エリュシオンでささやいて

奏多

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第3章 Bittersweet Voice

 8.

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 拍手喝采の中、早瀬が、平均年齢が高そうな他演奏者の居る場所に立つと、グランドピアノの横で、音を拾っていたマイクを手に持って、挨拶を始める。

 本当に、姿態もさることながら、スポットライトが似合う男だ。
 予定外の出来事に、まるで臆することがないばかりか、余裕だ。

 マイクを通して聞こえる早瀬の声は、あたしの耳で直接聞く声より低音が強く、男っぽく感じる。

 またこれでファンを増やしているんだろうな。
 あの声で囁かれたいとかいう女性、たくさんいるんじゃないだろうか。

 そんなことをぼんやり思いながら、なにか後光がさしているような、別次元にいる神様のようにも思えてきて、思わず両手を合わせて拝んでしまえば、そのまま、うとうとしてしまう。

 ゴホッ!!

 マイクを通した大きな咳に目を覚ませば、早瀬が睨みつけている。
 かなりお怒りのようだから、お水を飲んで眠気を飛ばすことにした。

「……では、皆さまに素敵な夜を」

 グランドピアノの椅子に腰掛ける早瀬。
 
 クラシックとは無縁だったくせして、まるでプロのピアニストみたいじゃないか。格好だけは、すごくサマになっている。

 早瀬が他の演奏者になにかを言い、彼らが頷いた直後早瀬は両手を鍵盤の上に持ち上げると、鍵盤に叩きつけるようにして始めた。

「これは……、ショパンの〝革命のエチュード〟」

 左手が黒鍵を交えて半音階的に下がって行き、やがてそれは両手になる。

 allegro con fuoco(アレグロ コン フォーコ)。
 速く、情熱的に興奮して。

――わ、なに? それ弾きたい、それ教えて。

 フレデリック・ショパンが友人のフランツ・リストに送ったとされる、祖国ポーランドが戦争で陥落したことを嘆いて作られたとも言われる、ハ短調作品10-12『革命のエチュード』。

 ショパンの、やりきれない悲憤や絶望、葛藤がぶつけられた、叩きつけるような旋律と、特に左手の繰り出す音は感情的に、それでいて正確さと早さを求められる。
   
 突然音が止まった。

 はらはらして見ているあたしの前で、それがわざとの勿体ぶった演出だと気づいたのは、それからたっぷり三秒後。

 原曲にはない……だけど、この曲のハ短調の音階の音で、次第にリズムも変わっていく――。

「え、ボサノバ!?」

 サンバ音楽のようなリズムをしっかりと刻みながら、メロディラインはオリジナルを踏襲しながらも、時折挟まれるアレンジにより、あの嵐のような「革命」の曲がかなりオシャレで。

 オリジナルの曲自体は有名だけれど、人間、こんなに即興でジャズにアレンジしながら弾けるものなのだろうか。

 もし指が動いていたあたしだったら、弾けたのだろうか。

――なぁ、柚。こっちの方がいいと思わね?

 確かに早瀬は、アレンジするのが早かった。
 なによりもオリジナルのよさを見抜いて、それだけを取り出して違う曲にしてしまう……今に繋がる天才だった。
 
 早瀬が片足でリズムを取りながら、ボサノバのリズムはそのままで、今度はオリジナルにはない旋律が間奏のようにして入って来た。

 そして、早瀬が弾き始めた主旋律は――、

「カルメンだ」

 ジョルジュ・ビゼー作曲『カルメン組曲(Carmen Suite)』の一曲、『ハバネラ(恋は野の鳥)』。

 歌劇『カルメン』において、ドン・ホセを惑わすカルメンのアリアの部分だが、革命からカルメンになるとは思わなかった。

 まったく違う曲なのに、違和感なく移行した。

――へぇ、カルメンって利用した男に刺し殺されるのか。だけど殺してぇほどカルメンが好きだったというのは、共感出来るかも。

 思い出に、胸がきゅっと絞られた。
 
「次は、『ロミオとジュリエット』ね」

 これは映画の主題歌で、フィギュアスケートで採用する選手のおかげで、また注目されるようになった曲だ。 

 しっとりとした壮大な曲が、ムーディックなジャズとなり、早瀬の才能を加えて、迫力すら感じる。
 
 鍵盤を弾いている早瀬は、微笑んでいた。
 ……九年前の、あたしの横に居た時のような。

 技巧が加わった音も、あの時と同じように嬉しそうに踊っていた。

 本当に音楽が好きなんだと思わせる早瀬の演奏は、九年前の辿々しさはまったく感じられず、早瀬須王の曲のように馴染んで別の曲になっている。

 情熱的で、だけど繊細な早瀬の音。
 ピアノだから余計に、あたしの耳には早瀬の澄んだ音が響いて。

 あたしが好きな音で溢れかえった。

 好きで。
 好きで。

 好きだった想いが逆流してきて。
 酔いはあたしに、九年前の〝好き〟ばかり連れてくる。

 ピアノが好きで。
 早瀬が好きで。

「……っ」 

 胸が苦しい。
 まるで観覧車でキスをされた時のように、胸の奥が熱く苦しくて。

 あまりにピアノの旋律が素敵過ぎて、あたしは密やかに涙した。
 早瀬の音は、あたしの心の琴線をダイレクトに震わせた。

 そうすれば、気づきたくないのに気づいてしまうんだ。
 
 あたしは、いまだ早瀬須王に惹かれているということに。
 彼の音や、彼の存在が、今でもこんなに影響を与えるものだということに。

 たくさんの視線が早瀬を見つめている。

 写メをしている女性もいた。
 熱視線が飛び交っていた。

 ああ、あたしは――。 

 早瀬が奏でる澄んだ音を、あたしだけに向けて貰いたいと思っている。
 彼の心を乗せた音が欲しいと思っている。

 あたしだけが特別になりたいと思っている。
 もっと近くで、演奏している早瀬に微笑みかけられたいと思っている。

 九年前のような関係になりたいと――。
  
 ……馬鹿な柚。
 酔いと共に、この切なさも消えてなくなればいいのに。

 あたしにとって音楽は、最高の口説き方。
 
 素敵な音楽に身も心も蕩けてしまう、あたしだって普通の女だ。

 だけどその口説きに、素直に落ちてしまえば、きっとあなたはあたしに興味を失うでしょう?

 ……靡かないから、あたしを口説こうとしている――だから意地になっているんでしょう?

 こんな……誰からも早瀬の横に立てると認められることがない女は、早瀬が遠い世界に居る存在としか思えなくなってきて。

 早瀬が遠い――。
 
「帰りたい」

 皆の早瀬が辛くて。
 あたしの知る九年前の早瀬がいなくて。 
 
 もう耐えられなくて。

 切なくて切なくて、心が震撼した。

 そして――。

「すみません、お願いがあるんですが」

 あたしは、ウェイターさんにお願いする。

「連れは帰ったと、伝えて下さい。これ、会計のお金です。残りはあっちに渡して下さい」

 もう、ここで聞いていられない。

 早瀬の音があたしに満ちる度、早瀬の音が好きなあたしは、好きという感情が溢れて、早瀬を引き摺ってしまうの。

 楽しいと思う音と、切なくてたまらない音が混在している。

 あたしは、ふたつの音色を同時に受け止めることが出来ないから――。

 拍手喝采を背にして店から出ると、エレベーターが来るのを待つ。

 六十階だから、すぐ来てくれない。
 ため息をついた時、後ろから声をかけられた。

「大丈夫ですか? かなり酔っているようですが」

 あたしにワインをおごろうとして早瀬に怒られた男性だ。
 年はあたしくらい、よく道端で歩いているようなごく普通な男性。

「あ、大丈夫です」

「お帰りですか?」

「はい」

「僕もちょうど帰ろうとしていたんです。よければ一緒に帰りませんか」

 ……ちょっと、警戒心が働いた。

「あたし、寄るところがあるので」

「心配ですから、僕もついていきますよ」

 ……なんだかしつこくて嫌だ。

「あ、ひとりで大丈夫ですので」
 
 そういう時に、エレベーターが来てフロアにはあたしと彼しかおらず。
 
 狭い空間、一緒に居ることに躊躇した。
   
「あたし、忘れ物を思い出したので、お先にどうぞ」

 一度店内に戻ろうとすると、腕をとられる。

「そんなものないんでしょう? さあ、エレベータが来ましたよ、乗りましょう」

「あたし、本当に忘れ物が……」

 しかし酔っていたのと男の力は強くて、声を上げたのだが誰も来るひとがいなくて。

「なにをするんですかっ」

「ああ、ふらふらですね。どこか休憩しましょうか」

 男がドアを閉める。

 血走った目。
 なにかの香水の匂い。
 整髪料のような匂い。

 気持ち悪い。
 とっても、気持ち悪い。

「ううっ」

 一気に込み上げてくる、吐き気。

「吐きそう……」

 あたしはたまらず、嘔吐してしまった。
 ……背広姿の男の胸元に。

「なにをするんだっ!!」

 怒られても吐き気が止まらないあたしは、吐瀉物の匂いでまた吐いてしまう。エンドレスの苦しみの中、男の嫌悪の声がざらついて耳に響いた。

 そのままドアが閉まる――。
 
「柚!!」

 が、閉まらなかったのは、足が挟まっていたから。
 それはあたしでも男のものでもなく。

「なんで……早瀬……っ」

 この空間に居たら匂いでわかっただろう。
 それじゃなくても、男の胸元とあたしの胸元は汚れている。

「来ないで、来ないで……」

 見られたくないのに見られて動揺してしまうと、また吐き気が込み上げ、吐瀉物が早瀬にかかってしまった。

「なに言ってるんだよ、気持ち悪いだけか? 頭とか痛くねぇ?」

「来ないで、……ううっ」

 必死に吐き気を抑えているけど、なにかすっぱいものが込み上げて。
 もう胃腸が吐瀉にスタンバイしているように、痙攣している。

 情けないのと苦しいのとで、涙が止まらない。
 どうすればいいのかわからない。
  
「どうしてくれるんだよ、俺の服!」

 優しく声をかけてきたのに、男が怒り狂ってる。

「ごめんなさい、ごめ……っ」

 また吐いてしまった。

「汚ねぇ、このゲロ吐き女!!」

 そう言った男の腹に、早瀬は拳を入れた。

「好き好んで吐いてるわけねぇだろ!? ヤることしか考えてねぇで、少しは介抱しようとか思わねぇのか!」

 そして早瀬は、適当にボタンを押して外に出ると、ドアが閉まった。
 騒ぐ男と吐瀉物を乗せて、エレベーターは下に行ってしまったらしい。

 自己嫌悪と吐き気とで、頭が痛かった。
 
 早瀬が手にしていたコートをぐるぐると丸めてあたしの手に握らせる。

「これに吐け。今、水貰ってくるから、その間はこれで我慢してくれ」

「いや、そんな……服……」

 すると早瀬は目をつり上げ、声を荒げた。

「服なんかどうでもいいだろう!? 我慢するな」

「でも……早瀬を汚したくない……」

 すると早瀬は腰を屈めるようにして、吐いたばかりのあたしの唇に、彼の唇を重ねたのだった。

「ちょ、なっ!!」

 キス、しかも吐いたばかりの唇なのに!

「俺は大丈夫なの。だから安心して、ちょっと我慢して待っていてくれよ」

 汚いのに。
 スポットライト浴びたばかりのひとがすることじゃないのに。

 あたしは早瀬を置いて帰ろうとした。
 コートを手にしていたということは、1度席に戻ったのだから、彼は伝言を聞いたはずなのだ。

 それなのに――。

「とにかく水を飲んで吐いて、酒を薄めていけ」

 女子トイレに一緒に入り、吐くに吐けないあたしの口に指を突っ込んで、便器に嘔吐させていく。

 背中を摩る暖かい手。
 あたしの片手を握りながら、励ましてくれる。

 どうしてそんなことをしてくれるの。

 どうして。
 どうして。

「疲れたか? ちょっと休むか。俺の肩によりかかれ」

 あたしの頭をまさぐる優しい手。

「飲ませて放置して、ごめんな」

 優しすぎて、涙がとまらない。

「どうした? 苦しいのか?」

 あたしは頭を横に振った。  

「あたし……帰ろうとしてたの」

「ん、聞いた」

「ごめん……」

 早瀬があたしの額に唇を当てた。

「……謝るな。どうせまた、俺がお前の気分を害したんだろう? ただ……あの男が慌てて出ていったのを見て、ホテルの部屋に連れ込まれると焦ったけど」

「あのひとが気持ち悪くて、それで吐いちゃったの」

「ん……」

 弱っているあたしのコメカミに、早瀬の唇。

「俺は大丈夫?」

「大丈夫」

 早瀬の香りは、吐瀉の匂いが気にならないほど、落ち着くのに。

「汚してしまって、手間かけさせて……ごめんなさい」

「いいんだよ」

「演奏素敵だったのに、あたし帰ろうとして……っ」

「だからいいんだって。……こうしてお前が俺の腕の中にいれば、逃げようとしていないのなら、不問だ」

 優しくされればされるほど、あたしの中で吐き気とは別に込み上げるものがあって。

 それが涙と共に外に出た。

「あたしを、嫌わないでっ!!」

 ……そう、早瀬に嫌われたくないのだ。

 あの男みたいに、汚い女だと手間のかかる女だと、嫌われたくない。

「嫌わない」

「本当に!?」

「疑り深い奴だな」

 あたしの唇は、苦笑する早瀬の唇に塞がれた。

「嫌いな女に、こんなことしねぇから」

「……っ」

「……今日、お前帰るのは無理だ。だから今夜はここに泊まろう。……変な意味じゃなく」

 心配そうなその瞳に絆されて、あたしはこくりと頷いた。

「うん……」

 早瀬はあの男とは違う。

 ……あたし今夜、早瀬から離れたくない。

「良い子だ」

 早瀬は、あたしの頭の上に口づけた。 

 
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