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第2章 誘惑は根性の先に待ち受ける
喧噪の終焉
しおりを挟む悪戯が見つかった子供のように焦るわたしに、怜二さんはにっこりと笑い、気取って言った。
「ちょうどお手洗いからの帰りなんです、お姫様。何杯も何杯も俺のところに、中ジョッキを置いただろう、きみは。俺をビールっ腹にさせるつもりか」
「ははは」
怜二さんは、出されたものはちゃんと消費する。
だからレストランでも、店員さんが水を注いでくれればそれを飲み干そうとして……を延々と繰り返し、店員さんとちょっとしたバトルをしている。
「はー、疲れた」
怜二さんはわたしの横に片足をたてるようにして座ると、こてんと頭をわたしの肩につけて、目許をほんのりと赤らめた柔らかな眼差しを向け、わたしに囁く。
「今夜……俺のとこに泊まらないか? ここからなら俺の家の方が近いし」
そしてわたしの片手を取り、こっそりと指を絡めさせる。
「今日までという企画、終えたんだろう? 俺に杏咲を感じさせて?」
ビー玉のような茶色い瞳が揺れて、妖しげな光を灯し、彼は欲情してくれているのがよくわかった。
それでもわたしは、きゅんと嬉しさに心を弾ませるより前に、ラブローションを持参していないことの方に神経を費やして、簡単にお誘いを断ってしまうのだ。
「あ、明日でもいいですか? 明日は金曜日でゆっくり出来るし、今日は寝不足でボロボロなのを見られるのが恥ずかしくて」
……彼女なのに、愛して貰っているのに。
そんな嘘をついて偽りの蜜で抱かれるわたしは、心の中で怜二さんに必死に詫びる。
「そのままの杏咲でいいんだけれど」
「……でも」
「今日はきみを抱いて眠るだけにするから」
しかし困ったような顔のまま、頑として首を縦に振らないわたしを見て、怜二さんは寂しげに微笑んだ。
「わかった。いい大人がみっともないな。……疲れているから無理強いは出来ないとわかっているのに」
「……っ」
「だったら今日は諦めるから、明日から日曜日まで、ずっと泊まってくれる?」
ラブローションさえ持参出来ればいいのだ。
切実な眼差しに絆され、僅かにはにかんだようにして頷き、返事をしようとしたわたしだったが――。
「は……いぃぃぃぃ!?」
おしぼりが立て続けに、わたし達に向けて投げられてくる。
怜二さんがわたしを抱きしめるようにして、その身体で代わりにおしぼり砲弾を受けて怒鳴った。
「おいこら、お前達……杏咲になにをする!!」
「嫁ーっ、旦那ーっ、いちゃくなーっ!!」
「ブーッブーッブーッ!!」
「目に毒だからあっちにいけーっ!!」
……こっそりのはずだったのに、見られていたなんて恥ずかしい。
「罰として、課長は二次会の幹事でカラオケ十曲!!」
「そうだっ、嫁に捧げる愛の曲を!!」
「に・じ・会っ、にっ・じっ・会っ」
酔っ払いは手がつけられない。
こうなれば怜二さんはノリでもなんでも、叫ぶんだ。
「わかったよ、歌ってやるよ、杏咲への愛の曲をっ!!」
拍手と揶揄の嵐に、怜二さんがくそっと頭をくしゃりと掻き上げる。
「……あの、ちょっと前に、いいですか?」
突然の声に驚いて振り返れば、巽だった。
てっきりあの囃し立てる輪のなかにいると思ったのに、すぐ後ろに立っていたなんて。
「ひっ、い、居たんですか!?」
「はい、居てすみません……」
巽は顔色ひとつ買えずに、スタスタと自分の席について、ぐびりと芋焼酎の水割りを一気に飲む。
そこに由奈さんが四つん這いで現われた。酒に弱い彼女も飲んでしまったのか、片手を丸めて猫の物真似をすると、彼の膝に頬をつけて眠ってしまった。
巽が由奈さんを起こそうとするが、由奈さんは甘えるようにして巽にキスをせがむ。巽はそれを躱しながら頭をよしよしと撫でて、由奈さんをその大きな身体ですっぽりと包み込むようにして、抱きしめた。
絵になるようなその場面に、場はシーンと静まり返る。
同時にわたしの視界のその景色は、見る見る間に色を失い、音をたてて引き裂かれていく。
ふたりを見ていたわたしの心が、悲憤とも憤怒とも判別つかないどす黒いものに覆われ始めて、息をするのが苦しくなってたまらない。
……わかっている。
巽は由奈さんを溺愛して、結婚するんだっていうことも。
わたしには、怜二さんという恋人がいるということも。
だけど――。
「よくやるよなあ、あの専務。あのひとは場違いなんだから、拒めよな」
耳打ちする怜二さんの、巽を部外者とした疎外ある言葉が刺々しかった。
「あの感じなら、子供の方が先にデキてしまったりして」
じりじり。
また怜二さんの声が蝉の声に聞こえてくる。
わたしの胸がきりきりと音をたてた時、後の障子戸が開いて店員さんが正座をしながら告げた。
「飲み放題・食べ放題プランは、あと五分で終了になります」
だからわたしは、それに乗じて強制終了を宣言する。
「今日の宴はこれにて終了になります。皆さん、支度をして下さい!!」
にっこり笑ったわたしは、そのまま店員さんと一緒に先に部屋から出て、会計をすませる。
すると、どこからか巽がふらふらと現われて、財布を取り出した。
本気で三十人分プラス、わたしと巽の分を支払う気だったらしい。
「専務。今日はわたし達が専務をご招待したいんです。もう既にお金は皆から徴収しているので」
「しかし……」
巽がやけにふらつく。
わたしは巽を支えながら言った。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫です……。ちょっと飲み過ぎてしまったようで……」
ぐらりと巽の身体が傾いて、彼の熱い唇がわたしの耳に掠める。
「アズ……」
そう聞こえた気がしたが、きっと気のせいだろう。
耳に残る感触にびくっとしながらも、これはただの酔っ払いだと思い、背負うようにすれば皆が部屋から出てきたため、そのまま引き摺るようにして外に出た。
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