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第1章 Lost Voice
2.
しおりを挟む彼は二年前、エリュシオンの一員として、あたしの前に現われた。
あたしとは逆に、音楽界で名誉と称賛を受けた、恵まれた王者の風情で堂々と。
――早瀬須王です。よろしくお願いします。
……九年前、女が群がったあの時以上の色香に満ちた、おとなの美貌の男になって。
彼が、あたしが捨てた音楽の道に入ったとは知らなかった。
得意分野は作曲や編曲らしいが、音楽全般にマルチの才能を示し、彼が手がけたどんな音楽やイベント企画も、華々しい成果を生み出すと言われている、美貌の新進気鋭の天才若手クリエーターでもある。
音楽界の表紙や記事にも、何度も載ったらしい(あたしは見ていないが)
エリュシオンにおいては若干26歳ですべての事業に対して口出しできる権限を持つディレクターでもあり、時にはプロデューサーともなって企画を押し通すことも出来る、エリュシオンの王様。
早瀬の〝は〟と、須王の〝す〟をフランス語のように〝DE〟で結ぶと、HaDESu……ハデスとなると騒いだのはどの女だったか。
……なにをしてもぱっとしないあたしなど、足元にも及ばぬ存在だ。
エリュシオンはハデスがいてこそ。エリュシオンは彼を離したくないために、彼のむちゃくちゃな要求を飲んで専属契約を結んでいるらしい。
彼と居ると、過去の辛さが蘇生すると同時に、とても惨めな気分になる。
彼は、音楽家の家族がいたために、持て囃されていた高校時代のあたしを知っている。ちょっとピアノを弾いて皆から拍手を貰って得意げだった、プチ女王様だったあたしの姿を。
ピアノがなければ見向きもされず、必要とされない今。
だからなのか、いつも彼は、あたしと話さない。
あたしが話しかけるなオーラを出しているせいもあるけれど、あたしがひとりの時に、話しかけてくる。
それが、嫌だ。
「お前の家族の名前を利用しろ。そうしたらここも居やすく……」
「あなたに指図される覚えはないわ、それに昔を持ち出さないで! 昔はすべて忘れたいの、知った顔をしないでよ」
離れて欲しい、あたしに構わないで欲しい。
昔を忘れたいのに、昔をなかったことのようにされるのが嫌な、矛盾したあたしは、ヒステリックに拒絶する。
……早瀬の曇った表情に気づかずに。
家を出てからは、高校のように家族のことは口にしないでいた。絶縁状態だし、完全に独立したくて。
あたしの父、上原雄三は、最大手レコード会社の社長兼作曲家。
あたしの母、上原百合子は、世界でも有名なソプラノオペラ歌手。
あたしの兄、上原雅人は、世界のコンクールで賞を総なめにしたピアニストで、同じく姉、上原碧は、やはり世界で名の知れたバイオリニスト。
彼らは二ヶ月前、家族でCDを作ってかなり話題になった。
彼らは、ひと言も娘であり妹のあたしがいることを語らずに、四人だけの見目も麗しい優雅でセレブな家族像を作り上げていた。
あたしは醜いアヒルの子なんだ。
あたしだけ、音楽の才能が平凡で、しかも唯一の取り柄だったピアノが弾けなくなった者の行く末は、やはり誰にも必要とされていないもので、人の目には、あたしが一流となった会社にしがみついているような図。
自分の力だけで世間に認められている、早瀬と立場が違うのだ。
家族の名に隠れた、高校時代のあたしを華々しく思うなら、今のあたしは灰かぶり。
だから一層嫌なのだ。
早瀬とふたりになると、劣等感を刺激されて。
「自分の仕事に戻って。あたしに構わなくていいから」
恐らく、社内でこんな口をきけるのは、あたしぐらいなものだろう。
拒絶したのに、近づく靴音が聞こえる。
いつもそうだ。
彼はあたしのことなんて、ちっとも考えない。
「パワハラにへらへら笑わず、そうやって噛みつけばいいのに」
「放っておいて!! あなたと話したくない!」
「……へぇ、俺にそんな口きくんだ?」
彼は魅惑的な笑いを見せて近づいてくる。
……距離が詰まる度に、息まで詰まる。
鼻腔に広がる、彼の匂い。
彼の甘い匂いは、高校から変わらない。
ベリー系の甘酸っぱさから、甘いムスクが尾を引く……ベリームスクとでも言うべきか。
――お前、もう要らないから。
天使の歌声が傷口を癒やしても、あの時の傷は消えていない。
彼の捨て台詞が、あたしを男性恐怖症にさせた。
大学時代、前に進もうと男性とホテルに行こうとしたこともあったが、あの傷口にぐりぐりと指を入れて引っかき回されている痛みと窒息感を覚えて、悲鳴を上げて逃げ帰った。
どの男を見ても、セックスが目的だとしか思えず、頑なに心を閉ざしていた。
それを見兼ねた従兄のおかげで、なんとか社会に適応するくらいには回復したものの、セックスなんて冗談じゃないと思っているというのに――。
「――今夜、八時。いつものホテルで」
あたしの耳に直接囁くこの甘い声に、体が従順になる。
彼が好きで好きでたまらない、生娘のように――。
もうやだ。
この男と関わり合いたくなんてないのに。
「あたしは仕事がある。他をあたって」
「そんなもの、適当に切り上げろ」
「あなたにとって〝そんなもの〟でも、あたしにとっては……」
早瀬はテープのひとつを手にして、すたすたとドアに戻り、テープをひらひらさせた。
「俺がこいつを選んだといっておく。ユニット〝HADES〟の立案も、ボーカルの選択にお前を指定したのも俺だ。俺がこれだと言ったら、即終わるだろ。お前は俺に逆らえない。〝アキ〟は俺の手の内だ」
存在感ある後ろ姿が消えていくにつれて、あたしの引き攣った呼吸も元に戻る。
甘い香りも薄まる。
……無性に、腹立たしかった。
「お前の企画なら、最初からお前がしろ――っ!!」
思わず叫ぶと、廊下から奴の笑い声が聞こえた。
――今夜、八時。いつものホテルで
お互い、恋愛関係抜きの体の関係になったのは、半年前。
彼の呪いによって恐怖症になってしまったあたしの体を知りながら、性処理として半年彼はあたしを抱き、反応が乏しかったあたしの身体を、淫らに反応するよう作り替えた。
あたしは、屈辱に耐えながら体を捧げている。
契約履行のためだと――。
――お前は俺に逆らえない。〝アキ〟は俺の手の内だ。
半年前、従兄の亜貴と連絡が取れないことを心配して、それまで住んでいた亜貴の家を訪ねると、亜貴が倒れていた。
昏睡状態――それは劇症肝炎による肝性脳症だと診断され、一刻も早い肝臓の移植を余儀なくされたのだ。
国内待機の余裕はなく、亜貴の肝移植は外国のみ可能となったが、海外での搬出代と治療代諸々が気の遠くなるような高額で。
亜貴の状態は深刻で、募金などで善意を募っている時間もなく、亜貴の唯一の家族である亜貴の母とお金をかき集めても、あと一千万足りない。
意を決して親にお金を借りようと電話したら「そんな子はいない」と、たった三秒で笑って切られた。
もうこうなったらヤクザに売られてもいいから、早急にまとまった金を……と、ヤクザの事務所のように見えたところに乗り込もうとしたあたしに、彼はぽんと札束を投げ寄越した。
――これは契約だ。ヤクザに売れる体なら俺に売れ。俺が抜きたい時に性処理としてお前を抱く。拒絶したら契約は白紙だ。
彼が亜貴の命を繋いでくれたから、あたしは彼に逆らえない。
奴との契約履行に、あたしは彼の性処理となる。
昔も今も、プライドが砕かれても、亜貴の命を繋ぐために――。
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※表現不足なども重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけたら幸いです。(それはもう『へぇー・・』ぐらいに。)
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