エリュシオンでささやいて

奏多

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第9章 Changing Voice

 8.

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 あたしは帰りのタクシーでこっそりと、スマホで十悪と十善戒について調べた。確かに以前、須王が言っていたような掟の内容が、そこにある。

「殺生」⇔「不殺生(殺すこと勿れ)」
「偸盗」⇔「不偸盗(盗むこと勿れ)」
「邪婬」⇔「不邪婬(邪に交わること勿れ)」
「妄語」⇔「不妄語(虚偽やでたらめを言うこと勿れ)」
「綺語」⇔「不綺語(無意味なことを言うこと勿れ)」
「悪口」⇔「不悪口(人を中傷すること勿れ)」
「両舌」⇔「不両舌(他人の仲を裂くこと流れ)」
「慳貪」⇔「不慳貪(貪欲になること勿れ)」
「瞋恚」⇔「不瞋恚(怒り憎むこと勿れ)」
「邪見」⇔「不邪見(見解を間違うこと勿れ)」

 この内、音楽が鳴って示していたのは、情報を盗んだ牧田チーフの「偸盗」、間違っていたと呟いた西尾部長の「邪見」。
 その他天使が歌っていたのは「瞋恚」らしいけれど、九年前の存在を一緒に入れていいのかよくわからない。

 明らかに敵側であり、いなくなった隆くんがここに入るとすれば「両舌」。彼はあたしの交友関係に楔を打ち込もうとしていたのは確かだ。
 盗聴器があることを知っていた美保ちゃんも入れるとすれば、でたらめなことを言ったのだから「妄語」?
 疑えばきりがない。

 だれかが駒として、悪さを背負ってあたしの周りにいると思えば、この先が得体の知れない不安に襲われる。

 ただの偶然であって欲しいけれど、十悪という言葉は仏教用語であり、音楽と結びついていない。結びついて教えていたのは、須王が属していた組織「エリュシオン」のみ。

 誰が考えてて、須王の周囲に十悪を配置したのがわからないから不気味でたまらない。
 一体誰が、どこから……生き残りである須王を見張っていたというのだろう。須王と、そして棗くんを。

 もしかすると、あたしが狙われているのも……須王に近い立場にいるからなのだろうか。
 そう思ったけれど、やはり九年前の天使の記憶の一件に関すれば、あたしもまたなにか狙われる起因があるように思えた。





 エリュシオンに戻ると、お約束のように美保ちゃんが体調不良で早退をしていて、女帝が地団駄を踏んだ。

「もうなんなの、あいつ! 逃げれば助かるとでも思ってるわけ!? 絶対逃がさない! ちょっと私、美保の家行ってくるわ!」

 執念の女帝、会社まで徒歩数分というところに住んでいるらしい美保ちゃんの家に向かった。
 近いからひとりで走って行ったけれど、ちょっと心配だ。

 行く前に比べると社員の数が減っている。
 外回りかと思ったが、机がやけに綺麗に片付けられていて、それだけで不安になる。彼らはもう戻ってこないのではないかと。

「柚」

 須王に呼ばれて、いつもの会議室に入る。 

「棗から電話があった。隆について」

「どうだった?」

「まず履歴書に書かれていた住所にはいなかった。そこで上のおばさんを電話で呼び出して、隆の友達を装ってどこに行ったのか聞き出したらしいが、言われた住所はもぬけの殻、電話は通じねぇ。そこでヤクザを装って」

「え、誰が?」

「棗が。ドスの利いた声を出してヤクザの物真似をして、隆が怪我をさせた治療費を払えないと言っているから、叔母が出せと。そうしたら叔母ではなく、隆から叔母のふりをしてくれと頼まれただけの赤の他人だと泣かれたそうだ」

「あ……」

 隆くんもおばさんも嘘をついていたのか。
 わかっていたとはいえ、事実を突きつけられるのは結構ショックだ。

「隆の居所は不明。生死も不明だ。だがもう少しあたってみるそうだ」

「そう。棗くんに後でお礼言わなきゃね。手がかりないのに走って貰っちゃって」

「ブレスレット貰って張り切ってるんだろうよ。放っておけ」

「いやいや、それとそれとは」

「同じだよ、いいんだよ、あいつは」

 なぜか須王が拗ねてしまった。

 その時あたしのスマホが鳴る。
 画面を見ると女帝からだ。

「もしもし」

『柚、大変なの! 早瀬さんも近くにいる?』

 女帝の声が震えていた。

「うん、いるけどどうしたの?」

 女帝の声が乱れて、いつも以上に甲高い。
 なにかおかしい。

『美保が、美保がっ、うぇぇぇぇっ』

 激しい動揺と嘔吐。
 これは、尋常ではない。

 須王があたしのスマホを奪い取って出た。

「今から行く。住所は……ああ、あのでかいマンションの裏側だな」

 そしてスマホを切り、あたし達は急いで女帝がいる美保ちゃんの家に行く。
 電話口で須王に女帝が口にした目印は、須王はすぐに思い至るものであったらしく、すんなりと迷うことなく行き着いた。

 チャイムを鳴らすが誰も出てくる気配がなく、鍵がかかっていないドアを開けて、無断で家に上がらせて貰った。

「奈緒さん、来たよ。奈緒さん?」

「……なぁ、音楽が聞こえねぇ?」

「え……。確かに聞こえるわ」

 細い廊下に、なにか冷たい風が吹いたように感じてぶるりと身震いする。

 牧田チーフを思い出す。
 女帝の反応を見ていれば、十中八九、あの時と似た光景がこの先に広がっているのだろう。

 あたしも須王も、この先に踏み込むのは本能的に躊躇する。
 だが須王はあたしの手をきつく握ると、そのまま音が聞こえる、突き当たりの広い空間に赴いた。

 そこには壁際で吐いている女帝の姿があった。

「奈緒さん、大丈夫?」

 あたしは慌てて、蹲る女帝の背中を撫でた。
 女帝はあたしに縋るようにしながら、涙目で一点を指さす。
 
 そこにあったのは――。

「!!!」

 天井に打ち付けられたフックに鎖が繋がり、そこから四方向に分かれて両手両足を背後で太い枷で拘束された美保ちゃんが、全裸で三角形のような……海老反り状態にてぶら下がっていたんだ。

 しかも両胸の乳首の部分に、ネジのようなものがついた吸引式のシリンダーがついていて、その透明な筒の中で引っ張られ、乳首がかなり膨張して真っ赤になって痛々しい。同じシリンダーが股間にもあり、その中には大きく膨れあがった秘粒だろう――あまりにグロテスクで生々しい肉片がそこにあり、あたしは思わず目をそむけた。

 異様なのはそれだけではなかった。
 美保ちゃんの口がたこ糸のようなものでジグザグに縫われて、開かないようにされていたのだ。

「なにこれ!!」

 あたしの口の中から、悲鳴のような声が迸り、あまりにホラーな拷問のように残酷すぎて、あたしも吐きたくなった。

 美保ちゃんは完全に白目を向いているが、鼻から息は感じられるため、気絶をしているようだ。
 だが口は太い糸を直接肉に通しているために、穴から血が出ていて、牧田チーフのように失血しているため、身体が衰弱している。

 須王が椅子の上に乗り、両手でフックから鎖を外して下に下ろしたが、枷はどうやって外れるのかわからず、チェーンカッターのような工具がなければ、ピーンと張っている太い鎖を切ることは難しい。

 牧田チーフといい、こんなことをするなんて、人間じゃない。
 冷酷な殺人鬼のいたぶりだ。

 美保ちゃんが可哀想で、犯人に激しい怒りを感じる。
 確かに彼女は嘘をついたし、今までもあまりいい態度ではなかったけれど、なぜ他人にここまでのことをされないといけないのだろう。

 テーブルに置かれていた小さなカセットデッキ。
 今の時代に珍しいその機械は、この場にそぐわぬ陽気な音楽を奏でていた。

 須王も苛立ったようにデッキを床にたたきつけた。
 その衝動で音が鳴らなくなる。

「モウゴ……」

 その呟きは、あたしの頭の中で、スマホで見た十悪と十善戒に変換される。

 妄語、つまりあたしの予想通り、虚偽やでたらめを言ったための美保ちゃんの罰。
 おそらく流れていた音楽は、組織のその掟に対応する音楽なのだろう。

 須王の握り止められた拳が、怒りに震えている。
 そして彼は仰け反るようにして咆哮した。

「ああああああっ!!」

 あまりにも惨い見せつけは、メッセージ性があった。
 もしかして隆くんも……そんな不安に駆られながら、あたしはふたりに聞いた。

「救急車呼んでいい?」

 その声がやけに落ち着いて自分でも、違和感あるように聞こえた。
 惨憺たる現場を見たのはこれが最初ではないから、幾らか耐久性がついたのだろうか。

 あたしの頭の中で、なにかがちらちらと映り、床にごろりと転がって真紅色に塗れる。

 ありえない。
 切り落とされた頭を見たことがあるなんて。

 それでもあたしは、どこか、こうした血色の惨劇を見るのが、慣れきったように冷めたように感じている自分がいることも感じていて、そんな理解出来ない自分にぞっとした。
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