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第4章 歪んだ溺恋と束の間の幸せ
壊れたものから生まれるもの
しおりを挟む時間が時間だけに最終列車はもう出てしまっており、巽は手錠を食い込ませたままフロントで空いている特別室を借りた。奇妙な目で見られたらしいが、そこはスマイルで乗り切ってペンチと消毒液と絆創膏を借りたという。
特別室はワンフロアで、スイートのように景観はよく、窓に映る熱海市街地の光が星のようにきらきらと輝いて綺麗ではあったけれど、精神的にそれを堪能する気分ではなく、カーテンを引いた。
わたし達はソファに座り、巽はペンチで手錠を外して傷口に消毒液を振りかけ、わたしは巽に絆創膏を貼りながら、冷蔵庫にあった氷をハンカチで包み、自分の頬を冷やしていた。
「巽、ありがとうね」
巽はペンチを持ちながら、わたしを見上げた。
「穏便に伝えようとしてくれていたんだね」
――もう最初から、壊れているから。
「巽が、由奈さんがわたしを好きだというのはいつ気づいたの?」
「……最初から」
ペンチで三つ目の枷が外れた。
「三ヶ月前。打ち合わせの帰りに近道をしたラブホ界隈で、広瀬が由奈とラブホから出て来たのを偶然目にした。その後仕事で来た広瀬がお前のことを恋人だと告げた時、ラブホへ行った相手が違うのは前の女かと探りを入れたけれど、三ヶ月前はもうお前と付き合っていたらしい」
「……」
「大体さ、相手先に惚気るほど惚れた女がいたら、他の女と寝ようとしねぇだろ。なにかおかしいなと」
巽はそれから、わたしと離れていた時のことを話してくれた。
決して饒舌ではなく、ぶっきらぼうだったけれど。
巽は、わたしの所在を探していたらしい。
わたしの携帯はつながらず、ようやく義母の監視を抜けて、一緒に住んでいた家に行けば、既に別の家族が住んでいて、わたし達の行方は不明。
わたしの高校に行けば、わたしは転校した後で、誰も転校先を知らないと言う。
父が亡くなくなったのも重なり、情緒不安定だったわたしは、叔母の善意に甘えて、高校卒業まで叔母のところで暮らしていたのだ。
わたしに繋がるものが絶たれてしまった巽は、最後の賭けとばかりに、アムネシアが大好きなわたしなら、アムネシア化粧品会社を就職に選ぶだろうと、巽自身も入社してきたらしい。
……まさかわたしが、就活に失敗していた可能性は考えずに。
アムネシアを隅々まで探しても、わたしはいるはずもなく。
読みが甘かったと巽が嘆いていた時、偶然にも怜二さんにより、わたしがルミナスにいることがわかった。
わたしを確実に手にいれるために、巽が考えたこと。
アムネシアという魅惑的な会社の力を使って、ルミナスごと貰い受ける荒技で、わたしが逃げ出せないように囲んでしまうことだった。
「アムネシア専務として、ルミナス社長に重役職をちらつかせて吸収話を持ちかけた際、ちょうど茶を出したのが由奈で、彼女が社長令嬢だと知った。由奈とふたりになった時、広瀬から杏咲の存在を聞いたこと。ラブホの前で由奈と広瀬と見かけたことを言ってみた。そして、口外しない代わりにと持ち出したのが……」
期間限定の偽装婚約――。
「婚約は由奈の方が乗り気だった」
「それは、入りがどうであれ、巽を気に入ったからでは……」
「そうじゃねぇよ。あいつにとってみれば、どんな男でもよかったんだ。……あいつの望みはふたつ。ひとつは……広瀬を牽制すること」
「牽制?」
「ああ。由奈曰く広瀬は、由奈が勝ち取れない〝婚約者〟の肩書きをひけらかし、〝調子に乗って杏咲と結婚までしようとしている男〟らしい」
あたしは思わず笑ってしまった。
「怜二さんとセックスをするのはよくても、結婚するのは〝調子に乗る〟なんだ?」
「ああ。広瀬とお前が結婚することによって、お前の人生までもが広瀬に縛られたら、もう由奈の手が届かなくなる。セックスは許せても、そこまでは許せなかったんだろう」
「そういう……ものなのかなあ……」
「そういうものらしい。俺なら、好きな奴が他の奴とセックスするのを許すということ自体、理解出来ねぇけどな。絶対許さねぇぞ、俺は。断固阻止してやる」
……と、巽は、なぜかわたしを睨み付けた。
「そして由奈が望むもうひとつは……俺といちゃつくことでお前が俺に嫉妬して泣き乱れ、由奈に対する独占欲が恋情からくるものだと自覚させること」
あたしは思わず、両手で顔を覆って大きなため息をついた。
確かに由奈さんは巽といちゃついていたけれど、結果、わたしが嫉妬したのは由奈さんに対してだ。
そういう可能性があることを、彼女は考えていなかったのだろうか。
必ず報われると、信じていたのだろうか。
「いちゃついて見せることでお前を嫉妬させ、自分を意識させたい……そういう点で俺達は同志であり、婚約は協定だった。……まあ、あいつは、俺が本当に手に入れたいのはルミナス財産と思っていたけど」
――お前を手に入れるためには、俺は由奈との結婚を知らしめることが必要なんだ。
由奈さんは、親の会社を売って巽の手をとったのか。
だからこその突然のルミナス吸収劇。
その恋心ゆえに、ルミナスは売られたのか――。
「……由奈はお前に恋愛感情がないことや、自分が男でないためにお前と繋がれないのを、俺が思っていた以上に思い悩んでいたんだな。だからといってアブノーマルに走るのはどうかとも思うし、フォローしたいわけじゃねぇけど、一方的な拘束道具と、ふたりが楽しむバイブを用意していたことに、由奈なりの葛藤があったんじゃないかって思うんだ」
セックスは愛の行為だと思えばこそ、セックスが出来なければ偽りに走る……わたしだってそうだった。
偽りでも男性器でなければ、愛の行為が出来ない……由奈さんはそう考えたのだろうか。
「広瀬と寝ていることはあっさり白状し、罪悪感がなかった。それどころかどうでもよさそうだった。口にするのはお前の話ばかりで、相当恋愛感情を拗らせている。そうでなけりゃ、お前とセックスした広瀬とセックスすることで、お前と疑似セックスしている気分にはならないだろう、普通は。俺としては、広瀬を邪魔する側にいてくれた方が助かると思ったけど、由奈に寝取られ趣味もあるとは参った。牽制にもなりゃしねぇ」
巽は笑いながら、最後の枷を外した。
「アズ。最悪な形の別れ方にしてしまってすまなかった」
巽が神妙な顔つきで頭を下げる。
「俺が押しまくることでお前が自発的にあいつと別れてくれれば、せめて由奈からの懸想を隠しきれると思ったけれど、完全に俺の読み違いだ。お前をせっつきながら俺がお前に我慢しきれなかった結果が、またこんな崩壊だ」
巽は傷ついた顔をして、わたしの頬を撫でる。
「……今度こそは守りたかったのに」
「守ってくれたよ? 巽は」
いつだって義母が出る十年前の悪夢に引きずり込まれそうになる度に、巽は駆けつけ傍でひっぱりあげてくれた。
「これは……わたしが受けるべき罰なの。だから気にしないで」
「だったら俺のこの姿は、俺が受けるべき罰なのかもな」
傷はいつかは治る。
しかし壊れたものは直らない。
それがわかっていればこそ、わたし達はぎこちなく笑う。
「……あのさ、ひとつ聞きたいんだけれど」
巽が真剣な顔をして訊いてくるから、わたしは首を傾げる。
「指輪、持ち歩くほど……広瀬が好きだったのか?」
不安そうな顔は、悲痛さをも滲ませていた。
「やっぱり、広瀬の指輪を嵌めたかった?」
だからわたしは笑う。
もう、巽への恋心は本人に口にしてしまったから、隠すものなどなにもなかった。
「……ううん、返すつもりだった。……怜二さんより巽の方を好きだと気づいたから、今日怜二さんの家に行って返して別れようとしたの。だから、熱海に来たくなかった」
「……え? だけどお前、ローションを欲していたじゃねぇか。今日はあいつに抱かれたいから、熱海を渋っていたんじゃ……」
「違うわ。怜二さんに濡れようが濡れまいが、もう抱かれるつもりなんてなかったから。……早くローションを始末したかったの。わたしにとっては痛い思い出のものだし」
すると、巽はわたしの腕をぎゅっと掴む。
まるで縋っているかのように。
「別れて……どうするんだ? ようやく、俺の女になってくれるの?」
黒い瞳が揺れ、その声は震撼していた。
「そう簡単に、あっちが駄目ならこっちとはできないよ」
「なんでそんなに頭固いんだよ。もういいだろう、もう十分俺達は苦しんできたんだ。俺は、お前を離したくない」
その真剣さがわたしにも伝わってきて、不覚にもこの状況できゅんと心が跳ねてしまうけれど。
「……巽のところに行けたらいいなとは思う。思うけどすぐは駄目。時間が欲しい」
「……どれくらい?」
「三十年」
「ふざけんな! 還暦間際じゃねぇか」
冗談だったのに、腫れぼったい頬を抓られた。
「だったら、来年」
「無理。俺、死ぬわ」
「あんたの方が年下なのに死ぬわけないでしょう」
「死ぬ。俺、お前に殺されそうだから、生きるために俺が指定する。来週から付き合おう」
「そんな数日なら無意味でしょうが」
「だったら……」
巽はふて腐れたように言う。
「口紅が完成したら。お前を抱かせてよ、付き合ったその日に」
付き合う――巽と本当にそんな関係になれるのだろうか。
それはまるで夢を語るかのように現実味がない。
それでも、そんな日が来るのは素直に嬉しいと思った。
それは昔から、わたしが焦がれてきた瞬間だから。
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