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第3章 Bittersweet Voice
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観覧車から出て車に乗っている間も、元気なあたしの腹の虫は自己主張をし続けて。
その度に肩を揺すって爆笑を続けるこの男から、あらゆる音を止めたいと思うのに、どうにもあたしの腹の虫は、餌にありつけるまでは鳴き続ける魂胆のようだ。
我ながら情けない結末と思えども、キスをしてしまった――その居たたまれない艶に満ちた余韻を、笑いでかき消してくれてよかったと思う。
早瀬がキスをしたのは、観覧車の頂上でキスをすれば幸せになれるだとかいう、ジンクスによるものだということは、あたしだってわかる。実際そんなことを言っていたし。
それでも……、夜風にあたっても消えぬ唇の熱。
九年前のように、早瀬を意識してしまったあたし。
早瀬に少し軟化しようと思った途端、垣根を壊される。
あたしとしての領域を踏み越えられる。
九年前、早瀬が弾いたピアノを聞いた時のように、警戒心を忘れてしまう。
……成長のない自分が恨めしくて。
そんな感傷的な遊園地を後にして、回復した身体を動かして早瀬に促されるがまま駐車場へ行き、車はさらに夜の闇が溶けた景色を走る。
「クイーンズスクエア……いや、ランドマークタワーの上で食事しようか。どうせなら高いところから夜景見下ろして食ってやろうぜ。俺、実はランドマークタワーに行ったことねぇんだ。お前は?」
「あたし横浜自体、初めてなんですってば。名前は聞いたことありますけど」
「はは、そうだよな」
……なにが嬉しいのかわからないが、早瀬はとにかく嬉しそう。
夜景が好きなんだろうか。
それとも名所が好きなんだろうか。
まるで観光客のようだと思いながら、早瀬に連れられるまま、よく名前だけは耳にするランドマークタワーというところに向かった。
遊園地からそんなに離れていないのか、連なっているのか独立しているのかよくわからない……横にずらりと並ぶ建物を横に見て進むと、先頭にやけに背が高い……洋画で出るビルのような、上部にある凹みが近代的な外観の建物が建っている。
「あのでかいのがランドマークタワーだ」
何階まであるんだろう。
あまりに窓の数が多すぎて、見当がつかない。
車は横のPの看板から地下駐車場へと進んだ。
なんでも洗車場まで完備しているらしい駐車場らしいが、別に大理石で出来ているものではなく、どこにでもあるようなコンクリート剥き出しのものだ。
「腹減ってるだろ? まっすぐスカイラウンジに行くか」
「お任せします」
早瀬とエレベーターに乗る。
これから行こうとしている一番上のレストランは、なんと六十階!
「五十九階分、なにが入っているんですかね?」
「ああ、ホテルだからここ」
「ああ、だから……」
ホテル?
「あ、あの……」
「硬くなるなって。家に帰りたいんだろ?」
「はいっ!!」
「元気よく返事するなよ、……ちっ」
なにやら不満そうな舌打ちの音が狭いエレベーターに響き渡った。
よかった。
今日は帰れる。
そう思ったら、また腹の虫が騒ぎ出して、早瀬の爆笑がとまらなかった。
スカイラウンジ「オリシス」
黒服の店員さんに案内されて中に入ると、暗い照明の店内、一面硝子張りで横浜港の夜景が広がり、思わず感嘆の声を出してしまった。
観覧車からの景色も素敵だったけれど、夜景を絨毯のようにして建物の高いところで水平に歩いているから、これは贅沢すぎる。
案内されたのは窓際の席だった。
ふかふかな椅子に座ると、早瀬はメニューを開いた。
「なにがいい? 肉? 魚?」
早瀬の顔が黄色い照明に照らされる。
「食べれるものならなんでも!」
切実な腹の内を察して、早瀬は笑いながら適当に頼んでくれた。
「お、おフレンチではないですよね?」
「なんだそのおフレンチって。フレンチがよかったのか?」
「いやいや、あたし作法とかまったく知らないから、もしそうだったら困ったなあと思っただけで……」
早瀬は笑う。
「今度話のネタに、フレンチも食ってみたらいい。作法なんてなんとかなる」
「それでも恥をかくのは……」
「俺は平気だし。教えてやる」
笑いながら、早瀬は眼鏡を外した。
煌めくダークブルーの瞳が、優しく細められ、雰囲気に流されそうになる馬鹿なあたしは、必死に自分を立て直す。
「あ、あなたと行くの前提なんですか?」
「当然。誰と行く来だったんだよ?」
「いや、ひとりで……」
「ひとりでフレンチか。すげぇ優雅だな」
早瀬はくくくと笑った。
「俺、お前見物してるわ」
テーブルの上に片肘突いた手の上で、早瀬の顔が傾けられる。
その視線が優しくて、……甘くて、息苦しくなる。
高いところで偉そうにしている不遜な王様はどこに行ったのよ。
「あなたの見ていない時に、ひとりで行きます」
「駄目。俺を連れて行って。じゃないと、行かせねぇよ」
「別にあたしのフレンチにあなたの指図は」
「駄目。お前の初めては俺のものなの」
「な……っ」
早瀬の手が伸びて、テーブルの上に置いていたあたしの片手を軽くひっぱる。
「フレンチ以外も色々行こうぜ。俺、調べておくからさ」
笑う。
笑う。
駄目出しして話を勝手に進めていく強引さはあるくせに、二十六歳に思えないあどけない笑みがそこにあって。
「ん?」
「……あなたがよくわからないです。どうしちゃいました? キャラ崩壊?」
「はは、崩壊してる?」
「はい」
崩壊してると言われて、なんで嬉しそうなんだろう。
いつも冴え冴えとしていたダークブルーの瞳が、優しすぎるのだ。
あたしは、どう反応すればいいんだ?
「俺、すげぇ必死なんだな」
「は? キャラ崩壊がですか?」
「ああ。崩壊……というか、これが素なんだけどさ」
「………」
「はは、すっげぇ眉間の皺」
お酒も飲んでいないのに、からからと陽気に笑う早瀬。
こんなに笑う男だったっけ?
……あたしは知っている。
九年前の早瀬がそうだったということに。
九年前、早瀬はよく笑っていたんだ。
こうやって、優しくあたしを見ていたんだ。
あたしが勘違いするほどには。
胸がぎりぎりと締め付けられる。
「ワインをお持ちしました」
その時、ウェイターが来てワイングラスをふたつ、テーブルに置いた。
「こちら、Chateau Le Puy Emilien(シャトー・ル・ピュイ・エミリアン)の2002年ものになります」
そしてナフキンで掴んだボトルを回すようにしてあたしのグラスに赤ワインを注ぎ、ボトルをテーブルに置いた。早瀬のところには別の小さなボトルから綺麗なピンク色の液体を注ぐと、きらきらと煌めくような細やかな泡が立つ。
「はい、乾杯」
早瀬がグラスを傾けるから、あたしも同じようにしてカツンと音を鳴らした。
あたしは、あまりワインというものが得意ではなく、せいぜいドイツのデザートワインと呼ばれる甘いものは飲めるが、赤ワインを美味しいと思えたことがないため、恐る恐る口をつけてみると、それがとても美味しい。
「美味しい?」
あたしの反応を見ていたのだろう、早瀬が嬉しそうに身を乗り出しながら聞いてくる。あたしは破顔して何度も乾いた喉を潤していく。
グラスにワインが減れば、早瀬がボトルを手にして入れてくれる。
「ゆっくり飲めよ、いいワインだからな」
「あなたは飲まないんですか?」
「お前、俺は運転するんだぞ?」
「あ……」
「俺も飲めるいい方法がある」
「え?」
「ここに泊まろう?」
どことなく確信犯的な、妖艶な流し目も一緒に食らい、ぶほっとワインを吹き出しそうになった。
「……抱かせて?」
この男……観覧車の時から決定事項にする気で、あたしの判断能力鈍らせるために飲ませたのでは?
「帰ります!」
「いいなあ、そのワイン」
早瀬が手を伸ばしてあたしのワイングラスを奪おうとする。
「駄目ですよ、あなたには飲み物があるでしょうが」
「これノンアルコールだから味気なくてさ。俺も、お前と一緒に酔いたいんだけど」
「駄目です!」
「鬼畜」
「あなたほどではないです」
ほんわりといい気分だ。
これがワインの酔いなのかしら。
「お前さ、他の男の前で飲むなよ」
「は?」
「……食べたくなるから」
再び、吹き出しそうになった。
「レストランで怖いこと言わないで下さい」
「じゃあもっとはっきり言えばいいのか? セック「うわわ、なに言うんですか!」」
慌てて早瀬の口に手のひらをつけると、早瀬が瞳を揺らしてその手のひらに唇をあててきた。
驚いて手を引こうとするあたしに、手を動かせないように手首をがしっと掴むと、顔を傾けながら舌を這わせてくる。
わざと細めた目だけを向けてくるその表情が悩ましくて、ここがレストランということを忘れて、愛撫されてい気分になる。
「感じるなよ、アホ」
笑いながら早瀬は、あたしの指を含んだ。
こんなひとがいるところで、こんなこと……。
それでも彼の表情とされていることを、気持ちいいと思ってしまうあたしは、ワインと雰囲気に酔ってしまっているのだろう。
煌びやかな夜景と端正な早瀬の顔が、どうしようもなく愛おしく感じてしまうのは、ワインのせい。
「お待たせ致しました」
離れた熱が寂しく思うのも――。
料理が次々と運ばれる。
メインの肉料理は子羊の肉だった。柔らかくて蕩けるように思えるお肉に舌鼓を打ちながら、饒舌となって早瀬と会話する。
その時、ジャーンとシンバルの音が聞こえて驚いた。
グランドピアノとコントラバスとドラムとギターがスタンバイしている。そこにアルトサックスが混ざる……ジャズ演奏が始まるようだ。
カチカチカチとドラムのスティック同士が叩かれる音がして、ドラムの左上のシンバルであるハイハットの抑えた音がシャカシャカと聞こえて来た。
最初はジャズの定番、シャンソンの「枯葉」。
悲哀に満ちたメロディーは、バラードよりは早めのミディアムテンポで奏でられ、定番のジャズのムード音楽とされる。
煌びやかな夜景に囲まれながら、優雅に食べて飲んで、さらには生演奏を聴けるというこの贅沢さ。
なんだかあたしだけが、美味しい赤ワインを独占しているのが申し訳なくなって、早瀬にも飲ませてあげたい気分になった。
早瀬だけがホテルに宿泊して寝てくれれば、あたしは交通機関で帰る……ことが出来るだろうか、景色揺れているけれど。
いろいろ考えるのに、あたしがワインを飲むペースは速い。
ジャズは、しっとりとした「Fry me to the moon」に入る。
意識していなくても、身体がリズムを刻んでしまうのは、早瀬も同じだったらしい。思わず目が合い、笑ってしまった。一種の職業病だ。
曲が「Take five」から、ボサノバの「イパネマの娘」に入った時だった。
「早瀬、須王さんじゃないですか?」
横を通り過ぎようとしたひとりの男性客の声に、早瀬が注目を浴びた。
「ちっ、眼鏡かけてなかった……」
あの眼鏡は変装用でもあるらしいが、美の雰囲気を変換するためのアイテムなだけで、あまり意味がないようにも思える。
わらわらとひとが増えてくる。
せっかくの生演奏を邪魔するようなひとだかり。
よくわからないが、過去のお仕事を提供したひとや単純にファンもいるのだろう。まあここは有名な建物なのだから、いつ誰がいてもおかしくない。
集まること、集まること。
女性は美女ばかり。
ここは美女しか入れないお店なのか?
あたし特例?
ぼんやりと考えながら、ワインをごくり。
もしかして、早瀬が過去相手した女性達かしら。
修羅場?
ちょっと苛立って、ワインをごくり。
ただの音楽家なのに、まるで芸能人みたいでモテモテですね。
むかむかして、ワインをごくり。
「あの、今はプライベートなので……」
困ったような目が合った。
あたしに助けを求めているの?
早瀬先生が?
こりゃあ愉快愉快。
酔っ払いは無敵だ。
取り巻きはあたしに見向きもしない。
そりゃああたしは凡の下ですけれど、ゴシップのような騒ぎにもならないなんて、プライドが傷つくんですけど。
それともここは、ゴシップとは無縁の上流階級の人達が集っている場所なんですか?
相手にもされないあたしは、手を上げて叫んだ。
「あたし、早瀬先生の生演奏が聴きたいです」
ちょっとした意地悪からだった。
モテモテなのが、癪に障ったからだ。
「お前、なにを……っ」
「あたし、早瀬先生の音楽のファンなんですぅ。生で弾いてくれるのなら、なんだってしますぅ」
わざといらっとするようなことを言ったのは、酔っ払いだからだ。
酔っ払いの戯言だ。
普段ならまるで出来やしないのに、今はあたしが女王様になった気分で、とても気持ちがいい。
「だからお願い聞いて下さい! ねぇ皆さん、聞きたいですよねー」
周囲が賛同にどよめく。
「お前、酔ってるだろ! 水飲め、水」
あれ、ボトルにはもうないや。
だったらこのグラス半分が最後のワイン。
「よければ、あちらで飲みませんか?」
知らない男性が声をかけて来た。
「それと同じの頼みますよ?」
それにつられようとした時、なんと早瀬が、あたしのワイングラスを奪い、一気飲みしてしまったのだ。
「悪いが……」
早瀬は口を手の甲で拭いながら、男性を睨み付けた。
「その女は俺のつれだ。……去れ」
その威嚇に男性は縮み上がるようにして逃げて行った。
「あたしのワイン……」
「ああ、後で飲もうな、一緒に。だから良い子で待ってろよ?」
早瀬の冷ややかな笑みに、ぞくりとしたものを感じた。
「――今夜は、ここに決定だ」
このホテルに泊まるのだと、宣言した。
あたしだけがわかるような言葉で。
睨んでもいるようなその眼差しは、目の縁がほんのりと上気しているようでやけに色っぽく。だが彼の発したその言葉は、どこまでもあたしの全身から血の気と酔いを引かせるもので。
後悔先に立たず。
「い、いやあの、あらひは……」
「お前が言ったんだろ、なんでもすると。引くに引けなくなった責任をとって貰う」
「いや、その……」
「拒否権なし!」
神様――。
あたしおうちに帰りたい。
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