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第5章 アムネシアは蜜愛に花開く
あなたの言葉を信じる
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***
「え? 由奈さんに呼び出された?」
昼休み、香代子が固い顔をして出かけていったことが気になっていたけれど、まさか由奈さんが香代子に目をつけるとは思わず、驚きのあまりわたしはカラーサンプルを床に落とした。
「そう。杏咲ちんとタツミィの禁断の内緒話だって呼び出されたわ」
「……で?」
「杏咲ちんのトップシークレットがマスコミに出されたくないのなら、私がユキシマに来ること。そしたら、マスコミに出ないように、由奈嬢がしてあげるってね。さらに私、ユキシマでいい地位と高い給料をくれるらしい。大出世させてくれるみたい。わお」
「……で?」
わたしは、恐る恐る香代子に尋ねた。
「丁重にお断りしてきました。『ユキシマはあんたのものじゃなければ、あんたに上から目線で使われる覚えもない。杏咲を苦しませて憎悪されたいのならお好きにどうぞ。だけど、マスコミに追加情報が出ることになるよ』と」
「追加情報?」
「杏咲ちんを横恋慕する由奈嬢もまた、『禁断関係』に一石を投じることになると。ユキシマとアムネシア社員の泥沼三角関係スキャンダルは、きっと事実以上にマスコミは面白おかしく騒ぎ立てる。ユキシマ社長が守るのは、息子と由奈嬢どちらかねって。それと裁判になったら、レズグッズで杏咲ちんをどうこうしたいと思っていた由奈嬢の性癖も、隠したいあれもこれもが明るみになるけれどそれでいいの? って」
香代子は朗らかに笑う。
「……由奈嬢、なにも言えずに固まったから、放置して帰ってきた。大嫌いな私に声をかけるくらいなんだから、よほど切羽詰まっているのかねぇ? まったく、あんな脅しに私が乗ると思われていただなんて、失礼しちゃう。どさくさ紛れて言いたいことも言ってきたから、すっきり」
「……っ」
「マスコミには出ないよ、断言してもいい。由奈嬢はあざといけど、そこまでの度胸はないし、あんたに嫌われたら、本末転倒だもの。あんたが追い詰められてもいいというのなら、由奈嬢のあんたへの感情は恋ではない。自己否定することにもなるからね。恋をしている人間にとって、その恋を否定されるのは最大の辛さじゃない?」
――私の気持ちを簡単に捨てないでよ!
その気持ちは、わたしもよくわかる。
どれだけ辛いのか、身に染みている。
「他の社員にもそれとなく注意喚起をしておくから、杏咲ちんは心配しない。今は由奈嬢より溺恋の完成が一番の優先事項。それ、わかるね?」
「……うん」
「だったら、気持ち切り替えよう。いい?」
「うん。……香代子」
「なに?」
「……友達でいてくれてありがとう。わたしを気持ち悪いと思わないでくれて、本当にありがとう」
わたしは頭を下げた。
「なに言ってるのさ。やだな……泣かないでよ。つられて私も泣いちゃうじゃない」
「なんで香代子が泣くのよ。涙が止まらなくなるじゃない」
わたし達はしばらく抱き合って、おいおいと泣いてしまった。
たくさんの友達なんていらない。
わたしをわかろうとしてくれる、たったひとりがいれば。
……わたしは本気でそう思った。
「さあ、気を取り直して仕事、仕事。ねぇ、杏咲ちん、色が変わらないかな、溺恋」
色の特殊効果について、香代子がそう言い出した。
「昔からよくあるじゃない。青い口紅だと思ったのに、つけると赤くなるというの」
「ああ、見た目透明なリップだけど、つけるとピンク色になるのも、学生時代流行ったよね」
「そう。そのギャップって貴重だと思うのよ。だけど紫とか青とか明らかな寒色系は冒険だから、客も躊躇うと思う。やはり色は無難にしたい。アムネシアローズとほんのりパープルがかったピンクとかは?」
カラーサンプルを見て、目視で許容出来る色の範囲を決めていく。
「後は変化の時間だよね。すぐ色が変わるのは無粋だわ」
「じゃあさ杏咲ちん。OLなんだから、昼間は健全な色、アフターはちょっと冒険の色ということで、グロス効果が維持出来る範囲内で、研究所にテストして貰おう。よし、これをルミナス組で煮詰めて、アムネシア組にも意見聞いてタツミィに提言するわ。こっちは任せて」
「ありがとう、香代子!!」
「当然でしょう。由奈嬢と広瀬氏に杏咲ちんを渡さないから!」
香代子はアムネシアを代表する企画部のエースになれると思う。
巽も早々にルミナスの企画をしている香代子に一目置いていたらしいため、怜二さんの実力を測るためにも企画書を提出させ、それをアムネシア企画部に見せたそうだ。
その斬新さはアムネシアにはなかった色のようで、香代子に対する評価が上がった中で、今回のこの口紅騒動だ。俄然躍起となる香代子を中心として企画部はまとまりつつあり、香代子はアムネシアでも光り始めた。
誰かの影になることはなく。
そして毎日は飛ぶように過ぎていく。
怜二さんには来訪時間を予想されないために、様々な時間帯でユキシマを訪れたが、依然義母は会ってくれなかった。
後ろから怜二さんや由奈さんの声が聞こえた時は、ヒヤヒヤしながら全力逃走。
それでも皆勤賞よろしく、ユキシマに通い続けるわたしを見兼ねて、受付嬢もシュークリームを受け取るお返しとばかりに、彼らに会うことのない安全な時間帯を教えてくれるようになった。
それもあり、なんとか毎日頑張ることが出来たように思う。
会社が敵同士であろうとも、勤務している人達は同じ人間。
毎日顔を見合わせれば気心も知れる仲となり、義務的な挨拶以外にほんの少しだけでも情が込められれば、情のない義母への憂いを癒やされて帰って来る。
斎藤工務店は怜二さんや由奈さんからの妨害にあったらしいことを、後日斎藤社長から聞いた。
しかしそこは、AACの加賀社長がコネを使って撃退したとのこと。
ふたりが引き下がるくらいだから、有無を言わせないほどの凄いコネだと思うが、どんなものなのか、なぜそんなコネがあるのかは、斎藤社長は笑うばかりで教えてくれなかった。
謎の人物、加賀社長。なにげに実は、凄いひとなのかもしれない。
そんな強い助っ人達のおかげで、納期前にケースは完成の日を迎えた。
「本当に、本当に……素晴らしいです」
完成したケースは、繊細な模様とアムネシアの花がついた素晴らしいもの。
そのすべてがあまりにも美しく、想像以上のものだったため、わたしはその場で大泣きした。
「斎藤社長、そして皆さん。無理を言ったのに、こんな素晴らしいものを本当にありがとうございます」
込み上げる感動や感謝をきちんと伝えられない、自分の語彙力のなさを呪う。
それでもわたしの涙から、察してくれるだろう。
わたしの頭を撫でる斎藤社長の手が温かかったから。
ケースは出来た。
あとは――。
巽が指揮している色については、香代子が可能なまでに詰めてくれたおかげで、アムネシアの技術と合わせて、瑞々しく濡れたアムネシアの色が出ることが出来たようだ。
「杏咲ちん、どうよ? 感想をどうぞ!」
それを見たわたしは、また感動に泣いてしまった。
最近、涙脆くて困る。
「――最高!」
アムネシア全社員でひとつひとつ点検しながら、手作業でケースに詰めていく。
全員でしているとはいえ、朝一でショップに回すには、完全に徹夜作業となる。
そして、発表当日の太陽が昇った――。
わたしが倉庫から、商品を詰める段ボール箱をせっせと運んでいると、それが突如半分なくなった。
「お疲れ」
手伝ってくれたのは、ネクタイ外しワイシャツ姿の巽だった。
廊下の窓から差し込む朝日を浴び、巽の笑顔が眩しい。
「お疲れ様」
ふたりきりになったのは、何日ぶりだろう。
色々と言いたいことはあった。
恋しくて、巽の背広に何度もお世話になった。
ほとんど皆がいる時の業務連絡くらいしか出来なかったから、こうしてゆっくりと彼の優しい眼差しを受けるのは久々で、顔も体も火照ってしまう。
ああ、やっぱり――わたしは巽が好きなんだ。
そう改めて実感するほど、わたしの心身は悦びに打ち震えている。
「お前を俺だけのものにするために、すげぇ働いた。お前の声、聞きたくてたまらなかったけど、俺達のアムネシアを形にするために、我慢していたよ」
〝俺達のアムネシア〟
胸が切なく疼いてしまう。
「恋い焦がれすぎて、背広にお前の残り香を感じた気になり、ひとり悶えていた。相当に俺、やばいだろ。病院行って薬でも貰ってこようと何度も思ったけど、仕事あれば行けないし」
……疲労感漂う顔で笑う巽を見て、黙っているのが居たたまれなくなる。
「い、いや……やばくないよ。やばいのはわたしの方で」
「え?」
「だ、だからその……、その背広、わたしが失敬していたことがあって。していたことがある、というかほぼ毎日羽織らせて頂いていて」
「……寒かったってこと?」
「そうではなく、その……巽欠乏症に陥って」
巽は言わせる気らしい。
説明しろと目で促され、仕方がなく観念する。
「……巽にぎゅっと、されたくて」
ねぇ。なにか、反応してよ。
しかし巽は、石のように固まっている。
きっと呆れ返っているんだ。言わなきゃわかったと羞恥に真っ赤になるわたしは、話を強制終了することにした。
「た、大変お世話になったのです。以上」
すると巽が怒鳴った。
「以上じゃないよ、お前っ! ひとをオカズのようにして、朝っぱらからなに煽るんだよ。我慢に我慢を重ねてきた俺を、暴走させたいのか!?」
……わたし以上に巽の方が真っ赤だった。
「そういう可愛いことは本体の俺にしろよ。なんで俺がいない時に、上着にするんだよ。どうして俺が、自分の上着に妬かなきゃならねぇんだよ!」
「ご、ごめんなさい?」
「本当にわかっているのか、アズは」
巽がわたしを抱きしめ、耳元で囁く。
ふわりと漂う巽の匂いと、力強さにくらくらする。
「上着と俺、どっちにこうやってされたいんだよ」
「……巽」
わたしは巽のワイシャツを握って彼の胸に頬をすり寄せそう言うと、巽はわたしの頭を優しく撫でながら、甘い眼差しを向けてくる。
「アズ。お前、動き過ぎ。疲れ果てて今夜、寝るんじゃないぞ? 俺、寝させてやらねぇぞ? 今のうち仮眠とっとおけよ」
意味ありげに語られた〝今夜〟。
それは巽と約束していた、抱かれる日を意味する。
だが今夜だとは思っていなかったわたしは、純粋に驚く。
「え、今夜? 巽も連日徹夜しているんだから、明日以降でも……」
すると、リップ音をたてて唇を奪われる。
「今夜決行」
艶やな男の目でわたしを捕らえ、巽は言う。
「どれだけ楽しみに、今まで働いたと思う? 今夜こそ、お前を俺のものにする。早く俺のものになれよ」
「……っ」
「俺達の始まりの日を延期などするもんか。……寝かせねぇよ?」
手を取られて指を絡められる。
「今日、すべてを片付ける。だからお前は、なにも考えずに俺についてこい」
頼もしいのか俺様なのかわからないけれど、わたしはまた目を潤ませた。
「昨日から何度泣いてるんだよ」
「だって……」
「……ああ、もう。お前可愛すぎなんだって」
笑う巽が、わたしの唇を奪う。
「ん……ぅ、あ……」
「アズ……っ」
噛みつかれるかのような性急なキスに、巽の想いが伝わって、またわたしの目尻から涙が零れてしまう。
角度を変えたキスは深くなり、わたし達の手から段ボールが音をたてて床に落ちる。
しっかりと互いの背に巻き付いた両腕が、早くひとつになりたいともどかしく動き、隙間がないくらいに体を密着させ抱きしめ合う。
巽自身の香りを吸い込み、巽の熱を感じて、体を熱く濡らしてしまうわたしは思うのだ。
巽に抱かれたい。
巽とひとつになりたい。
自分でも止めることが出来ないほどの衝動。
恋の海に溺れきり、助けを求めて巽の腕だけに縋りつくような、切実な感情。
これは初恋への執着ではない。
わたしは今のこの巽も、愛している――。
「早く夜にならないかな……」
しかし夜の前には、超えねばならない山がある。
「この影のように、お前とひとつになりてぇよ……」
……朝日を浴びて伸びたふたつの影は、既にひとつになっている。
わたし達は、本当にすべてを終えて、ひとつになれるのだろうか。
わたしの恋は成就するのだろうか。
この温もりを、また体で感じられるのだろうか。
もしも、わたし達のアムネシアが負けてしまったら、わたしは――。
揺れるわたしをがっしりと抱きしめる巽は、何度もキスをしながら言う。
「アズ、大丈夫だ。俺はもう、お前を守れない子供じゃない。なにも心配せず、俺に思いきり愛されることだけを考えてくれ」
彼に抱きしめられている幸せな今を、永遠に止められたら。
「広瀬との賭けだって、今日で結果を出してやる。絶対あいつに、アズを渡さない」
わたしは頷いた。
自分の不安より、巽の言葉の方を信じたいから――。
「え? 由奈さんに呼び出された?」
昼休み、香代子が固い顔をして出かけていったことが気になっていたけれど、まさか由奈さんが香代子に目をつけるとは思わず、驚きのあまりわたしはカラーサンプルを床に落とした。
「そう。杏咲ちんとタツミィの禁断の内緒話だって呼び出されたわ」
「……で?」
「杏咲ちんのトップシークレットがマスコミに出されたくないのなら、私がユキシマに来ること。そしたら、マスコミに出ないように、由奈嬢がしてあげるってね。さらに私、ユキシマでいい地位と高い給料をくれるらしい。大出世させてくれるみたい。わお」
「……で?」
わたしは、恐る恐る香代子に尋ねた。
「丁重にお断りしてきました。『ユキシマはあんたのものじゃなければ、あんたに上から目線で使われる覚えもない。杏咲を苦しませて憎悪されたいのならお好きにどうぞ。だけど、マスコミに追加情報が出ることになるよ』と」
「追加情報?」
「杏咲ちんを横恋慕する由奈嬢もまた、『禁断関係』に一石を投じることになると。ユキシマとアムネシア社員の泥沼三角関係スキャンダルは、きっと事実以上にマスコミは面白おかしく騒ぎ立てる。ユキシマ社長が守るのは、息子と由奈嬢どちらかねって。それと裁判になったら、レズグッズで杏咲ちんをどうこうしたいと思っていた由奈嬢の性癖も、隠したいあれもこれもが明るみになるけれどそれでいいの? って」
香代子は朗らかに笑う。
「……由奈嬢、なにも言えずに固まったから、放置して帰ってきた。大嫌いな私に声をかけるくらいなんだから、よほど切羽詰まっているのかねぇ? まったく、あんな脅しに私が乗ると思われていただなんて、失礼しちゃう。どさくさ紛れて言いたいことも言ってきたから、すっきり」
「……っ」
「マスコミには出ないよ、断言してもいい。由奈嬢はあざといけど、そこまでの度胸はないし、あんたに嫌われたら、本末転倒だもの。あんたが追い詰められてもいいというのなら、由奈嬢のあんたへの感情は恋ではない。自己否定することにもなるからね。恋をしている人間にとって、その恋を否定されるのは最大の辛さじゃない?」
――私の気持ちを簡単に捨てないでよ!
その気持ちは、わたしもよくわかる。
どれだけ辛いのか、身に染みている。
「他の社員にもそれとなく注意喚起をしておくから、杏咲ちんは心配しない。今は由奈嬢より溺恋の完成が一番の優先事項。それ、わかるね?」
「……うん」
「だったら、気持ち切り替えよう。いい?」
「うん。……香代子」
「なに?」
「……友達でいてくれてありがとう。わたしを気持ち悪いと思わないでくれて、本当にありがとう」
わたしは頭を下げた。
「なに言ってるのさ。やだな……泣かないでよ。つられて私も泣いちゃうじゃない」
「なんで香代子が泣くのよ。涙が止まらなくなるじゃない」
わたし達はしばらく抱き合って、おいおいと泣いてしまった。
たくさんの友達なんていらない。
わたしをわかろうとしてくれる、たったひとりがいれば。
……わたしは本気でそう思った。
「さあ、気を取り直して仕事、仕事。ねぇ、杏咲ちん、色が変わらないかな、溺恋」
色の特殊効果について、香代子がそう言い出した。
「昔からよくあるじゃない。青い口紅だと思ったのに、つけると赤くなるというの」
「ああ、見た目透明なリップだけど、つけるとピンク色になるのも、学生時代流行ったよね」
「そう。そのギャップって貴重だと思うのよ。だけど紫とか青とか明らかな寒色系は冒険だから、客も躊躇うと思う。やはり色は無難にしたい。アムネシアローズとほんのりパープルがかったピンクとかは?」
カラーサンプルを見て、目視で許容出来る色の範囲を決めていく。
「後は変化の時間だよね。すぐ色が変わるのは無粋だわ」
「じゃあさ杏咲ちん。OLなんだから、昼間は健全な色、アフターはちょっと冒険の色ということで、グロス効果が維持出来る範囲内で、研究所にテストして貰おう。よし、これをルミナス組で煮詰めて、アムネシア組にも意見聞いてタツミィに提言するわ。こっちは任せて」
「ありがとう、香代子!!」
「当然でしょう。由奈嬢と広瀬氏に杏咲ちんを渡さないから!」
香代子はアムネシアを代表する企画部のエースになれると思う。
巽も早々にルミナスの企画をしている香代子に一目置いていたらしいため、怜二さんの実力を測るためにも企画書を提出させ、それをアムネシア企画部に見せたそうだ。
その斬新さはアムネシアにはなかった色のようで、香代子に対する評価が上がった中で、今回のこの口紅騒動だ。俄然躍起となる香代子を中心として企画部はまとまりつつあり、香代子はアムネシアでも光り始めた。
誰かの影になることはなく。
そして毎日は飛ぶように過ぎていく。
怜二さんには来訪時間を予想されないために、様々な時間帯でユキシマを訪れたが、依然義母は会ってくれなかった。
後ろから怜二さんや由奈さんの声が聞こえた時は、ヒヤヒヤしながら全力逃走。
それでも皆勤賞よろしく、ユキシマに通い続けるわたしを見兼ねて、受付嬢もシュークリームを受け取るお返しとばかりに、彼らに会うことのない安全な時間帯を教えてくれるようになった。
それもあり、なんとか毎日頑張ることが出来たように思う。
会社が敵同士であろうとも、勤務している人達は同じ人間。
毎日顔を見合わせれば気心も知れる仲となり、義務的な挨拶以外にほんの少しだけでも情が込められれば、情のない義母への憂いを癒やされて帰って来る。
斎藤工務店は怜二さんや由奈さんからの妨害にあったらしいことを、後日斎藤社長から聞いた。
しかしそこは、AACの加賀社長がコネを使って撃退したとのこと。
ふたりが引き下がるくらいだから、有無を言わせないほどの凄いコネだと思うが、どんなものなのか、なぜそんなコネがあるのかは、斎藤社長は笑うばかりで教えてくれなかった。
謎の人物、加賀社長。なにげに実は、凄いひとなのかもしれない。
そんな強い助っ人達のおかげで、納期前にケースは完成の日を迎えた。
「本当に、本当に……素晴らしいです」
完成したケースは、繊細な模様とアムネシアの花がついた素晴らしいもの。
そのすべてがあまりにも美しく、想像以上のものだったため、わたしはその場で大泣きした。
「斎藤社長、そして皆さん。無理を言ったのに、こんな素晴らしいものを本当にありがとうございます」
込み上げる感動や感謝をきちんと伝えられない、自分の語彙力のなさを呪う。
それでもわたしの涙から、察してくれるだろう。
わたしの頭を撫でる斎藤社長の手が温かかったから。
ケースは出来た。
あとは――。
巽が指揮している色については、香代子が可能なまでに詰めてくれたおかげで、アムネシアの技術と合わせて、瑞々しく濡れたアムネシアの色が出ることが出来たようだ。
「杏咲ちん、どうよ? 感想をどうぞ!」
それを見たわたしは、また感動に泣いてしまった。
最近、涙脆くて困る。
「――最高!」
アムネシア全社員でひとつひとつ点検しながら、手作業でケースに詰めていく。
全員でしているとはいえ、朝一でショップに回すには、完全に徹夜作業となる。
そして、発表当日の太陽が昇った――。
わたしが倉庫から、商品を詰める段ボール箱をせっせと運んでいると、それが突如半分なくなった。
「お疲れ」
手伝ってくれたのは、ネクタイ外しワイシャツ姿の巽だった。
廊下の窓から差し込む朝日を浴び、巽の笑顔が眩しい。
「お疲れ様」
ふたりきりになったのは、何日ぶりだろう。
色々と言いたいことはあった。
恋しくて、巽の背広に何度もお世話になった。
ほとんど皆がいる時の業務連絡くらいしか出来なかったから、こうしてゆっくりと彼の優しい眼差しを受けるのは久々で、顔も体も火照ってしまう。
ああ、やっぱり――わたしは巽が好きなんだ。
そう改めて実感するほど、わたしの心身は悦びに打ち震えている。
「お前を俺だけのものにするために、すげぇ働いた。お前の声、聞きたくてたまらなかったけど、俺達のアムネシアを形にするために、我慢していたよ」
〝俺達のアムネシア〟
胸が切なく疼いてしまう。
「恋い焦がれすぎて、背広にお前の残り香を感じた気になり、ひとり悶えていた。相当に俺、やばいだろ。病院行って薬でも貰ってこようと何度も思ったけど、仕事あれば行けないし」
……疲労感漂う顔で笑う巽を見て、黙っているのが居たたまれなくなる。
「い、いや……やばくないよ。やばいのはわたしの方で」
「え?」
「だ、だからその……、その背広、わたしが失敬していたことがあって。していたことがある、というかほぼ毎日羽織らせて頂いていて」
「……寒かったってこと?」
「そうではなく、その……巽欠乏症に陥って」
巽は言わせる気らしい。
説明しろと目で促され、仕方がなく観念する。
「……巽にぎゅっと、されたくて」
ねぇ。なにか、反応してよ。
しかし巽は、石のように固まっている。
きっと呆れ返っているんだ。言わなきゃわかったと羞恥に真っ赤になるわたしは、話を強制終了することにした。
「た、大変お世話になったのです。以上」
すると巽が怒鳴った。
「以上じゃないよ、お前っ! ひとをオカズのようにして、朝っぱらからなに煽るんだよ。我慢に我慢を重ねてきた俺を、暴走させたいのか!?」
……わたし以上に巽の方が真っ赤だった。
「そういう可愛いことは本体の俺にしろよ。なんで俺がいない時に、上着にするんだよ。どうして俺が、自分の上着に妬かなきゃならねぇんだよ!」
「ご、ごめんなさい?」
「本当にわかっているのか、アズは」
巽がわたしを抱きしめ、耳元で囁く。
ふわりと漂う巽の匂いと、力強さにくらくらする。
「上着と俺、どっちにこうやってされたいんだよ」
「……巽」
わたしは巽のワイシャツを握って彼の胸に頬をすり寄せそう言うと、巽はわたしの頭を優しく撫でながら、甘い眼差しを向けてくる。
「アズ。お前、動き過ぎ。疲れ果てて今夜、寝るんじゃないぞ? 俺、寝させてやらねぇぞ? 今のうち仮眠とっとおけよ」
意味ありげに語られた〝今夜〟。
それは巽と約束していた、抱かれる日を意味する。
だが今夜だとは思っていなかったわたしは、純粋に驚く。
「え、今夜? 巽も連日徹夜しているんだから、明日以降でも……」
すると、リップ音をたてて唇を奪われる。
「今夜決行」
艶やな男の目でわたしを捕らえ、巽は言う。
「どれだけ楽しみに、今まで働いたと思う? 今夜こそ、お前を俺のものにする。早く俺のものになれよ」
「……っ」
「俺達の始まりの日を延期などするもんか。……寝かせねぇよ?」
手を取られて指を絡められる。
「今日、すべてを片付ける。だからお前は、なにも考えずに俺についてこい」
頼もしいのか俺様なのかわからないけれど、わたしはまた目を潤ませた。
「昨日から何度泣いてるんだよ」
「だって……」
「……ああ、もう。お前可愛すぎなんだって」
笑う巽が、わたしの唇を奪う。
「ん……ぅ、あ……」
「アズ……っ」
噛みつかれるかのような性急なキスに、巽の想いが伝わって、またわたしの目尻から涙が零れてしまう。
角度を変えたキスは深くなり、わたし達の手から段ボールが音をたてて床に落ちる。
しっかりと互いの背に巻き付いた両腕が、早くひとつになりたいともどかしく動き、隙間がないくらいに体を密着させ抱きしめ合う。
巽自身の香りを吸い込み、巽の熱を感じて、体を熱く濡らしてしまうわたしは思うのだ。
巽に抱かれたい。
巽とひとつになりたい。
自分でも止めることが出来ないほどの衝動。
恋の海に溺れきり、助けを求めて巽の腕だけに縋りつくような、切実な感情。
これは初恋への執着ではない。
わたしは今のこの巽も、愛している――。
「早く夜にならないかな……」
しかし夜の前には、超えねばならない山がある。
「この影のように、お前とひとつになりてぇよ……」
……朝日を浴びて伸びたふたつの影は、既にひとつになっている。
わたし達は、本当にすべてを終えて、ひとつになれるのだろうか。
わたしの恋は成就するのだろうか。
この温もりを、また体で感じられるのだろうか。
もしも、わたし達のアムネシアが負けてしまったら、わたしは――。
揺れるわたしをがっしりと抱きしめる巽は、何度もキスをしながら言う。
「アズ、大丈夫だ。俺はもう、お前を守れない子供じゃない。なにも心配せず、俺に思いきり愛されることだけを考えてくれ」
彼に抱きしめられている幸せな今を、永遠に止められたら。
「広瀬との賭けだって、今日で結果を出してやる。絶対あいつに、アズを渡さない」
わたしは頷いた。
自分の不安より、巽の言葉の方を信じたいから――。
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ブライダルプランナーとして日々仕事に追われていた“棗 瑠歌”は、2年という年月を共に過ごしてきた相手“鷹松 凪”から、ある日突然フラれてしまう。
それは同棲の話が出ていた矢先だった。
凪が傍にいて当たり前の生活になっていた結果、結婚の機を完全に逃してしまい更に彼は、同じ職場の年下と付き合った事を知りショックと動揺が大きくなった。
ヤケ酒に1人酔い潰れていたところ、偶然居合わせた上司で支配人“桐葉李月”に介抱されるのだが。
実は彼、厄介な事に大の女嫌いで――
元彼を忘れたいアラサー女と、女嫌いを克服したい35歳の拗らせ男が織りなす、恋か戦いの物語―――――――
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