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第5章 Invisible Voice
3.
しおりを挟む茂もまた会議に呼ばれてしまったため、報告書は茂に直接渡した方が無難だということを、経験からわかりきっているあたしは、印刷までしておいて、茂の帰りを待つことにした。
午前中は電話がかかってきたりして、色々と忙しい。
また、育成課としても色々と人材を育ててプロダクションなどに推薦していかないといけないから、今在る育成人材を育てて終わりではなく、次々にリストアップされるものから選んで会議にかけたり、企画を出したりと下準備が大変だ。
エリュシオンという会社は、創立三十周年を迎える。
朝霞さん達は、資料を持たないで出ていったために、彼らとやってきた資料はまだ資料庫に残っている。
あたしの机の上に、参照していた過去のファイルが山積みになってしまったので、山に抱えて資料庫へと赴いた。
「持ちすぎたわ……」
資料庫は上のフロアにあるため、慎重に歩いて資料庫に入る。
資料庫を自動ドアにしようと提案したひとに、ちゅーしたい。
両手が塞がっていても、難なく資料庫の中に入ることが出来た。
資料庫は図書館のように棚が平行に四つおかれて、さらに部屋の周囲を取り囲むように棚が置かれてある。
棚のでっぱりにファイルを乗せて、アセアセとして元あった場所に戻す。
「あ、あれ……」
探していたファイルが一番上の棚にあり、背伸びしたが僅か一センチ届かない。ここには踏み台がないため、棚をよじ登るくらいしか出来ない低身長のあたしは、意地になってぴょこんぴょひんと飛び跳ねて、そのファイルを引き出すことに集中して。
「もう少し……いけるか!?」
腕の筋や筋がピキピキしているのを感じながらも、片目を瞑って渾身の力を振り絞るように背伸びをして取りだそうとしていると、そのファイルが自動的に引き出された。
背後に影。
鼻腔に広がるベリームスクの匂い。
難なくファイルを引き出した早瀬が、背後に立っていた。
「あ、ありがとう……」
貰おうと手を伸ばしたが、そのファイルは上に持ち上げられて。
「ちょ、なに……っ」
「なんで無視?」
冷ややかな声が落とされる。
「怒ってる理由を聞かせろと言っているのに、既読すらつかなくなった。なに、電源切ったわけ?」
……LINEの既読機能って嫌いだ。
「イライラして休憩飛出してみれば、お前がいねぇ。俺と隠れんぼでもしてるつもりか? どこに逃げ隠れするつもりだ、お前」
美しい顔は、残忍な凶器だ。
「たまたまです! あたしは……、パソコンが動かなくなって……っ」
「ふぅん?」
まるで信じていない様子の早瀬は、そのまま頭を棚にぶつけるようにして、腕を組む。
「だから、パソコンが動かなくなったから下に「怒ったのはなぜ?」」
……怒ったのはあたしだというのに、今とても怒っているのは早瀬だ。
「言えよ、怒らないから」
嘘だ。もう怒ってるじゃない。
「し、仕事があるんで、失礼」
くるりと向きを変えようとしたけれど、早瀬の両手が、いわゆる壁ドン……ならぬ棚ドンをして、あたしを閉じ込めてしまう方が先で。
このドキドキは、ときめきではなく早瀬の怒りに対する怖れだ。
なんで怒っているのよ、このスケコマシ!!
……とは言えないあたしは、ただ逃げ出すことしか考えられず。
「あ!」
と、天井を指さして、そのまま屈むと、その通せんぼをしている腕の下から抜け出ようとしたが、単純に腕が下がっただけであえなく失敗。
それでも意固地に逃げようとするあたしを、舌打ちをした早瀬は、きつく抱きしめてきた。
「ちょ、人が」
「うるせぇ」
「離してってば」
「お前が理由を言ったら」
「……っ」
「なんだよ、あの怒り狂ったクソうさぎ。女の敵ってなんだよ」
「……そのまんまんの意味です。女ったらしのスケコマシという意味で」
言った、言ったよ、言っちゃった!!
頭の中に変形五段活用(?)がリフレイン。
「は!?」
驚きのあまり、緩められた腕。
そこから思いきり、侮蔑の眼差しをくれてやる。
「もう、こういうことしないで下さい。キスもやめて下さい」
「ちょ……っ」
「どうか、本命を大切に」
「待て! なんでそうなる!」
そのまま逃げようとしたが、また捕まり、ううと唸ってしまう。
「本命ってなんだよ。なんでお前がそんなこと言うんだよ」
「はあああ!? 自分で言ってあたしを牽制したくせに、とぼける気ですか!」
「牽制ってなんだよ!?」
その時だ。自動ドアが開く音がしたのは。
この隙に逃げようとしていたあたしは、早瀬に手で口を塞がれ、腕を強く取られて、引き摺られながら一番奥にと移動させられた。
……否応なく。
あたしは部屋の隅、早瀬に口を手で塞がれたまま、そのまま早瀬の膝に正面に乗る形となって、共に座っていた。
こんな格好、見られたらなにを言われるかたまったもんじゃないと暴れるが、逃さないとする男の力にあたしが敵うはずもなく。
こつ、こつ、という靴音が、びくりとしたあたしの身体を強張らせて、息を詰める。まるで泥棒に入ったところを、家主に見つかりそうになっているが如く。
寿命が、縮まる……。
「あれ、どこにあるのかな。こっちかしら」
その声は音響課の早川さんのもののように聞こえた。音響課に必要となりそうな資料と言えば、このすぐ近くじゃなかった!?
そんなあたしの様子をじっと見ている早瀬に気づかず、不意にふぅぅと吹きかけられた細い息に驚いて、早瀬の手を歯で噛むと、早瀬は短い声を出した。
「何の音?」
今の隙に、逃げるんだ!!
我ながら素早く立てたと思ったのだが、それ以上に迅速に動いた早瀬の、伸ばされた長い手が鞭のように絡んで元いた場所へと引き寄せられる。
それなら痴漢だと叫んでやろうか。
睨み付け、今まさに声を出そうと唇を薄く開いたあたしに、なんと! この状況で! 早瀬があたしの唇を奪い、ごくごく自然に舌をいやらしく差し込んできたんだ。
「んぅぅぅぅぅ!!」
「ん? こっち?」
ひぃぃぃぃ!!
絶体絶命!!
離れろ、このスケコマシ!!
近づく足音。
緊張感ないままに、容赦なく口内を蹂躙する早瀬の舌。
緊張の最中にいるせいか、大音響で反響しているように聞こえるキスの音。
焦るあたしと、余裕ぶった早瀬。
口を離そうと顔を振るが、両手でがっしりと後頭部を押さえつけられてしまう。ギンと睨みつけ、噛みついて反撃しようとしたが、それすら見透かされてあっけなくかわされながら、さらに深く激しいキスを(つまり水音が響くキスを)しかけられる。
「ふ……ぅ……っ」
柔らかく細められたダークブルーの瞳は余裕で、この蕩けるようなキスに声を漏らしては焦りながらまた声を漏らすという、エンドレスになっているあたしを、からかっているような光を宿している。
逃げる舌は追いかけられ、くちゅくちゅといやらしい音が大きく漏れる。
抱きしめられるような形で激しいキスを甘受するような形となってしまったあたしは、目尻から生理的な涙を流しながら、感じたくないのに、身体の芯が熱く痺れてしまうくらいの気持ちよさに頭がぼぅっとしてきて。
やだ。
こんなところ見られたくない。
そう思うのに、ベリームスクの匂いに閉じ込められると、早瀬だけしか考えられなくなる。
本命がいるのに。
あたしのこと、好きじゃないくせに。
「ん……」
口から漏れるのは、意志に反した悦びの声。
そんなあたしを見て、早瀬の目がさらに柔らかく細められて、舌の動きがねっとりと、あたしの舌をなぶるようなものに変わった。
声がして、はっと我に返る。
「何の音よ……」
ばれる――。
「雨漏り? それともえっちなこと、ここでしてるとか?」
ひぃぃぃぃ!!
雨漏りです、雨漏りです!!
しかし早瀬のキスは、あたしの声を反映したかのように『豪雨』の如く激しくなるばかりで、だからそっちじゃないってと焦るあたしの攻防戦は続いて。
来る。
こっちに来るよ、あの靴音!!
あたし、お嫁に行けなくなっちゃうよ!!
RRRRR。
鳴り響く電子音は、あたし達のものではなく。
「はい、早川ですが」
神の采配に、涙がほろり。
神様、ありがとう。
「いつもお世話になっております。はい、例の件ですね?」
声と足音は、急いたようにして遠ざかる。
やがて離された唇から、大量の酸素を体内に運んだ。
酸欠と精神的にくらくらとして倒れそうになる早瀬の両腕があたしを抱きしめ、そのまま抱き合う形となったが、
「お前、見られると興奮するの?」
揶揄するような眼差しと声に、抵抗する力がなくなってしまっているあたしは、負けじと目に力だけは入れて睨み付ける。
「なに、誘ってるの、その目」
「違うわ!」
「あはははは」
なに嬉しそうに笑っているんだ、このスケコマシ!
「本命がいるんだから、キスをしないでって言ったでしょ!?」
途端に早瀬の顔から笑みが消え、その切れ長の目が苛立たしげに細められる。
「だからなんでお前がそんなこと言うんだよ。それにさっき言ってた牽制って何だよ」
「あなたが、しっかりとあたしを見て、本命がいると言ったことよ!!」
傷口が抉られる。
「だからなんでそれが牽制なんだよ」
あたしの心知らず、段々と早瀬の声が荒げられてくる。
「キスしたからって自惚れるな、お前は愛人止まりだ、この身の程知らず……って言ってたんでしょう!?」
……ちょっと盛っちゃったけど、嘘ではない。
言ってから、凹んだ。
「いつ俺がそんなこと言ったよ!」
「目で!」
「はあああ!?」
「はあああ!?じゃないわよ、このスケコマシ!! 女の敵!! 本命がいるくせに、あっちもこっちも思わせぶりで……離せったら……!!」
「嫌だね。俺、言っただろう!? スマホも見せただろう!? 遊んでいる女もいねぇし、お前に誤解されるような女もいねぇ!!」
「へー」
早瀬は舌打ちする。
「なんでお前に誤解されねぇように、きっぱりと三芳をフッたのに、お前に誤解されてるんだよ。しかもなんで、愛人とか女の敵とまでになってるんだよ」
「知らないわよ、そんなの自分の胸に聞いてみたらいいじゃない!! スマホだってね、本命をプライベート用に入れてなかっただけでしょう!?」
「じゃあ仕事用の見ろよ!!」
怒る早瀬がポケットの中から、仕事用のものを出した。
「アドレスから発信履歴から、すべて見てから言え!! もしなんなら電話していいぞ、片っ端から」
突き出されるスマホは、まるで黄門様の印籠のようだ。
「いらないわよ、暗記してたら公衆電話だってかけられるじゃない!!」
「ああ言えばこう言う。じゃあどうすれば俺は、身の潔白を証明出来るんだよ!? ここで泣いてお前に土下座でもすればいいのか!?」
「なによそれ、開き直るな、馬鹿!!」
口から出る言葉は止まらない。
「馬鹿はお前だろ!? 俺、そこまでわかりにくいか!? 十七のガキにもばれるくらいなのに、どうして肝心のお前はわかんねぇんだよ」
「なんであたしが怒られるの!?」
「だってそうだろ!? お前、〝嫌わないで〟〝キスをして〟って、俺に言ったの忘れたのか!?」
「うう……やめてやめて! どうして今そんなこと言うのよ、もうそれ忘れてよっ!」
両耳を手で押さえて真っ赤な顔をぶんぶんと横に振ると、早瀬が両手首をとって耳から離した。
「誰が忘れるかよ、ようやく……前に進めると思った男心を弄ぶような悪女の台詞を吐くな!」
「わけわかんない! なんであたしが悪女なのよ、スケコマシ!」
「だから、俺がいつ女を弄んだよ!」
「弄んだでしょう!?」
「弄んでねぇ!」
「九年前、あたしを弄んだんじゃないの!!」
「……っ!!」
「今もかもね。女帝だってそうじゃない。その気にさせて懐いたら、こっぴどく手のひら返して。あたしが簡単にキスを受けるようになったから、牽制をしたんでしょう!?」
「違う!!」
「嘘だ!!」
「嘘じゃねぇよ!! 九年前は……っ」
そして早瀬は言い淀むと、苦しそうに眉間に皺を寄せ、顔をそむけた。
「……理由が、あったんだよ」
ぼそっと、なにかを吐き出すように。
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