エリュシオンでささやいて

奏多

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第6章 Overture Voice

 12.

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 *+†+*――*+†+*


 憧れの高級お鍋を手にした時、緊張に手がぷるぷると震えた。

 お安いお肉が霜降り松阪牛に見えるね。
 ほぅら、お安い松阪牛が美味しそうだね。

「嘘だ。それは安い肉だ」

 早瀬が後ろから抱きついている。
 大きなコアラはお肉料理から離れない。

「安い肉だと思うから安いのよ。松阪牛と思えば……」

「絶対思わねぇ!」

 ……なんだか早瀬の身体が強張っているように思えたから、放置していた。
 早瀬はなにを言い出す気なんだろう。
 九年前のことが、そんなに言いづらいことなんだろうか。

 そう思うと、あたしまで緊張してきて、早瀬と馬鹿なやりとりをしないと気が紛れなかった。

「さあ、食べましょう」

 使った形跡のない炊飯器で、買ったお米が炊けたら準備OK。
 ワイン色のテーブルの上にご飯を並べた。

 肉肉言う早瀬のために作ったのは、挽肉と炒めた刻み野菜を調味料で味付けしたものを、アルミ箔で包んでフライパンで蒸し焼きミートローフ。

 豚モモの薄切り肉にチーズを挟んで、マヨネーズを塗った肉にパン粉をまぶしてフライパンで揚げる。

 ミートローフのお肉をキャベツで包んでキャベツロールスープ。

 さらになぜか、カレー粉を棚から取り出した早瀬のために、カレーライスという、ちょっと残念なメニューになってしまったけれど、それでも所要時間30分もかからない。

「うまい!! これ、松阪牛?」

「そんなもの買ってないでしょ」

「なんで安くてこんなに美味しいの? お前、神?」

「違います」

「お前、俺太らせる気?」

「ちょっ、なんであたしのまで取るのよ! 自分の……ちょっと!」

 早瀬は、うまいうまいと繰り返しながら、あたしの方まで箸を伸ばして、遠慮無くお肉をとっていく。

 それがなんだか悪ガキのようで、怒る気分にもなれずに、くすりと笑ってしまうあたし。

 優雅な箸使いと、それとは正反対の無邪気さを兼ね添えた早瀬は、本当に嬉しそうで、見ているだけでほっこりとしてしまうから。

 早瀬と笑いあいながら食事をとれるようになったことが感無量で。

 あんなに怖いと思っていた早瀬が、なにも怖くない。
 それどころか、愛おしいと思うあたし。
  
「お前、スタジオであまり料理するなよ」

「え……。人様に出せるほどの料理じゃないか」

 高揚した分、落とし込むのもやっぱり早瀬で。

「そういう意味じゃねぇよ。他の奴らの胃袋を掴むなっていうことだ」

 口を尖らせて早瀬は言う。

「俺ひとりでいいだろう?」

 どこか揺れているダークブルーの瞳があたしに向いた。

「でも女帝と家事は分担制で……」

「どうしてそっちに行くんだよ。男の胃袋を掴むという話は、ひとつの方向しかねぇだろ?」

 ひとつの方向?

「え、どの方向?」

 きょとんとすると早瀬が拗ねた。
 恨めしげにあたしを見ながら、がつがつとちょっと乱暴にお夕食。

 胃袋を掴むなんて……、医療系?




 あたしが食器を洗っている間、早瀬は寝室から赤ワインを三本用意して持ってきて、スーパーで買ったカルパスをお皿に入れている。

 王様がカルパスなんて……と思うけれど、これも肉系なんだろうか。

 ふかふかなダークブルーのソファにちょっと離れて座ると、早瀬の手が伸びて引き寄せられた。

 コルクを抜いてくれて、ワイングラスに赤ワインを入れてくれる。

「夏の中元に送られてきた奴だ。棗が狙ってたけど、お前に飲ませてやる」

「棗くんに悪い……」

「そうだ。棗よりお前に飲ませてやるんだから、今度は仕切り直しでゆっくり飲めよ?」

 早瀬がわざわざ赤ワインを持ってきてくれたのは、あの横浜での失態を上書きしようとしてくれているからなのか。

 こういうのがさりげなくて優しいよね。

「うん、ありがとう」

 乾杯して、カツンとグラスを鳴らした。

「これもとても美味しいけど、なんて言うワインなの? 高そう」

 横浜で飲んだのより美味しい。

 早瀬はボトルを持ち上げてラベルを見たようだ。
 当然ながら、日本語ではない。

「ロマネ・コンティの……ああ、このタイプなら、そんなに高くねぇな。二十万くらいだから」

 思わず口に含んだ赤ワインを吹き出しそうになった。
   
「二十……そんなにするの、そのワイン」

「ああ。まあこれも賄賂だからな。上を見れば、100万超すロマネコンティもある」

 そんなワインを飲むひとは、どんなセレブなのかしら。
 二十万と聞いただけで、あたしの飲み方がちびちびとなる。

 そんなあたしを早瀬は笑いながら見て、ワインを口に含むと、そのまま、なにかを考え込んでいる。

「どうしたの?」

「ん……」

 またワインを飲んだ。

「なにから話したらいいのかなって」

 目許をほんのりと赤くさせて、妖艶に……しかしどこか苦悶の表情をする。

「いざとなったら、なにも言葉が出てこねぇ」

 自嘲気に笑いながら、早瀬はまたワイングラスを呷る。

「こんなんじゃいけねぇのに」

 空を睨みつけるその横顔は、翳って見えた。
 
 棗くんに言われた。
 早瀬の自発的な言葉を待って居て欲しいと。

 質問をするとあたしは早瀬に言った。

 聞きたいことはたくさんある。
 言いたいことはたくさんある。

 だけどそれは、早瀬の言葉を待ってからでもいい。

 あたしは、ワインを飲みながら、彼の言葉を待った。

「俺は……小学校高学年から中学校にも行ってねぇんだ。棗もそうだ。俺達は親に捨てられて、施設で育った。ろくでもねぇ母親に虐待された挙げ句に」

 話し始めたのは、意外な話題で。

「施設は……地獄だった。施設は隠れ蓑で、世間から見捨てられた他の子供と共に、あるところで、ある金持ち集団の……私兵としての訓練をさせられた。傭兵と言えばいいのか。……言わば黒服達のようなものだ」

 あまりに不穏な話の展開に、あたしの顔が強張る。

「八歳で銃を持ち、格闘術を仕込まれた。筋がよかったみたいで、こなせばこなすほどに、過酷な訓練が待っていた」

 目の前にいる男は、華々しい脚光を浴びた、天才音楽家の早瀬須王で――。

 物騒な世界とは無縁なのに、確かにあたしは早瀬が銃を難なく使うのを見た。確かにひとを倒しているのも見た。

 それは尋常ではない非日常の一幕だったのに、黒服のような……ひとの命を奪う側に居たということを信じることが出来ない。

 早瀬は、こんなに……あたしの日常に溶け込んだ男なのに。
  
「呑気に学校なんて行ってられず、毎日生きるか死ぬかの猛特訓で。銃と格闘術は、死なねぇためには必要だった。地獄から抜け出すためには、生き抜かねぇといけなかった。……生き残るために仲間を殺しながら」

 早瀬は泣きそうな顔であたしを見て言った。

「あの組織は、タルタロスだった」

 早瀬の唇が戦慄いた。
 
「死んだ仲間の、恨めしい声が聞こえて発狂しそうになり、生きていて悪かったと何度叫んだろう。やがて、血の匂い、悲鳴……それに動じねぇ自分がいることに、どれだけ泣いて吐いただろう」

「……っ」 

 口を差し挟みたい。
 だけど、早瀬の話を遮りたくない。

 早瀬が辛いことを語ってくれるのなら、口出ししてはいけないと思うから。

 あたしは、震える早瀬の手を上から握った。

「十二年前、俺達が十五歳の時。……雪が積もっていたその日、俺は怪我をして倒れたまま、気を失っていた」

 早瀬は濡れた瞳であたしを見る。

「……お前、記憶ねぇ?」

「あたし?」

 十五歳、中三の冬の頃は……受験。

「受験……」

 そうだ、あの時あたしは……雪の精を見た。
 今思えば、九年前の天使のように、美しい少女で。

 あれは白昼夢でも見たような儚い記憶。
 あたしが思い出さずに居る程度の、あたしの作った妄想のような。
 
 記憶の箱の蓋がパタパタと開いていく。

 受験の帰り、女の子に手を引かれて、怪我人を見つけた。
 雪に埋もれるようにして、お腹から血を流して倒れている少年を。

 家に近かったから、運転手さんとお手伝いさんに来て貰って、海外で誰もいない家に運んで貰い、家にお医者さんを呼んだ。

 いつの間にか案内してくれた女の子はおらず、客室に寝かせた少年は、次の朝には忽然と部屋から消えていた。

 もう少年少女の顔も思い出せないけれど。

「……まさか、あの怪我していたの、早瀬なの!?」

 早瀬はゆっくり頷くと、斜めからあたしを見た。
  
「ああ。忘れていられるほどには、お前には大したことがなかったんだろうが。棗がお前を呼んだらしい。その時棗は、声変わりで声の調節が出来ねぇようで、うまく喋れなかったようだから」

「でも棗くん、女の子だったよ!?」

「ああ。棗はそういう格好を強いられてきたからな」

 ダークブルーの瞳が憎々しげに細められる。

 その格好でなにをしていたの?
 なんで傷ついて倒れていたの?

 でも聞けない。

「お前に迷惑がかかると思って、逃げた。逃げたけど……お前に、助けてくれてありがとうと言いたくてたまらなくて。……会いたくてたまらなくて」

 早瀬はあたしの手を握り直した。

「お前、俺に死なないでと励まし続けていたろう。あの声に、俺は救われた。生きていてもいいのだと、思えた」

「……っ」

 全く記憶がない……夢と処理していたことを、ほんの些細なことなのに、早瀬は覚えていてくれたなんて。

 それが嬉しくて、そして……切なくて。

 早瀬は淡々と喋っているけれど、銃や体術は相当なものだ。
 それくらいのものを仕込まれた地獄は、生きていることが責められる環境は、どんなに過酷なものだったんだろう。

 あたしは、恵まれた環境に育って、家族が傍にいて、美味しいものを沢山食べて。好きなピアノを弾いていた。早瀬が生死を決める銃を握った時、あたしは平和な楽器を手にしていた。

 この差は大きくて――。
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