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Secret Crush Moon 6
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――もう俺は、九年前の子供ではないことを、証明してみせます。……覚悟していて下さい。
我に返れば、ふつふつと込み上がるものがある。
覚悟って何? 九年前を持ち出して、何をしたいの、あの男!!
トイレの洗面台、冷や水を顔にかけて化粧をし直し、キスの形跡はすべて消した。
簡単にキスを許しただけではなく感じてしまって、さらには女として彼を求めようとしてしまった自分自身が情けなくて、浅ましくてたまらない。
しかも会社で、しかも相手は上司で、しかも満月ではないのに。
――たとえ嘘から始まった関係でも、俺はあなたを逃がさない。あなたを愛する恋人として、夢中にさせてみますよ、……陽菜。
「呼び捨てを許可した覚えはなぁぁぁいっ!! お前は何様だぁぁぁ!!」
鏡に向かって大声を上げたら、何人かの女の子が慌ててトイレから逃げていった。だけどあたしはちょっとだけすっきり。
席に戻れば、隣の席に香月課長は戻っていないようだ。
内心ほっとしながら席に座れば、斜め向こうから、イケメン台無しのぶすっとふて腐れたかのような顔で、こちらを見る結城がいる。
ちらちらと視界に入るため、身体を斜めにして避けても、もれなく結城の視線がついてくる。
奴は観察力に優れているというのか、とにかく勘が鋭い。
いつもならはぁいと手をひらひらさせて愛想が出来るけれど、見て欲しくない時に限って奴はよく見て、事実を看破してくる。
案の定、LINEが来た。
あたしは俯き加減で、膝の上でスマホを弄り応答する。
"香月となにあった"
"なにもない"
"ないわけねーだろ。戻りも遅けりゃ、化粧時間も長すぎる"
"ないもんはない。なに見張ってるの、えっち!"
"帰り拉致決定"
"えー"
"文句は却下。強制!"
"えー"
"上見ろ、上!!"
上?
思わず天井を仰ぎ見れば、こちらを上から覗き込む眼鏡の課長が居た。
さらりと黒髪が揺れた。
驚いて思わず仰け反れば、椅子が半回転してあたしの後頭部が机に激突――を免れたのは、あたしの頭の下に課長の手が差し込まれたからだ。
「あ、ありがとうございます」
「いえいえ。仕事中に、随分と熱心にスマホを弄られていたようで」
にっこり。
輝かしい笑顔の背景は、凄まじい吹雪。あの中に触れようものなら、即時凍死してしまいそうだ。
怖っ!
「いや、あの、その……」
だくだくと汗を掻きながら、授業中スマホを弄っていたのが先生にばれた時のような、凄まじい焦燥感に表情が強ばる。
「ああ、そんなに怖がらなくても大丈夫です。別に責める気もないですから」
そう、柔らかい口調で課長が自分の椅子に座るから、安堵して止まった呼吸を再開していた時、課長が言った。
「どうせ相手は、結城さんなのでしょう? 帰りが遅いこと、あなたが化粧を直したことに、なにか言われましたか?」
怖っ!!
結城並みの、超能力者怖っ!!
あたしが化粧直したことまでわかるのか!!
「そのスマホ貸して」
「へ?」
「LINEの画面、そのままで私に」
「い、嫌ですよ、なんで……」
「ほら、結城さんが怖い顔をして私達を見ているので、私がなだめますから。そうじゃないと、真下さんに迷惑かかりますよ?」
確かに結城が、凄い顔でこちらを見ていて、止めようとしている衣里の手を払っている。今にもこちらに来そうで、なんだか怖い。
「課長が、結城を抑えることが出来るんですか?」
猛獣が、あの猛獣を抑える猛獣使いとなりえるの?
「はい」
「どんな根拠で?」
「ああ、私が結城さんと同じ男だからです。きっと女のあなたにはわからない理屈だと思いますが」
あたしはため息をついてスマホを課長に渡した。
同性だけがわかるという理屈に期待しよう。
課長はなにやら文字を入力したようだ。
そして――。
バァァァンッ!!
結城が机を叩いた。
「か、課長っ、結城怒ってませんか!?」
「あれ、おかしいな。もう一度文字送ってみます」
すると――。
「真下っ、外回る!! ぐずぐずすんな!!」
「え、は!? 結城、なに急に……真下と結城、外回ってきます! 仕事中、うるさくしちゃってごめんなさい!!」
……確かにあっちの猛獣は居なくなったけれど、これはなだめたというより――。
「……課長、それ見せて下さい」
「はいどうぞ」
LINEの続きにはこう書かれていた。
"本日、彼女の拉致は私がして、ホテルに連れます"
「な!?」
"怒ってここまで来ますか? だったらどうぞ、迷惑するのは彼女です。私は彼女を守る恋人の立場にいますし、彼女の上司です。あなたは?"
「なに書いているんですか!? ちょ……」
課長は言った。
「あのひとの牽制に、今は私が応えるターンですので」
「タ、ターン!?」
「……そう、味わって貰います。牽制された気分を」
課長の顔は、悪人のように残虐に歪んでいた。
「だけど結城、勘違いしちゃうじゃないですか。ホテルって……」
小声で言うと、課長はあたしを見た。
ちょっと前まではあんなに情熱的にいやらしいキスをしでかしながら、オンオフ切り替えて何事もなかったかのようなすました顔を向ける上司は、
「言ったでしょう?」
顔を近づけてきて、あたしの耳に囁いた。
「セックスしましょうと」
離されたその顔は――、
「な!!」
あの、濃厚なキスが続いているかのような、男の顔だった。
「や、やめてください。職場でそんな冗談は」
「冗談?」
目が愉快そうに細められる。
「私が冗談を言うようなタイプに見えますか? だから今はこれで我慢しているんです」
見せられたのは、彼の手にある深煎りブラック珈琲。
それは自販機の中であまりに苦すぎて目が冴えるため、徹夜覚悟の仕事をする社員が飲む、定番ドリンク。いつぞや結城が飲んでいた、眠眠打破より効力があるらしい。
「が、我慢って……」
「当然でしょう? あなたのように化粧で隠すことが出来ない私は、鎮めないといけないので」
その意味するところがわかって、真っ赤になったあたしの前で、課長は自分の唇に伸ばしたひと差し指をあてた。
「静かに。今周りにひとが少ないとはいえ、ここは会社ですよ? さっきの続きは、終業後に」
さっきまであたしの唇を激しく貪っていた、彼の唇を強調して見せるかのように、その仕草はやけに官能的にあたしの目には映った――。
***
OSHIZUKIビルディング、テナント共有階となる五階、食堂――。
ビル内の企業に勤める社員であるのなら、300円で日替わりランチを食べられる、夢のような場所、その名も「パラダイス」。
清潔な白色で統一されたこの場所は、食堂という古くさい言葉が全く似合わない、洋風の洒落たカフェのよう。
勿論ここには、他社の社員も集っている。
こんな素敵な場所を、あたしがあまり利用しないのは、ここには忍月本社の社員も利用するため、玉の輿狙いの、化粧や髪型にばっちり気合いを入れた女子社員の猫なで声が妙に響き渡るからだ。
合コンかっちゅーの!!
口を開けば結婚、結婚……あんた達は、実家の母かっちゅーの!!
恋愛より仕事の方が楽しいだけなんだよ!!
本当はここには来たくなかったけれど、弁当を作っていないしコンビニから買ってくるのも面倒。しかも今日は、自席でお昼なんて、羞恥プレイすぎる。
食事を載せたトレイを手に、人に見つからなさそうな、階段の下の特等席に座る。
メール担当だった江川くんを使ったらしい三橋さんは、江川くん共に急な体調不良で早退してしまったため、真偽のほどはよくわからない。
なんで来たばかりの課長まで巻き込んで、しかも課長の名前で出さないといけなかったのか、そこらへんは不明なままだ。
幾分かは朝のような奇異なる視線は和らいだけれど、やはり疑っている女の子も居て、本当かどうかを聞きに来る猛者もいるけれど、
――ちょっと鹿沼主任、いいですか?
いつもどこからか現れる課長がにっこりと綺麗な笑みを浮かべて現れ、用件ではなくあたしをじっと見て、わざとらしく指であたしの唇を半開きにさせ、誰の前でも指で唇を触れてくるのだ。
その触り方もまた巧妙で愛撫のように仕掛けてきて、自分の薄い唇もほんの少しだけ開ける。あたしにはキスを意識させ、他の子には清い仲ではないことを見せつけて。
――失礼、致しました!!
沸騰しそうなほど真っ赤な顔で走り去る後ろ姿を見て、課長が壁に背中を凭れさせ、腕を組みながら笑う。
――ふふ、あの分なら大丈夫そうですね。私達が恋人同士だと吹聴してくれそうです。
――ひ、ひっ!!
――どうしました? しゃっくり?
――違います!! 人前でなにをするんですか!!
――なにをって、唇がてかっていたので触っただけですが。ああ、この光るのグロスって言うんですよね? これがやけに甘そうで。
彼はあたしの唇に触れた親指を自分の口に含むと、意味深な目を細めてゆったりと笑う。
――本当に甘い。
扇情的な顔で。
甘いわけねーだろ!!
そう言いたいのを我慢して、ふんと顔を横にそむけて課長の前から去ろうとしたが、大きくよろけた。途端に愉快そうに声をたてて笑う課長をキッと睨み付けて、カツンカツンと思い切り規則正しく去った。
掌の上で転がされているようで、腹立たしい。
絶対わかっているはずだ。
何気ない仕草に、勝手にいやらしいこと考えて、勝手に課長の男を意識して、ドキドキしてしまって、また腰にきたこと。
職場なのに、あなたなにするのよ!!
あたしもなにやっているのよ!!
九年間で彼は変わったようだ。
女に興味ない顔をしているのに、翻弄するのがうまい。
なにが本命には優しく、他には冷たくよ。だったら本命の(※仮)チサちゃんがいるのに、あたしにこんなことをして悪いと思わないの!?
プリプリとドキドキは、表裏一体。
顔から熱さが消えない。
あのキスが、忘れられない。
――話をしたいと言ったでしょう? ……真剣な話だから、これが終わっても俺の傍にいて下さい
そう言えば、あの真剣な話はどうなったのだろう。
あれ以降、まるでその話はしないけれど。
――セックスしましょう。
まさか、それが話だったとか!?
「するか!!」
あたしは食堂で叫ぶと、一気に思い切りうどんを啜った。
「すげー、カバみたい」
知らぬ間に向かい側に、見知らぬイケメンが座っている。
あ、このひと知っている。
この浅黒い肌と黒髪パーマのワイルド系のイケメン、そうそう前にも見たの。沢山の女を侍らせている、確か忍月コーポレーションの専務で名前は忘れた。
凄い強引なやり手だと、この食堂で女子社員が噂をしていたのを耳にしたことがある。うん、あの時は遠目だったけれど、この黒髪パーマはそうだ。
年はあたしと同じくらいか、それより上か。
つまり、玉の腰の相手が、今目の前にいる。
――すげー、カバみたい。
カバ……って誰?
まさかあたし!?
「ぶはっ!!」
思わず吹き出したら、うどんが彼の頭に乗った。
「あ」
すると周りの女性達がハンカチを出して彼の髪を拭いたりと、至れり尽せり。
「子供じゃないんだから……」
思わず嫌な顔をしてそう言ったら、美人過ぎるお姉様達は一同声を揃えて言った。
「お黙り、このカバ!!」
はいはい、カワウソの次はカバですか。
どうしてもあたしは川・沼系なんですね。
「失礼致しました」
立ち上がって空いている席に移動しようとしたら、専務が偉そうな態度で、指で下をさした。
「座って」
「いや、違うところで食べますから、どうぞお姉サマ達と……」
「座れ」
なんだこの不遜な男は。あたしはあんたの部下でもなければ、他社の社員だぞ!
だけど鋭い目をされたから、思わず座ってしまった。
彼もお姉サマの手にも食器はない。
もう食べたのかこれからなのか。
「お前、鹿沼陽菜? シークレットムーンの?」
「な、なんで……」
すると、専務はあたしが首から提げてある身分証を指し、思い切り腹を抱えて大爆笑。女達にお腹をすりすりされている。
お前はどこの坊ちゃまだ。
まるで社長のような笑い上戸さだ。
「あの、なにか?」
「い、いや……ちょっと待って」
すると彼は、胸ポケットからスマホを取り出して電話した。
「俺だ。鹿沼陽菜って、カバみたいな女だな。すげえ口と鼻の穴広げて、うどん吸い込んでるぞ。お前、カバ好きならちょっと見に来い。五階の食堂だ」
「ちょっ、なにを……どこに電話かけたんですか!」
「俺の知り合い。あいつ昔カバの図鑑見てたからさ。他の奴も呼ぼうかな」
「呼ばないで下さい! ちょっとむしゃくしゃしたから、ちょっと啜っただけじゃないですか」
「それがカバ……、いやまあカバも愛嬌あるから、お前も可愛い……かな?」
「あたしはカバじゃなくて、カワウソです!」
立ち上がりざまにそう言うと、男も女達も爆笑だ。
くそっ、カバよりカワウソの方が可愛いかもと思って、言い方を間違っただけじゃないか。
初対面から"お前"呼ばわり。なんて失礼な奴なんだ。
「なんでこんな暗いところにいるんだ? お前ならそこそこ男をひっかけられるだろうに。まあ、カバ好きの男をだけど。くくく……」
「余計なお世話です! あたしは男を漁りにくる女ではないので」
キッと周りの十数人の女達を睨んでやった。
嫌われたっていいもん。
もうここ、来ないし。
「お前、忍月の噂、信じてねぇの?」
「それはあれですか? テナントの会社に忍月財閥の隠し子がいて……という? 確か母方の姓を名乗っていて、本社から監視役も派遣されているとか。勝手な後継者争いの犠牲になっている」
「そうそう。だから当たりを引き当てれば、本気に玉の腰じゃないか」
「そんなものより仕事していた方が楽しいですので」
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「実は、俺がその隠し子なんだけど」
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ちょっと揺れてしまったあたしはすぐに目をそらした。
「だけどあれ、そのイケメンって女嫌いのはずじゃ? あなた、思い切り女好きしてません?」
すると男は吹き出して、机を拳でダンダンと叩くと言った。
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「あなたが隠し子で財閥の御曹司? まあ、可能性はゼロではないでしょうけれど。だけど、ねぇ……」
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「お前、失礼な女だな」
「お互い様じゃないですか」
「ふぅん、だったらこれは知ってる? 隠し子を口外したら、黒服が東京湾に沈めるって話。お前言っただろう? 俺が隠し子で財閥の御曹司だと」
――あなたが隠し子で財閥の御曹司?
「え、口外って、あたしが今口にしたのは疑問系で」
「そうか? だけど来たぞ、黒服」
「えええ!?」
階段が邪魔で見えないが、足音がする。
かなり早い、というか荒い。
「やべぇぞ。あの感じじゃ殺されるな」
男があたしが見えない方向を見て、目を細めた。
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「俺、逃げるから」
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靴音が大きくなってくる。
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なに、本当に来たの!?
嘘、殺されるって本気なの!?
「うわっ!?」
影から、男の胸ぐらを掴む黒い背広の腕が見えた。
本気に黒服!?
「彼女はどこだ!?」
それは――。
「課長?」
それは、さらさらの黒髪を乱して、まだ椅子の上に居る男に上から襲いかかろうとしている、黒い背広服を着た香月課長の姿だった。
「ちょっ、課長!! 落ち着いて下さい、どうしたんですか!?」
すると課長は、眼鏡の奥のギラリとした目をあたしに寄越した。
「渉(わたる)さんになにもされてませんか? いや、渉さんになにもしてませんね!?」
……どこかで聞いたことのある言葉だ。
「するわけないだろうが。ただのカバの鑑賞だ。お前も見るか、可愛いぞカバ」
「だからあたしはカバではなく、カワウソですってば!!」
あ、また省略しすぎてしまった。
課長、哀れんだ目であたしを見ないで下さい……。
・
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・
課長と並んで座り、向かいには腕を組んであたし達を見る他社の専務。その周りには専務の取り巻き達。専務オンリーだった彼女たちの目が、課長にちらちらしているのは、見て見ぬふりをしていてやろうじゃないか。
なんですか、この状況。
あたしはただ、ランチを食べにきただけだ。
洋食とか中華ではなく、しこしこのうどんを食べたかっただけなのだ。
うどんを食べていたら、なんでこの「お嬢さんを下さい」の図になったの?
「はい? なんですって?」
あたしは目の前の……宮坂渉専務に聞き返した。
「ああ、そこの朱羽は俺の親戚なんだよ」
「親戚……、そうなんですか」
「俺には似てないな、あまり。朱羽は五歳年下の従弟がいるんだが、そっちにはよく似ているな。機械いじりが好きなところも」
専務と課長はタイプが違う。専務はワイルドで、課長は都会派で。
いわばオオカミと猫みたいな感じだ。
……猫といっても、時折、魅了のスキルを持った艶やかな化け猫になるけど。
絶対このふたりって、エッチに強そう。
まあ、猫に教え込んだのはあたしだけれど。
そうか、課長似の猫がもう一匹いるのか。
見てみたい気もする。
「朱羽は元々、このビルの上にあるうちの会社にいたんだ。うちのシステム開発を四年していたチームリーダーでね、それでお前んところのムーンを吸収して、頃合いだから課長で出した。それくらいの力はあるはずだ」
四年も同じビルに勤めていて、よくも顔合わせしなかったものだ。
そうか、新卒ではなくて働いていたんだ。
「へぇ……って、課長今二十四ですよね? 四年って二十歳から? 計算が合わないですけど。課長興亜大卒業でしたよね?」
「なんだ朱羽、このカバに言ってなかったのか。興亜じゃなくてコロンビアだ」
「コロンビア? 最初と最後だけが同じであたし聞き間違えたんですか?」
「だろうな。朱羽は高校でアメリカに留学して、そのまま飛び級でコロンビア大19歳で卒業した。教授の説得もきかずに帰国してうちに勤めてたんだ。ちなみにコロンビアは最難関と言われる私立大だ」
「ひぇぇぇ!! 最難関の飛び級!? なんですか、その神様みたいな経歴!! だったら、英語ももしかして機械もバリバリなんですか!?」
「勿論。で、この顔だろう? だからアメリカでも日本でも女が放っておかなくて。今も朱羽を見つけたうちの女子社員の顔が変わってる。カバを捕獲しに、こいつは四年前から忌避していたこの食堂に……女の欲と野望渦巻く場所に入ってきた。可愛い奴だろ?」
「渉さん、いいから!」
専務がにこにこと嬉しそうだ。可愛がっていることがよくわかる。
それに対して香月課長も、ちょっとだけ幼く見える。
しかし、課長がここまでエリートだったなんて。
シークレットムーンというよりは、母体の忍月コーポレーションのためにうちに来たようなものだ。
なぜこの時期にうちに来たのかわからないけれど、これならあのタブレットのをひとりで作るのも頷ける。
イケメンで頭がいいってなによ。
世の中の男舐めてるんだろうか。
「おっともうこんな時間だ。そうだカバ」
「あたしはカバじゃないですってば」
「ああ、カバ。朱羽についてなんでも知りたかったら、俺のところに連絡しろ。これ名刺……っと」
渡されたのは、デザインが素敵な名刺。
裏に、胸から取り出したペンでさらさらと数字の羅列。
これはプライベートナンバー?
「そんなもの必要ないだろう、渉さん!!」
「必要あるないを判断するのはカバだ。どうせこのカバは他の女達みたいに俺には媚びねぇし、連絡があるとすればお前のことだろ? な、カバ」
「……そうですね。悪いですけど専務に全く興味がありませんので、課長の素行で困った場合には、ご連絡致します」
にやりと笑い合う。
いいものを貰った。エロ課長で困ったら、告げ口しちゃおう。
「鹿沼主任!! 素行ってなんですか!!」
慌ててる、慌ててる、こんなところ、可愛いと思う。
「くくく……なんだ朱羽。素行に問題ありなんて、カバにセクハラしてるのか? 長期戦じゃなくて短期戦に切り替えたのか」
「なんですかそれ? 長期戦? 短期戦?」
「鹿沼さんには関係ない話です!! ほら、もう行って下さい、渉さん。このひとに手を出さないで下さいよ!? 本当に渉さんは女に見境ないから!」
「まあ、お前ほどではねぇだろ」
「いつの話をしてるんですか! 沙紀さんに携番渡したこと、言いつけますよ!?」
「あ~怖っ。じゃあ行くわ、またなカバ!」
「またはないです、早く行って下さい!! ……ふぅっ」
「……ねぇ課長」
疲れ切って、机の上に伏せている隣の彼に声をかけてみた。
気怠そうな目が向けられる。
「どれくらいの女のひと、食べちゃったんですか?」
「!!!」
少し焦ったように課長の目が泳ぐ。
「本気にそんなことしてたんですか!? 今も!?」
「昔の話です!! 仕方がないでしょう、あなたが」
「あたし?」
「あなただってそうでしょう、結城さんだけではないくせに。しかも結城さんとは恋愛関係でもないんでしょう?」
返事に詰まっていると、課長は机に寝たまま苛ついたようにあたしの手を取り、側頭で押し潰すかのようにしてちょっと顔を動かし――あたしの手のひらに唇を押しつけた。
「な!!」
熱くて柔らかい感触が伝わって、手が麻痺したように動かない。
課長はあたしの手首を掴み、あたしを挑発的な眼差しで睨み付けるようにして、そのまま伸ばした舌を手のひらに這わせた。まるで猫のように。
くらくらする――。
「ん……」
思わず甘い声が漏れてしまうと、課長の目がきらりと光り、今度は優しげに目が細められた。
そして立ち上がる。
「もう昼は終わりです。会社に帰りましょう」
皆が香月課長の美貌に見惚れるその中を、彼はあたしと手を繋いだまま悠然と歩いた。
……なぜか、熱いその手を振り解くことができず。
――セックスしましょう。
課長の声が、頭から消えなかった。
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