんだか緊張してきてしまう。

 しかも通路側ではないから、足の逃げ場がない。

「その靴、またはいてきてくれたんですね……」

 課長が静かに笑った先はあたしの足元……課長がプレゼントしてくれた靴がある。

「はい。気合い入れようと」

 朝迷いに迷ったけど、履いてきた。

 ……課長の家に行ける状況でないことは、お互いわかっているはずだから。

「日曜日は連れ帰れず、昨日は履いてきてくれなかった。出張の今日、履いてくれたのなら、あなたと泊まりがけにすればよかったな」

「……っ」

「……。今からでも間に合う。宿をとらないか?」

 お互い顔を合わさず、課長はどこまでも冗談のように。

「……ごめんなさい。仕事ですので、日帰り出張にしたいです」

「そうだよな……。こちらこそ、変なこと言ってごめん。……忘れて」

 ……新幹線が発車した。  

 

 新幹線は静かに走り速度をあげ、窓から見える景色が早送りになる。せっかく窓側にしてくれたけれど、目がちかちかして通路側を向くことにした。

 談話のざわめきが周囲から聞こえてくるが、ダークグレー色のスーツ姿の課長はなにか考え込んでいるのか、通路側の肘掛けに肘を置いて、その手の上に憂いある端麗な顔を乗せたまま、静かだ。

 畳んだベージュ色のトレンチコートを膝元に起き、その上に片手を乗せながら、その長い足はさりげなく斜めに組まれ、ピカピカの細身の黒い皮靴が宙に浮いているその姿は、美貌のエリートサラリーマンそのもので。

 なんでこのひとモデルにならなかったのだろう。

 仮に大手紳士服のモデルであっても、こんな写真を見たら男達はこぞって同じスーツを買いに来そうな気がするのに。

 しばらく会話がなく、あたしは明るい声を出した。

「課長、喉渇きませんか?」

「大丈夫です」

「お腹はどうです? お菓子食べませんか?」

「いいえ、こちらはお構いなく」

 こちらを振り向きもしないで、素っ気ない言葉だけ返る。

 こんなに近いところに足も手もあって、ちょっと伸ばせば触れあう距離にあるのに、離れたままのこの距離がドキドキするほどもどかしい……なんて、意識しているのはあたしだけだ。いつも奪われるように手を握られていたから、ふたりきりの時になにもされないのが寂しい……なんて、あたしアホか!

 違うの、作戦練るなりなんなりして気を紛らわせていたいのよ。

 遊びにいくわけでもないのは十分わかっているけれど、やはり社命かかったところへ契約取りに行くのはあたしも怖いのだ。

 契約を考えておいて下さいではなく即断を求めるには、相手が納得出来る理路整然としたものを提示しないと駄目だ。

 あたしはそれが出来るのだろうか。
 不安でたまらない。

 なんで結城か衣里かと課長のタッグじゃ駄目だったんだろう。彼らならきっとうまくまとめるというのに。
 
 実は課長がくれた靴を履いてきたのは、願掛けでもある。

 取引がうまくいきますように、と、打ち合わせがうまく終わったら、発作が始まった……あたしの嫌いなN県の地で、課長に満月のことを打ち明けようと思ったのだ。

 金曜日まで日がないし、会社状況がどう変わるかわからない中、そんなことをじっくりと打ち明けられる、ふたりだけの時間は多分もうない気がする。病室だって、社長がまだ回復していないのにそんな込み入ったことを言うのは憚られる。そう思ったら……今日のこの出張しか、話し合えるチャンスはないのだ。

 行きである今は駄目だ。あたしの核心を語って平然としていられない。それに課長に嫌がられたまま営業など出来る気がしない。

 だから、もしも課長がこんなおかしな性癖を持つあたしを受け入れてくれるのなら、一緒の新幹線で帰り、もしも蔑まれ嫌われたのなら、あたしはひとりで遅れて新幹線に乗って帰ってこようと思ったのだ。

 あたしが勇気を出さなければ、金曜日まで時間だけが無駄に経つ。会社も危機ばかりで、そちらに気を集中させたいためにも、いい加減結論を出さないと駄目だ。

 約束した通り、3日後に迫るブルームーンを課長と一緒に迎えるためには、課長に満月の時のことを理解して貰わないと駄目だ。それを言えない状態では課長の下に行けない。結城の言うとおりに。

 もし課長に嫌われたとしても、結城に友達で居て貰うために……もう満月の時は頼まないつもりだ。課長に惹かれているこの気持ちごと課長に拒まれたから、結城に抱かれながら同じ気持ちが移行出来るほど、あたしは恋愛体質でもないし、単純には出来ていない。

 課長が駄目だからと、結城の愛情を利用して、今まで通り満月に傍に居て貰うなんて、虫がよすぎる話だとあたしでも思うから。

 結城を解放する――。

 同時に結城を頼りすぎたあたしを立て直した上で、あたしは結城と誰よりも強い友情を築きたい。結城を支えたい。もしも社長に万が一のことがあり、その遺言を実行しないといけない時は、あたしが結城を社長の座に押し上げる。誰よりも理解した友として、なにがなんでも。



 ピロンと機械の音がした。

 バッグからスマホを取り出すと、今まさに思考の話題の中心に居た結城からのLINEだ。

 "緊張してねーか? 駄目元だ、俺が必ず挽回するから、思い詰めるな"
 
「……っ」

 くっそ~。結城は本当にいい奴だ。

 いい奴だから、心が苦しくなる。結城が求めている……課長に対するように、否が応でも惹きつけられる気持ちになれないことに。

 こんなに助けられて心がポカポカするのに、なんで課長にしか、触られたいと思わないんだろう。なんで……こんなに僅かな距離でも、開いているのを焦れったく思うんだろう。

 こんなことは結城には思えないのだ。今も昔も。

 満月以外にでも、ボディタッチだって普通にあったのに、課長のように触られないと意識することはなかった。

 結城に抱かれているのに、結城に触りたいと思わなかった。

 ……苦しいよ。

 結城が嫌いなら、楽なのに。
 
 涙が出そうな思いで、それを悟られないように明るく返信した。

 "ありがとう。実はガチガチ"

 "香月と馬鹿話してろ。愛の話は駄目だぞ!"

 "はは、愛どころか課長は、ロダンの彫刻「考えるひと」。こんな上司を横に、寝るに寝れないこの難問、君ならどう解くかな?"

 しばらくしてLINE上に写真が送られてきた。

 ぶっは。なにこの変顔!

 しかも手にA4のコピー用紙なのか、よたよたした字で(多分左手で書いたと思われる)「ヒナちゃん、ふぁいと~!」と書かれてあるものを手にしているのが、余計笑いを誘う。

 結城はどこでこんな白目剥いた変顔を自撮りしてるんだろう。イケメン台無しじゃないか。

 あたしは笑いを堪えるのに必死だ。

 "今真下が帰ってきて、速攻ででかいところのとって来やがった。俺もこれから戦いだ、引き下がらない。お前も頑張れ。健闘を祈る"

 そう書かれたものを見ていた時に、衣里からもLINEが来た。

 "陽菜~! 私大きいとこ取ってきたよ! すぐ関連会社に紹介してくれるって。私営業頑張るから、あんたは肩の力を抜くんだよ。全部課長にせいにして任しちゃえ(笑)"

 ふたりに励まされる。

 大丈夫、あたしは出来る。きっとうまく行く。

 スマホを額にあて、拝むようにして自分に言い聞かせた。

 そして顔を上げ密かに深呼吸。

 よし!

 ……視線を感じて横を向いたら、課長が気怠げな顔でこちらをじっと見ていた。

「随分楽しそうだけれど、結城さんからですか?」

「結城と衣里からです。あたしの緊張を解こうとしている、励ましのLINEで。そうだ、衣里が大きいところ、契約とってきたようです」

「……」

 課長の目が細められ、なにか言いたげだ。

「課長?」

 すると課長は眼鏡を外して、目を揉み込んでいるようだ。

 疲れているんだ。

「課長、考え中のところ邪魔して失礼しました。どうか引き続き」

 課長の眼鏡は元の正しい位置に戻って、いつもの涼やかな顔が苦笑の表情を作る。

「私の癖なんです」

「はい?」

「あらゆる事態を想定してシミュレーションをするのは。私も、任されたものは責任重大だと自覚していましたので」

「は、はあ」

 さっきまで無口だったのに、今度は一転して課長は喋る。

「私は気負いすぎていたようです。あなたに負けないようにしようと思うあまり、あなたが緊張しているということを見抜けなかった。いつも通りで出社してきて、皆さんにガッツポーズを見せて会社を出ていけるほど、あなたは平気なものと」

 いやいや、あたし同期のようなミラクル優秀な営業じゃないし、ノリっちゅーもんがあるでしょう。皆に声援受けて、「いや、実は課せられた責任の重さにびびって昨日あまり寝れていないんです」なんて言えないでしょう?

「あなたが緊張していたのなら、まずそこに気づくべきだった。……結城さんも真下さんも、あなたが緊張していると悟って激励したというのに、私は隣に居るのに自分のことばかりで、……自己嫌悪です」

「つまり……」

 あたしは数回目を瞬かせながら言った。

「課長も緊張している、と?」

「……恥ずかしいですが、正直、いつも通りとはいかない」

 口元だけが嘲るようにつり上がる。
 
「え? 出張命令下されてからさっきもだって、全然平然といつものように、キランと眼鏡のレンズ光らせていたじゃないですか。昨日社長にも、"必ず取ってきます"の勝利宣言してるし」

「そりゃあ必ず取りますよ、取るためにあなたとタッグ組まされたのなら、余計意地でも取ってきます。だけどそのキランと……の下りは……」

「ああ、余裕ぶっこいて上から目線、と言う意味です」

 課長の表情が微妙に歪んだ。

「はぁ……課長も、緊張してたんだ」

「……私は技術畑ですから。人付き合い苦手だし。……わかっていると思いますけど」

「ふふ」

 口から笑いが漏れて、肩から力が抜けた。

「笑わないで下さい。ああ、もう恥ずかしい……」

 課長が顔に大きな片手をあて、横を向こうとしたから、その腕を掴んで笑った。

「ありがとうございます。……おかげさまで、あたし緊張取れました」

「……私は自分のことを話しただけですが、あなたの緊張がとれたのならよかったですね」

 とぼけながら、その笑みは柔らかい。

 このひとは聡い。

 黙っておけば、泰然とした頼りがいある上司ですんだのに、自らをさらけ出して、あたしはひとりではないと安心させたのだ。

 もしかすると緊張していないのに、緊張していると言ったのかもしれない。人付き合い下手だと言いながらも、こうしてあたしに合わせてくれるさりげないところに、胸の奥がとくりと鳴る。

 あたし、このひとがいい。
 このひとにあたしのすべてを理解して貰いたい。

 そう思ったら、目頭が熱くなる。

 久しぶりのこの気持ち。

 失望させたくないけれど、失望されるかもしれない。隠し通せるのなら、隠し通したい満月の秘密。だけどあたしは、彼に理解して貰いたい。

 そう切実に思うから。
 


「……くしゅん」

 思わずくしゃみが出てしまったあたしに、課長が自分のコートをあたしの足元にかけてくれた。

「まだ寒いなら、私の背広……」

「大丈夫です。暖かいです」

 あたしは笑いながら、課長の匂いが香るそのコートを両手で少し持ち上げるようにしてかけながら、コートの下から伸ばした手で課長の手を取り、ぎゅっと握った。

「……鹿沼さん?」

 せいいっぱいのあたしの勇気。
 こんなことするの初めてだから、ドキドキしすぎて手が震えた。

 どうか打ち合わせがうまくいきますように。
 どうか課長が理解してくれますように。

「……勇気を下さい」
 
 課長とブルームーンを過ごしたいの。

 どうか、本当のあたしを知っても嫌わないで。

 そんなあたしの思いに反応したように、課長が手の位置を変えて指を絡めてきた。それだけで、愛撫されているように身体が甘く痺れる。

「……俺があげられるものなら、すべてあげる」

 上司モードをやめ、甘く囁くように。

「あなたの傍に居るから、だから安心して」

「……はい」

 帰りの新幹線、あなたは隣に居てくれますか?


 涙が出そうになるのを誤魔化すために、目を瞑って寝たふりをした。
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