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第2章 誘惑は根性の先に待ち受ける
新参者は耐え忍ぶのみ
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度々メディアで目にしているアムネシア本社は、鏡張りのなだらかな曲線と凸凹具合が心地いいモダンな建物で、百をゆうに超えるアムネシア社員を包括することが出来る。
ルミナスが静岡に工場を置いていたのに対し、アムネシアは埼玉に工場を置いているが、研究施設や品質管理部門は、アムネシア本社で行うようだ。
アムネシア本社は七階建てで、主要棟が左右に二つ、それを結ぶ形で少し前に迫り出た中央棟の合計三つで構成されている。
左の棟はアムネシア化粧品運営としてそれぞれの部課が、中央棟は主に打ち合わせやミーティングルームや休憩所の他、上階には重役室が。右の棟は研究部門として、白衣を着た男女が日々身体に優しい成分配合や、品質改良など化学的・生物的な研究をしている。
高温続きのこの真夏、ギラギラとした太陽光を吸収して熱中症で倒れるほど建物内温度が上昇しそうだと思いきや、一年を通して適温となる集中管理をされていたり、常に清掃員が掃除をしていて清潔感が漂い、建物構成自体もストレスが溜まらない広々とした造りになっており、それに慣れぬルミナス社員は気後れしそうな心地を抱え、横に寝そべってもおつりがくるような広い廊下の端に、身を縮こまらせて歩く。
対してアムネシア社員は、顔だけで選んだのかと疑いたくなるような化粧映えする妖艶な美女と、スーツフェチなら萌えるだろう美男達ばかりが闊歩しており、同じ東京にいながらも、都会人と田舎人のような環境の差が歴然だった。
強気で本社に入ったルミナス社員は、ほどなくして惨敗の気分を味わっただろうが、これでもアムネシアは業界トップではなく、もっと歴史も由緒も正しい上がいる。
所詮アムネシアは成り上がりでしかなかった。
由奈さんが頼み込んでも、今月末でルミナス社員の処遇を決めるという巽の決意は変わることはなく、皆からの期待はわたしに一心に浴びせられることとなったが、わたしといえば、そんな期待に応える暇なく、そして怜二さんと会ったり電話したりする余裕など一切ないままに、企画部として与えられた机で、巽が命じた百の企画書を取りかかっていた。
おかげさまで貫徹二日め。
どっぷりとした黒々なクマが見えないのは、ルミナス主力商品のひとつである、通称クマ隠し(ハイドベア)のおかげだ。
これは残業続きを見兼ねた香代子が企画案を出したものであり、社員も重宝しているありがたい代物でもある。
「五十五枚、五十六枚……あと四十四枚足りなーい」
どこぞの怪談のヒロイン級の怨霊のように叫ぶと、誰もが震え上がり、特にルミナス社員は香代子と怜二さんに浄化を求めにいく。
明日一日で百にしなければ、巽からどんな蔑みを受けるかわからない。
なによりわたしの肩に、ルミナス社員の今後がかかっているし、わたしのプライドの問題でもある。
初日に巽から聞き出した由奈さん曰く、一応はルミナスブランドは残るらしいが、アムネシアのシリーズの担当も数名であるし、ルミナスブランドや蓄えたデータに精通しているルミナス社員が数名いればいいだけで、三十名もいらないというのが、アムネシア側上層部の言い分。
そして役職付だけを残して後は解雇すればいいのではという意見にまとまりかけた時、巽が、アムネシアの社員に相応しいか否か選別すると言い出して、実際のところ何名を残すつもりかはわからないが、巽なりにワンクッションを置いた救済の形をとったことになる。
由奈さんの親、つまりルミナス社長はアムネシアの幹部になれたようで、元からルミナス社員達を助ける気はなく、アムネシアの意向に逆らうつもりはないようだ。
各課に配属されたルミナス組は、今月末まではお試し期間として、アムネシア社員に監視され、様々な面から点数化されるらしい。
そんな監視対象には、仕事らしい仕事を与えられないまま、アムネシア社員の雑用としてしか機能していなかった。
その屈辱を噛みしめながら、ルミナス入社十年のベテラン社員も、新人の如くコピー取りを頑張るしかない……平たく言えば暇なのだが、新人ならとにかくルミナスの一線で戦ってきた彼らは、彼らで出来る仕事をしようと必死で、大会社に転属して怠慢になりやすいという巽の言葉を借りるのなら、巽の目論みは成功したといえる。
まあ、ルミナス社員を解雇させたくないという殊勝な気持ちが、彼にあれば、だが。
「藤城、ちょっとこっちに来て」
今までどこにいたのかもわからない、何日かぶりで顔を見る恋人が、公の場からわたしを連れだした。
頭の中は百の企画書しかないわたしは、フーフーと(化け)猫のような威嚇をしながら、わたしの思案時間を邪魔する彼の後についていく。
彼は中央棟にある下から見上げれば丸見えの、奥が硝子張りになっている個室につれて鍵をかけると、わたしを抱きしめて、わたしの肩に顔を埋めて囁いた。
「大丈夫、大丈夫だからな」
背中をぽんぽんと叩かれ、企画だけに向いていたわたしの刺々しい心は和らいでいく。
「……というか、きみに会えない俺の方が辛い」
そう寂しげに囁いて、ぎゅっと力を入れて抱擁してくるから、わたしも怜二さんの背中に手を回して、彼の匂いを鼻一杯に嗅ぎ、心を宥めた。
「なんで、電話の電源切っているの?」
「え……。もしかして、充電が切れてたんじゃ……」
「こらっ、なんのための電話だ」
怜二さんは身体を離すと、唇を尖らせて割り曲げた人差し指の関節でコツンとわたしの額をノックする。
「企画、しなきゃいけないんだって?」
「はい。明日までに百を」
怜二さんは唖然としたようだった。
度々メディアで目にしているアムネシア本社は、鏡張りのなだらかな曲線と凸凹具合が心地いいモダンな建物で、百をゆうに超えるアムネシア社員を包括することが出来る。
ルミナスが静岡に工場を置いていたのに対し、アムネシアは埼玉に工場を置いているが、研究施設や品質管理部門は、アムネシア本社で行うようだ。
アムネシア本社は七階建てで、主要棟が左右に二つ、それを結ぶ形で少し前に迫り出た中央棟の合計三つで構成されている。
左の棟はアムネシア化粧品運営としてそれぞれの部課が、中央棟は主に打ち合わせやミーティングルームや休憩所の他、上階には重役室が。右の棟は研究部門として、白衣を着た男女が日々身体に優しい成分配合や、品質改良など化学的・生物的な研究をしている。
高温続きのこの真夏、ギラギラとした太陽光を吸収して熱中症で倒れるほど建物内温度が上昇しそうだと思いきや、一年を通して適温となる集中管理をされていたり、常に清掃員が掃除をしていて清潔感が漂い、建物構成自体もストレスが溜まらない広々とした造りになっており、それに慣れぬルミナス社員は気後れしそうな心地を抱え、横に寝そべってもおつりがくるような広い廊下の端に、身を縮こまらせて歩く。
対してアムネシア社員は、顔だけで選んだのかと疑いたくなるような化粧映えする妖艶な美女と、スーツフェチなら萌えるだろう美男達ばかりが闊歩しており、同じ東京にいながらも、都会人と田舎人のような環境の差が歴然だった。
強気で本社に入ったルミナス社員は、ほどなくして惨敗の気分を味わっただろうが、これでもアムネシアは業界トップではなく、もっと歴史も由緒も正しい上がいる。
所詮アムネシアは成り上がりでしかなかった。
由奈さんが頼み込んでも、今月末でルミナス社員の処遇を決めるという巽の決意は変わることはなく、皆からの期待はわたしに一心に浴びせられることとなったが、わたしといえば、そんな期待に応える暇なく、そして怜二さんと会ったり電話したりする余裕など一切ないままに、企画部として与えられた机で、巽が命じた百の企画書を取りかかっていた。
おかげさまで貫徹二日め。
どっぷりとした黒々なクマが見えないのは、ルミナス主力商品のひとつである、通称クマ隠し(ハイドベア)のおかげだ。
これは残業続きを見兼ねた香代子が企画案を出したものであり、社員も重宝しているありがたい代物でもある。
「五十五枚、五十六枚……あと四十四枚足りなーい」
どこぞの怪談のヒロイン級の怨霊のように叫ぶと、誰もが震え上がり、特にルミナス社員は香代子と怜二さんに浄化を求めにいく。
明日一日で百にしなければ、巽からどんな蔑みを受けるかわからない。
なによりわたしの肩に、ルミナス社員の今後がかかっているし、わたしのプライドの問題でもある。
初日に巽から聞き出した由奈さん曰く、一応はルミナスブランドは残るらしいが、アムネシアのシリーズの担当も数名であるし、ルミナスブランドや蓄えたデータに精通しているルミナス社員が数名いればいいだけで、三十名もいらないというのが、アムネシア側上層部の言い分。
そして役職付だけを残して後は解雇すればいいのではという意見にまとまりかけた時、巽が、アムネシアの社員に相応しいか否か選別すると言い出して、実際のところ何名を残すつもりかはわからないが、巽なりにワンクッションを置いた救済の形をとったことになる。
由奈さんの親、つまりルミナス社長はアムネシアの幹部になれたようで、元からルミナス社員達を助ける気はなく、アムネシアの意向に逆らうつもりはないようだ。
各課に配属されたルミナス組は、今月末まではお試し期間として、アムネシア社員に監視され、様々な面から点数化されるらしい。
そんな監視対象には、仕事らしい仕事を与えられないまま、アムネシア社員の雑用としてしか機能していなかった。
その屈辱を噛みしめながら、ルミナス入社十年のベテラン社員も、新人の如くコピー取りを頑張るしかない……平たく言えば暇なのだが、新人ならとにかくルミナスの一線で戦ってきた彼らは、彼らで出来る仕事をしようと必死で、大会社に転属して怠慢になりやすいという巽の言葉を借りるのなら、巽の目論みは成功したといえる。
まあ、ルミナス社員を解雇させたくないという殊勝な気持ちが、彼にあれば、だが。
「藤城、ちょっとこっちに来て」
今までどこにいたのかもわからない、何日かぶりで顔を見る恋人が、公の場からわたしを連れだした。
頭の中は百の企画書しかないわたしは、フーフーと(化け)猫のような威嚇をしながら、わたしの思案時間を邪魔する彼の後についていく。
彼は中央棟にある下から見上げれば丸見えの、奥が硝子張りになっている個室につれて鍵をかけると、わたしを抱きしめて、わたしの肩に顔を埋めて囁いた。
「大丈夫、大丈夫だからな」
背中をぽんぽんと叩かれ、企画だけに向いていたわたしの刺々しい心は和らいでいく。
「……というか、きみに会えない俺の方が辛い」
そう寂しげに囁いて、ぎゅっと力を入れて抱擁してくるから、わたしも怜二さんの背中に手を回して、彼の匂いを鼻一杯に嗅ぎ、心を宥めた。
「なんで、電話の電源切っているの?」
「え……。もしかして、充電が切れてたんじゃ……」
「こらっ、なんのための電話だ」
怜二さんは身体を離すと、唇を尖らせて割り曲げた人差し指の関節でコツンとわたしの額をノックする。
「企画、しなきゃいけないんだって?」
「はい。明日までに百を」
怜二さんは唖然としたようだった。
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