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  Waning Moon 9

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 ***


 日曜日――。

 あたしは木場のシークレットムーンに居る。

 土曜日に来た衣里に言われたのだ。

――……陽菜。私、1日でいいから、社長のお世話をしたいの。

 あたしの服の裾をぎゅっと掴んで、およそいつもの衣里らしからぬ頼りなげな声で、衣里はあたしにそういった。

 社長の容態は安定はしてきたが、もともと身体はががんに冒されている。いつどうなるかわからない……それを衣里は覚悟して、社長の元気なうちにふたりの時間を作りたいと言ってきたのだ。

 あたしはその気持ちが痛いほどよくわかった。

 それでも衣里の身体まで壊れるのが心配だったし、衣里も会社の戦力だから、日曜日丸一日だけを衣里に任せることにした。それからは分担して衣里だけがつきっきりの時間は極力避けたい。

 あたしは土曜日に来た結城と課長に、日曜だけ衣里に任せたいと言ったら、ふたりはなにかを察したのか、了承した。

 衣里に、もしも社長の容態が変化したりしたら、必ず電話することを約束して、日曜日は一時解散して、各々自宅でこれからの戦闘に備えて、僅かでも身体を癒やそうということになった。

 けれど、会社が気になり、あたしはお風呂に入った後、木場に向かったのだ。

 日曜だから白いワンピースに黒いカーディガンを羽織り、髪を伸ばしたまま、誰もいないだろうからと課長がくれた靴をはいた。

 課長が傍に居るようでくすぐったい心地になる。

「あれ、電気ついてる」

 既に開かれているドアを開けると、こちらに来る人物がある。
 
「あれ、主任も来たっすか?」

 木島くんだ。

 なんだかんだと木島くんとは毎日、電話だのメールだのやり取りしてる。まるでカレカノみたいだが、木島くんがマメなだけだ。なにかに取り憑かれたかのように、詳細に報告してくる。

「あれ、木島くんも? 今日は休養日だって言ったわよね?」

「休養するなら会社に居た方が落ち着くっす。やらなきゃならないことは一杯っすから。あ、だけどそう考えたのは俺や主任だけじゃなかったみたいっすよ」

「え?」

 ……木島くん、ガタイがいいのはよくわかったから、アスリートみたいなその伸縮性に優れているんだろう銀色のシャツを素肌に着るのはやめようよ。乳首が尖っているのがわかるよ、なんで尖らせてるんだよ、目のやり場に困るじゃないか。

 元チクビー部木島と呼ばれたいのか!?

「鹿沼、来たのか」

 木島くんの卑猥シャツに目を泳がせていたら、木島くんの後ろから、普通の黒いストライプのTシャツを着た結城が喜んだ顔でこちらに来た。よかった、奴までそんな服着ていたら、あたし帰ったところだ。

「もち。なんだ結城も来るんなら連絡頂戴よ」

「お前を寝かせてやろうと思って、連絡しなかったんだわ、すまんすまん」

「木島くんと結城が居るんだったら、なんか食べ物作ってもってくればよかった。チロルチョコも用意してないよ」

「あははは。まだ居るぞ?」

「え?」

 仕切りで覆われたミーティングルームが騒がしい。
 覗いて見れば、社員が集まっていたのだ。

「なに、集合かけたの?」

「いや、皆が自発的に来たんだよ。会社の危機に、休んでいられるかって。WEBも営業やるってさ。取り急ぎWEBでの作業が急ぎでない奴は、香月が作ったタブレットを持って営業に。営業が苦手だというやつは、営業ひとりつけて」

 感動した。

 なにそれ、なにそれ!!

「結城……、なんか凄いよ。皆凄いっ!! ここまで一致団結したなんて、千絵ちゃんに感謝しなきゃ駄目じゃない」

「結果的にはな」

 あたしはきゃっきゃとはしゃいでみんなに声をかけた。

「主任ですか!?」

「うわ、やっぱり雰囲気変わる」

「なんですかそのエレガントさ!」

「髪下ろすとそんな感じなんですね」

「主任はそっち系でよかった」

「本当によかった」

「結城。髪下ろしてスーツじゃないとあたし雰囲気変わるの?」

「上目遣いをして俺に聞くなよ、……ああくそっ」

 結城が頭をがしがし掻きながら、輪の中に戻った。

 結城がミーティングルームの楕円形の机に両手を置いて立ち、身を乗り出しながら言う。

「目標は百じゃなく、二百だ。今社員は全部で20人弱。ノルマは営業はひとり八件、それ以外はひとり五件。営業進捗情報はタブレットの顧客情報を見ること。契約を取ったら、仕事も忙しくなる。香月と鹿沼も忙しくてあてにできなくなっても、営業かけもつWEB大丈夫か!?」

「大丈夫っす! あのタブレットがあれば好みがわかるから、分担作業にすぐ入れますから! 俺達、団結してますから。な!?」

 木島くんと、他残った四人のWEB部所属の子達は力強く頷いた。いつものようにマニュアルがないと動けなかったぼんやりとした目つきではない。そこにははっきりとした意志が見える。

 そうまで決意させたのは、千絵ちゃんのおかげか木島くんのとりまとめのおかげか。

「よし、じゃあWEB。皆でまた木島の胸を触ってやれ」

「は、はあ!? もう要りませんから、結城課長、結城……ふぁん」

 ……結城か! 木島くんの胸を興奮させたのは!

 しかし、こんなところで感じて変な声出すな、チクビー木島!

 笑い声が溢れるのは、結城がアホなことで木島くんを弄っているからか。

 ……嬉しい反面、凄く悔しい。

 あたしのいないところで、こんなに団結しているなんて。
 この空気を、あたしが創り出したものではないなんて。


 課長のタブレットは、複数の人数の分担作業に向いている。

 誰が説明しなくても、一目瞭然でなにをすべきかわかる。つまりあたしの仕事がなくなったわけだけれど、あたしは指揮以外の仕事を出来るようになったわけだ。たとえば社長に言われたところの営業など。

 土曜日、課長と結城が病室に来た時、社長がN県への営業を説明した。

 結城はN県ということで渋っていた。

――俺がついてっちゃ駄目か?

――お前LINUXも使えないのに、プログラムのことを聞かれて答えられるか? 向こうはかなりマニアックなことを聞いてくる。俺が忍月の現役の頃でも、かなり手強かった相手だ。忍月の副社長でも納得しないで、社長が赴いて一ヶ月通わせた。その上で専門的な知識を試しに俺が呼ばれた。睦月の話術程度で、どうにかなる相手じゃないぞ。

――社長が出ないといけねぇ相手で、香月と鹿沼で大丈夫かよ。

――託すしかない。猶予期間を出来るだけ抑えるのなら、香月の知識が向こうを抑えられるかにかかっている。それでも駄目なら、俺が行く。

――そんな身体で、また倒れたらどうすんだよ。

――その時のことはちゃんと考えてあるから大丈夫。うちの未来のためには、どうしても顧客にしておきたいところだ。 

――しかし、N県かぁ……。

――まあそこは反対方向だし、ふたりは日帰りだ。鹿沼もひとりじゃないし、おかしなことにはならんだろう。

 社長の説得で結城は了承した。

 今はとにかく営業をかけて顧客数を伸ばさないといけないのだ。それでなくとも貴重に課長をあたしとの営業に遣ってしまうことが忍びないが、病み上がりの社長の手を煩わせて課長と行くからは、どんなことをしても契約してくるつもりだ。

 席に着いたら、隣の課長の席に背広が置かれてある。

 課長も来ている?

 ……昨日、土曜日に回る営業があると、結城と課長はすぐ出て行ってしまった。
 
 だけどすれ違いざま、課長とあたしの指が絡んだ。
 偶然ではなく意図的だとわかったのは、絡む指の強さが大きくなったから。

 指に宿った熱は、胸の奥にも伝染して。
 彼の匂いが鼻を掠めた。

――ではまた明日。

 熱と匂いが消えたことが、寂しかった。
 
「やだ、靴……」

 いないと思ったからはいてきた靴。これだったら、誤解されちゃう。

 そう思っていた時、サーバー室から課長が出てきて、中から――。

「誰!?」

 ストレートの長い髪をした、目鼻立ちの大きい華やかな美人が現れた。

 大きな胸ときゅっと絞られた腰を強調するような……ピンクのニット地の太股も露わの扇情的なミニ丈のワンピースと黒い長ブーツ姿で現れ、課長の腕を引いて、再び中に連れ込んだのだ。

 なんで皆あんなのを入れたの?
 うちの社員じゃないじゃない。
 なんで放置してるのよ。

 課長が、あの肉食美女に食べられちゃう!!

 あたしは慌てて走ってサーバー室に入り、

「あなた誰よ、課長をどうする気!? 課長は渡さないっ!」

 ワイシャツ姿の課長をぎゅっと抱きしめながら、怒鳴った。

 すると――。

「あ~鹿沼ちゃん。ち~す」

 聞き慣れた舌っ足らずな声で喋り、愛くるしい笑顔を見せる美女がするそのポーズは。


「え……まさか、杏奈?」


「ピンポーン、鹿沼ちゃん正解。杏奈、すっぴんできちゃったから、やっぱりわからなかったか。皆も腰抜かすほど、杏奈のすっぴん凄いみたい。まあいいや」

 いやいや、すっぴんは関係ないよ。

 いつものロリ姿より違和感がある。人間、奇抜な姿に慣れてしまえば、極上の素の姿は受け入れられなくなるものなのか。

 しかもこれですっぴん!

 大きなおめめとくるりとカールした睫。
 通った鼻筋に、小さめのピンク色の唇。

 なにより白い肌がもちもちに見える。

 嘘だ。これがあたしより年上のはずはない。

 あたしも腰抜かしていいですか?
 
「本気に杏奈!?」

「そうだよ」

「そんなに美人さんなのに、どうしてあの格好!?」

「好きだから」

 即答だ。

「でも時間かかるから、髪も巻かないで、今日はラフな姿で来たんだ~」

 ラフというか、まるきり別人でしょう。

 今までいかに格好ばかりに目をやって、けばい化粧をしていた杏奈の顔をよく見ていなかったか。杏奈の素顔は、芸能界入りができるほど極上だ。

 悔しいくらいに、課長とお似合いの美男美女。

「それと鹿沼ちゃん。別に杏奈、香月ちゃんをどうこうしてないから。プログラムを見て貰ってるの。……もう、香月ちゃん好き好きなのはわかったから、杏奈に目の毒だよ~」

「は?」

 好き好き?
 誰が? 誰を?

 軽い咳払いが聞こえた。

「……鹿沼さん。誤解が解けたのなら、離して貰っていいですか?」

 少し顔を赤く染めた課長が言った。
 途端ふわりといい匂いが漂う。

 あたしの両手の中に課長がいる。
 ……あたしが抱きしめている。杏奈の前で、課長を渡すものかと。

「――えっ? は? ご、ごめんなさ……」

「付き合っているんだから、ごめんなさいじゃないよ、鹿沼ちゃん。香月ちゃんも自分から振り解こうとしないの、うっきゃーっていう感じ。まあ、今日はお仕事日じゃないし? 杏奈黙ってるから、杏奈が胸焼けしない程度に、お願いしまーす」

「はい、よろしくお願いします」

 ちょっと! なに肯定しちゃってるのよ、課長さん。
 
「ちょ、いや、あの、杏奈、その……」

 必死で弁解しようとするあたしなどお構いなしに、横を向いて椅子に座った杏奈は凄まじい集中力でモニターを見ながら、カタカタとキーボードを打つ。

「あの……杏奈ちゃん?」

 聞こえていないようだ。

 カタカタカタ……。

 弁解が空回り呆けるあたしの手に、課長の手が触れた。その瞬間、奪うようにして手を握られ、ぐいと素早く課長の後方に持っていかれ、杏奈の目から隠された。

「――っ!!」

 課長の身体の後ろでは、課長の指が絡んで、イケないことをしているような緊張した背徳感が芽生え、あたしの息が詰まる。

 そんなあたしとは対照的に、なにも動じていない課長は斜め上からあたしを見下ろした。まるで流し目を食らったかのような攻撃を受け、さらに表情を崩したあたしに、課長は大人びた顔でふっと笑う。

 そして、故意的に視線を下に落とした。あたしも見ろと目で合図を受けて、課長の視線の先を追うとあたしの靴に行き着き、慌てたあたしはぶんぶんと頭を横に振る。

 そういう意味じゃないから!
 課長がいないと思ったから、はいてきただけで。

 だけど課長があまりにも嬉しそうに笑うから、誰にも見せないその笑顔にきゅんきゅんと胸を疼かせてしまったあたしは、思わず俯いた。

 するとあたしの長い髪を、下から手で掬うように持ち上げられ、風が通ったと思った瞬間、うなじに熱く柔らかいものが押し当てられた。

 反射的にびくりと身体が仰け反り、それが唇だとわかった時にはうなじから離れ、髪が元の位置に戻って揺れている。

「な……」

 課長の頭が下がって、あたしの耳元に唇を寄せた。

「可愛い」

 鼓膜の奥に、熱い吐息を吹き込むかのように囁かれて、ぞくりとしながら怒って課長を見上げると、姿勢を正した課長はとろりとした目を細めて、整った唇に人差し指をあて、悪戯っ子のように笑っている。

 そして後方ではきゅっと手を握られ、あたしは――。

 カタカタ、キーボードの音が止まった。

「ふぅ、こんな感じかな、どうかな香月ちゃん」

「ん……ちょっと待って下さい。こうだったら、無限ループ起こします。ここ」

 繋げた手を見せぬよう、自らの身体を盾にして、繋いでいない手で悠然とモニターの一点を指す。
 
「へ!? うっわー、杏奈失態。さすがだ、香月ちゃん。よかった、見て貰って」

 課長、いつプログラム見てたのよ。課長のお顔、そっち向いてなかったじゃないか。課長のお顔は――。

「はぁぁぁ、年かなあ……って、鹿沼ちゃん大丈夫!? 凄く顔が真っ赤だけど、お熱でも出た?」

 平然といつもの通り涼しい顔で対応出来る課長とは違い、あたしは……うなじからじんじんと広がる熱が顔に移り、顔から火が出てきそうだ。

 あたし、営業モードが通用しない、そういうの慣れてないんだってば!

「う、ううん、熱じゃなくてこのサーバー室暑いから! ちょっと冷たいジュース買ってきてあっちの様子見てきます。じゃ、課長杏奈。また!」

 課長の手の甲をきゅっと指で抓って、無理矢理手を外してサーバー室を出て行った。

「ねぇ、香月ちゃん。暑いって……、ここ、機材冷やすために冷房がんがん入れてるから、寒いくらいだよね」

「くくく……」

 不思議そうにクーラーを見上げる杏奈と、口元に緩く握った手をあてて声を押し殺しながら、愉快そうに笑う課長の姿を知らずして。

「くっそ~、からかいやがって~」

 なにあの余裕。あたしのお口で果てたこと、忘れちゃったのかしら!
 あたしにあんなことして、あたしもあんなことしたのに。
 
「――くぅぅぅ~」

 思い出して余計発熱して、真っ赤な顔になってしまったあたしは、必死に手でパタパタ仰ぎながら、休憩室の自販機に向かった。

 課長の動きひとつでこんなに余裕をなくすあたしは、出張にちゃんと行けるのだろうか不安になる。

 それじゃなくてもあたしにとっては鬼門となる地元だ。

 実家に寄りたいとも思えないそんな場所からは、かなり遠いところが打ち合わせをするところでよかったと思う。

 来週、社長の電話で相手先が了解したら、あたしは課長と新幹線に乗り、タクシーを使って少し山を登ったところにある、温泉街の一角に行くことになる。

 N県で比較的最近温泉がわき出たという、真新しい領域の一角にある大きなホテルに、社長が言う――全国の温泉街に点在する「やじまホテル」の元締めである代表取締役の矢島司さんは、今ホテル指導でいるという。

 もしも契約がとれれば全国のやじまホテルだけではなく、アパレル業界ににも力を持つ矢島グループのシステム管理が出来ることになる。

 さらにうまく行けば、どこか紹介して貰えるかもしれない。

 かなり大手のホテル経営者であるその代取が、どうかあたし達に会って欲しいと、祈るような心地で、冷たい缶コーヒーで頬を冷やした。

 
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