その愛の名は、仁義なき溺情

奏多

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1巻

1-3

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 草薙組の歴史は比較的新しい。藍の義父である草薙ひろしは四代目組長になる。
 草薙組は代々息子に恵まれないため養子をとることが多く、その結果、血よりも濃い親子関係が築かれたという。
 指定暴力団など大組織に属さない独立した組であるものの、創立当時は近隣にあったいくつかの組と、支配権を巡っての抗争はあったようだ。それを藍の義父が主体となり休戦協定が結ばれ、草薙組は、地元住人にも穏健派ヤクザとして受け入れられるようになったらしい。
 草薙組本家は広大な敷地を有している。日本庭園を取り囲むように母屋おもやと、組長と親子のさかずきを交わした子分たち約五十人が共同生活をする数棟の離れがある。
 組長と兄弟のさかずきを交わした者は舎弟しゃていと言い、子分たちからは『叔父貴おじき』と呼ばれるが、舎弟しゃていは組の継承権がないため、屋敷の外に住んでいた。
 そんな事情を頼んでもいないのにぺらぺらとしゃべったのは、ヤスと呼ばれる丸刈り頭の男だった。彼は子分たちを束ねる兄貴格で、瑛の忠実な部下でもあるらしい。
 彼は離れの一室にいる藍に食事を運んできたのだが、藍からハンガーストライキを宣言され、戻るに戻れなくなってしまった。少しでも藍の心を解かそうと、フレンドリーに接しているのだが、食事の話題になると藍はつーんと横を向いてしまう。

「お嬢、食事をとってくださいよう。お嬢が食べているのを確認しないと、俺、若に怒られてしまいます。あのひと、とっても怖いんですよう。だから俺、髪が生えないんです」

 突っ込んでほしいのか、真面目な訴えなのか微妙なため、髪云々は聞いていないふりをした。
 薄い眉毛を下げた顔もその言葉も、ヤクザらしからぬ情けないものだ。拉致した時はもっときりっとしていたように思えたが、子分たちの手前、そう振る舞っていただけなのかもしれない。

(ヤスさん相手ならわたしがほだされると思って、瑛は彼を寄越したんだわ。まあ、単純に顔を合わせたくないから、ヤスさんに小間使いをさせているのかもしれないけど)

 板挟みになるヤスのことは気の毒に思うが、こちらも人生……いや、命そのものがかかっている。
 遺言書が公開されてから今日で三日目。何度か気まぐれに現れる瑛に直訴はしたが、聞く耳を持たない。藍よりも、組長の遺志の方が最優先されるべきものだと言わんばかりだ。
 アパートにいた時は、どんな状況でも藍の言葉には耳を傾けてくれたというのに、今ではもう見る影もない。瑛は、情け容赦ない――ヤクザなのだ。
 何度か脱出をこころみた。しかし見張りをいても、神出鬼没な瑛に連れ戻される。そしてそのたびに見張りがレベルアップし、今ではプロレスラーのようなごつい巨漢たちが、ずらりと廊下に並んでいる。その異様な迫力にたじろぎ、トイレすら気軽に行けない。
 正攻法が無理ならばと、ハンガーストライキを敢行することにしたが、なぜか藍よりも食事を勧めるヤスの方がげっそりとして、今にも倒れてしまいそうな顔色をしていた。

「ヤスさん、おかしいと思わない? 組長と血もつながっていない女が、ヤスさんの組のトップになって、服従しないといけないのよ?」
「組長が決定されたことですから」

 ずいぶんと組長は、子分を飼い慣らしていたようだ。その返答に迷いやブレはない。

「自分たちは組長に大恩があるんです。居場所と生きる意味をもらいましたから。そしてお嬢は、そんな組長の恋を実らせたキューピッド。組長の恩人は、自分たちの大恩人でもあります。だから、組長の決定には喜んで従います」
「組の命運かかっているのよ⁉ あなたたちの居場所を、わたしに潰されても構わないと言うの?」
「……ならばそれこそ組長が望んだことだと、皆が納得します。いや、若が納得させるかと」

 自信満々に答えるヤスに、藍はさらに説得をこころみる。

「ねぇ、若頭は組のナンバー2なんでしょう? 養子縁組までして組長に可愛がられていたのなら、彼が組を継ぐべきよ。それとも、そこまであの若頭は人徳がないの?」
「人徳なら十分過ぎるほどありますよ。若は、組長とはまた違うカリスマですし。今どきのヤクザは世襲性ではないですからね。ただ、若は組長に拾われ、学歴をつけてもらい、親にまでなってもらった――そこまで愛情をかけられた恩は死んでも果たしたいと、常日頃より自分たちに語ってますから、組長の遺志は必ず遂行させるでしょうね」

 心酔する組長からの命令があれば、彼はなんでもする。そのためには、藍の恋心なんてどうでもいいのだと思い知らされ、傷がまだえていない心がじくじくと痛む。

「だったら若頭は、組長に忠実な飼い犬なのね。若頭という肩書きは、名ばかりってこと?」

 ヤスに当たっても仕方がないと思うが、ここまで見事に藍の意思を無視されれば、文句や嫌味を言いたくもなる。するとヤスは、慌てて首を横に振る。

「とんでもない。若は〝死の猟犬〟と呼ばれ、皆から恐れられる怖いひとなんですよ」
(〝死の猟犬〟? なに、その……物騒すぎるふたつ名は)

 ヤスいわく、瑛は昔からよく他組の男色家から狙われたらしいが、誰もが例外なく、えげつない返り討ちにあったとか。ヤスは瑛の握力は半端ないからと笑うが、その握力でなにがどうなったのかは、あえて聞き流した。
 また、別組の会長が草薙組組長を狙ったと知るや、瑛は単身丸腰で乗り込み、傷ひとつ負わずに組員を素手で叩きのめした後、恐怖に震え上がる会長を舎弟しゃていにしたとか――武勇伝は尽きない。
 そうした無敵伝説を誇る瑛の活躍により、草薙組は小さいながらも極道界で一目置かれるようになり、組長は周辺の組との休戦協定を結ぶことができたらしい。
 今の瑛は落ち着いて、頭脳派のインテリヤクザに転向しているという。

(穏やかで柔和な大学生に見えていたけれど、その時点でわたしはだまされていたのね。ここで反抗的な態度を取り続けているわたしが無事なのは、奇跡なのかもしれない)
「若は敵に回したら怖いですが、味方になれば心強い。組長亡き今、若の主人はお嬢です。しっかりと手綱たづなを引いてください」
「それは無理よ。わたしは組長にも瑛の主人にもなる気はない。元の世界に帰らせてもらうわ」

 藍が即答すると、ヤスは屈託なくカラカラと笑った。

「それこそ無理な話です。若はお嬢を離しませんから。若にはお嬢を突き放しても、お嬢の前から消えるという選択肢はありゃしません。お嬢への溺愛度は半端ないっすから」

 溺愛とはなんだろう。不快感と違和感しか残らない。
 思わず顔をしかめた藍を見て、ヤスが苦笑して説明した。

「ヤクザにとって『お嬢』という存在は神聖な溺愛対象なんです。特に草薙組にとっては、お嬢は組長の恩人でもある愛娘。今回だって、お嬢がここに来るとわかった途端、組長を亡くして泣いていた組員たちは不謹慎にも浮かれ出し、床屋に散髪に行って無精髭ぶしょうひげったくらいです。いいですよねぇ、散髪するだけの毛があって。俺は磨くしかできませんでした」

 ヤスは、つるりとした頭を手で撫でた。
 彼はどう反応してもらいたいのだろう。藍はとりあえず空笑いをして流した。

「若はお嬢を出迎える際、若頭の襲名時にあつらえた藍染めの着物を身につけた。なぜ今まで眠らせていたそれを選んだのか、お嬢はおわかりですよね」

 ……『藍』だから、とでも言いたいのだろうか。
 自分と同じ名のものを身につけていたからといって、それが溺愛のあかしになるとは限らない。
 溺愛されていたら、アパートであんなに拒まれることはなかっただろう。
 大体、本人がだましていたことを認め、監禁してまで無理矢理組長にさせようとしているのだ。

「ねぇ、お嬢。どこへ逃げても〝死の猟犬〟は地の果てまで追いかけ、邪魔だてする相手の喉笛を噛みちぎります。若が本気で狩りに出れば、お嬢は骨までしゃぶられますよ」

 ヤスは笑った。彼もまたヤクザだと思い知らされるような、嗜虐的しぎゃくてきな笑みを見せて。

(ま、負けないんだから。……まずは、ひとりきりにならねば)
「ふぅ~。ヤスさんとの会話が楽しくてお腹が空いた気がするわ。少し食事をいただこうかしら。でも見られていると恥ずかしいから、ひとりにさせてくれる? お願い」

 あざとい上目遣いで頼むと、ヤスは少し赤い顔をしてふたつ返事で出て行った。
 こんな手が通用するとは、なんともチョロいヤクザである。

「ヤクザのおどしに屈して、人生詰んでたまるもんですか!」

 ヤスが退出した後、藍は食事など見向きもせず、決意を新たにする。

「逃げる。相手がどんな怪物であろうと、とにかく逃げ切ってやる!」

 部屋には窓があるが、以前窓から逃げようとしたところ、待ち兼ねていた瑛に捕獲されて失敗。今では格子柵が取りつけられてしまった。

「こうなったらプランB。この畳を捲って、床下から外に出るしかないわね」

 策を練る時間なら十分あった。今の時代、スマホで色々と調べられるから便利である。本来ならば畳を返すのに専用の道具が必要らしいが、ドライバーでもできるらしい。それならば箸でも転用できるだろうと思い、それを手に入れるため、食事を残してもらったのだ。
 畳のへりの部分に箸を差し込み、てこの原理で持ち上げる。

「は、箸が折れる……! でももう少し、もう……よし、畳をつかんだ!」
「……お嬢。あなたも懲りないひとですね」

 突然聞こえた声に振り返ると、藍色の着物姿の瑛が腕組みをして壁にもたれて立っている。

(いつ、部屋に入ってきたの⁉)
「床下から、あなたの嫌いな虫やらネズミやらが出てくる可能性を考えていませんね」

 驚きのあまり手から滑り落ちた畳に近づいてきた瑛が、その上を片足で踏みつけた。
 しんと静まり返った中、八畳間の和室が華やかなムスクの香りで満ちる。
 どこまでも甘美で、心が締めつけられる――大嫌いになった香り。
 冷えきった琥珀色こはくいろの瞳と視線が絡むが、藍は臆せず黙したまま毅然きぜんにらみつける。
 重苦しい沈黙に耐えきれなくなったのか、彼は小さくため息をついた。

「……一緒の部屋にいるのも、いやですか?」

 傷ついたと言いたげな悲痛な顔を向けてくる。
 暴虐なヤクザのくせに、なにを傷つくことがあるのか。被害者は、こちらなのに。

「ええ、ヤクザはいや」
「ヤスとは仲良く長話をしていたのに? ……ヤスが浮かれるほどに」

 それはけものがぐるるとうなっているかのような、低い声だった。

「彼は同じヤクザでも暴力的ではないし、比較的話しやすかっただけ。まみれの〝死の猟犬〟さんとは違って」

 そのふたつ名を口にした途端、瑛のまとう空気が剣呑けんのんさを強めた。

「……ヤスがお嬢に、その名を?」
「そ、そうだけど」

 瑛の目にギンと殺気が走ったが、藍がおびえたことを察したのだろう、深呼吸をしてそれを消す。
 その異名は、よほど藍にはばれたくなかったらしい。……今さらなのに。
 少しの沈黙を経て、瑛がゆっくりと言った。

「ねぇ、お嬢。どんなにヤクザが嫌いでも、ヤクザらしくさえなければいいと言うのなら――」

 端麗な顔を自嘲げに歪め、距離を詰めてくる。
 みしり、みしりと畳がきしむ。藍は身体を震わせて後退あとずさり……やがて後がなくなった。

「戻りましょうか? お嬢が恋した大学生の姿に」

 口元は笑っているのに、その目は笑っていない。
 そして、彼は言う。優しさの欠片かけらなどない、隣人の……一ノ瀬瑛の声音で。

「――藍、おいで?」
「馬鹿に……しないで!」

 カッとした藍は怒鳴り、瑛の頬を平手打ちする。
〝死の猟犬〟相手だ。避けられるのを覚悟していたのに、呆気なく乾いた音が響き、藍は逆に驚いてしまった。

「お嬢。これしきのことで狼狽うろたえてはだめです」

 乱れた前髪からのぞ琥珀色こはくいろの瞳が獰猛どうもうな光を揺らめかせて、金色に光ったように見えた。

狼狽うろたえれば……噛みつかれますよ、〝死の猟犬〟に」

 身体の芯が凍りつきそうなほど無感情なその目に、藍は狙われた小動物の如く身をすくませた。

「男には隙を見せないでください。それが……女組長の威厳というものです」

 どこまでも瑛は押しつけてくる。藍が嫌うヤクザの世界を。

「組長にはならない。帰らせて」
「食事をとってください。様子を見にきたら案の定、間違った箸の使い方をしている。そんな顔色ではあさっての襲名式にぶっ倒れてしまいますよ」
「帰らせて、お願いだから」

 藍はその場で土下座した。だが落とされたのは、無情な言葉。

「それはできません。お嬢には組長になっていただきます。その準備はもうできています」

 藍は畳に爪を立てて、瑛をにらみつけた。

「どうすれば帰してくれるの? ここで裸になって、あなたに奉仕すればいい?」

 藍の言葉に、瑛は眉間にしわを刻んで不快さをあらわにすると、寒々しい琥珀色こはくいろの瞳を向けてくる。それは侮蔑や呆れにも似ていた。

「そんなもので、心が動く俺だとでも? 甘く見ないでいただきたい」

 ヤスは、お嬢という存在は溺愛対象と言ったけれど、瑛にとって自分は女ではないのだ。
 彼が執着するのは、お飾りの次期組長が欲しいから。
 三年間一緒にいた北村藍ではなく――
 悔しさと悲しみに、藍はぼたぼたと涙をこぼす。
 涙は見せたくなかったのに、もう無理だった。こらえきれない嗚咽おえつに肩を震わせる。
 こんな男、嫌いだ。
 ――スキ。

「お嬢……」

 大嫌いだ。
 ――コノヒトガスキ……
 ……わかっている。どんなに拒絶しても、この冷たく非情な男をまだ好きだということは。
 憎しみに変えて見ないふりをしていても、恋の残滓ざんしが胸の中で暴れ続けている。
 だから、早く終止符を打ちたい。楽になりたい。

「あなたなんて大嫌い。わたしの世界から、消えてよ……!」

 怒って牙をいて、噛み殺してほしい。
 この苦しい恋心ごと、この世界から消し去ってほしい――
 しかし藍の願いはむなしく、瑛は激高することはなかった。
 それどころか琥珀色こはくいろの瞳に憂いを宿し、藍の前でひざまずいた。

「襲名式が終わったら、お嬢の望む通りにします。だから少しだけ……耐えてもらえませんか」

 そう口にした瑛の顔は強張こわばり、なにか思い詰めているようにも見えた。

「そんなに襲名式をしないといけないの? どんなにわたしがいやだと言っても、無理矢理に」
「……はい。なにがあろうとも、たとえお嬢が理不尽だと思われることでも、それが組長の命令なら遂行する。それが草薙組若頭たる俺の仁義です」

 そんなヤクザ事情など理解したくない。
 だが――現実を受け入れろ、いい加減にもう。
 自分が恋した優しい隣人はもういない。
 守ってくれるひとすらいないのなら、自分ひとりで戦わねばならない。

「……だとしたらあなたは、組長以外の言葉は聞かないと言うのね? そして組長の命令なら、どんなことでもすると」
「はい」
「わたしが組長になった後であれば、あなたはわたしの望み通りにしてくれるの?」
「はい、誓って」

 ――心は決まった。
 それほどまで、組長にだけ従うと言うのなら、自分が取るべき手段はひとつしかない。

「わかったわ。襲名式におとなしく出る。食事もとるわ」

 それを熱望していたくせに、瑛は驚きに目を丸くした。

「なにを驚くことがあるの、〝死の猟犬〟さん。疑うのなら、わたしがちゃんと食事を呑み込んでいるか、喉でも触って確認すれば?」
「……いえ。お嬢を信じます。今、温め直させますので、少しお待ちを」

 瑛は膳を持って退室した。きちんと箸を取り上げることも忘れずに。
 草薙組があくまで組長の命令に忠実で、襲名式以降、藍の望みが叶うというのなら。

「それを逆手に取って、起死回生のチャンスにしてやる!」

 そのために、藍は体力をつけることにしたのだ。


     ※ ※ ※


 襲名式当日――
 藍用にと用意されていたのは、京友禅の着物だった。黒地に金銀赤の花々が咲き乱れ、アクセントとして藍色の流線模様が入っている。
 着付けは瑛が担当した。紋付きの黒い羽織に濃灰色の袴姿はかますがたの瑛は、藍染めの着物姿以上に男らしさを強め、彼の美貌を際立たせていた。
 瑛は藍の襦袢姿じゅばんすがたを見ても表情ひとつ変えず、淡々と豪華な着物を着付けていく。
 言葉を交わすことなく、笑みすら見せ合わない。ただ粛々とした空気だけが部屋にただよう。
 金糸の刺繍ししゅうほどこされた帯を締め上げた後、瑛が後ろから藍の肩をつかむようにして、姿見越しからささやいた。

「……お嬢、とても綺麗です」

 琥珀色こはくいろの瞳は柔らかく、その肌は上気してつやめいていた。

「ありがとう」

 なんの感慨もなく返事をした藍を見て、瑛はなにか言いたげに目を細めたが、彼はそれ以上口を開かなかった。

「お嬢。御髪おぐしを……まとめさせていただきます」

 瑛が藍の髪に触れた途端、藍は強い口調で言う。

「髪は自分でやるから」

 女の命である髪に、瑛には触れてもらいたくなかった。
 瑛は素直に引き下がったが、藍の背後と正面の姿見から、痛いくらいの視線を向けてくる。
 それは冷ややかでありながら、どこまでも熱く、忘れようとしても忘れられないあのひとときを思い出させる。

(何年も前のことに思えるけれど、まだ一ヶ月ぐらいしか経っていないのね……)

 まだ夏の季節は続いているのに、瑛との関係はこんなにも変わってしまった。
 今の自分はもう、彼の優しさに喜ぶような子供ではない。……そう思うのに、彼の熱を感じるだけで呼吸が乱れ、わずかに手が震える。
 負けるな、負けるな。
 藍は唇を噛みしめながら、なんとか髪をまとめ終えた。
 すると瑛がかたわらに立ち、おのれの袖から赤いかんざしを取り出すと、さくりと藍の髪にす。
 鏡越しから見つめてくる瑛が、なにかを訴えるように切なく瞳を揺らしたが、藍はあえて目をそらす。やがて彼は抑えた声を出した。

「……では、いきましょう」


 襲名式は、本家の母屋おもやの大広間で執り行われる。
 大広間には祭壇がもうけられ、鯛や酒などの供物くもつが飾られていた。
 羽織とはかま、もしくは黒いスーツ姿の屈強なヤクザたちが、左右に向かい合わせの状態で座っている。身内だけの質素な式だと聞いていたが、十分参列者は多い。
 それでなくとも藍はヤクザが嫌いだ。そのヤクザたちが、それぞれ威圧的なオーラを放って一堂に会するさまは、式前に広間をのぞいた藍を激しく震駭しんがいさせた。
 気が遠くなりかけている藍の横にすっと立った瑛は、無言のまま藍の手を握る。
 どきりとしながらも、その手を払いのけ、藍は精一杯の虚勢を張って襲名式に臨んだ。
 司会進行は、瑛とともに執行幹部と呼ばれる本部長の男で、藍は初めて顔を見る。
 襲名式は、極道特有の作法があるらしく、神前式や茶席のようにおごそかに進められた。
 誰が組員で誰が関係者なのか、藍にはなにひとつわからない中、藍の亡き義父……四代目組長代理として、若頭である瑛が固めのさかずきを口に含み、藍に渡す。

(まるで結婚式の三三九度ね。瑛と結ばれることは決してないけれど……)

 自嘲しながらも、お飾りの新組長として式一番の大役を務め終えた。
 ……藍は式に関して、ひとつだけ注文をつけていた。式の最後に、新組長として挨拶あいさつをしたいと。
 元々その予定はなかったらしいが、こころよく了承された。
 そして――

「これにてとどこおりなく襲名式は終了しました。では、五代目新組長。お言葉を」

 藍の緊張と高揚が最高潮となる。
 見渡せばいかつい男たちばかり。痛いくらいの視線を浴びせられ、速攻気絶したくなるが、なんとか気力を振り絞って用意されたマイクの前に立った。
 この挨拶あいさつにすべてを賭け、今まで耐えに耐えたのだ。
 手足がカタカタ震えるのを意志の力で押さえつけ、藍はりんとした声を響かせた。

「それでは草薙組新組長として、皆様の前でふたつのことを宣言させていただきます。ひとつ、わたしは前組長の遺産相続をすべて放棄する。ふたつ――」

 言葉の途中で瑛と目が合ったが、藍は目をそらさずに続けた。
 これが藍の切り札。これが藍の生き残る唯一の道。

「ただ今をもって、草薙組は解散する。……いい? か・い・さ・ん!」

 絶対的な最高権力者である組長に、誰もが逆らわないと言うのなら。
 組長の言葉であれば、ヤクザと瑛との因縁そのものを絶つことができる――藍はそう考えたのだ。
 瑛が口元で笑っていた気もしたが、きっとそれは見間違いだろう。
〝死の猟犬〟がこんな茶番劇を、笑って許すはずがない。
 草薙組など知ったものか。
 後は若頭にすべてを押しつけ、逃げ去るのみ。
 恨むなら、ヤクザ嫌いで組に愛着のない小娘に、次期組長を押しつけた前組長を恨め。
 小娘如きどうとでもなると思った、インテリヤクザの見通しの甘さを呪え。
 窮鼠きゅうそだって猫を噛む。
 だったら自分は、死に物狂いで〝死の猟犬〟に食らいついて、逃げ切ってやる。

『襲名式が終わったら、お嬢の望む通りにします』

 ヤクザとは無縁の世界で生きたい――それが自分の望み。
 だから瑛とも絶縁し、たったひとりで生きる。
 呆然としたままの参列者たちが、なにが起きたのかを理解する前に、藍は逃走した。
 両手で着物の裾をまくりながら、騒がしくなってきた廊下を駆け、足袋たびのまま門から外に出た。そして運良く付近に停まっていたタクシーを見つけて乗り込む。

「早く! 早く車を出して!」

 組員たちが駆けつける前に、猛スピードを出した車は、草薙組の本拠地からどんどん遠ざかった。
 ひと息つくと、不意に瑛の顔が思い出される。
 それは烈火の如き激高する〝死の猟犬〟じみたものではなく、藍が恋した穏やかな彼の顔だった。

『いい夢を見れましたか?』
「ばいばい、瑛……」

 藍は切なく痛む胸に手を当てながら、ほろりと涙をこぼした。
 ……藍が五代目組長を襲名して数分。
 草薙組は、新組長の高らかな宣言により、解散することになったのである。


 それから六年――
 藍はヤクザに追い回されるどころか、不気味なくらい平穏に暮らしてきた。
 母の死亡保険金をもとにして引っ越しはしたものの、母の思い出が残る東京から出ることはできなかった。
 変装をしたり、武器にもなる護身用グッズを常に携帯したりして大学に通い続けたが、まるで怪しい気配はない。
 それでも油断は禁物だと、細心の注意を払って過ごしたものの、結局何ごともないまま卒業して社会人になったのである。
 ネットで、草薙組が解散したという小さな記事を見た。極道の世界にしか生きられない組員には、藍の私情で彼らの居場所を奪って悪いことをしたという思いはある。
 だからこそ組員たちから報復を受けたり、組の復活を懇願されたりしても仕方がないと思っていたのだが……ここまで穏やかだと、誰かの介入があると疑わずにいられない。

『襲名式が終わったら、お嬢の望む通りにします』

 組長命令に絶対服従の瑛が、力尽くで組員を制し、彼の仁義をつらぬいているつもりなのか。
 あるいは――彼らにとって利用価値のなくなった女は、すでに記憶から抹消されているのか。
 瑛を中心とし、名を変えた新たな組ができている可能性もある。
 どちらにしろ、瑛を始めとした草薙組との縁は完全になくなった――と思っていたのだが。


     ◆・━・◆・━・◆


「お久しぶりですね、北村さん」

 なぜカルブサイドの社長として、瑛が紹介されるのだろう。
 なぜ西条グループの御曹司のふりをしているのだろう。
 頭の中で疑問が雪崩なだれのように押し寄せてきて、どう処理していいのかわからず、ショートしそうになる。
 瑛は、パニックにおちいる藍の姿を見ると、ふっと笑った。
 目許をやわらげたその微笑は、冷淡だった若頭の時のものではない。藍が恋した男のそれに酷似していたが、記憶とは少し違った。
 ……あれから、六年も経ったのだ。元々兼ね備えていた優美さと端麗さに加えて、大人の妖しげな色香をもまとい、面影よりずっと男らしく精悍せいかんになった。
 さらに藍色のネクタイを締めた上質なスーツ姿が、モデルのような彼の美貌に拍車をかけている。

「北村は西条社長と知り合いだったのか?」

 八城が藍の肩に手を置き、驚いた声を出す。
 それを目にした琥珀色こはくいろの瞳に殺気じみた光が走り、驚いたのだろう、八城はさっと手をひっこめる。するとそれは消え、瑛の顔は再びやわらいだ微笑だけが浮かんだ。


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