アムネシアは蜜愛に花開く

奏多

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第1章 突然の再会は婚約者連れで

身に纏うのは偽りの蜜

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 ***

 アムネシア――。

 丸みある花弁が、薄茶がかった薄紅色から段々と薄紫色に変わっていくミステリアスな薔薇で、花言葉は「記憶喪失」だという。

 この薔薇にわたしが惹かれたのは、小学生の時。巽と花屋で見つけたのだ。
 以来巽が一時期、誕生日祝いにとアムネシアを一輪、贈ってくれたこともあった。

 一人暮らしをしながら大学を卒業したわたしは、アムネシアの社名を持つ有名な化粧品会社に入りたいと就活を頑張ったが、最終面接で落とされてしまった。

 今はルミナス化粧品という、中堅で年齢層が若い女性をターゲットにした会社にて、商品開発部という新規開発部門で広報担当として、悪戦苦闘の日々を送っている。

――この売女!

 十年前、わたしと巽の情交を見てしまった義母は、凄まじい剣幕でわたしを罵り、わたしの頬が腫れるほど何度も平手打ちをした。
 巽が必死に庇おうものならさらに逆上し、その結果、巽を連れて家を出た義母は父と離婚し、巽共々他人より遠い他人になった。

 なぜあの日、義母だけ先に家に戻っていたのか……。

 それはちょうど、父がつまみ食いをしたらしい若い部下が、妊娠したかもしれないと泣いて訴えた現場に居合わせたからで、その妊娠はなかったものの、わたしと父、ダブルで義母を裏切ったことになる。

 わたしの初恋は、義母に見られていた時点で砕け散って、肉体関係を伴うあの恋は、害悪だったという罪悪感と嫌悪感だけを深く刻まれたような気がする。

 そのおかげで、わたしは――。



杏咲あずさ、凄く濡れていたけど、そんなに気持ちよかった?」

 付き合って二ヶ月になる、四歳年上の弱冠三十一歳で異例の出世をしている課長の広瀬怜二さんが、シティホテルのベッドでわたしに腕枕をしながら、目尻を下げて優しく微笑んだ。

 いつも流している焦げ茶色の髪は汗でワックスが取れ、ストレートに垂れた長い前髪から覗く顔は、職場で見る顔より幾分幼く見えるものの、優しく爽やかに整っていることには変わらない。
 
 照れるようにして抱きついて誤魔化したわたしの身体は濡れない。
 あの初めての体験でのショックが、十年経ってもいまだ尾を引いているらしい。
 もう記憶の中の巽の姿は朧になっているというのに、濡れない身体が原因で、過去付き合った男達とは駄目になった。

――どうして、きみを濡らすことが出来ないんだろう、俺は。下手でごめん。

 男なんて要らないと思いながらも、真っ赤な顔で何度も告白され、絆されて付き合った。
 優しい広瀬課長を傷つけたくないと、事に及ぶ前にトイレで、ネットで密やかに買ったラブローションをつけている。
 
 セックスがなければ、広瀬課長……怜二さんと一緒に居ると自然体でいられると思う。
 巽に抱いていたような燃えるような激しさや、切なくなるような苦しさは感じないが、穏やかになるこの気分が大人の愛なのだろうと思う。

 だけどセックスだけ、駄目だ。
 それは彼が下手だからとかではない。
 彼にはなんの非はない。
 きっと彼以外にも駄目なのだろうと思う。

 いつ、わたしはセックスに対する罪悪感を消せるのだろう。

 セックス至上主義ではないけれど、やはり愛の行為だと思うため、セックスが自然に出来ないと、相手に愛がなくて裏切られている気がするのだ。

「そういえば、アムネシアとの統合の件、あるだろう?」

 突然語りかけられて、わたしは思考を中断する。

 現在、わたしが落とされたあのアムネシアとルミナスには、統合の噂がある。

 アムネシアのターゲットは上品な金持ちマダム。
 それだけでは生き残れないと、就任したばかりの若い専務が自ら指揮を執り、若手の化粧品メーカーとして古くからのデータを持つルミナスに目をつけ、ルミナスの三嶋社長に統合を持ちかけている……というものだ。

 アムネシアに入りたかったわたしとしては嬉しいけれど、仲間に恵まれ愛着が湧くルミナスの名前が無くなるという噂に、複雑な心境だった。

「統合はアムネシアの専務とルミナスの社長令嬢が結婚するからの、平和的提案だったらしい。ふたりは恋人で付き合って1ヶ月のスピード結婚をしようとしている。どうも専務がベタ惚れで押したみたいだけど」
「え、由奈さん……付き合っているひとがいたんですか!?」
「ああ、びっくりだ。あいつの口からではなく、別の方から聞いたんだ」

 秘書課にいる三嶋由奈は、社長令嬢である上に大層な美女で、わたしより四歳年上であることを忘れてしまうくらい可愛らしい。
 怜二さんの同期で仲がいいため、わたしにも友達のように接してくれる気さくで優しい女性で、おっちょこちょいでボケボケもしているから、同性としても守って上げたいひとでもある。

 由奈さんから恋愛話を聞いたことがなかっただけに、意外だ。

「アムネシアの専務と怜二さんは会ったことがあるんですよね?」
「ああ。同業でも上位会社に挨拶はしていたからな。氷室専務は年下ながら凄いやり手で、アムネシアの危機を救った功績で専務に大出世したらしい。絶世の美形で威圧感も半端なく、これが支配者の器かと正直びびったよ」
「……由奈さん、大丈夫かしら」
「遊びではないことを願うよ」
「まあ、ベタ惚れなら大丈夫かもしれませんね。……美男美女カップルかぁ」
「俺達だって負けてはいない。うん、美女の部分と男のベタ惚れという点では特に」

 怜二さんはわたしの唇を奪い、燻っている火が見える茶色い瞳で微笑む。

「専務に会っている時、ちょうど会社から電話がかかってきて。スマホの待ち受け画面を見られてさ」
「待ち受け?」
「ああ。きみとのツーショット」

 わたしは咽せてしまう。

「専務に色々聞かれて、大分惚気たんだよ。この幸せの延長で近く彼女と家庭を持ちたいんだとか」
「……っ」
「そうしたら専務が深く考え込んで。……思えば、それから三嶋と付き合ったのがすぐなんだから、感化されて奮起したのかもしれないな、自分の恋愛成就に。言わば俺が彼の背中を押したわけだ。あははははは」

 そして怜二さんは笑いをやめて、わたしの唇を指の腹で撫でながら言う。

「……先を越されたくないな、専務と三嶋に」
「え?」
「結婚」

 怜二さんは真剣な顔だった。
 だからわたしは、どういう顔をしていいのかわからず瞳をそらすと、怜二さんは苦笑した。

「すまない。きみのペースに合わせると、約束したのに……」

 実は彼から結婚話を打診されるのは初めてではない。
 婚約指輪も貰ってはいるのだ、結婚してもいいと思える日が来たらしてくれと。

 嬉しいか嬉しくないかと聞かれれば嬉しい。
 けれど、実際わたしは、今がこうして楽しくて幸せを感じているのであって、未来がどうのというのは考えられていなかった。

 考えられないのだ、わたしが結婚して家族を作るのは。

「誤解しないで」

 わたしは彼に抱き付く。
 彼はわたしを胸の中に引き寄せると、背中に手を回しさらにぎゅっと抱きしめて、甘く囁いた。

「わかってる。きみは仕事が楽しいんだろう? わかっているよ。これでも俺はきみの上司で、きみをずっと見てきたのだから」

 仕事は楽しいけれど、それが原因ではない。
 だけどわたしは口を噤んで、心の中で謝る。

「あんまり俺を焦らすなよ。焦らされ過ぎると、拗ねちゃうからな」

 笑うわたしの唇は怜二さんに塞がれ、ねっとりとした彼の舌がわたしの唇を割って口腔内を凌駕すると、ぞくぞくとした甘い痺れが背中に走った。
 甘い声を漏らしながら舌を絡めて唇を離すと、情欲の炎を揺らした視線がぶつかった。

「また、抱いていい?」

 怜二さんが笑いを消したオスの顔になり、布団を剥いでわたしに覆い被さる。
 それに応えたいのに、反応のない身体……。
 それを恨めしく思いながら、無粋な言葉を告げるのだ。

「ごめん、怜二さん。先にトイレ行かせて……」

 そしてわたしは、素直な自分になれずに、彼に抱かれる。

 偽りの蜜を纏いながら。
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