エリュシオンでささやいて

奏多

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第2章 Dear Voice

 7.

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 *+†+*――*+†+*

 超高級外車は、首都高を快速する。

 大きなロットでゆるゆるパーマをかけたような、天然くせ毛の無造作ヘア。
 窓から差し込む陽光が、雲ひとつない見事な蒼穹を反射したように、彼の黒い髪を青く発光させている。

 眼鏡のフレームにかかる長めのひと束が、やけに色っぽい。

 この男は仕草ひとつ自分の魅せ方をわかっていて、平凡この上ないあたしに圧倒的な美貌を見せつけようとしている確信犯かと思うのに、運転するその顔は真剣そのもので、邪念に曇ったような眼差しではなく。

 運転に没頭している運転手の横で、あたしがただ、早瀬の美貌に圧倒されているのを早瀬のせいにしようとしていただけの、あたしの方が邪念に曇った話だと思えば、ずぅぅんと自己嫌悪に陥る。

「……お前、さっきから百面相していて、暇そうだな」

「べ、別に暇では……」
 
 早瀬はごそごそと片手を動かすと、ぽいと自分のスマホをあたしの膝の上に置いた。

「俺、運転中だから、お前が応答して」

「は!?」

「仕事のはハンズフリーにしてる。だからそっち頼む。まあ誰も来ねぇだろうけど、一応」

 ああ、確かに反対側の耳になにか機材をつけている。
 
「プライベートなら余計出ませんよ。あたし、勘違いした女達との修羅場嫌ですし。大体本命から電話かかってきて、誤解されたら、嫌な思いするのあなたですよ?」

「お前に出られて困るような女、いねぇって」

「……へぇ。社内で色々聞きますけどね」

 常日頃噂だけは耳にしている。
 昨日食われたのは誰だの、早瀬が誰と腕を組んで歩いていただの、ホテルに入っただの。また食われた女性が自慢げに、早瀬との一夜がどれだけ素晴らしいのかと、社内でお昼を食べようとすれば、そんな話ばかり聞こえてきてげっそりするから、あたしは上の食堂に毎日通う羽目となっているんだ。

「社内なら余計、手を出さねぇよ。あることないこと言われて、俺の女面されたくねぇし」

「へぇ……」

 あたしは、社内に居ますけどね。
 あたしは、あることないこと皆に言って、早瀬の女面はしないと思っているんだ?

 その根拠は?

 聞いてみたいのが、一割未満。聞きたくないのが九割以上。

――性処理でもいいって言うなら、抱いてやるけど?

 ただの性処理には人権はないよね。わかっているから聞きたくない。

「俺、見境なく女に手を出すほど、女に困っちゃいねぇし、逆に女なんてうんざりだ。用があるから声を掛けたら、俺が告ったことになってる。告られたの断れば、あることないこと騒ぎたてる。俺が年中発情して女食ってる男になってるしな。……大体俺、昔から女は嫌いだし」

「……へぇ」

 女嫌いだと言った時の声音が変わった気もしたけれど、モテる男は言うことが違う。世の男に刺されるよ。
 
 はは、なに? 女が嫌い?
 あれだけ啼かないあたしにセックスして吐精しているのは、オスの本能だと、その行為に心はないんだよと、あたしに念押しでもしてますか?

「それに、俺には……お前がいる。他は必要ねぇし」

「……へぇ……」

 艶めいた声で、専属性処理がいるからと言われた気がして、あたしは悲しくなって、窓の方を向いた。

「……。少しぐらい信じろよ。大体俺は忙しい。暇さえあれば曲作ったりアレンジしねぇといけねぇし、抱えているイベントもたくさんある。あちこち顔を出したり取材とかで時間とられて、そん感じで三ヶ月先までスケジュールが詰まってる。そんな疲労困憊の中で、女の愛想なんてとってられるか」

「へぇ……」

 その割には、結構ホテルに連れ込まれますけれどね。
 毎日でもセックスが出来るくらい精力が有り余っているのなら、長きに渡って、ではなく一夜限りの女性が沢山いるということですか。

 それをあたしに自慢して、なにを期待しているんでしょうかね。
 嫉妬する仲でもあるまいし。

「信じてねぇな、その返事の連続は。だったらアドレス帳とか履歴とか全部見てみろ。暗証番号は、0214だから」

 あたしは頭を横に振る。

「別に見たいとも思いません。幾ら自慢されても、あなたの女性関係、まるで興味ないですし」

 それは本心。
 しかしそれで、引っ込める早瀬ではなく。

 あたしの膝の上に放置されているスマホを取り上げると、片手でパパパと画面を弄ってまた、律儀にあたしに返した。

「それ、アドレス帳だから。履歴はホームボタン押して……」

「だから別にどうでもいいですって。これ、お返しします」

 その際、視界に入ってしまった、早瀬のアドレス帳。

 登録されているのはふたつ。

 〝棗〟と〝渉〟

「あたしの方がまだ登録してる……」

 ぼやいてしまうほどの空欄の多さ。

「ああ、そうか。重要なひとは仕事の携帯電話に……」

「仕事の電話の方は仕事しか入れてねぇよ。この電話には、俺の親友とこの世で一番嫌いな奴しか登録してねぇ。出たくねぇから登録してる」

 好奇心で思わず聞いてみてしまった。二分の一の確率だったから。

「嫌いなのは、このトゲさん? 渉さん?」

「トゲじゃねえよ、ナツメ!!」

「ナツメさんか……」
 
「お前も知ってるだろ。白城棗(しらき なつめ)」

「さあ?」

「高三の同級の男だろうが。お前、あいつと同じ3-2だろう!?」

 白城という名前の記憶を辿るより先に、あたしの心が禁忌のワードにひっかかった。

 高三――。

 忘れたい思い出が詰まったそれに、心臓がどくりと揺れた。

「だから俺は「この話はやめて下さい」」

 あたしは固い声でそう言うと、早瀬の膝の上にスマホを返した。
 
「あたしに高校時代の話は、一切止めて下さい。もしするのなら、ドア開けて飛び降ります。それくらい、あたしにとって特に高校3年は、忌々しくて忘れたい黒歴史ですので」

「……」

 ……あたしは、世間話でも早瀬との思い出が詰まったあの時を、軽々しく口に出せない。早瀬が簡単に口にするのは、どうでもいい思い出だったからだろう。

 どうせ、あたしは――。

――有名人の娘だからお前のバージンに価値があった。それがなくなれば、お前に価値はねぇ。
 
「あなたも忘れて下さい。あたし達には共通の思い出はなにひとつない。エリュシオンで初めて会いました」

 高校時代に関して、今まであたしは早瀬とひとことも話をしていない。
 あたしがピアニストの夢を諦めたことは、二年前に、早瀬は既に知っていたけれど、早瀬との一件が誘因したとは思っていないだろうし、あたしだって口にしたくない。

 あたしの指が動かなくなったのは、自己責任だから。
 あたしさえショックを受けていなければ、免れただろう事故だっただけ。

 ぶり返したくないんだ。

 あの時の辛さも苦しみも、早瀬とのふたりの世界を楽しく思っていたあの恋心も。

「――嫌だ。……忘れねぇ」

 不意に早瀬がそう呟いた。

「絶対に、俺は忘れたくねぇ」

 フロントガラスを睨み付けるようにして早瀬は言う。

――有名人の娘だからお前のバージンに価値があった。それがなくなれば、お前に価値はねぇ。 

「最低っ」

 怒りに震える声で言うと、

「……わかってるよ、それくらい」

 早瀬の手が伸びて――

「俺が一番わかっている」

 あたしの手を掴むと、あたしの手の甲に、大きな手のひらを重ねるようにして、指の間に指を絡めてくる。

「やめて下さいっ!」

 しかし大きな手は、痛いくらいに握ってくるばかりで離れない。
 指のすべてに力を込めることが出来ない上に、握力が違い過ぎた。
 
「……やめれるもんなら、とうの昔にやめてるよ」

 そう抑揚のない声で言うと、あたしの手ごとシフトレバーに乗せて、そのまま運転した。

――柚……、もう俺、限界。

「離して……っ」

――柚……。

「離さねぇよ!」

 荒げられた声と共に、車がさらに加速する。

「……っ」

 さすがにこの速度の中で揉み合うと、危険だと思って諦めた。

 皆が求めて期待する早瀬を、怪我させるわけにはいかない。
「皆の早瀬様」は指ひとつ、欠けてはいけない。

 心が軋んだ音をたてる。

 触れたくないのに触れている早瀬の手は熱くて、それと同じようにあたしの胸の奥にも、燻った火が発熱しているようで。
 
――性処理でもいいって言うなら、抱いてやるけど?
 
 ……思わず、涙が一滴こぼれ落ちた。

「……俺が触れるのはそんなに嫌か」

 こちらを見ずとも、あたしの涙には気づいたらしい。

 そこまで気づけるのなら、どうかあたしの心にも気づいて。

 あたしに触れないで。
 あたしを揺さぶらないで。

――有名人の娘だからお前のバージンに価値があった。それがなくなれば、お前に価値はねぇ。

 あたしの身体のように、心まであなたの好きにはさせたくないの。
 あたしだって、血を流す人間で、女なの。

「はい、嫌です」

 ……そう思って拒んでいるのに、なにか嫌な予感がするんだ。

 充満するベリームスクの匂いに、早瀬のこの力と熱に、いつか――心身の深くまで侵蝕されそうな、そんな危険な予感が。

 あたしの鋼鉄に作った拒絶心が、抵抗心が。
 いつか皹が入って木っ端微塵に吹き飛んでしまいそうで。

 丸裸になったあたしは、早瀬になにを乞う?
 拒絶の下のあたしの感情が、嫌悪感ではなかったら?
 
 いまだ、早瀬に惹かれていたら?
 早瀬の所有欲を嬉しいと感じていたら?

 嫌だ。
 あたしは、あたしであり続けたい。

 遊びを本気だと取り違えて、また……壊れたくない――。

 早瀬は翳りを落とした顔でなにも言わず、その手は離れることはなかった。
 ……いつものように、あたしの願いなど無視をして。
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