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Secret Crush Moon 9
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課長が住んでいたのは――。
「すっげ……」
臨海公園が一望できるだろうロケーションに聳(そび)える、ホテルのような高級マンションだった。
運転手さんに確かめて貰っても、怒れる専務から聞いた住所とマンション名は、ここしかないということ。
都心に住んでいなくても、こんなマンションに住まう課長は、たとえ24歳であろうとも、やはりハイスペックイケメンには変わりなく、ここまでのレベルになればイメージを外すことがないことを、あたしは深く深く思い知った。
課長の部屋が802とまでわかっているのに、そこに行き着くまでにガードマン、コンシェルジュに訪問先を告げ、さらにはコンシェルジュが訪問先に電話して許可が出た上でセキュリティーカードなるものをくれねば、さらに奥にある居住部の入り口も開けることが出来ないし、エレベーターも動かすことが出来ないという、セキュリティーが厳重すぎるマンションだった。
訪問先の住人が目の前にいるというのに、許可がないと開けられないとかぬかすマニュアル通りのコンシェルジュに腹を立て、途中ドラッグストアで調達していた解熱グッズの中から体温計を取りだして、問答無用で課長の口に突っ込み、タクシーで既に解熱剤を飲んでいても、まだ39度2分ある画面を見せつけた上で、
「香月さんが死んだら訴えてやる!」
を叫んでようやく許可。
何でも香月さん目当ての女が押しかけることがあるため、許可がなければ通すなと香月課長本人がお願いしていたらしいが、いつも見ているだろうその本人がここでぐったりしているのを悟って、機転をきかせて貰いたい。
課長のズボンの右ポケットから見つけた鍵で「Kohzuki」と表札がかかったドアを開けた。
ようやく長旅が終わった気分。どどっと疲れが出てきた。
セキュリティー完備もいいけれど、病人や怪我人には辛すぎるこのマンション。課長どうやって帰ろうとしてたんだろう。
「課長、今おうちですからね。もう少しで眠れますよ」
電気をつけた。
……真っ白。それが感想だ。
もっと詳しく言えば、家財が極端に少ないのだ。
大きな窓から夜景と臨海公園が見える、白壁のままのリビングらしき場所にはテレビと白いソファと白いテーブル。そして白いラグ。
待て。このひと、あたしのマンションの壁が白いから殴って怪我したと言ってたよね? ご自分の家の方が白すぎやしないでしょうか。
あたしのマンション殴らないで、自分の部屋殴ればいいでしょうが!
ええ、ここでご自分の腹の黒さに腹たてて下さい!
火事場のなんとかで課長を抱えて無数にある白いドアを何回か開け、ようやくベッドが見える部屋に行き着いた。ここが寝室だろう。
電気をつければ、やはりなにも飾るものがないこの部屋は、ベッドが黒いくらいで、クローゼットらしきところも白い。
白は膨張色でもあるし、気が変にならないのかしら。
それともアメリカ帰りって、こんな感じなのかしら。
リビング推定十八畳。この部屋推定十畳。さっきも電気はつけなかったけど部屋あったし、贅沢なひとり暮らし。
一流企業の忍月コーポレーションなら給料いいのわかるけれど、うちはそこまでよくないはずなのに。それとも課長クラスになったらぐんとあがるのだろうか。主任手当は雀の涙なのに。
「課長、はいベッドに着きましたよ。ベッドに置いてあるパジャマに着替えますよ。あたしに寄りかかって下さい、まず背広を脱ぎましょう」
うおっ、そこまで寄りかかってくるか!
重っ!
課長の足の間に片足を差し込んで踏ん張り、やっとのことで背広を脱がせば、課長は無意識なのか条件反射なのか、タクシーで緩めたネクタイを完全に外そうとしているらしいが、上手くいかないようだ。
課長の顔をあたしの肩に埋めさせ、あたしの手は彼の胸元でもぞもぞ。一見抱擁の図だが、課長の全体重を支えているあたしの足はぷるぷるだ。
「はあはあ、やっとネクタイ取れた。次はシャツ……って、え?」
課長がぐらりと横にふらついて、あたしまでふらつき、お相撲状態。
はっけよい、のこったのこった――やばい、課長をぶつけたら駄目だ。
ベッドに、ベッドに倒せ!
課長の頭を抱きしめるようにして、倒れた先はベッド。
あたしまでベッドに転がり込んだ。
薄く目を開けた課長が、ハアハア苦しげな息をしながらこちらを見ていた。
「お、お邪魔しました~」
本当に見ているのかわからないけれど、とりあえずあたしがベッドから降り立とうとしたらぐいと手を引かれ、再び課長の横に滑り込んだ。
思い切り添い寝スタイル。
再度逃亡を試みれば、あたしを見ているのかよくわからないその目から、ほろりと汗のような涙が零れた。
「苦しいんですか!?」
「……くな」
「え?」
「行くな」
まさかこれは高熱ゆえの甘えっ子ちゃんか!?
その割にはSっぽい甘え方だけれど、それでもなんだか母性本能を擽られたあたしは、思わずよしよしと頭を撫でてしまう。なされるがままの課長は、頼りなげな目を寄越して、不安そうにしている。
「ここに居ますから。だから安心して。ね?」
絶対信じていない目だ。
「約束しますから!」
「ん……」
病人が相手なんだ。
とにかくは病人から服を脱がせて、寝かせないといけない。
そのミッションを達成すべし!
ちょっと失礼して、仰向けにさせた課長の上に馬乗りになり、服を脱がすことにした。
「課長、ワイシャツ脱ぎますよ。ボタン外します」
……いや、なんかね。
熱出して具合悪くなっている病人に悪いんですけれど、
「……っ」
この無防備すぎる、艶めかしい生き物なんとかならないんだろうか。
半開きの唇から漏れているのは苦しい息だとわかるのに、艶事で喘いでいるように思えるのは、あたしがエロいからなんだろうか。
ハアハアする課長から一枚剥ぐ度に、あたしが課長を襲っているような錯覚を起こすのだけれど、女を脱がせたい男の気持ちって、こんな感じなのか。
考えない、これは上司だ!
なんとかシャツを脱がすと白いインナーが見えた。インナーは下から捲り上げればいい……そう思って万歳させたが、
「うおっ!」
意外に着やせした逞しい身体が出てきて、思わずあたしはガン見してしまった。
九年前――思えば彼の胸板は広かったけれど、薄かった。
九年後――男の身体になっている。
……触ってみたい。
だけど実行したら、ただの変態だ。
「課長、インナー汗で濡れちゃっているから取ります。はい、パジャマの上着ますよ」
半裸のハアハア課長がまあ、エロエロだこと。あまりに無防備な姿さらけ出すから、加虐心が刺激されて襲いかからないために、紅潮して汗ばんだ胸板を、極力見ないようにする。
「ズボンどうしよう……。だけどそんなこと言ってられないね」
布団をかぶせて、とりあえず布団の下からもぞもぞとベルトを外す。
「し、失礼します……」
病人相手の背徳感というのか、このドキドキ感!
別に課長を犯すわけではないのに、課長が苦しげな顔でくっと喉元を見せるだけで、勘違いしたあたしの身体が火照ってくるけれど、お経を唱えながらズボンを脱がすことに成功。チャック下ろす時に、ちょっと熱いの触れちゃってドキドキしちゃったよ。
「はい、課長。お着替え終了です。次はお水飲みましょう」
課長がベッドから立つことを許してくれないために、攣る思いをしてなんとか手を伸ばしてコンビニ袋を引き寄せた。
熱など消耗疾患には「OS-1」。そのペットボトルは、解熱剤飲むときに既にあけてある。
上から飲ませようとするが、課長が飲みたくないといやいやするから上手くいかず、間近でじっと見ながら少しずつ水を飲ませていると、突然熱いキスをされていやらしい舌の動きをしてきたから、包帯のところをモミモミするとあたしから離れた。
鎮痛剤を飲んだのに、まだ痛みは感じるらしい。
別に風邪をひいているようではなかったから、解熱剤は風邪薬ではなく、鎮痛剤のバフ○リンにした。もうそろそろ熱は下がるだろう。
課長の苦しみも、それまでの辛抱だ。
おでこに冷えピタ貼ろうとしたら眼鏡が邪魔で、外させて貰うことにした。その振動で涙目になっている課長の目がうっすらと開く。
……いやまあ、元々極上に整った顔立ちをしていましたけれども。その顔に眼鏡をかけたことで、クールな理知的なものを強めていましたけれど。
眼鏡をかけない方が、あたしの好みだったりする。まあ課長に関して言えば、どちらも上質なイケメンには変わらないんだけれど。
買ってあったタオルに、普通の水が入っているペットボトルで浸して、汗ばんで頬にへばりつく黒髪を指で取り除いて、タオルで拭いてあげた。
「ん……」
課長が身じろぎして、布団を剥ぐから慌てて隣に移動する。
胸を掻きむしるような仕草をして、言う。
「熱い……」
寒気よりも熱さを感じているのは、熱が下がる兆候なんだろうか。
それとももう上がらないところまで熱が上がりきってしまったのか。
片手でパジャマのボタンを引き千切ろうとするのを押さえながら、タオルで首筋を拭いてあげ、水を飲ませ続けた。
乱れたパジャマから垣間見える、紅潮した熱い肌。
男らしい鎖骨。
課長の熱から拡散する課長の匂いに頭がくらくらしそうだ。
この豆電球にした暗さも悪いのか。
汗を舌で舐め取りたい――。
そんな気分になる自分を必死に諫める。
「……ヒ……」
やはり課長がパジャマを脱ごうとしながら、なにかを言った。
なにか欲しいものでもあるのかと、口元に耳を持って行くと、耳を舐められた。
「ひゃあん!」
……食べ物と間違っているのだろうか。
「……ナ……」
うなされているのなら、起こしてあげた方がいいか。
「課長……? お水飲みましょう?」
「ヒナ……」
あたしの名前?
「いく……な。……いつ……とこ……に」
あたしがどこかに行く夢を見ているのだろうか。
「課長、あたしはここにいますよ、安心して下さい」
手を揺らしたら、荒い息をしながら課長があたしを後ろ向きにして抱きしめると、首筋に舌を這わせてきた。
「ちょっ、課長!!」
身を乗り出すようにして、課長の手があたしのブラウスの下から忍び込み、キャミの下の肌を弄る。
「冷たくて……気持ちいい……」
そしてその足はあたしの足の間に入って、いやらしく絡んだ。
「ヒナ……気持ちいい」
片手があたしの首を弄り、反対の手がキャミの中で上に向かった。
耳にかかる彼の乱れた熱い息が、首を這う濡れた舌の感触になり変わる。
あたしに巻き付くような彼の手は、ぞくぞくが止まらないあたしの肌を滑り、あたしの深層を暴こうと荒い動きを見せた。
「課長、駄目ですっ」
「……駄目じゃない」
ブラの上から乳房を強く揉み込む手。
足の内股を大きく撫で上げる手。
「か……ちょ……」
彼があたしの首を舐め上げてくる。
汗が混ざった彼の匂いと熱にくらくらして、頭がへんになりそうだ。
吐き出される息が誰のものかわからず、ぼんやりする。
会社の時とは違う、もっと密な彼の匂いと熱さに包まれただけで、どうしようもなく身体が濡れてしまっているのだ。
満月の時のように、あたしの身体は彼を求めている。
熱でおかしくなっている人に、流されて抱かれるわけにはいかないのだと、抵抗すればするほど、彼の手はあたしの核心を攻め立てようとする。
露わにされた胸の頂きを直接指で捏ねられ、ストッキングを破いてショーツの中に入った手の感触に、あたしは身体をビクビクさせながら、
「課長、やめ……本当に取り返しが……」
振り返るようにして懇願すると、その口を塞がれた。
「んぅぅ……」
灼熱のぬめりをもった舌があたしの口内に忍んで、逃げるあたしの舌を絡め取るその感触に、細胞が激しくざわめいて下腹部が熱くなり、またじゅんと濡れたことがわかった。
気持ちいい。
気持ちよすぎる。
彼の熱で、すべてが蕩けそう――。
「駄目、か……ちょ、あんっ」
いやらしい指が、ショーツの中で花弁を割った。
同時に乳房も攻めたてられ、ぶるぶると震えながらあたしは喘いだ。
どうして抵抗出来ないのだろう。
病人相手ならなおさらどうとでも出来るのに。
されていることよりも、彼の匂いがもうたまらない。
思考が乱れて、本能に還る。
熱出している病人なのに、身体が彼を欲しくてたまらない。
「課長、課長、やめて、ね、熱で……」
また抗する言葉を吐く唇を奪われた。
舌の動きに翻弄されている時、ショーツの中で課長の手が激しく動く。
濡れきっているぬかるみが、いやらしい音をたてる。
気持ちいい。
あたしの気持ちいいところばかりを攻め立てるから、駄目だ。もうこんなに早く、イッちゃう――。
こんなはしたないところを彼に見せたくないと、やだやだとあたしは頭を横に振った。今は九年前とは違うのだから。だが、
「――っ、――っ!!!」
ディープキスで言葉を奪われたまま、彼の身体で抱きしめられるようにして、あたしは課長の指でイッてしまったのだった。
びくんと身体が強ばったその瞬間、顔から大量の汗を垂らしている課長が、乱れた前髪の隙間から琥珀色の瞳を向けて、柔らかく嬉しそうに笑った気がした。
その瞬間、あたしは悟った。
ああこの男……、汗を掻いて熱を下げているのだと。
熱が下がったら、なにをする気?
――セックスしましょう。
神様お願いです!
課長の熱を下げないで下さい。
そう思うのに、彼はあたしに覆い被さってきた。
挑発的な眼差しで。
「看病のお礼を……」
「いらない、いりませんってば!! 課長、まだ熱ありますって!」
「この熱は……寝ていないからです。連日全然寝てません、ので」
怖っ!!
その目怖っ!!
「それなら寝ましょう? ね?」
そしてあたしは帰る。
こんな猛獣の住処からタクシーで帰る!
「帰らないと約束、したのに。お仕置きを……」
「!!! いや、帰りませんから。居ますから」
「大丈夫、そんな警戒しなくても。私はまだ勃ちません。それまであなたに奉仕しますから」
「はい!?」
……それはまだ夜明け前のことだった。
・
・
・
・
熱でぶっ倒れていた課長にあっという間にイカされたあたしに、ご奉仕しようと襲いかかってくる課長は、多分発汗と解熱剤効果で回復しているのだろう。確かに一時期より彼の体温は高くない。
だけどまだ38度はあるだろう気怠げな表情とハアハアと息が荒い様子を思えば、こんなことしている場合でもないのに、なんでここまで我武者羅に求めてくるのかよくわからない。
まだ再会してからそこまで日にちは経っていないけれど、会社で見るなんの執着もないような涼やかな表情から見れば、少し異様にも思えた。
そう、置き去りにしようとする母親に縋っているような。
離したくないと繰り返し言って、あたしを快楽のうちに縛り付けようとする彼は、欲情した目をしながらも酷く悲しげなもので。
そんな目をされたら、あたしは帰れなくなる。
あたしは、課長が落ち着いたら帰るつもりでいた。
だけど、帰れなくなった。
彼を放るわけにはいかなくなった。
「ヒナ……っ」
決してあたしの顔を見ようとしないで、あたしの名前を呼んであたしの身体を弄り、だけどあたしがイク時にだけキスをして舌で繋がる課長。
深く繋がるのは舌だけだというのに、性器の挿入があったように子宮がきゅんきゅん疼いて喜んだ。ぐっしょりと湿った下着が気持ち悪いくらいに。
満月以外でこんなになるのは初めてで、満月であったらどうなっているんだろうか――。
九年前、本当にあたしは気持ちよかった思い出しかない。彼という存在を封じられても、あの気持ちよさは身体が覚えている。
九年後は、どうなんだろう。
今の彼と深く結びついたら、どこまでの快感を得られるのだろう。
あたしのブラウスのボタンを外しているのに、課長はあたしから服も下着も取らなかった。パンストは破れたけれど、スカートもショーツも取らなかった。
だけど自分はパジャマの上衣を脱いで、あたしを強く抱きしめてくる。その直接の熱と匂いに、あたしの身体が蕩ける。
「……凄い。また溢れてる。……気持ちいい? ヒナ」
――気持ちいい? チサ。
九年前が思い出される。
彼は今なにを考えているのだろう。
彼が果てさせているのは、九年前のあたし?
今のあたし?
「――っ」
何度目だろうか――。
またイッたあたしを感じ取った彼は、湿った唇をあたしの唇から離した。
とろりとした目が向けられている。
あたしの理性が彼に溺れることにストップをかけているのは、なぜなのか。病人だから? 上司だから? 忘れたい過去を持つから?
秘部は蜜に溢れ、深い繋がりを望んでひくついている。
彼を男として意識して、ドキドキもしている。
「ヒナ、挿れる?」
だけど誘惑に耐えられるのは――、
「……寝たい」
「……。俺は寝れない。ヒナが横に居るのに」
多分、あたしの意志がそこにはないからだ。
わかってる。
気持ちよくてあたしは喘いで、何回もイッた。
あたしの身体は彼を求めているかもしれない。
その身体を彼は求めているかもしれない。
……あたしは、身体をすぐ開く女だと思われている。
きっと後ろ向きで攻め、あたしに果ての声を出させないのは、本気で向き合いたくないからだ。
あたしはなに?
性玩具?
挿入したらあたしは性の捌け口になるの?
身体だけの関係を露骨に求めていることが嫌になった。そしてそれに反応するあたしの身体も嫌になり、彼と結合までしたいと思わないのだ。
どうして拒めないの。
嫌なら、張り手でも食らわせて帰ればいいのに。そう、包帯の手を噛みついたっていい。逃げ道があるのに、それでも逃げようとしない自分。
理由をつけてここに残り、彼から与えられる快感に酔っているだけじゃないか。
自己嫌悪――。
「課長は、あたしに挿れたいんですか?」
もぞもぞと起き上がった彼は、眼鏡のない分とても端正で、若く思える。年相応なのか。……あたしが通り過ぎた年に、彼はいる。
「挿れたい……」
掠れた声が聞こえた。
あたしはなににむくれているんだろう。
欲しいならさっさと抱き合って気持ちよくなって、それで帰ればいいじゃないか。1回きりにして。
なににこだわっているんだろう。
なんでここに居るのだろう。
「そこまで……嫌……?」
あたしの目から涙が流れていたらしい。
課長の指が掬い取った。
「今さらかもしれませんが……、あたしそこまで簡単な女じゃないんです」
「………」
「理由がないのに、そういうことしたくない」
「……結城さんには、理由があるの?」
「はい」
「……九年前、は?」
「ありました」
「だけどあなたは、俺を置いていって消えた。あの金はなに? 俺、金で買われたの?」
罪悪感に心が苦しい。
「あれは……中学生だと知らなくて。ごめんなさい、と」
「それで終わりにしたんだ? コンビニもやめて」
「え?」
コンビニでバイトしていたのを、何で知っているんだろう。
あたしは課長を見た。
課長は無表情だった。
「昔の俺はそんな程度だったかもしれない。……じゃあ今は?」
そこから課長の表情が変わる。
「九年経った後の俺は? あなたを惹きつける魅力はない?」
男の顔に。
九年前の情事に耽っている時の顔とはまた違う、大人の男の顔で。
「やっぱりあなたにとっての俺は、眼中外?」
声が震えていた。
「九年前も九年後も、あなたの身体は俺に素直に喜んでいた」
「……っ」
「なのに、あなたの心がついてこない」
瞳が悲しげに揺れた。
「俺は結城さんの代わりにはなれない? あなたを無条件で抱いている結城さんのように、特別な心は貰えないの?」
「結城の代わりは、誰にも出来ません」
「……っ」
「だけど課長にとって、あたしの代わりは誰でも出来るでしょう?」
「あなたにとって、俺の代わりは誰でもできるのか?」
お得意の質問返し。
詰るような激しい目で、言われた。
ねぇ――。
「正直あたしにとって、課長は忌避すべき存在でした。課長が現れなきゃあたしは落ち着いていられたと思います」
なんでそんな傷ついた目をするの?
「課長は魅力的すぎてあたしを乱します。だから触られたくない。ドキドキがとまらなくなるから。あたしは課長の玩具にはなりたくない」
「……玩具?」
訝しげな声が聞こえる。
「遊び相手という意味でも構いません。遊ぶなら、違う女に……」
すると課長があたしを抱きしめてきた。
「なんか俺、告白されている気がする。……熱あがりそう」
「はああああ!?」
「それは結局、遊びじゃなく本気ならいいってことだろう?」
いつの間にか丁寧語がとれた課長に違和感を覚えず、あたしは自分の言葉を反芻した。
確かに、そうとれるかもしれない。
「あたしは課長を好きではないです」
そう釘を刺したというのに――。
「はは。今の時点でそうなら、俺に堕ちたらあなたはどうなるんだろう」
「はいぃぃ!?」
「いいよ、今は好きじゃなくて。俺も確かにあなたを軽んじた。だけどあなたが簡単に寝ない女だというのなら……」
不穏な言葉が途切れて、さらに不穏に思う。
「あ、あの……」
「心を貰うから。それであなたから求めさせる」
「心? あの、さっき言いましたが、あたし課長を好きには……」
「何度も言うな、傷つく!」
「す、すみません……」
何であたし怒られているんだろう。
「ヒナ……」
熱い息が首にかかる。
「……逃げないで、欲しい……。九年前みたいに……」
熱い身体であたしを覆いながら、わずかに震えながら課長は呟く。
……あたしは家に帰る願望を捨てた。
あれほど帰ろうと思っていたのに、傷ついた小鳥のように震えるこのひとの隣で眠りたい気がしたのだ。
同情とも母性本能とも、或いは贖罪ともまた違う、なにかもやもやとした気持ちから彼から離れたくないと思った。
「今度は九年前のように逃げません。一緒に寝ます。課長が目が覚めたら、傍にいますから。だから本当に熱があるんですから……」
「ああ、寝よう。あなたが傍に居てくれるのなら、俺は安心して寝るから。……おやすみ」
睦言のように甘く囁き、ちゅっと頭に唇が落とされた。
「……課長って……」
「名前で呼ばないと、またイカせる」
「ちょっ!! 香月さん、脅すのやめて下さい!!」
「……そっちじゃやだ」
やだって、あなた何歳ですか。
だけど、駄々っ子のような甘えてくているのだろう課長が、なんだか愛おしい気がして、笑いながら言った。
「朱羽さん」
「……やり直し」
「え? まさか上司を呼び捨てにしろと!?」
「上司命令」
「こんな時に上司命令持ち出すなんて……」
「……イカせる」
「わかりました! しゅ……朱羽……」
頑張って呼び捨てにしてみたけれど、反応がない。
「ちょっと! 呼んだんですから、いいか悪いかくらいリアクションをしてくれたって……」
「見るな……っ、今やばいから」
「やばい?」
「理性ぶっ飛びそう」
「は?」
「……言わせるなよっ、あなたの中に入って滅茶苦茶にしたくてたまらない、なんて!」
「はいぃぃぃ!?」
なんとかなだめすかして、彼のパジャマ代わりにひっついて眠りにつく。
……だってパジャマ着ないんだもん!
なんでこうなっちゃったのだろう。
――今夜、俺の家に来て。
怒ったはずなのに、あたし結局、自分の意志で課長の家にお泊まりしている。
ちょっと高めだけれど心地いい体温と、ちょっと早めの心臓の音。
一緒に眠るなんてドキドキするけれど、しっとりと汗ばむ胸に頬をあて、あたしの背中に手を回されると、なにか落ち着く。
昔、あれだけ肌を合わせたせい?
幻ではなく、現実に生きていると主張する彼は、あたしの耳に囁いた。
「九年前のこと、あなたが秘密にしたものを、俺は壊すよ」
――秘密という意味の"Secret"、壊すという意味の"Crash"。ふたつが合わさった意味を。
ふと、結城の言葉が思い出された。
「課長、secret crachって、どんな意味ですか?」
「……結城さんにでも言われた?」
「なんでわかるんですか!?」
課長はあたしの首に顔を埋めて、呟く。
「むかつく……」
そしてあたしの耳に囁いた。
「だったら俺は」
Crazy for you――そう言った気がした。
……ごめんよ、課長。あたし英語苦手なんです。
****
◆Secret crash
ひそかに思いを寄せること、片思い
◆Crazy for you
あなたに夢中
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