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第5章 Invisible Voice
8.
しおりを挟む「全部が今動き出している……として、なんで今かね? 今、会社とかでなにか起こってるの?」
裕貴くんがチータラを揺らしながら食べている。
「HADESプロジェクトは盗まれたな。それがそのスパイかどうかはわからねぇが」
「俺は逆によかったよ。こんなに早く見て貰えるとは思わなかったし」
「お前……即戦力なければ帰すからな」
「え、見てくれるという話じゃないの?」
「違う。新HADESプロジェクトを打ち立てる。その際、お前にギターをと思ってる」
裕貴くんは飛び上がる。
「そういう話なの!?」
「そういう話。お前と小林ならいけると思うからな。……三芳、この件は」
「はい、黙っていますので、ご安心を」
あたしはずっと考えていた。
今日、いつもと違ったこと。
あたしが今日、初めてしたこと。
「あたし、パソコンをシークレットムーンに持っていきました。今日初めて」
皆があたしの方を向く。
「柚のパソコン、凄い情報が入ってるの?」
「ううん、あたしのパソコンはショボいファイルしかないけど、でも共有フォルダでエリュシオンの機密情報はネットワークで見れるわ。それが見れなくなったから、慌てて今日動いたとかは?」
すると女帝は残念そうな顔をした。
「仮に柚のパソコンから、機密情報を見ていたとして、それはとっくにコピーされていると思うし、柚自身が狙われる意味ないじゃない」
「お前、下でどんな診断を受けたんだ?」
「バッテリーの消耗です。前、電源の線が抜けていたのがわからないままパソコン動かしていたんですが、それでバッテリーが減ったんだろうと。バッテリー自体が劣化しているから、使っていない同じ型のバッテリーと交換してくれました」
「……パソコン、今夏に替えたばかりなのに、柚のパソコンのバッテリー、劣化しているっておかしくない? だって新品で全員入れ替えたのに」
「不良品だったんじゃ……」
裕貴くんが、真剣な顔であたしを見た。
「柚、交換してくれたところが怪しいとかは?」
「え?」
「実は敵の手先で、交換したふりをして、盗聴器みたいのをつけたとか。だから、喫茶店に行くこともばれてしまった、とかは?」
あたしは頭を横に振った。
「あたしのパソコン、鹿沼さんが責任もってみてくれたの。あのふたりは凄く親身になってくれて、怪しいところはないわ」
――喝を入れますね。
励ましてくれた鹿沼さんが悪いひとなわけはない。
「お前のパソコン、その鹿沼っていうのが診たのか?」
「いいえ。鹿沼さんは主任なんですが、その上の課長さんというひとが診てくれたそうです」
「名前は?」
「香月さんです」
途端に早瀬は眉根を寄せた。
「どんな奴だ?」
「理知的なイケメンでした。とても若い気がしましたが」
「ああ、私、前にみかけたことがあるわ、シークレットムーンの香月朱羽さんでしょう? 黒髪と眼鏡の」
「そう。名前まではわからないけど」
「ちょっと見た目、冷たい感じがするインテリ系の」
「そうそう。営業用の笑顔で見送られたけれど、凄くクールな感じ」
「それ、間違いなく香月課長だわ。ちょっと前にシークレットムーンに課長として赴任してきて、凄くパソコンが出来るひとみたいよ。なんでもアメリカの大学を出て、忍月コーポレーションにいたという噂だったけれど」
「忍月コーポレーション!?」
早瀬が動揺している気がする。
なぜだろう。
ただ、ビルの上にある会社ではなく、個人的になにかあるのだろうか。
「はい。私達がエリュシオンに来た時には、香月さんは忍月コーポレーションに居て、それでちょっと前に、シークレットムーンに課長で来たと、聞きました」
早瀬は突如仰け反り、伸びをようにして、天井を見上げている。
途方に暮れたかのようで、なにか怒りを含んでいるようで。
そしてため息をついて上体を正すと、言った。
「そいつが上原のパソコンを直したのなら、なにもなされてねぇ。スパイでもねぇよ」
「知ってるんですか? 香月さん」
「知らねぇよ!!」
「でも身元保証しましたよね?」
「知らねぇって言ってるだろう!?」
……知ってるんだ。
まあ、忍月コーポレーションの宮坂専務と知り合いであるのなら、その忍月コーポレーションにいたという香月課長を間接的にでも知っていたのかもしれないし。
忍月コーポレーションが嫌いなのかしら?
ああ、宮坂専務と、香月課長と、早瀬を横に並べて眺めてみたい。
この三人が並ぶのなら、思いきりミーハー気分になってみたい。
あたしは早瀬が傍に居るから、どうしても早瀬を贔屓目になってしまうけれど、だったら直属の部下である鹿沼さんはどう言うのだろう。
香月さん推しか。
早瀬推しか。
それとも、宮坂専務推しか。
思わずにやにやしてしまったら、皆に気味悪がれてしまった。
いけない、いけない。
平常心、平常心。
「そっか、じゃあそこの会社は大丈夫そうなんだね」
裕貴くんが柿ピーをポリポリ食べながら言う。
あまりに爽快に食べるものだから、一回で大量に食べる小林さんが手を出せば、裕貴くんがぱしんと叩いて独占中。
「ああ。疑ったらどこまでも疑えるが、大丈夫だと思われるところと人物は除外していけ。修理したパソコンに盗聴器はつけられていねぇだろう。もしもありえるとすれば、盗聴器つきのバッテリーをあいつが外した、くらいで。確認となると、うわ、直接会うか……あいつに連絡しねぇといけねぇのか。どっちに転んでも、あいつらの貸しになるのか……?」
庶民大好き柿ピーと無縁の王様が、独りごちては考え込み、苛立ったように銀色の缶ビールを呷る。
「あの、あいつ呼ばわりなんて、やっぱり香月課長と」
「そんな奴、知らねぇよ!!」
……別にいいじゃん、知り合いなら知り合いでも。
なんでそう、あからさまにムキになるのかな。
そんなことされると、香月課長に直接、早瀬のことを知っているか聞いてみたくなるじゃないか。
「しかしなんで、柚がピンポイントで狙われているんだろう。本当に柚? ……と言いたいけど、喫茶店から外に出た時、明らかに柚を拉致しようとしてたし、柚の家の前にいたという車と同じであるのなら、やっぱり柚なんだよな」
裕貴くんが、ため息をつきながら、柿ピーを軽快な音をたてて食べる。
活動量も激しい十七歳、細身の身体はダイエットとは無縁らしい。
「スパイがいるにしても、柚というより会社関係の産業スパイの意味合いを強く感じるのに、そのスパイが暗躍したことによって、黒服か薬物ケーキを持ってきた店員が現われたのだとしたら、やはり柚に繋がっているのかなあ。柚、何者だよ」
「至って普通だけど。特別なものなんか……」
ふと思い出したのは、あたしの家族。
あたしに特別性があるとすれば、それしかない。
それ以外、考えられない。
「あの……早瀬さん。もしかして、あたしの家族に関係するとかは?」
思案中の早瀬がゆっくりと目を開いて、あたしに怪訝な顔を向けた。
揺れたダークブルーの瞳が、その可能性を示唆するように、鋭く瞬く。
「お前自身ではなく、お前の家族……か。ありえない話ではないな」
早瀬は軽く頷いた。
「家族?」
裕貴くん、女帝、小林さんがあたしを一斉に見る。
平々凡々極まりないあたしから、あたしが狙われるに至るような特別な家族がいることを想定していないような、胡乱な眼差し。
「なに、家族の誰かが有名人だった、とか?」
裕貴くんの質問に、あたしは笑って言った。
別に、ここにいる人達に隠す必要もないしね。
「うん。あたし以外、有名な音楽家なの」
「音楽家の家族?」
女帝が聞いてくる。
「うん。父が上原雄三、母がオペラ歌手の上原百合子、兄がピアニストの上原雅人、姉がバイオリニストの上原碧で。知ってる?」
皆が無言で固まってる。
「あ、わからないならいいよ。クラシックだから……」
「「「知ってるよ!!!」」」
三人は声を揃えた。
「だって俺、バイオリンをしてたから、同じバイオリニストの上原碧のコンサートに行ったことあるし!」
「上原雅人って、イケメンピアニストで有名じゃない!」
雅兄、イケメンだったっけ? 編集者マジックじゃない?
「おいおい、俺だって知ってるぞ。大御所揃いじゃねぇか。俺の弟子に、上原一家のCDを買っていた奴いたぞ? あれに、嬢ちゃんもいたのか?」
「……あたしは、醜いアヒルの子なんです。あたし以外、才能があるので……きっと、音楽家になれないあたしを家族だと言うのが、恥ずかしいんじゃないでしょうかね。エリート意識がすごくある家族ですし。九年、会っていないから、縁を切られているのだと思います」
あたしから出るのは、乾いた笑い。
それを見て、裕貴くんも女帝も、哀れんだ眼差しを寄越した。
「別にあたしは気にしてないから。家を出た時から、覚悟していたことだし」
「須王、お前知ってたのか!? 嬢ちゃんが上原一家の娘だと」
「ああ」
「エリュシオンでそれを言ってれば、柚の立場も違ったのに……」
「いいのよ、奈緒さん。あたしの肩書きを自慢しても、あたし自信の音楽のセンスがあるわけではないから、笑われるだけだし」
「お前はある」
笑うあたしにそう断言したのは、早瀬で。
「あるから、お前にHADESプロジェクトを詳細を伝えないで、俺のコンセプトに合うボーカル探しを頼んだ。センスのねぇ奴に選ばせねぇよ」
「そうだよ、柚! あの須王さんの即興を楽譜に出来る時点の能力は、普通じゃないから! 俺、柚に助けられたんだからな!」
「ありがとう」
なんだか面映ゆい。
「……ねぇ、エリュシオンの連中、あんたをわかっていないっていうの、かなりの痛手よね」
女帝までもが擁護する。
「正直今までの私は、二階での噂……なんの根拠があって上司の命令に逆らっているのかと思ったわ。自惚れもいいところだってね。それが早瀬さんと行動を共にするようになって、早瀬さんはあんたの色仕掛けに騙されたのだと思った」
「はは……」
「私はあんたと関わった仕事はしていないけれど、あんたは音楽家一家で育ち、純粋培養された音楽のセンスを、早瀬さんに認められていたんだね」
「そうさ、柚は絶対音感の持ち主なんだぞ。怪我さえなければ、ピアニストになっていたと思う、俺絶対!」
「怪我?」
女帝が訝しげな表情を向けてくるから、あたしは両手の指を開いて指を動かして見た。
「両手指が動かなくなったの。だから、あたしは上原家の落ちこぼれなの」
女帝はあたしを抱きしめた。
「辛かったね……」
「……っ」
「私も、はみ出し者だったからさ。まあ周りが低俗なのに嫌気がさしたわけだけれど。母親も金の亡者だから」
ぽんぽんと背中を叩く女帝の手が優しくて。
「それでも、家族に悩むのはきっとあたし達だけじゃない。悩んでいるひとほど、家族に傷ついたあんたを理解したいと思ってくれるから、自分はひとりじゃないと、別に低脳なわけじゃないと、強く生きなよ?」
「うん……ありがとう」
鼻を啜りながら笑って見せると、女帝も笑った。
ふと、視界に早瀬が目に入った。
早瀬はなにか苦しそうな顔をしながら、片手で持っている缶ビールを大きく呷って空にすると、テーブルに手を伸ばし、もう一本の缶ビールのプルタブを開けている。
「おい、ペース速いぞ、お前」
「いいんだよ」
「〝柚〟は、いるだろ?」
小林さんの一声に、早瀬はため息をつくと、空けたばかりの缶をテーブルに置いた。
「あたしが、なんですか?」
「がはははは、こっちの話だ。こいつに喝入れる呪文のようなものだから、気にしないでくれ」
「はぁ……」
「嬢ちゃんが上原家の娘だから狙われている、と断定するのもちょっと厳しいな。嬢ちゃんが娘だと公にされていない上に、離れて暮らしているのに、わざわざ嬢ちゃんを人質にとってどうこうするのに、効果がそこまであるのか、というところが正直な疑問だ」
確かに。
父さんや母さんにダメージを与えたいのなら、雅兄や碧姉を拉致した方がよほど効果的だ。こんな絶縁状態の娘を誘拐するより。
「嬢ちゃんが上原一家の娘だと知っているのは多いのか?」
「はい。地元も皆知ってますし、家を出てからは従兄とそのお母さんが」
「そこから漏れたのかなあ」
裕貴くんが伸びをした。
「しかしなんで朝霞が、須王のプロジェクトを横取りしないといけなかったのかも、謎だよな。音楽業界では盗作はかなりナーバスな問題だろうし、大体須王に喧嘩売ってただですまんだろうに」
小林さんの言葉に、皆が頷いた。
「須王を朝霞の会社に引き込もうとするにしても、方法が、なあ。そこそこ経験値をつけた会社の社長であるのなら、リスクが高すぎる」
小林さんの言うとおりだ。
仮に朝霞さんがあたしを狙う勢力となにか関係があっても、早瀬にも、早瀬のプロジェクトにも、関係ないはずだ。
「そういえば奈緒さん。HADESプロジェクトにお父さまが違約金を訴えた話、どうなったんですか?」
「ああ、あのクソ親父を散々に滾々と説教したわよ。身の程知らずのハイエナ野郎って」
「そ、そう……」
「あいつ、早瀬さんを目の敵にしているみたいね。それまでは媚びて媚びて、誰も頼んでもいないのにHADESプロジェクトのスポンサー引き受けて。で、嫌となったらスポンサー降りて違約金とか言いだしているでしょう? 私情で仕事を放棄するような男は、私大っ嫌いなの。仕事なら、完璧にしてみろと怒鳴ったわ」
女帝は仕事に対する姿勢はきちんとしているらしい。
「でもなにかぶちぶち言うから、娘が関わっている仕事も私怨で放棄するのなら、縁を切る!と言ったら、泣き出してさ。とりあえず違約金は撤回させたけど、スポンサーのところはもう少し時間と私の説教が必要ね」
「こりゃあいい助っ人だな、須王」
「ああ」
笑い出す小林さんと早瀬。
「姐さん……」
その中で、裕貴くんが目をうるうるとさせた。
「俺、スカッとしたよ。女帝より……もっと身近な、姐さんと呼ばせて」
「なによ、それ」
「姐さん、ありがとう! 須王さんと姐さんがいたら、俺……あの親子に打ち勝てる気がしてくる」
「私も子供なんだけど」
「いや、姐さんは姐さんだよ。男が逃げるのもよくわかる!」
「あ゛!?」
絶えない笑い。
あたしもこの明るく楽しい空間に呼んで貰えて、とても幸せで嬉しくて、潜在意識に刻み込まれた恐怖も薄れていく気がした。
そうか、あたしはひとりじゃないから、恐怖や不安が克服出来るんだ。
……あたしは、ひとりじゃない。
・
・
・
・
「よし、じゃあこれからすべきことをまとめるぞ」
バチンと大きな手を打ち合わせて、小林さんは言った。
「まずは、大きな力で木場での出来事に対して、情報規制がなされているのか確認しよう。それにより、嬢ちゃんを狙っている集団の規模が推定出来るだろう。俺は明日の朝、コンビニの新聞を片っ端から買ってみる」
「俺はSNSの友達とか情報網を駆使して、探してみる」
「私は素知らぬフリをして、喫茶店をもう一度見てみようと思ってるわ。あのままならば、噂でもなんでも上っているはずでしょうし、もし責任者がいたら、ケーキを持ってきた店員を聞いてみるわ」
あたしが口を開こうとした時、早瀬が言った。
「ここに、明日もうひとり呼んでいる。そいつはベースが得意だから、来たらセッションを始めるからな。小林も知らねぇ奴だ」
「え、須王さんがベースじゃないの?」
「俺は裏方、やったとしてせいぜい鍵盤くらいだ。名前は白城棗、上原の同級生だ」
「え!?」
顔も知らない棗くんが来るの!?
「まあ、悪い奴じゃないんで、よろしく頼む」
早瀬のプライベートの電話のアドレス帳に、唯一載っていたお友達。
白城棗くん、ねぇ。
早瀬がつるんでいたのなら、イケメンなのかな。
騒がれていたんだろうな。
音楽室以外の早瀬に興味がなかったと言えばそうだ。
かなり早瀬はモテていたから、別世界に住むひとのように思っていたから。
音楽以外の早瀬の趣向も、家族構成も、友達もまったく知らない。
「それと上原、お前は俺と行動だから。ちょっと色々回りたいところがある」
「え、奈緒さんと……」
「今日のことで警戒して、多勢で襲われたら、今度は三芳の手に負えるかわからねぇんだよ。小林、裕貴。三芳と行動しろ」
「了解! 多分そうなると俺、思ってたし」
「ぶはははは。役得だな、須王」
「うるせぇ!」
「……あの、あたしも三人と同じ行動を……」
「駄目だ」
「ぶはははははは! 嫌われてやがんの!」
「その不器用なところ直して、さっさと言っちゃった方がいいよ?」
「だ、黙れ!」
「……柚。このお屋敷の外では須王さんと行動してても、屋敷の中では私と一緒に寝ようね!」
「三芳、そのにやにや顔はなんなんだよ!」
「あはははは、私こっちの方が楽しいわ! そんな顔を見れるとは!」
「須王さん、姐さんにもからかわれてやがんの!」
「がははははは」
……一体、なにが理由でこんなにわいわいとしているのだろう。
三人がなぜか早瀬を揶揄して、早瀬が参っているような図。
え、あたしだけがわからないの?
「ええと……皆さん。どこに笑う要素がありました?」
そう言うと、笑う声がぴたりととまり、皆の目があたしに向き、残念な子を見るような眼差しから、可哀想な子を見るような眼差しとなって、早瀬の方に向いた。
「須王さん。どんまい?」
代表した裕貴くんの哀れんだ声が、やけに耳に残った。
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