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第3章 Bittersweet Voice
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トイレでの記憶は、その後はぷつりと途切れ、気づけばチャプチャプとした水の音と甘い匂いに包まれて、とにかく気持ちいい気分で目覚める。
「あ、起きちまった? 気分はどうだ?」
重い瞼を上げると、 穏やかな照明の光を纏うようにして、完全ストレートとなっている濡れた髪先から、水滴を垂らす早瀬が微笑んでいた。
「いいぞ、寝てて。ちゃんと運んでやるから」
ふっと早瀬は笑うと、ちゃぽんと音をさせてあたしの肩に回されていたその手で、あたしの頭を支え、そのまま早瀬の首元に顔を埋めさせた。
「ん……」
心地よい声。心地よい肉体。心地よい体温。
すべてが心地よくて、またうとうととしてしまってから、はっと目覚める。
「ここ……どこ!?」
心地よいってなに!?
「風呂。さっぱりしたか?」
一面、白いタイル。
銀のシャワーヘッドが見える。
丸い浴槽の中に早瀬と裸でふたり。
ただ救いは、ジャクジー風呂となっていたために、波打つ水面が裸の輪郭をことごとく隠していることか。
「な、なんで……っ」
「お前吐いたの覚えてる? 服はホテルのクリーニングサービスに、脱がせた身体は俺が洗った」
記憶がゆっくりと戻る。
あたし、とんでもない失態を見せてしまったんだ。
「あたし……っ」
「人間は完璧じゃねぇんだよ。俺がフォローしておいたから気にするな」
「だけど……っ、あたしあなたに合わせる顔がないです……っ」
「俺に悪いと思うなら、その言葉遣いやめて? 会社は仕方ねぇから認めるけど、お前とふたりの時は、お前の素の言葉を聞きてぇんだ」
「これも素ですけど……」
「意識的に線を引かれている。だからそれが嫌だ。本当なら名前で呼んで欲しい。……駄目?」
「それは……辛い、です。じゃあ……言葉遣いだけ、直すから」
「そうか……」
早瀬はあたしの頭に頬を乗せてくる。
いつも強引な俺様なのに、なんでこんなに甘えたなの、今は。
……あたしも甘えたくなってきちゃうじゃない。
暖かいお湯に、身も心もポカポカしていて。
「そうだ。身体、洗ったって……」
忘れてはならないポイントだ。
今のあたしは、事後だという。
「今さらだろう? 何度お前を抱いていると思ってるんだ」
「……っ」
「ああ、そんな顔するな。俺、お前の中に入りたいの、抑えてるんだぞ? 俺煽ってどうするんだよ」
……ストレート過ぎるけど、抑えてくれていたんだ。
「気分はどうだ? まだ気持ち悪い?」
「気分はいい。おかげさまで……」
「よかった」
この優しい眼差しに慣れなくて。
……九年前、愛されていると錯覚した眼差しとよく似ているから。
「ええと、あたしもう上がる……」
「駄目。もっと居てくれよ、俺の横に」
早瀬はそう言うと、あたしの額に唇をあてた。
唇……。
熱い湯の中で、ぼんやりと思い出す。
吐いて汚い唇を、早瀬は二度口づけた。
それを思い出すと、胸がきゅっと絞られる心地となって身じろぎをした。
「どうした?」
「……口、ちゃんと漱(すす)いだ?」
「お前の話?」
「いえ、あなたの話」
「なんで?」
ああ、なんで早瀬の声はこんなにも艶めいているのだろう。
浴室の反響効果もあるだろうけれど、セックスの最中のような声音で、ひと言で言えば『エロい』。
「だって汚い……」
「だからさ、いいのお前は。あまりへんなこと言うと、またキスしちまうぞ」
早瀬の片手がのびて、あたしの両頬を押した。
「はは、たこちゅう」
「や、ちょっ……ほっぺ押さないで……っ」
「………」
「………」
あたしの頬から早瀬の手が引いた。
代わりに、小刻みに揺れる……深い青の瞳に吸い込まれてしまう。
湯あたりしたように、身体が火照って頭がくらくらする。
「………」
「………」
早瀬の唇が、薄く開いた。
静謐な浴室の中で、早瀬の悩ましくも思える息づかいに、あたしの呼吸まで乱れて。
キス、したい――。
「……なぁ」
早瀬は最初言い淀むようにして、やがてはっきりと言う。
「キス、してもいい?」
ピアノを弾いた長い指で、あたしの唇を弄りながら。
いつも強引にしてくるのに、なんで聞いてくるの。
「……今夜は、お前を抱かねぇ。具合悪くて伸びてたお前を無理矢理抱くほど俺は鬼畜ではねぇつもりだ。だけど……キス、したい」
絞り出すような切なげに掠れた声に、身震いしてしまう。
「お前の……声が出るところで、繋がりたい」
あたしの後頭部に腕を回し、傾けた美しい顔を近づけて、最終決断をあたしに委ねる。
「――柚、キスしたい」
「……っ」
いつもキスだけは避けられていた。
それが今日、三度キスされた。
観覧車でのキス。
吐いたあたしを安心させる二度のキス。
どれも恋愛的な意味はないと、却下出来る明確な理由があった。
「お前と、心を繋がらせて」
今、あたしが頷けば、あたしはこの先、きっと早瀬から逃れられない。
早瀬に惹かれているという気持ちを強めて、きっとあたしはまた……九年前のように、早瀬に愛されたいと思う、愚かな女になるかもしれない。
「柚、キスしたい」
早瀬の目が、ぎゅっと苦しそうに細められる。
……今だけ。
そう、今だけ……あたしは九年前に戻りたい。
早瀬が好きだった、あの頃に。
「柚……っ」
好きだと言わないから、重荷にならないから。
……ひとときの遊びでいいから。
あたし、勘違いしないから。
早瀬を好きでいた、昔に還りたい――。
理性が止めたが、その声はもう聞こえなかった。
あたしは、早瀬の首に手を回す。
「……キスして、須王」
勇気を出して吐き出した言葉は震えて。
あたしが九年間固く封じていた言葉を口にした。
「柚……っ」
ああ、どうしてあたしは。
傷つくことがわかっているのに、早瀬に吸い寄せられるのだろう。
どうしてこんなに抗いようもなく。
どうして、辛くて苦しい道を進もうとしてしまうのだろう。
「キス、しよう……」
早瀬が泣きそうに笑った。
あたしの胸の奥で、ピアノが鳴っているのだ。
allegro con fuoco(アレグロ コン フォーコ)。
ショパンの『革命』のように、狂おしいほど激しい、情熱的な音が。
あたしは、音を無視出来ない――。
ゆっくりと、早瀬との距離はなくなっていき、そして――唇が重なった。
しっとりとした唇の感触。
重ねていたのはほんの数秒。
しかし離れれば、また呼ばれたようにして重なり合う。
一秒が二秒となり、三秒となる。
触れあうときのぴちゃりとした音がやけに大きく響く。
早瀬の熱を帯びたようなダークブルーの瞳に吸い寄せられる。
神秘的な色合いのこの瞳に、あたしが映っているのか確かめたくて、じっと見ていたら、早瀬はゆっくりと息を吐いて……、再び口づけた。
今度は離れなかった。
「ぅ……んんっ」
早瀬の舌が、あたしの口の中を侵す。
ぬるりとした異物の動きに、思わずあたしの身体が動いて、湯面の波が大きく立った。
九年前、こうした荒々しいまでに情熱をぶつけてきたキス。
……あたしが、愛されていると錯覚してしまったキスだった。
あんなにあたしの記憶から抹殺したはずなのに、身体は早瀬のキスを覚えていた。悲しいくらいに。
そのキスを早瀬は再びしてくると、あたしの心はジャクジーの水面のように震えて、生理的な涙を流してしまう。
「んん、んむ……ぅっ」
早瀬の指はあたしの目尻に溜まった涙を拭いながらも、深いそのキスをやめなかった。
舌が大きく搦め取られる。
ざわついた舌の感触にぞくぞくが止まらず、あたしがどうにかなってしまいそうな気分がして、逃げようとしたが、早瀬が両手があたしの両頬を挟むようにしてがっちりと固定すると、斜め上から雄々しいくらいに、あたしの口腔内を蹂躙してくる。
「んん、ん……っ」
口端から流れる唾液。
ちゅくちゅくとした水音と共に、あたしのものではない、興奮したような息づかいが聞こえた。
早瀬も気持ちいいのかと耳から感じれば、さらにあたしの身体は昂ぶって。
絡め合う舌。
早瀬の匂いにくらくらしながら、早瀬の情熱的なキスを受ける。
動物的に声や息を漏らして、早瀬の舌を求めて身体を揺らす。
allegro con fuoco(アレグロ コン フォーコ)。
性急な荒々しいキスをするあたしと早瀬が、ひとつの音を奏でる――。
キスがやめられない。
貪り合うようなキスに酔い痴れながら、世界が終わってもいいと思った。
……嬉しかった。
早瀬にキスをされて嬉しかったんだ。
キスを通して、あたしは早瀬を想い続けていることを改めて知った。
あたしはきっと、九年間――たとえ錯覚でも、早瀬に愛されているということを、特別性を、実感したかった。
上原家の娘ではなく、上原柚という女を見て貰いたかった。
……わかっている。
早瀬に落ちないから、早瀬は興味を持っただけだって。
それでも早瀬は優しかったから――自惚れたかった。
大勢の中のひとりではなく、たったひとりになりたかった。
早瀬に好きだと言わないから。
ずっと心の中に閉じ込めておくから。
だからお願い。
あたしを嫌わないで。
あたしを無視しないで。
九年前のように、あたしの前からいなくならないで。
両想いになれなくてもいい。
恋愛の意味で愛されなくてもいい。
あたし仕事頑張るから。
あなたの人生のどこかで、あたしを必要として欲しい。
……性処理でもいいや。
性処理でもいいから、あたしを捨てないで欲しい。
あたしに背中を見せないで。
……キスは止まらなかった。
のぼせてしまったあたしに、慌てて早瀬が抱き上げ浴室の外に出る。
コーナーになっているらしい室内。
夜景の見える窓が、ダブルベッドに迫っている感じがした。
「部屋、いいところをとれなくてすまない」
ベッドに腰掛けるあたしに、早瀬は冷蔵庫から水を取り出して渡してくれた。こくこくと水を飲んで身体の温度を下げるあたしの髪を、早瀬はドライヤーで乾かしてくれた。
あの王様が、まるで召使いのようだ。
鏡で見る……白いタオル地のバスローブを羽織る早瀬は、筋肉がついた胸元をはだけて、とてもセクシーで。
鏡の中で目が合うと、早瀬は微笑んだ。
「そんなじっと見られたら、照れる」
……あたしと早瀬の仲は、どれだけ続くのだろう。
こんな穏やかな時間は、これで終わりだったりして。
そんなことをぐちゃぐちゃ考えるあたしの横に、自分の髪も乾かしたらしい早瀬がどかりと座る。
「……寝よう。起きてたら、色々と俺がやばくなる。……寝てもやばいだろうけど」
「え、やばいって?」
すると早瀬が頭突きをしてくる。
「俺は男なの! 抱きたい女がいるのに、抱けないから大変なの!」
「………」
「明日、抱ける? あ、会食入ってたな……。だったらその次の土曜日」
「多分、生理」
「……っ」
なんでそんなにショックな顔をするんだろう。
「女なら仕方がないんだけど。そんなにしたいなら、他の「俺はお前以外は抱く気、ねぇから」」
「っ……」
そういう、思わせぶりがあたしには辛いよ。
「次は、前から繋げる。お前の声を聞きながら、お前の顔を見てキスしながら、セックスしたい」
真摯な顔で言われて、少し狼狽してしまった。
「……。やだといったら?」
そんなことをされたら、あたしの封じた気持ちはどうなるんだろう。
「言わせねえよ。〝嫌わないで〟と言ったのはお前だ。だから……嫌っていねぇところを見せる」
早瀬はそう言うと、腕の中にあたしを入れて、ベッドに横になった。
「でも好きでもないのに」
そんな恋人みたいなこと。
「……っ、そんなのしてみねぇとわからないだろう!?」
「な、なんで怒る……「お前が悪い」」
そうぷんぷんしながらも、腕の上にあたしの頭を乗せようとする。
「あの、枕がある……」
「駄目だ。お前の頭は、俺の腕の上なんだよ。もういい加減、わかればいいのに」
そう言いながら、早瀬はあたしの唇を奪った。
「……お前、唇まで気持ちいいなんて、反則」
「……な、なにそれ……っ」
出す言葉は、再び早瀬に奪われて。
「忘れないように。キスする」
「なにを?」
「嫌わないでと、お前に言って貰えたこと。キスしたいとお前が言ったこと。……悪いけど俺、つけ込むから」
「つ、つけ……」
だけど、確かにどれもあたしが言った言葉だ。
「キ、キスは、さっきのお風呂場限定ということで……」
「却下。死ぬほどキスをして、お前に刻むよ。お前の中で、いつでも俺が再生できるよう……」
「ぅんん……っ」
夜景が見える室内で、早瀬の官能的なキスが始まった。
やがて足を絡ませ合い、手を繋ぎ……身体は正直に早瀬を求めて、早瀬の身体も求めてくれていたけれど、
「俺は、セックスがしたいわけじゃねぇんだよ」
なにやらいつもとは真逆な意味不明なことを唱えながら、あたしを抱かなかった。
代わりに、キスの雨を降らせて唇がタラコになるかと思われた後、あたしは意識を手放し、早瀬に抱きしめられるようにして眠りに就いた。
「なぁ、少しは俺のこと、好きになってくれているって思っていいか? 少しは、男として意識してくれてる?」
やがて早瀬の声も、
「俺、お前の隣にずっと居たいんだ。消えたくねぇんだよ。だけど……。駄目なのかな、こんなに好きなのに傍にいることは。こんなに好きなのに、一緒に音楽をすることは。……もう少し、お前の声を聞きたいのに……。刻まれたキスで縛られるのは、俺かもしれねぇな……」
夜の闇に溶け、寝息に変わった。
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