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第7章 Staying Voice
13.
しおりを挟む「話聞かせて貰ったけれど、柚は昔の近所の記憶がないに等しいね」
裕貴くんが棗くんの隣に座って言う。
「だったらたとえば強い暗示みたいのにかかってしまえば、元からそういう記憶だったのだと思い込んでしまうよね。内調の棗姉さん」
裕貴くんには、たくさんのお姉さんが出来てしまったようだ。
「ええ。お嬢様育ちの上原サンは、ある種世間知らずだから、暗示がかかりやすい土台を持っている。だから、強い暗示を事実だと誤認している可能性がある」
「棗くん、その可能性はあるかもしれないけど、実際問題の話としてそう簡単にできるものじゃないでしょう? あたしが催眠術みたいのにかかって、ここまでそうとしか思えない記憶を九年も持っているということになるんだよね?」
「AOP……」
腕組をして考えていた須王が呟く。
「まさか柚が巻き込まれた九年前の時に、AOPの前段階、試作品とも言えるべきものが出来ていたというのか? だから内調がそこまでの資料をお前に提示しているのか?」
確かに地図がついている資料にも「特A」と書かれている、なにやら意味ありげな赤い判子が押されている。
「そこらへんは守秘義務で言えないけれど、黒服の出所を突き止めたのは内調よ。あまりにも用意周到に、欲しい資料が出てくるの。だからそれは朗報でもあり、悪報かな」
「どういう意味?」
裕貴くんの問いに須王が答える。
「つまりAOP絡みの諸問題は黒幕に、資金提供している財閥だけではなく、政界の大物や財界の大物ら闇の存在が複数絡んでいて、どこからどこまでが純粋な資料なのか、どこからどこまでが与えられた状況証拠とさせるつもりなのか、その区別がわからないということさ」
「げっ。棗姉さんの職場でももしかしたら、裏ボスの息がかかっていていいように姉さんが動かされている可能性もあるということ?」
「そ。だから自分の目で見て確かめた資料しか私は信じない。ここにある資料はようやく裏付けがとれたものなのよ。本当に手間よね、身内から出たものが真実かどうかを検証しないといけないなんて」
「お前が追っているのはAOPだけか?」
「今のところね」
「あのさ棗姉さん。黒服、どこから湧いたのかってなんでわかったの? あいつら突然現われて、さっといなくなるだろう? あいつらが柚を拉致しようとしていたのも、実は黒服か柚かどちらかの動向を監視していて知っていた……というクチ?」
「そのクチ。内調もなぜか上原サン、あなたの動きを把握している」
「な、なんで?」
「心当たりがないのなら、黒服が拉致に現れるのと同じ理由に行き当たっているということになるわね」
「あたしがわからないのに、皆がわかっているの?」
「その九年前の柚の記憶とかは?」
女帝が凛とした声で言う。
「そうなると、内調はAOPの前段階が人体に影響している事実を、わかっていて九年も野放しにしていたということにもなるわね」
「あのさ……」
須王が前髪を掻き上げながら、怜悧な眼差しをして言った。
「柚の記憶が、なぜ調べればわかるものにしたのかが気にならねぇか」
「え?」
「バレたくない事実を隠蔽させているというのなら、絶対的にわからない記憶にすればいい。柚が地元に帰ればもしかしてわかるかもしれないことを、なぜそんな記憶にしたのか」
確かに。
「そしてどうして、天使が殺されたという記憶を残していたのかもわからねぇな」
「天使が生きているということを隠すためじゃない? じつは存在していなくて、会ったことがなかった、とかは?」
裕貴くんの言葉に、須王は首を横に振った。
「柚は間違いなく、天使と会っている。棗、エリュシオンの〝不瞋恚〟を唄っていたらしい、こいつが聞いた天使の歌声は」
「え……」
「そんな天使の拉致に現れたのが黒服だ。柚を残していくわけもねぇし、天使との会話や歌を消すのが、あいつらの役目だろう」
「上原サン……その喋れない天使って、首に赤い首輪つけていた? こう、前にわっかがついていて」
棗くんが声を僅かに震わせて尋ねる。
「あ、そう。赤い首輪をつけていたの。わっかつけて」
すると棗くんは青ざめた顔をして唇を震わせる。
須王が天井を振り仰いだ。
「なに、どうしたの?」
裕貴くんと女帝が、あたしを見る。
「まるで、さっぱり」
だけど須王と棗くんは、明らかになにかに行き当たっている。
……恐らく、組織での嫌な思い出のうちのひとつに。
「あ、あのさ」
あたしに出来るのは、その空気を払拭してあげることぐらいだ。
「黒服達がいるのって、渋谷なんでしょう。渋谷のどこらへん?」
棗くんは、はっとしたように笑いを作った緋色の唇で弧を描く。
「渋谷の道玄坂の奥ね。天の奏音の本部がある場所は」
「道玄坂って……NHKホールがあるところらへんか。あの近くにあるんだ、あの変な音楽の宗教」
CMで流れるフレーズを裕貴くんが口ずさむと、皆が失笑する。
「もっといい曲なかったのかしらね。須王、あんた作れば?」
「嫌だね。大河原だというのなら、ますます関わりたくねぇ」
「なんだか知り合いみたいだねぇ、須王と教祖」
あたしが冗談っぽく言うと、須王が思いっきり顔を顰めた。
「冗談。あんな性倒錯者、知り合いでもなんでもねぇよ」
「……昔ね須王、偶然あいつに見初められて……お尻触られたんだって」
「棗っ!!」
「で、ロープでぐるぐる巻きにして警視庁の前に捨てたの。それが幼女連続殺害、強姦・死姦の肩書きつきの男の逮捕の決め手となったのよ」
「須王さん、表彰もんじゃないか!」
「冗談じゃねぇよ。尻を狙われたから捕まえましたなんて言えるか!」
縁とは不思議なものだ。
うん、須王はいつだって綺麗だったろうけれど、幼女ではなくて王様のお尻を狙ったのが運の尽き。なんで狙っちゃったんだろうね。
ひとしきり皆で笑った後、裕貴くんが質問した。
「ねぇ、黒服がそいつが教祖のおかしな教団の中にいるということは、狂信者なのかな」
「いやいや、あのひと達、神様の音なんて聞こうともしないで銃を使っていたじゃない。違うと思う」
「だったらなんで? 黒服を雇ってるの?」
九年前の天使を拉致した黒服と、須王と棗くんがいたエリュシオンという名前の地下組織が同じであるというのなら、九年前の面影を持つ黒服がいる組織もまた、私兵であるという可能性は高い。
「いや違うな」
「私もそう思う」
「なんで?」
「確かに宗教法人は法の手を掻い潜るのに便利ではあるが、組織を育成・維持するには莫大な金が必要だ。さらに銃ら武器の密輸を始めとして、あのド変態が仕切れるわけがねぇ」
「ええ。AOPも関連があるというのなら、あんなクズが太刀打ちできない奴らがついているはずよ。一条財閥がそうだとは言い切れないけど」
「もしも……」
あたしが言った。
「もしも朝霞さんらオリンピアが、ブレーンとなってお金を集めていたら?」
オリンピアは方針が昔と違うのだ。
だけどそうなれば――。
「朝霞と〝天の奏音〟が繋がっているということか」
棗くんが固い声で言う。
「それだけじゃないと思うわ。音楽協会メンバーが上役の組織もきっと動いている。組織が大河原を援助しているかどうかは、まだ調べないとわからないけど。これはちょっと時間がかかるわ」
組織――。
須王と棗くんが潰したものが復活したものか。
「柚が狙われていたのは、二勢力だったよね。喫茶店で、朝霞にケーキを持ってきた奴と、銃乱射したのと」
裕貴くんの声にあたしは頷いた。
「だったらさ、天の奏音と組織っていう奴のふたつじゃない?」
「ありえるけど、そのふたつが柚をなんで狙うんだろう」
女帝が訝しそうにあたしを見た。
なぜあたしが狙われるのか――。
それについては今回も回答が出なかった。
せいぜいあるとすれば、棗くんが言った通りに世間知らずのお嬢様育ちをしていたあたしが、偶然か必然か現れた天使によってAOP実験の格好の的となり、その際になにか見聞きしたのではないかという推測のみ。
だけどそれを隠蔽するためにAOP前段階のものが使われたというのなら、須王の言うとおりに記憶を改竄しているところが見当違いな気もする。
その改竄された記憶により狙われているというのなら、改竄した側もなんで今さらあたしが必要なのかわからない。自分達で改竄したのにその元の記憶が必要だなんて、本末転倒もいいところだ。
なにかしっくりこない。
だからこそ、回答が出ないのだ。
「天の奏音と柚は、関わり合いがあるの?」
女帝の問いにあたしは頭を横に振る。
「全く。大河原も宗教もマスコミでしか知らない」
すると裕貴くんが腕組をしながら呟く。
「銃を乱射する黒服が、なにかの組織に属しているというのはわかるけど、やっぱ俺は、それが宗教に属しているようには思えないんだよなあ。黒服を育てているのが宗教というのが、そもそも納得いかないんだ。隠れ蓑としても……、希代の悪名高きロリコン大河原がこっそり社会に戻っていることも、教祖なんていうものをしているの事態も違和感ありありだ」
終身刑の犯罪者をこっそりと逃がすことが出来るのは、刑務所に収容している犯罪者に影響力がある人物が動いたのは間違いないのだろう。
その人物が大河原に指示をして天の奏音を作って黒服育成しているのなら、あたしを拉致することを指示したのは、その人物なのか大河原なのか、別の指示なのか。
「朝霞がさ、ブレーンだったとしても、柚が朝霞と別れたのはいつだよ」
「二年前」
「二年前に朝霞達が、その協会?とやらの援助を恩に思って、指示されたように大河原の宗教が黒服を育成出来るだけの資金を稼いでいた、としてもだよ? 喫茶店で毒物入れれるようなところも動いているんだろう? 指示した奴らが同じだとしたら、なんでひとつのところに頼まなかったんだ?」
「どちらかだけに頼むのが不安だから、とか、確実にさせるためにふたつにした、とかは?」
「でもさ柚。見た感じ、ケーキには致命的……とまでは言えない、なんだかよくわからない一般的ではない特殊な薬物を使っててさ、もう片方はヤクザ以上に、うんハリウッド映画並に、堂々と銃乱射の捕り物劇だよ? 協力体制はおろか、どちらかといえば、我先にとふたつの勢力が抗争しているような」
「それは私も思った。しかもレベルが違うというか。黒服は堂々と俺達を見ろ的にやってくるけど、片や変装して姿を隠そうとしてる。で黒服は動きが単調でがさつなのよ、臨機応変に頭を使うというよりは銃で脅して拉致しようとしてる。だけど喫茶店で言えばケーキ持ってきた謎の店員だって、持ってきた時に銃を突きつければよかったのよ。そうすれば簡単に柚は拉致できた。なにかどちらも、本当に柚を拉致る気があるのと言いたいのよね、私」
「どういうことさ、姐さん」
「ん? 私はパフォーマンスの線も考えてたりする」
「パフォーマンス!? 堂々と人前で銃乱射して!?」
「でも記憶を書き換えれるのなら、別にいいじゃない?」
女帝の言葉を受けて剣呑な光を目に宿した須王が、同じくなにか物騒なことを考えているようにも見える棗くんに尋ねる。
「……棗、月曜日の件の処理はどうなってる?」
「AOPが使われるかと思って、実は店員の中に私と共に部下を混ぜていたの。その報告によるとおかしな匂いはしていなかったみたいだし、店員は記憶を持っていたわ。ここまでは話したわよね、須王に」
「ああ。ということは、変わったのか状況が」
「ええ。昨日、あそこの店〝神楽亭〟が空になった。店自体がなくなったの。それが悪報のひとつね」
「空? 潰れたということか?」
「それがわからない。店員はおろか責任者もいなくなり私の部下も行方不明よ。物自体がなくなっているんだから、運搬したひとがいるだろうと調査してみてもひっかからない。それどころかビルの責任者、或いはチェーン店の本部長に会いに行って話をしたら、元々そこにチェーン店を出店もしていなければビルを借りていないというの」
「そんな……、だってそこ、ネットで調べたじゃない」
「それがネットからも消えて居るの忽然と。まるで私達の記憶の方が偽りのように。内調の情報部のバックアップサーバーからも消えている」
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