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第2章 誘惑は根性の先に待ち受ける
あの日のアムネシア
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ふらふらと家に戻ったわたしは、玄関先で崩れるようにして眠り込んでしまった。
そしてひとつの、記憶に封をした懐かしき夢を見る。
――お姉ちゃん。
それはもう見る影もない、義弟になりたての頃の巽だった。
あの頃の巽は髪を肩で切り揃えた、天使の如き美少女の姿をしていて、惰弱で人見知りをしていつもわたしの影にいた。
天使を穢そうとする悪い輩は、もれなくわたしの鉄槌が下されることで、巽は怖い姉の弟という肩書きで守られてきたようで、そこからわたしは巽の信頼を勝ち取っていったように思う。
小学生の彼は、わたしの誕生日祝いに、なけなしのお小遣いで買った一輪のアムネシアをわたしに差し出して、はにかんだように笑う。
――お姉ちゃん、大好き。
恥ずかしそうに、しかしひたむきなその顔に、幼心にもドキリとしてしまったあの時。
可愛くて可愛くて、わたしの宝物だった巽。
その彼は、わたしになにかを囁いた。
もうそんな混信は、今でも嗅覚を刺激するアムネシアの香りに遮られて、思い出すことは出来ないけれど。
それが悲しく、わたしは意識を沈ませ、昔のことを走馬灯のように思い出す。
――アズ、どう? 僕、大人に見える?
巽が中学にあがった時、彼は髪を短くして学ランを着た。
妖しげな美少年がそこにいて、またわたしの心が不可解に熱を伴ってドクドクと脈動した。
しかし巽が中学生になった時わたしは受験期で、受験戦争の真っ只中。
合格しないといけないという切迫感とストレスで、些細なことでも神経質になりやすかった。
とりわけそんなわたしに気遣わずに、家で両親がイチャイチャしているのが耐えきれずに、暴言を吐いて出て行ったこともある。
さらに中学校では巽の美少年ぶりが有名になって、姉であるわたしの元に女生徒が巽の情報収集だと詰めかけていた。だから、集中して勉強が出来るのは隣町の小さな図書館か塾しかなく、必然的に巽と一緒にいる時間が減じた。
巽がなにかを訴えたそうな顔をしていたのはわかってはいたけれど、巽がクラスに馴染んだところまではわたしもわかっていたし、中学校に入ったばかりの義弟とこれから高校に入らなければ浪人してしまうかもしれないわたしの立場は違い、今は遊んでいる暇はないのだと、差し出された手を払ったこともある。
そんなすれ違いの年、高校受験が一ヶ月後に控えた一月の中旬。
一月が誕生月のわたしは、机の上に巽が送り主だと思われるアムネシアが置かれているのがわかっていたのに、最後の塾の追い込み合宿があるため、それを水が入った瓶に差し込んだまま家を出て行った。
まだ学校から帰らない巽にお礼も言わずに。
そして帰ってきた時、アムネシアは瓶ごと割れて床に落ち、花びらを散らして枯れていた。
わたしの挿し方が悪くて落ちてしまったのだろう。
……雑に扱ってしまったアムネシアは、今考えれば、毎年アムネシアを贈ってくれていた巽からの、最後の誕生日のプレゼントになってしまったのだ。
わたしが受験のために犠牲にしてきた時間は取り戻せなかった。
わたしが無事第一志望の公立高校に合格出来てひと息つけるようになった時にはもう、おとなびてしまった巽の世界にわたしは不要となっており、彼は意識的にわたしから目を背け、わたしの存在自体を無視するようになったのだ。
巽の背は伸び声は低くなり、肩幅も広くなった。
一人称は「俺」となっていて、クールというのか無愛想というのか、皮肉気な笑いしか見せない可愛げ無い男になってしまっていたのに、女達は歓声をあげて群がり、近所でべたべたと巽に触れているのを見るのも多くなる。
さらに巽が夜遊びをするようになって、女物の香水をつけて帰ることも多くなり、事故だったらどうしようと心配で彼の帰りを寝ないで待っていたわたしは、毎日のように強烈な怒りと悲しみに身を焦がしていた。
心臓が痛くて、食欲もなくなっていた。
――杏咲、反抗期の弟くんが男として好きなんじゃないよね?
巽の反抗期をぼやいていた友達が、わたしの体調不良の原因をそう指摘した時、わたしの心臓は口から出そうなほどに驚愕した。
――まさか、そんな気持ち悪いこと、杏咲が思っているわけないよ!
恋愛感情と身内の独占欲は紙一重だと思うけれど、香水をつけた他の女ではなく、わたしを抱いてくれればいいのにと思ったことがある時点で、身内の情ではないことに気づく。
友人の言葉で自覚した恋は、同時に別の友人の言葉で表沙汰に出来ない邪なものだと悟る。
大事な弟を、恋愛対象に見ていたなんて、こんな気持ち悪い想い、両親にも巽にも知られるわけにはいかない。
わたしは家族を破壊したいわけではなかった。
破壊してまで巽とどうこうしたいという強い気持ちはなく、ただ芽生えていたわたしの気持ちに戸惑っていたのだ。
男は他にも沢山いる……そう思い、半ばやけくそ気味に彼氏を作った高校二年生。
きっかけは友達に人数合わせのためにつれていかれた合コンで、にこやかな彼氏はどこか巽を彷彿し、話も合い数日後に付き合うことになった。
自分でも馬鹿だと思うけれど、巽の影がある男なら、わたしも愛せるとそう盲信的に思ってしまったのだ。
付き合った彼氏はわたしに触れたがり、帰り際、ファーストキスを奪われた。
それを偶然、学校帰りの巽に見られてしまい焦ったけれど、彼はまるで興味がないようにしてすり抜けて家に入ろうとしたから、唇を噛みしめたわたしは自分から彼氏にセカンドキスをねだった。
……巽は、振り向きもしなかった。
「巽……」
ねぇ、いつだって蔑んだ目で疎ましいようにわたしを拒んでいたのは、わたしの受験のせいだけではないよね?
血の繋がりもないのに姉貴ぶって偉そうにして、そのくせ義弟を男として見る気持ち悪い女だから?
「好きに、なって……ごめん」
だったら――。
なんの縛りもない赤の他人のわたしを、なぜ今もそんなに嫌うの?
「父さんと義母さんを……引き裂いてごめん、なさいっ」
わたしは泣きながら、飛び起きる。
白い天井、白いシューズボックスと、ピンクの薔薇の花を模した玄関マット。
ここは見慣れた、わたしの部屋の玄関だった。
わたしは家に戻ってくる早々、玄関マットの上に顔をつけて、靴も履いたままで眠っていたらしい。
巽が義弟だった昔のことを夢で見た気がするが、ぼんやりと靄がかって詳細はわからない。
思い出せる最後の記憶は、怜二さんと一緒にいた休憩室。
のしかかる企画書を押しつけた張本人の冷たい眼差しに、その後の日常的な記憶も吹っ飛んでしまうほどに、わたしにとってはかなりのストレスだったらしい。
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