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第6章 Overture Voice
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『八重洲口 日本橋R1ビル8F「神楽亭」、夜七時。こちらはマリエと二名、アサカの名前で個室をとってある。久しぶりに酒を飲もう。タクシーで来い』
今まで既読のマークがつかなかった朝霞さんから、一方的なLINE連絡が来たのは、日曜日の午後九時。
裕貴くんがタブレットを使ってネット検索をしてくれたら、場所はわかった。地下鉄で日本橋駅を下りたら意外と近いようだが、タクシーの指示。
早瀬はタブレットを見ると、仕事用のスマホを取り出して、指定された神楽亭になぜかすぐ電話をした。
「さきほど予約した朝霞といいますが、ちょっと確認をと思いまして。予約人数は何人……はい、六名ですか。はい、最初の飲み物は……五名がビールで、一名がオレンジジュース……はい。それで結構です」
早瀬は電話を切った。
「タクシーで来いといいながら、オレンジジュースを用意しているということは、俺だけではなく、三芳と裕貴も来ることを見越しての六人だろう。上原、マリエって言うのは?」
「真理絵さんは、あたしの先輩でオリンピアにいるとてもお世話になったひとよ。真理絵さんもくるんだ……」
あたしは、LINE画面をじっと見た。
「私、行くのは構わないけど、初っぱなから女性にビールを勧めるっていうのは感心しないわね。普通聞いてから始めるものよ。ねぇ、柚」
女帝が眉間に皺を寄せながら言った。
「え、姐さんと柚がビールなら、俺がオレンジジュース!?」
「当然でしょう、あんたは未成年なんだから! なによ、あんた嫌いなの、オレンジジュース」
「いや、好きだけどさ、皆で子供扱いするから。……ん? どうしたの、柚。なにかひっかかることが?」
「いやその……朝霞さん、真理絵さんのこと、下の名前で呼んだことないのよ。笠井って呼ぶから」
「その笠井ってのと付き合ったとかは?」
真理絵さんは朝霞さん好きだったけれど。
「……付き合ったとしてもカタカナがおかしいわ。朝霞の名前も、あたし真理絵さんも朝霞さんも漢字知っているんだし。あと、タクシーで来いとのいい方も変。いつもは命令口調ではないの、彼」
そう、木場での喫茶店で、銃男が乱入して来た時、初めて声を荒げた。
いつもは温厚で優しい口調をするひとなんだ。
「そのLINE、朝霞っていう奴が入力したわけではないかもね」
それまで座って聞いていた棗くんが、淹れたてのほうじ茶を啜りながら、ぼそりと言った。
棗くんは、いつも輪に入ってこない。
女帝と最初ほどいがみ合わなくなったにもかかわらず、スタジオの中では、あたし達に線を引くようにしてぽつんと座っている。
早瀬ですら、棗くんの近くに寄らないと、棗くんは話し出さないのだ。
車の中ではあんなに喋って打ち解けていたのに、広い空間になると、なにか警戒されているようで寂しい。
「朝霞さんのスマホは、誰かに奪われているかもしれないわね」
「でも自由が丘ではLINEくれたんだよ?」
「ひと言でしょう? ばれたら普通は没収よね」
「え、没収って……朝霞さん捕まっているということ?」
「可能性のひとつとしてね。もし朝霞さんが木場の喫茶店での出来事に何らかに関係していたとして。それが黒服でも薬物男でもどちらでもいいけれど、上原サン拉致をしくじった事実には変わらないし。AOPでの記憶操作をして事件を隠した後に、捕まっている可能性はある。お仕置きとして」
AOPについては、既に女帝と裕貴くんと小林さんに話してある。
元マトリ現探偵の調査結果として。
ちなみに自由が丘に置かれたままの可哀想な早瀬の車は、日曜日である今日、棗くんと引き取った後検査に出してきたようだ。……なんの検査でどこに出したのかは教えてくれはなかったけれど。
「その朝霞さんが外にでて上原サンと接触するとなるのなら、これは完全な罠だと思うわよ」
「でも、真理絵さんもいて……」
すると棗くんは美しく微笑んだ。
「マリエの名前で、少なくとも上原サンは少しは警戒心が緩み、ふたりに会いたい気分となっている。そして多分、こう続くはず。『あたしは朝霞さんときちんと話したいの』って」
……うう、図星だ。
朝霞さんがなにか知っているのなら訊きたい。
朝霞さんと話をするために、夕食を受けたのだ。
「その感じでは図星だったようだけれど、そうやって上原サンが意気込めば、皆はなにも言えなくなる。そして須王はこう言うのよね。『俺が守るから大丈夫』。違う?」
早瀬は両肩を竦めて見せた。
「心理戦ならお前に敵わない」
棗くんは笑う。
「もう、食事には行くこと前提の話となっている。あれだけ怖い思いをしたのに。いえ、したからこそ、なのかもしれないけれど」
「……っ」
確かに、危険だから行かないという選択肢はない。
「それに、こうも言える。もし上原サンにLINEしたのが朝霞さん本人であったのなら、わざとおかしい部分を出して、警戒させるように仕向けたとも。どちらにしても、明日の食事会は罠には間違いないだろうけれど」
あたしは裕貴くんと女帝と顔を見合わせた。
「さあ、それでも決行するの、須王」
早瀬は超然として笑った。
「俺と棗がいて、罠を破れないって?」
棗くんを見下ろすような、王様の貫禄で。
「少なくとも四名分は朝霞が引き受けたわけだ。朝霞が指定していない残り二名で、俺達の退路を確保しとけ。その間、俺が三人の命を守るから」
「いいの、あんたはただの音楽家なんでしょう?」
「そうだよ、ただの音楽家だよ」
……絶対違うよな。
あのアクションは、どう見ても慣れているものだ。
留学先でなにかしてたとか?
海外ならなんでもありの体験が出来そうだけれど。
でも棗くんも早瀬の力を知って、早瀬も棗くんの力を知っているということは、今までに何度もコンビ組んで危ないことをしていたのかしら。
そもそも、このふたりはなんで仲良くなったの?
本当に高校時代の友達だけ?
頭の中はハテナだらけ。
「はいはい。だったら、ただの音楽家を守ってあげないとね。罠を逆手にとって罠をかけなきゃ」
棗くんが不敵に笑った。
それは美女の笑みではなく、修羅場をくぐり抜けてきた男の持つ、威嚇の笑いのようにも思えて、ぞくっとした。
*+†+*――*+†+*
月曜日――。
「すげー! アウディA8って言ったら、アイ○ンマンのト○ー社長が乗ってた奴じゃないか! 俺あっちに乗りたい、乗りたい!!」
喚くのは、今週は学校がお休みの羨ましい裕貴くん。
裕貴くんが興奮するほど有名な映画に出てきた車らしいが、小林さんと一緒にお留守番。
アウディは棗くんが運転して、助手席に早瀬が座り、後部座席にあたしと女帝が座った。
肘置きにあるボタンを押すとなんとマッサージ機能。
あたしと女帝はきゃっきゃして堪能した。
六時半前に、小林さんが運転するランクルで、裕貴くんも乗せて迎えにくる予定になっている。
そして堂々と三人でエリュシオンに入ると、この組み合わせで入って来たのがそんなに珍しいのか、皆がぽかんとしている。
「おはようございます、皆さま。今週もよろしくお願いします」
女帝は、速攻猫を被る。
女帝の今日のすべきことは、仕事をしながら受付に仕掛けられているかもしれない盗聴器らなにかの機械を探し出すこと。もしかしたら美保ちゃんがスパイかもしれないため、悟られないようにしないといけない。
早瀬は今日もずっと会議らしく、休憩では疲れた顔で出てくる。その顔を見れば、話は早瀬が望むものとはなっていないのだろう。
あたしはあたしで、ログインパスワードを変えたり、とって貰ったバックアップがあるため、ファイルを削除して、新規分は外部USBに保存するようにした。
同じ会社の仲間だから見られてもいいと、だらしなくしていた机の上を片付けて要らない資料はシュレッダーにかける。
当たり前のことをしていなかったあたしはやり方を改め、情報管理をパソコンではなく、自分でやるようにした。
昼休みにシークレットムーンに行って、鹿沼さんに情報漏洩を防ぐために出来ることはないかを聞きに行ってみた。
前より閑散としているように思える社内。なにやら前よりげっそりしたように思える鹿沼さんは、それでもにこにこと笑顔を見せてくれて、話に乗ってくれた。さすがに社内にスパイが居るとは言えなかったため、限定されたいい方になってしまったけれど。
鹿沼さんは応接室に入れてくれ、香月課長ではない……別のイケメンを連れてきた。
茶色い髪の毛で体格がいい。
人なつっこい笑みを向けられた。
「俺は営業課長の結城です」
そう名刺をくれたちょっと野性味溢れるイケメンさんは、前に千絵ちゃんが言っていた男性なんだろう。
彼もにこにこと素敵な笑顔だ。
シークレットムーンは本当に笑顔が溢れる会社だ。
「今、うちでセキュリティ強化の開発をしているんですが」
結城さんは、USBをあたしに見せた。
「モニターのご協力をお願い出来ませんでしょうか」
「モニターですか」
後で法外な金額を請求されるんだろうか。
「ええ。うちの会社以外のところで、きちんと機能出来ているのか確認する必要がありまして。うちのプログラマーが開発したもので性能は保証します。勿論お願いするので、無料です」
「無料ですか! でしたら喜んで!」
無料につられる貧乏性。
「はい。先にLANに繋いだ状態で、これをUSB口に差し込むと、最初に簡単にインストール画面が現われます。それをインストールすると、パソコンの監視モードになるんですが、お使いのパソコンにコンピューターウイルス対策ソフトが入っていた場合、一度機能停止にして頂く必要があります。もし入っていないのならば、Windowsのファイヤーウォールを停止して頂く必要が……」
「はあ」
まったくもって、ちんぷんかんぷんだ。
ファイヤーウォールって、火の壁だよね?
そんなものパソコンに入ってるの?
ウイルス対策ソフトだって、入ってるかわからない。
メール確認と書類作成しかしていないもの。
恥ずかしながらそう正直に言うと、鹿沼さんと結城さんは顔を見合わせて、一台のノート型パソコンを持ってきて、ふたりで色々と教えてくれた。
覚えられないあたしは、コピー用紙を貰い、ペンを借りて確認すべき手順をメモしていく。
鹿沼さんと結城さんは、ため口で言い合える仲らしい。
聞けば、このビルに来る前の会社からの同期だと言う。
結城さんは鹿沼さんに笑いかけて親しみを見せているけれど、鹿沼さんもにこやかにそれに応えているとはいえ、なにか緊張しているようにも見えて、そんな鹿沼さんをちらちらと結城さんが窺い見ている。
このふたり、なにかあるんだろうか。
だけど立ち入るのも失礼だと思い、セキュリティUSBという心強い味方を借りることになった。
「二回目以降ログイン画面を開けば、USBが監視したネットワーク回線で、どこからいつ不正アクセスあったかとか、なにを見たのかとか履歴を見ることが出来ると思います。連携すれば、スマホに通知も出来ます。こういう画面のところで……」
鹿沼さんは、本当に親切に説明してくれた。
「凄いもの作っているんですね。パソコン出来ないあたしから見れば、本当に神様です。驚嘆しかないです!」
IT嫌いな早瀬には悪いけれど。
「ふふ、これを作っているのは香月です」
鹿沼さんは誇らしげにそう言った。
「彼が革新的なものを開発してくれています」
嬉しそうな鹿沼さんの横顔を、結城さんが少し寂しそうに盗み見ていた。
邪推していいのなら――。
結城さんはもしかして?
そして、鹿沼さんはもしかして?
……シークレットムーンにはオフィスラブが生まれているのだろうか。
エリュシオンみたいに、仲間を疑う会社ではないんだろうな。
愛することが出来る人達で溢れかえっているんだろうな。
「香月課長によろしくお伝え下さい」
エリュシオンに戻ってから、香月課長に早瀬のことを聞くのを忘れたことに気づいた。
「また今度、会えたら聞いてみなきゃ」
その時、鹿沼さんと香月課長のツーショットをみたいな。
結城さんも素敵だったけれど、香月課長の方が、鹿沼さんにお似合いだと思う。
いいな、イケメン相手にお似合いと思われて。
あたしなんか……。
横浜のランドマークタワーで見向きもされないことを思い出し、ぶんぶんと頭を横に振った。
「さあ、インストールインストール!!」
劣等感を振り切るように、元気よく席に戻った。
*+†+*――*+†+*
鹿沼さんと結城さんから借りたUSBを無事インストール出来たが、午後になっても特に不正アクセスはないようだ。
スマホとの連動機能をオンにしたから、社外でも時間外でもチェックできるのはとても便利な機能だ。
早瀬が会社にいる時は、あたしは会社から出歩かないようにと言われているため、ボーカル選びの使命はあるものの、必然的にしばらくは外出は出来ないようだ。
予定では今月末までということではあったが、この調子なら間に合わない。
HADESプロジェクトを秘密裏に続行するのなら、選考期間はどれくらいかは改めて早瀬に聞かないといけない。
女帝と協力して、たたき台としてのスケジュール表を作る必要があるかもしれない。
HADESプロジェクトメンバーと部長・課長クラスは今日も会議であり、予定していたエリュシオンの育成企画を推し進めようにも、書類に決裁するひとがいないため、仕事も中途半端で滞ってしまっている。
朝霞さん達と仕事をしていた旧エリュシオンでは、役職はあるけれど、僅かな人数で動いていたために書類で規制される組織のしがらみはなく、自由に動けたものだ。
会議で、それぞれの企画における育成が決定しさえすれば、スタジオに依頼してお任せして、あとは舞台を整えるだけでいいのに、判子がないために通常業務も止まってしまっている。
そのため、先に話を通してあるスタジオ等施設からは、送り出せる人材がいないために、どうなっているのかと電話が鳴り響く度に、謝りながら説明をしないといけない。
予定通りに進まない会社は、信頼を失う業界だ。
未知数の人材が大成するためにどれくらいの期間がかかるのかは、スタジオでの判断となるが、あまり強行軍に推し進めても、今後スタジオに育成を拒絶されれば、エリュシオンは売る商品がなくなることになるのだ。
エリュシオンに損害を与えているのは、HADESプロジェクトの会議が長引いているのも一因かもしれない。
そして――。
いつもいつも、流れ作業で済んだマニュアル人間の社員達は、通常業務が滞ってしまったら、他にどんな仕事をすればいいのかわからないらしい。
育成課でも、100本ノックを仕事中堂々としている藤田くんと(土日なにしてたんだろう!)、隣にいる水岡さんは、ノートパソコンでネットを見ている。
他の課を覗いても、お喋りをしたりネットをしたり、寝ている社員すらいて、会社の危機とも言えるこの状況下で、電話を取ろうともしない、このやる気のなさに怒りが渦巻いた。
雑務くらいは回せるけれど、基本別の課には依頼出来ない。責任がないものは、ミスも多くなるからだ。
どうしたら、皆のやる気が出るのだろう。
どうしたら、これではいけないのだと自覚して貰えるのだろう。
哀しいかな、いつも個人で動いていたあたしには、各課司令官がいない……このエリュシオンでどう振る舞えば正解なのかが導き出せない。
皆で仕事をするということに、具体的に指示が出来ないのだ。
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