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第1章 Lost Voice
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Elysion(エリュシオン)――。
ギリシャ神話で、世界の西の果てにある死後の楽園・極楽浄土のことで、神々に愛された英雄や高徳な人間が死後に幸福な生活を送ることが出来る野のことであり、至福者の島のこと。
雨も雪も嵐もなく、穏やかな西風がそよぎ、果実は豊かに実り、かつて冥府の王ハデスに愛されたレウケが転身した、白ポプラの樹が茂っていると言われている。
エリュシオン入りの審議をするのは、ハデスと、その部下であり生前高潔な人間であった、ラダマンテュス、ミノス、アイアコスの3人の判官であり、ヘルメスによって世界中から拾い集められた魂は冥府へ旅立ち、エリュシオン(楽園)行か、タルタロス(地獄)行か、それとも冥府に彷徨うかをを決められる。
フランスの"Les Champs-Élysées (シャンゼリゼ)"のÉlysées、シャンゼリゼ通りに面する、フランス大統領官邸のエリゼ宮(le palais de l'Élysée)の名称も、エリュシオンに由来する。
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*+†+*――*+†+*
東京都江東区木場。
大きな木場公園にほど近く、あたしが住んでいる品川から遠いところに、あたし――上原柚が勤める「株式会社 Elysion(エリュシオン)」がある。
財界誌によく載る忍月財閥直下の忍月コーポレーション本社があるOSHIZUKIビル四階に、エリュシオンが引っ越したのは今から二年前のこと。
エリュシオンは、音楽会社だ。
育成型のプロデュース業で、対お茶の間の皆さまではなく、大手プロダクションを相手に、こちらが育成した歌手や音楽を提供したり、育成をアドバイスするマネージメント的なサービスもする。
その中であたしは、企画事業部の育成課の、名ばかりのチーフをしていて、営業が街でめぼしい人材を見つけてスカウトをした子を、どう育成してどう売り出すのか、そうした企画をする仕事に就いている。
九年前――、あたしは、ひとりの天使の歌声に背を押され、親の敷いた音楽の人生から踏み外すことを決心して家を飛出し、「遊びにおいで」と書かれた年賀状を片手に、一人暮らしを始めた七歳年上の従兄の家に転がり込んだ。
一般大学の文学部に入り、アルバイトをしてお金をためて、大学の学費を肩代わりさせてしまった従兄に、借金を返し続けていた大学時代。
就職難のこのご時世、就職できずに就職課にお世話になっていたあたしは、担当してくれていた職員に呼び出され、音楽会社の受験に急遽空きが出たから、よければ受験だけでもしてみないかと言われた。
エリュシオンという社名だけで運命を感じた二時間後、その時は東京の千駄ヶ谷にあった、十五名くらいで構成された中堅会社が具体的にどんなことをしているのかわからずに受験し、奇跡的に雇用され、一人暮らしを始めた。
一体あたしのどこがよかったのかさっぱりわからないが、あたしを雇った理由について、後日、今は亡き老齢だった前社長に言われたことがある。
「あなたにとって音楽とはなにか」と面接で社長が聞いた時、「音楽は身を滅ぼすと同時に、ひとの心を救うものだ」と答えたのがよかったらしい。当時のあたしは、頭が真っ白だったのだけれど。
音楽は癒やしだけではなく、デメリットもわかりながら提案しないといけないと、クラシックだけしか知らなかったあたしに色々なCDを持参しては、家で聞いて率直な感想を言うようにとの宿題を課し、あたしの環境は一度はやめた音楽に包まれることとなった。
社員が慕った社長が病死したのが二年前。前社長のように音楽を愛さずに営利主義の息子が社長になって、社員の反発が激しくなった。
千駄ヶ谷の土地を愛した前社長を無視して、木場で忍月グループに入るためにこのビルに引っ越すことを勝手に決めた時、エリュシオンの要だった優秀な人材が独立した会社で仕事をしたいとこぞってやめた。
あたしも迷ったけれど、それでもどんな形であれ、「エリュシオンを愛して欲しい」と前社長に直接言われたことが胸に刺さり、新塚さんという庶務のおばさんとふたりだけエリュシオンに残留することに決め、二十六歳の今に至る。
OSHIZUKIビルは気鋭の建築家がビルのデザインを手がけただけあって、鏡張りの外装も、飽きない内装もまるで美術館のようだ。
すべてフロアにはテナント一社が入り、エリュシオンの下の階はシークレットムーンというIT会社が入って居て、上の階はビルに勤める社員のために解放されている、格安で美味しすぎる社員食堂パラダイスがある。
働くには恵まれすぎたビルに、よくあの赤字続きだったエリュシオンが入ることが出来たなと思うが、そこはあの三十代で社長になった若社長の手腕か。接点がないから、どんなマジックを使ってこんな広い会社に人員を補充して、沢山の部課にわけることが出来たのかも想像すら出来ない。
エリュシオンは社内の階段によってふたつの階にわかれ、上の階に企画事業部……あたしがいる育成課、イベント課、音響課、ライセンス課(主に楽曲の著作権管理、原盤権の管理を行う)の四つの課があり、各課に課長とチーフ含めて四人ずつが在籍し、会議室が大小三つと資料庫がある。
下の階には総務部の経理課と庶務課も、課長とチーフを含めて四人ずつ、営業部の営業課とマネジメント課(主に芸能人のマネージャとなって補佐をする)が課長とチーフ含めて八人ずつ。奥にはほとんどいない社長室、専務室、常務室、手前横には応接室が二つある。
加えて入り口には、L字状の受付カウンターに重役秘書兼電話応対もする受付嬢がふたり。三つの部には部長がいるため、重役三人抜かしても、総勢四十五人の大所帯。
本当に大きすぎる会社で、たくさんの経験豊かな社員達が辞職したのに、二年前に引っ越した時、既に新たな社員が補充されており、なにもなかったかのように毎日が過ぎるのは、とても寂しいものだ。
社長を囲んで賑やかに音楽のことを話し合ったあの日々は、もうない。
あたしの同期は誰もいなくなった。一緒に飲んで騒げる相手は、裏切り者と見なす古い仲間にも、新たな仲間となった中にもいない。
エリュシオンでは、誰もあたしのことを知るひとがいない。
……たったひとりの、一生、顔を見たくなかった例外を除いては。
*+†+*――*+†+*
「はぁ……ダメダメじゃないか……」
あたしは、山にデモテープやCD、履歴書と写真の束が積まれたテーブルの上で突っ伏した。
これからミステリアス設定で売り出そうとしている二人組の男性歌手を選べと渡瀬課長に言われたのだが、これが難しい。
顔がいい男性ばかりオーディションに集められたようだが、歌唱力があるのがいないのだ。
ギリシャ神話でエリュシオンの最高責任者は冥王ハデスだからと、ユニット名は「HADES」にするらしいが、そこまで決まっているのに、肝心の二人組を決める……同じ曲のオーディションを行った結果が、山にある音源であり、声量があっても音から外れたり、ぶれたり、喉を傷つける危険な歌い方をしていたり、曲とちぐはぐなのだ。
世は、男女の声が出せる両声や、極端に高い声が出せるものを求める傾向にあるようだが、男の声すらしっかりしていない。
そう、課長に返答したら――。
「写真も渡しただろう!? 誰もお前に音楽性なんて高尚なことは聞いてないんだよ! 売れそうな顔のいい男を選べばいいんだよ! タルタロスのモグラは、上司命令をきかずにプロ気取りか!? チーフは、どれだけ偉いのよ!」
フロアに響き渡るような大きな声でそう言われて、皆がくすくす嘲笑う。
あたしの全身の肌が、一気に嫌悪感に総毛立った。
課長は典型的に、強い者には媚びて弱い者には大きな顔をするタイプだ。
あたしをチーフにして責任あることをさせるのは、なにかあった時にあたしに責任をなすりつけるためなのかもしれない。そう疑わせる片鱗はある。
処理を速くと促されて早々に渡した書類も、自分が溜めたことを隠すために、あたしから貰ってないの一点張り。
――うちのチーフは無能だから。
何度それを聞いたか。
無能なのに、提出させられた企画書は、一部盗まれて彼の手柄となった。
彼は鼻高々に、自分はこういうことを考えるのが好きだと豪語した。
一度言ってみたことがある。
それはあたしが、徹夜をして一生懸命考えたのだと。
――誰でも考えられるものに、お前のオリジナル性がどこにある? お前が考えられるのなら、俺だって考えられる。
ハゲているのに茂という名前の課長は、でっぷりとしたお腹を揺らして悪意に満ちた顔で、呵々と笑った。
この世は弱肉強食らしい。
あたしはチーフという名の弱肉なんだ。
――お前が考えたという独自性や独創性があるのなら、証拠を出してみろ。言いがかりをつけるな!
……あれ以来、なんでもかんでも面倒なものはあたしに回して、皆の前で笑いものにする。その話題があたしの口から出ないようにしているかのようにね。出ても信憑性を薄れさせるように。
「企画部のチーフなのに、まともな案も出せずに、言われたことも出来やしない。モグラ! 新人研修受けるか!?」
傍の男性職員が言った。
「課長。タルタロスのモグラは人間の常識を知らないんですよ」
「研修しても無意味ですね」
「「あはははは」」
野次が飛べば、一斉に笑い声が響く。
なにも考えるな。
反論すれば乗じて、騒ぎが大きくなるだけだ。
黙ってやり過ごせ。
あたしは、ぎりぎりと奥歯を噛みしめ、握った拳を震わせた。
タルタロス――。
ギリシャ神話で天国がエリュシオンと言うのに対して、タルタロスとは地獄を意味するらしい。
タルタロスのモグラとは、地下の存在だと、光が輝くエリュシオンでは生きれないのだと、あたしはこの二年、あたしにとっては新参者であるエリート気取りの彼らに、異分子として罵られてきた。前社長を疎んじる若社長のカラーを受け継ぎ、前社長を知りもしないくせに見下す。
新卒で会社に勤めて四年も経つのに、ここ二年あたしは雑用しか任されていない。口出ししようものなら、無能の叫びと嘲笑われる。
これが26歳、あたしの現状――。
だけど、あたし本当に、いいおじいちゃんだった前社長が大好きだったから。音楽の道を諦めたあたしにとって、音楽を拒絶するものではなく受け入れられるものにしてくれたのは前社長だった。
エリュシオンは、居心地いい落ち着けた楽園だったから。
前社長の遺志を汲み取らず音楽をどうでもいいと考える輩達に、エリュシオンを渡したくなかった。
なにより、あたしの心を助けてくれたあの天使とも関連ある、エリュシオンという名前も、あたしにとって特別だった。
あたしは天使に生気を宿して貰った。
天使と出会わねば、あたしは廃人のように生きていただろう。
もう天使に恩返しできない分、少しでも天使と関連ありそうな名前のものを、変わらぬ楽園のままで守りたいのだ。
あたしひとりはちっぽけだけど、旧エリュシオンを背負っているあたしの存在が、新エリュシオンと対になるものまで大きくしてくれたのは、新参者で楽園の異分子である彼らだから。
「さっき、庶務の新塚も辞表を出した。モグラも出すか? 引き継ぎはいらないぞ。よっぽど新卒で雇った奴の方が仕事を持って働いているから」
社長。
頑張ってきた新塚さんもパワハラ受けて、辞めてしまいました。
「エリュシオンは上場した一流企業なんだ。地下から出てきたようなお前が働ける場所ではない。モグラは地下に潜ってろ」
だったら――。
「辞表は出しません。デモ、再考してきます」
やはりあたしは、この会社に残らないといけない。
だから、悔しくても虚勢でも、あたしは笑う。
嫌がらせに負けるものかと。
ひとりでも戦うと。
背後で大きな舌打ちを聞きながら、あたしは改めてそう誓った。
また会議室に戻って三回目を聞き終えたが、やはり結果は変わらない。
耳障りの悪い歌声ばかりに、鳥肌がたつくらいだ。
「どんなに顔がよくても、ボイストレーニングしてこれなら、無理だって。マシな人材いないの!?」
日頃どんなに訴えても、素通りされる。
このままでは、エリュシオンは、質の悪いものを提供することになってしまう。悪名高き音楽を届けることになる。
――エリュシオンは至高の音楽を届ける、その誇りだけは忘れてはいけないぞ。
辛くて辛くてたまりません、社長。
どうして、逝ってしまったんですか。
どうして、意地悪な社員ばかり集める息子に育てたんですか。
どうして、どうして……。
辛い時は、天使が思い浮かぶ。
あの時の方が、地獄だった。
今の方が、まだ息を出来る。
今の方が、怒りの感情がある。
あたしの口から小さく漏れたのは、天使があたしの声で歌ってくれた、もの悲しげな聖歌のような旋律。
あれから賛美歌を含めて幾ら探しても、この曲がどんなタイトルのものなのかわからなかった。
これを口にすると、頑張ろうという気になってくる。
頭でぐだぐだ考えずに、心を大事にしようと思えてくる。
「上原」
深みのある低く甘い声。
突然背後から男の声が聞こえて、あたしは振り向いた。
スライドしてドアを開け、入り口に背を凭れさせて、無駄に長い手足を組んで立っているのは、長身の男。
「お前の家族を言えばいい。あのデブハゲ、ひれ伏すぞ」
目尻がすっと伸びた切れ長の目に、憂えたような寂しげなダークブルーの瞳がこちらを見ていた。
右目の下には泣きぼくろ。
通った鼻筋に、薄い唇。
ワックスを薄く揉み込んだだけの、照明の下では青くも見える……瞳と同じダークブルーの無造作ヘア。
西洋の王子様のように、どこまでも甘く極上に作られた顔をした男は、ネクタイをつけた背広が決められている会社で、ネクタイを外してシャツの襟元のボタンを外している。
覗き見える首と鎖骨から漂うのは、男のフェロモン。
中性的に思えるのに、男の艶を強調しているこの美貌の男は、エリュシオンで、社長すら頭が上がらないほどの権力を持つと噂される、天才マルチクリエーター早瀬 須王。
九年前にあたしをフッた男だ。
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