アムネシアは蜜愛に花開く

奏多

文字の大きさ
上 下
35 / 53
第4章 歪んだ溺恋と束の間の幸せ

罪の代償は

しおりを挟む
 

 最初に憎々しげに口を開いたのは巽だった。

「……由奈。GPSをつけていたのか」
「巽くん……、話が違うよね!?」

 巽の言葉に答えず、由奈さんが怒りに震えた声を出した。
 ……巽は協定と言っていたけれど、どんな理由があるにしろ巽に情があるから、いつもは温和な由奈さんが裏切られたとこんなに怒っているのだろう。
 好きでなければGPSなどつけない。
 由奈さんは、巽を束縛したいのだ。

「巽のせいじゃないの、由奈さん。わたしが……」
「巽? 専務だろう、杏咲」

 ぞくりとするほど冷たい怜二さんの声がして、乱れた浴衣姿のわたしは強引に彼に腕を掴まれた。
 そして、怜二さんはガッと音をたてて巽の頬に拳を入れる。
 巽が岩に打ち付けられ、わたしは短い悲鳴をあげた。

「お前、杏咲になにをしたんだ!」

 わたしは巽の元に駆け寄ろうとしたが、怜二さんは、わたしの手を砕きそうなほど強く掴んだまま、わたしには微笑む。
 いつもとなにひとつ変わらない、優しい笑顔で。

「杏咲、俺が来たからもう大丈夫だよ。怖かっただろう?」

 しかしその目は、底なしの闇でも映しているかのように澱んでいる。
 それがまるで仄暗い狂気にも似て、爆ぜる前触れのような剣呑さに、ぞっとする。

「さあ、ホテルに戻って、あのゲス野郎に触られたところを、俺ので消毒してあげる。またいつものように濡れて、乱れて、花咲いてごらん?」

 相当な怒りを抱えているのだということは察するが、仮にも専務に対する無礼な表現と、逆にわたしへのこの猫撫で声が、さらに恐怖感を煽る。
 
 思わず後退るものの、怜二さんの手はぎりぎりとわたしの手を掴むため、わたしは痛みに短い声を上げてしまう。

「ああ、あいつに痛み付けられたんだね。無理矢理なんて酷いよな。杏咲は俺を好きなのに」

 ひたすら怖い。
 ただ怯えるだけの無反応のわたしに、怜二さんの目が剣呑に細められる。

「そうだよね、杏咲? ……杏咲、なぜ頷かない? 杏咲、一体どうしたんだ?」

 由奈さんもこちらを見る。
  
 二組の双眸はまるで鏡面に映したかのように同じく、無感情で澱みきっていた。
 そこに十年前の義母の憎悪がちらつき、震え上がったわたしは夢現ゆめうつつの狭間で泣き叫ぶ。

――この、売女!!

「ごめんなさい、ごめんなさい、お義母さん! ごめんなさいっ」

 また、崩壊する。
 また、わたしが自分に忠実になったせいで、また、誰かが犠牲になって瓦解する。

 優しかったひと達が、壊れていく――。

 喉元にひゅっと嫌な音がすると同時に、背後から抱きしめられ、突如現われた大きな手が視界を遮る。
 暗闇の中、声がした。

「大丈夫だから、アズ。大丈夫だ。もう最初から、壊れているから」

 最初カラ壊レテイル……。

「落ち着いて。いいな、俺が傍にいるから、安心してゆっくり息をしろ。出来るな?」

 巽の掌に覆われながら、わたしは涙を零しながら頷いた。

「――俺の杏咲に、触るなっ!! 離れろっ!!」

 怜二さんが怒鳴り声に、落ち着きを取り戻したわたしの呼吸がまた乱れる。
 すると、巽も素の口調で怜二さんに言った。

「俺なら何度ぶん殴ってもいい。だからアズを怖がらせるな。悪いのはすべて俺だから」
「当然だろうが!」

 違う。
 巽のせいじゃない。
 なんでわたしひとり、守られているの?

 悪いのは――巽を再び好きになってしまった、わたし。

 ようやく正気に戻ったわたしも叫ぶ。

「違う、わたしがっ、わたしが悪いの!!」

 怜二さんに別れを告げる前に、巽に触れられて嬉しいと思った、愚かなこのわたし。

「だから、わたしを――」


「うるせぇぇぇ!! 痴話喧嘩なら部屋でやれぇぇぇ!!」


 ひっ!?

 騒音と化した口論に対するブーイングが、岩間から一斉に沸き起こる。
 これ以上ここで揉めていたら、欲求不満の観客は暴徒と化す。

「一度部屋に戻ろう」

 奇しくも、観客に助けられた形になったが、まるで死刑台に赴く死刑囚のような気分。
 部屋に戻るまでの記憶はほとんどない。
 なにかを喋ったような気もするが、終始静かだったような気もする。

「上に来て。下じゃ落ち着かないから」

 スイートに戻るなり、冷たい声を発した由奈さんを先頭に、二階に上がって和室に入る。
 彼女は仕切り戸を乱暴に開け放ち、敷かれていた二組の敷き布団を、容赦なく足で踏み潰していく。

「巽くんはベッドのところで私と、杏咲ちゃんはここで広瀬くんとそれぞれで話し合いましょう。あとで合流しましょうね」

 怜二さんと同じ目で笑う由奈さんは、妖艶に思えるほど謎の色気を醸し出している。それはこの場にそぐわぬものだから、わたしは本能的に震えてしまった。由奈さんからは、いつもの穏やかさはなかった。

 確かにそれぞれの恋人と、まず話し合う必要はある。
 それは巽も思ったようで、言われるがまま隣の洋室に移り、ベッドの端に腰をかけた。
 仕切りが開いているのがいいのか悪いのかわからないけれど、わたしはハラハラしながら豹変した由奈さんが巽をどうするのかを見守っていた。
 
 巽の後ろ側で由奈さんが床に置いていた大きな通勤バッグを持ち上げ、なにかをごそごそと探している。やがてお目当てのものを見つけたようで、バッグを放ると同時に、巽をベッドを突き飛ばし横に転がした。

「由奈!?」

 驚きながらも体勢を立て直そうとしている巽の両手を、素早く背後で捻りとる。

 そういえば由奈さんは、よく痴漢に遭うからと護身術を習っていたらしいことを思い出すわたしの前で、由奈さんは、バッグの中から取りだしたらしい……金属製の手錠を両手首にかけた。
 それに焦る巽の両足首にも手錠をかけて、慣れた手つきであっという間に巽を拘束してしまったのだ。

 手錠……なんで由奈さん、持っているの?
 警官ならまだしも一介の秘書で、痴漢の犯人捕まえるために必要だったとか?
 巽に、一体なにを……。

「ふざけんな、由奈。取れ!!」
「嫌よ。約束を破ったお仕置きをしなきゃ、お仕置きって嫌がることをすることで、効果があがるのよ」

 由奈さんが仰向きした巽の足の上に跨がって座ると同時に、由奈さんの顔だけがわたしに向けられる。
 いつものように微笑んでいるような美しいその顔にぞくりとするものを感じた時、わたしも怜二さんによって布団の上に転がされた。

 天井を背景に、見下ろす怜二さんが笑う。

「さあ、杏咲。よそ見をしないで、消毒をしようね」
 
 嗜虐的な笑顔をしながら、いつもの優しい口調でわたしに言った。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

ウブな政略妻は、ケダモノ御曹司の執愛に堕とされる

Adria
恋愛
旧題:紳士だと思っていた初恋の人は私への恋心を拗らせた執着系ドSなケダモノでした ある日、父から持ちかけられた政略結婚の相手は、学生時代からずっと好きだった初恋の人だった。 でも彼は来る縁談の全てを断っている。初恋を実らせたい私は副社長である彼の秘書として働くことを決めた。けれど、何の進展もない日々が過ぎていく。だが、ある日会社に忘れ物をして、それを取りに会社に戻ったことから私たちの関係は急速に変わっていった。 彼を知れば知るほどに、彼が私への恋心を拗らせていることを知って戸惑う反面嬉しさもあり、私への執着を隠さない彼のペースに翻弄されていく……。

幸せの見つけ方〜幼馴染は御曹司〜

葉月 まい
恋愛
近すぎて遠い存在 一緒にいるのに 言えない言葉 すれ違い、通り過ぎる二人の想いは いつか重なるのだろうか… 心に秘めた想いを いつか伝えてもいいのだろうか… 遠回りする幼馴染二人の恋の行方は? 幼い頃からいつも一緒にいた 幼馴染の朱里と瑛。 瑛は自分の辛い境遇に巻き込むまいと、 朱里を遠ざけようとする。 そうとは知らず、朱里は寂しさを抱えて… ・*:.。. ♡ 登場人物 ♡.。.:*・ 栗田 朱里(21歳)… 大学生 桐生 瑛(21歳)… 大学生 桐生ホールディングス 御曹司

恋煩いの幸せレシピ ~社長と秘密の恋始めます~

神原オホカミ【書籍発売中】
恋愛
会社に内緒でダブルワークをしている芽生は、アルバイト先の居酒屋で自身が勤める会社の社長に遭遇。 一般社員の顔なんて覚えていないはずと思っていたのが間違いで、気が付けば、クビの代わりに週末に家政婦の仕事をすることに!? 美味しいご飯と家族と仕事と夢。 能天気色気無し女子が、横暴な俺様社長と繰り広げる、お料理恋愛ラブコメ。 ※注意※ 2020年執筆作品 ◆表紙画像は簡単表紙メーカー様で作成しています。 ◆無断転写や内容の模倣はご遠慮ください。 ◆大変申し訳ありませんが不定期更新です。また、予告なく非公開にすることがあります。 ◆文章をAI学習に使うことは絶対にしないでください。 ◆カクヨムさん/エブリスタさん/なろうさんでも掲載してます。

お知らせ有り※※束縛上司!~溺愛体質の上司の深すぎる愛情~

ひなの琴莉
恋愛
イケメンで完璧な上司は自分にだけなぜかとても過保護でしつこい。そんな店長に秘密を握られた。秘密をすることに交換条件として色々求められてしまう。 溺愛体質のヒーロー☓地味子。ドタバタラブコメディ。 2021/3/10 しおりを挟んでくださっている皆様へ。 こちらの作品はすごく昔に書いたのをリメイクして連載していたものです。 しかし、古い作品なので……時代背景と言うか……いろいろ突っ込みどころ満載で、修正しながら書いていたのですが、やはり難しかったです(汗) 楽しい作品に仕上げるのが厳しいと判断し、連載を中止させていただくことにしました。 申しわけありません。 新作を書いて更新していきたいと思っていますので、よろしくお願いします。 お詫びに過去に書いた原文のママ載せておきます。 修正していないのと、若かりし頃の作品のため、 甘めに見てくださいm(__)m

Sweet Healing~真摯な上司の、その唇に癒されて~

汐埼ゆたか
恋愛
絶え間なく溢れ出る涙は彼の唇に吸い取られ 慟哭だけが薄暗い部屋に沈んでいく。    その夜、彼女の絶望と悲しみをすくい取ったのは 仕事上でしか接点のない上司だった。 思っていることを口にするのが苦手 地味で大人しい司書 木ノ下 千紗子 (きのした ちさこ) (24)      × 真面目で優しい千紗子の上司 知的で容姿端麗な課長 雨宮 一彰 (あまみや かずあき) (29) 胸を締め付ける切ない想いを 抱えているのはいったいどちらなのか——— 「叫んでも暴れてもいい、全部受け止めるから」 「君が笑っていられるなら、自分の気持ちなんてどうでもいい」 「その可愛い笑顔が戻るなら、俺は何でも出来そうだよ」 真摯でひたむきな愛が、傷付いた心を癒していく。 ********** ►Attention ※他サイトからの転載(2018/11に書き上げたものです) ※表紙は「かんたん表紙メーカー2」様で作りました。 ※※この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。

10 sweet wedding

国樹田 樹
恋愛
『十年後もお互い独身だったら、結婚しよう』 そんな、どこかのドラマで見た様な約束をした私達。 けれど十年後の今日、私は彼の妻になった。 ……そんな二人の、式後のお話。

一夜限りのお相手は

栗原さとみ
恋愛
私は大学3年の倉持ひより。サークルにも属さず、いたって地味にキャンパスライフを送っている。大学の図書館で一人読書をしたり、好きな写真のスタジオでバイトをして過ごす毎日だ。ある日、アニメサークルに入っている友達の亜美に頼みごとを懇願されて、私はそれを引き受けてしまう。その事がきっかけで思いがけない人と思わぬ展開に……。『その人』は、私が尊敬する写真家で憧れの人だった。R5.1月

【完結】誰にも知られては、いけない私の好きな人。

真守 輪
恋愛
年下の恋人を持つ図書館司書のわたし。 地味でメンヘラなわたしに対して、高校生の恋人は顔も頭もイイが、嫉妬深くて性格と愛情表現が歪みまくっている。 ドSな彼に振り回されるわたしの日常。でも、そんな関係も長くは続かない。わたしたちの関係が、彼の学校に知られた時、わたしは断罪されるから……。 イラスト提供 千里さま

処理中です...