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第7章 Staying Voice
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愛し合った夜が明けた朝、心地よい夢から覚めると、須王が隣にいない。
「え……」
シーツは冷たい。
彼が戻らずに時間が経っていることを、顕著に示していた。
置いて行かれたの?
あたしは、また?
あたしの傷口がじくじくと膿み、パニックになりかけたその時、ピアノの音が微かに聞こえた。
この家にはあたしと須王しかいないはずだ。
あたしではないのなら、須王が弾いている――。
どこからピアノが聞こえるの?
須王はどこにいるの?
全裸は恥ずかしいから、薄い毛布を身体に巻き付けながらベッドから降りれば、音が聞こえるのは、彼が通帳を探してきた隣室だった。
静かにドアを開ける。
そこには、アップライト式の……まるで高級バイオリンのような艶やかな茶色いピアノがあり、須王は椅子に座ってピアノを弾いて、譜面台にある紙に、なにかを書き入れていた。
床には、沢山もの紙が散らばっていた。
「須王……?」
あたしが声を発する前に、びくっと広い背中を震わせた彼は、あたしに振り向いてバツの悪そうな表情を見せる。
「悪ぃ……。起こしちまったか」
部屋は、スタジオでの彼の作業部屋と変わらず、たくさんの楽器とパソコンが置かれてあった。
「お仕事?」
ちょいちょいと指で招かれて、彼の仕事部屋に足を踏み入れると、須王は両手であたしを持ち上げ、彼の膝の上に後ろ向きに座らせた。
……いつも軽々と持ち上げられるけれど、あたしが特段軽いわけではない。それなりにしっかりと体重があるのだから、それを持ち上げられる須王の筋力が凄いんだ。
ズボンを穿いていて、ちょっぴり安心。
彼は後ろからあたしを抱きしめ、あたしの肩から顔を出しながら、耳元に囁く。
「おはようを一番にいいたかったのに……。くそっ」
「はは……。おはよう」
「だから、俺が先に言いたかったんだよ。……おはよう」
あたしの顎を摘ままれた手が彼の方にねじ向けられ、ねっとりとしたキスをされる。
気恥ずかしくなったあたしが、赤い顔をそらすと、額にデコピンをされた。
「照れるなよ。昨日はもっと凄いことをしてたんだぞ?」
「な、なな……っ」
「今日もしような?」
誘惑めいた眼差しと声に、興奮とも警戒ともつかないゾクゾク感に悲鳴を上げると、須王は笑いながら、ぎゅうぎゅうにあたしを抱きしめた。
「なんでこんなもん巻き付けてるの?」
「マッパは恥ずかしいし……」
「別にすぐ脱ぐんだからいいじゃね?」
「な、ななっ!! あ、あなただってズボン穿いてるし!」
「ああ、そんなに脱いで貰いてぇんだ? いいぞ、お望みなら……」
「ぬ、脱がなくていいから!!」
「……真っ赤。慌てて可愛いの」
ちゅっとほっぺに唇が押し当てられた。
「……っ!!」
「ん?」
とろりとした、甘いその目に吸い込まれそうで。
な、なんなのこのひと。
なんでこんなに、甘々なの?
あたし、かわせるスキルは持ち合わせていないんだってば。
あたし、抵抗力のないただの……普通の女なんだってば。
須王の甘さと熱に、翻弄されてしまう――。
「なにか言えよ。また俺に抱かれてぇわけ?」
「ち、違っ。あ、あなた、あたしをからかって楽しんでるでしょう!」
「ばれた?」
「もう!!」
怒れば笑う須王に鼻を噛みつかれて、文句を言えば彼の唇で口を塞がれて。
どこまでも逃れきれない須王の熱が全身を巡る。
「俺、今……すげぇ幸せなんだ。お前が嫌わないでいてくれるのが。好きだって言って貰えるのが」
耳を食まれながら、熱っぽい声で囁かれて。
これは一体なんの罰?
そう思うくらいに、彼は一段とストレートで。
ぶるりと身震いしながら、彼の熱に反応してしまう……身体の震えを抑えようと、あたしのお腹に巻かれた須王の手を、上からぎゅっと掴んでしまう。
「幸せの音楽が頭に流れたんだ。居ても立ってもいられなくて……形にしたかった」
彼は根っからの音楽家だ。
きっかけはあたしかもしれないけれど、あたしだけを理由にできないほど、彼には元々素晴らしい音楽の才能が備わっており、彼しか表現出来ない……独自性と独創性を高め続けている。
「きっと俺は……この曲を口ずさむ度に、この時の幸せを思い出すだろう。今の段階で、中々のものが出来ていると思う」
ピアノは正面に、Ibach(イバッハ)とメーカーの名前がついている。
イバッハとはドイツの最も古いピアノメーカーで、かの有名な「楽劇王」と異名を持つ音楽家ワーグナーも愛用したと言われている。
「イバッハ……なんで?」
イバッハは現代であまり見られない、マニアックなものだ。
「ああ……。ドイツに行った時に、記念に貰った」
「誰から?」
須王が口にしたのは、あたしが憧れていたドイツ人のピアニスト。
「ピアニストでもないのに、彼に師事したの!?」
あたしは彼に憧れていると、言った覚えがあった。
「……まぁ。たまたま偶然傍にいて、話が合ったんだ。それで興味を持ってくれて、少し音楽を勉強しねぇかと誘われて。本格的なピアノ……理論を含めて、作曲について彼から根本を習った」
「習ったって……、彼はドイツ語しか喋れないはずじゃ……」
「ああ、身振り手振りを交えて、カタコトのドイツ語でなんとか」
――ひとは彼を天才音楽家と言うけれど、私から見れば、努力の賜よ。あれだけ頑張ったのだから、どんなに若かろうと今の地位があるのは頷ける。当然よ。
「お前の分背負うためには、ちゃんと習ったほうがいいと思って、それで言われるがまま留学したんだ。そんなに長くはいなかったけど、今でも交流はある。今度、一緒にドイツに会いに行こうか」
何でもないというように、彼は笑った。
須王には、〝たまたま〟なんていう偶然性はないのだろう。
彼は今の結果を残すために、色々と頑張ったんだ。
……自惚れていいのなら、ピアノが弾けなくなったあたしのために、あたしが師事したいと思ったひとの目が留まるようにして、彼の元で、音楽を学んだんだ。
あたしに代わって――。
「……なんてひと」
その間、あたしは彼を恨むことしかしてこになかった。
それだけ辛かったのは事実だけれど、その間に彼は、色々なものの習得にも苦しんでいたということになる。
それを彼は、あたしに見せない。
「ん?」
何でもないという顔だけしか見せない。
あたしが聞かなきゃ、言わなかったんでしょう。
そこまで力をつけて、自在となった音楽でなにを語ろうとしていたのかなんて、彼が既に言っている。
――俺の音楽は、伝えられなかった俺の想いだ。お前に会えなかった九年間、言葉の代わりに音に込めてきた。音を通して、お前に告げていた。いつでもどんな時でも……好きだって。苦しめて悪かったと。
彼があたしに聞かせる音楽は、あたしが目指していたものだ。
彼は技術をすべてマスターして、高みではなく……あたしに向けて、響かせていた。
ああ、なんて贅沢なんだろう。
あたしの好きな音楽が、あたしの好きなひとから、名指しで奏でて貰えているなんて。
九年も――。
あたしは、譜面台の五線譜を見た。
……見たけど、生須王の楽譜は、文字同様解読が困難で。
なにか書いてあるけど、アルファベットらしきものもミミズがのたくっており、一様になにが書かれているのか、一瞥程度では、彼の作品がいかなるものかを窺い見ることは出来ない。
音符も混在していると思えば音符らしき部分も見えるようになったが、音符と字……らしきものとは大差ない形をしている。
散らばっている紙もそうだ。
きっとあたしが見ても、順番すらわからない。
複数の曲が入り乱れていたのなら、余計に混沌(カオス)だ。
それを察したのか、彼は軽く笑って言った。
「俺、字って……、組織に入る前の小学校レベルで止まってるんだ」
「………」
「それなのに、棗は達筆で。あいつからスパルタ指導を受けたのに、これ止まり。幾らかマシにはなったはずなんだけれど」
うわ……。
これなら棗くん泣いちゃう……とは言い出さずに心の内。
「だから俺は、手紙も書くことも無理だし、言葉もお前を傷つけてばかりだし、気持ちを伝える方法は音楽を奏でることしか出来なくて」
「なんか……色々とごめんね」
「いいや。お前はなにも気にすることはねぇ。俺の字は、俺の責任だ」
……字だけではないんだけれど。
「ちょっと、聞いてみる?」
「うん。聞きたい」
銃を握っていたりいやらしいことをしていた彼の両手の十本指が、鍵盤の上に置かれた。
そして――。
「俺の頭の中には、こんな曲が流れている」
彼の指が動き出す。
それは、バラードのような緩やかな短調……マイナーコードの旋律から始まった。
まるで彼にのしかかる絶望が大きく、左手のアルペジオが追い打ちをかけるかのように追い立てて、泣く声も力を無くしているかのように。
Aメロは、一転して長調……メジャーコードで軽快で爽やかで、R&Bのようなリズムを持つ。しかし次第にマイナーコードが入り、不穏になっていく。
Bメロは、激しいマイナーコードの曲で、伴奏がとにかく早く、右手の主旋律が切ない音律になっていく。
そしてサビは、四小節ごとの同じコード進行がただ繰り返されているのに、そう思えないのは右手の動き。まるでショパンの〝革命〟のように、力強く叩きつけるそれは、二週目には両手ともオクターブ上の音を補佐して、華々しく力強く。
そして二度転調して、最後のフィナーレを飾るCメロは、苦しみから解放されたかのようなメジャーコードが繰り返され、終音がすぐ半音階下のマイナーコードになって終わるため、なにかが起きる不安さを僅かに匂わせていた。
……演奏が終わった瞬間、あたしは泣いていた。
口で説明されるよりも、あたしの心が彼の音楽に共鳴していた。
どんな言葉よりも、あたしにとっては最高最強の口説き文句で、身体だけではなく、心が震えた。
「……ありがとう」
自然と、漏れた。
「え?」
「愛してくれて、ありがとう」
言葉すらも震えて。
音楽は彼の素の声だ。
なにも飾ることがない、彼の心だ。
そう思ったら、感無量で込み上げるものがある。
「……は。言葉で苦労してたのに、音聴かせれば一発だったのかよ」
少し照れながらも、拗ねたように彼は言う。
「あたしは、一番のあなたの音楽のファンだわ」
「……音楽だけじゃなくて、俺のファンにもなれよ」
「同じじゃない?」
「違うよ、音楽に妬かせるなよ。俺を一番にしろ」
須王はぶちぶち言いながら、あたしを抱きしめていた手で、毛布越しにあたしの胸を触り始めた。
「返事しねぇと、生で触るぞ」
艶めいた笑いを響かせ彼は脅かしてくる。
「な、生って……。わ、わかったから。うん、音楽以上にあなたが一番」
「……」
「ちょっと、なにか言ってよ」
須王は、言葉の代わりに毛布を剥ぎ取ってしまう。
「ちょ! 約束が……っ」
「約束はしてねぇだろ? 触るぞと言っただけで」
「そ、そんな……」
「駄目だ。俺を煽ったのはお前だろ?」
横暴な言葉を紡ぐ須王の熱い唇が、あたしの耳を甘噛みする。
「ちょ、あ……っ」
湿った音。
擽ったさが高じて、ぞくぞくしてくる。
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