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3巻

3-2

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『この男が、玲奈を困らせてる』
『今日こそ燃やす? ねえ、燃やす?』
『ティルは反対。むしろう』
「どっちもダメ」

 私の中で相変わらずとんでもない会話をするミーナとティルを、さっくりと止める。
 猫型精霊のミーナと、鳥型精霊のティル。どちらもモフモフで最高に可愛いんだけど、二匹は私の敵には容赦しない。燃やすの大好きミーナと、むしるの大好きティルの邪気が届いたのだろうか。殿下は急に笑みをこわばらせ、「……失礼しました」とフォークを渡してくれた。有り難く受け取り、モルッスムのタルトを頬張る。おお、アンズみたいな味が、甘酸っぱくて美味しい。
 その後、私と殿下はそれぞれ黙々とスイーツを食べた。殿下があまりにもしょげていてかわいそうになったので、間に挟んでいたクッションを一つだけ取り除いておく。

「……そういえば、相談があるのですがよろしいですか」

 一通りスイーツを堪能たんのうした後、私はふと切り出した。そして陛下たちに、カスミに聞いてもらったのと同じ、例の夢の話をしてみる。

「……なるほど。時がってもなお鮮明に思い出せる、荒野の村の夢。……女神様のお告げと考えて、間違いなさそうだな」

 陛下は興味をかれたようで、身を乗り出してくる。王妃様も、頬に手を当てて思案顔になった。

「荒野――ですか。ベルフォード王国内に限定したとしても、エルシュタイン周辺のように土地がえている地域も、乾燥して荒れ地状態になっている地域もあちこちにあります。ここだ、と即答するのは難しいですわ」
「……カスミ・ルーウェンのアドバイスは的確ですね。確かに書記部の書庫であれば、市井しせいの図書館にはないようなコルメル画集も所蔵しょぞうしております」

 さっきよりだいぶ元気になった殿下が言うので、尋ねてみる。

「殿下は書庫のコルメル画集をご覧になったことがあるのですか?」
「仕事の件で少し。冊数が多く、書庫管理係のウェルキンスの手を借りてなんとか目当てのものを探すことができました」

 ウェルキンス――たぶん、あの態度の悪い書記官だな。管理係というなら、確かに分からないことは彼に聞くのが一番だろう。あの愛想もクソもない態度を思うと、あまりお願いしたくはないけれど。

「……私もカスミの助言を受けて、今日の昼に予約の確認に行ったんです。そうしたら、私の順番は半月くらい後で――」
「なるほど、この状況なら少しでも早く書庫を利用したいですよね」

 そう言うマーカス殿下は、なぜか満面の笑みだ。
 ……なんで? 
 ひょっとして、以前のジェレミーみたいに時間を分けてくれるのか? という考えは、すぐに打ち消す。名簿を見た限り、殿下の名前も近い日付になかったはずだ。
 どういうことだろうと殿下を見つめていると、不意に彼はくすっと笑い、私の耳元に唇を近づけてささやいた。

「……良い提案がありますよ。聞いてみませんか?」


   ***


 ――王族に名をつらねる書記官は、特例としていつでも書記部秘蔵図書館を使用することができる。
 そんなルールがあるなんて知らなかったし、それなんて職権濫用しょっけんらんようですかって話だ。しかも王弟であり書記官でもあるマーカス殿下だけならまだしも、その隣には――

「やあ、ウェルキンス。今日はこちらのレディを同伴どうはんしたいのだが、よろしいだろうか?」

 今日もマーカス殿下の無料のスマイルがまぶしい。薄暗い廊下が、殿下の周辺だけ煌々こうこうと照らされているかのようだ。ランプ不要でエコですな。
 そんな彼にエスコートされているのは、わたくしレイリア・ハルヴァーク。今日はお茶会の時に着るようなゴージャスなドレスではなく、落ち着いたモスグリーン色で、作業がしやすいような七分袖のものを選んでみた。手にはロンググローブをめている。髪も、いつもと違ってポニーテールのようにまとめ、ビシュー飾りの付いたシュシュで結い上げていた。
 殿下に親しげに肩を抱かれる私は、渾身こんしんの営業スマイルでウェルキンス書記官に微笑みかけた。

「お初にお目に掛かります、レイリア・ハルヴァークです。本日はマーカス殿下にお願いして、書庫の見学をさせていただこうと思いまして」
「さ、左様ですか」

 そう答えるウェルキンスの声は、どもっている。視線を彷徨さまよわせてかなり悩んだ後、彼はようやくうなずいた。

「……かしこまりました。殿下のご命令とあらば。ただ、わたくしめもその場に同席させていただきますが、よろしいでしょうか」
「もちろんだ。私もレイリアも、君の力を借りたいと思っていた」

 殿下はにこやかに笑い、ボードにサインをする。私もその隣につたない字でサインをし、久方ぶりの書庫に入室した。
 そう。私は殿下のご厚意で、特別に書庫を利用させてもらえることになったのだ。見返りとして何かとんでもないことを求められるんじゃないかと身構えたけれど、そんな申し出もなく。
 というか、「お返しに何をすればいいのですか」と問うた私に、最初は殿下もかなり真剣に悩んでいたのだけれど、それを眺めていた王妃様が「レイリアを困らせるようなことは、言いませんよね?」と釘を刺してくれたのだ。結果、お礼は私の目的が達成されてから後払いということになった。王妃様がやんわり止めてくれなかったら、私、何をさせられていたんだろう。

「レイリア、あなたに出していた宿題は持ってきましたか?」

 二人で席に着くと、殿下に問われた。私はうなずいて、折りたたんだ紙をポシェットから取り出す。
 書庫に入った時に作業しやすいよう、私が夢で見た光景をできるだけ詳しく絵に表してほしいと指示されていたんだ。だから昨晩、うんうん言いながら絵を描いたのだけど……
 殿下は私から受け取った紙を開くと目を細め、用紙をひっくり返した。

「……不思議な場所ですね。まるで、天空から樹木がえているかのようだ」
「殿下、それ上下逆です」
「なんと、これが正位置かと思ったのですが」

 殿下はもったいぶった様子で、紙を正しい位置に戻した。ぐうっ……美術の成績が万年「3」だった私をからかってるな! 悪いか! デッサン下手くそで悪いか! 
 殿下はしばらく、灯りの下で私の絵を眺めていたが、やがて紙を折りたたむと、ふうっと息をつく。

「……まあ、私とウェルキンスで該当がいとうしそうなコルメル画集を探し、レイリアがその中身を見ていけばいい話ですね。荒野の村となると、条件も絞られますし」
「……すみません、不器用で」
「そうむくれないで。絵が下手くそなあなたも、愛おしい」
「あなたが殿下じゃなかったら、脚を蹴り飛ばしていました」
「あなたの蹴りなら全然構いませんよ?」

 殿下、まさかのドM発言。いや、私は決してSではないので、やりませんよ? 


 殿下の提案通り、私たちは作業を分担することにした。
 殿下はウェルキンスに指示を出しながらコルメル画集を探す。私は彼らが持ってきてくれたものをめくって該当がいとうのコルメル画を探していく。レンの姿の時はさんざんイヤミを飛ばしてきたウェルキンスだけど、今は殿下の言葉に従い、私に対しても丁寧に接してくれる。これはレイリアが好かれているからというより、単にレンが嫌われているんだな。理由は分からないけど。

「とりあえず、目に付いたものは全て持ってきました。ここから選別しましょう」

 殿下とウェルキンスが選んだのは、出版年が比較的新しい本ばかりだった。華やかなものではなく、それこそマイナーな田舎いなかの風景などを多く取りそろえたものをチョイスしてくれている。
 一冊目の表紙をめくって――うわあ、早速すごい光景だ。
 ゴツゴツした岩肌と、崖の斜面から突き出すようにたくましくえる木々。そして、その真上から勢いよく流れ落ちる滝。
 コルメル画の下に付いている注意書きのところには、私の知らない地名が記されている。白黒で解像度も悪いのに、轟々ごうごうと音を立てて流れる滝と、頬にかかるみず飛沫しぶきの感覚が目の前に再現されるかのような、リアルな滝の風景だった。

「お気に召しましたか」

 脇から声が掛かる。見ると殿下は、ささっとページをめくっては間に付箋ふせんを挟む、の作業を繰り返していた。

田舎いなかで育ったあなたには、あまり馴染みのない風景も多いことでしょう。今回の目的からはれますが、いい機会です。様々な風景を楽しんでください」
「す……すみません、殿下ばかりにご迷惑を――」
「とんでもない。こういう作業は、経験者が先導すればいい話。幸いどれもすでに見たことがありますし、ざっくりとしたチェックは私がします。レイリアはどうぞ、我が国の見事な風景を勉強してください」
「……ありがとうございます」
「お礼でしたら是非、あなたの想いのもった口づけで」
「別のものでお願いします」

 軽口を叩きながらの作業だけど、殿下の手元の動きの速さはすさまじい。彼に職権濫用しょっけんらんようさせただけでなく、手伝いまでさせながら、自分はのんびりコルメル画の鑑賞だなんて、図々ずうずうしいにも程がある。
 それに、特例といえど時間制限は同じなのだ。私は隣の席の殿下が積み上げてくれたコルメル画集をかたぱしから取っては、殿下が付箋ふせんを挟んだ箇所を順にさらっていた。
 殿下は、私が描いたデッサン画によく似た風景をピックアップしてくれていた。私の画力ではわかりにくかっただろうに、どれを見ても、確かによく似ている――とうなってしまう場所ばかり。
 カスミも言っていた通り、こんなコルメル画集を町の図書館に置いたところで誰も読みそうにない、地味な風景ばかりだ。これを撮った人って、田舎いなかマニアか何かかな。
 ただ、どれも微妙に違う。村の風景はよく似ていても、辺りは荒れ地じゃなくてただの広原だったり、切り立った崖の側に集落があっても、家の造りが全く違ったり。いくつか、本当にそっくりと思えるものもあったけど、夢で私が歩いた墓地がどこにもない。それらしきものがあったとしても撮影日と照合すると、あの苔生こけむした墓石とは年代が一致しなかったり。
 何冊目になるか分からない本を閉じて、私はふと殿下を見た。
 殿下は手を休めることなく、流れるような手つきでページをめくっている。加えてウェルキンスにも指示を出し、付箋ふせん挟みの作業を続けていた。その眼差まなざしはこっちがドキッとするくらい真剣で、瞳は強い輝きを放っていて。少しでも気を抜いた自分が恥ずかしくなってくる。
 それにしても――殿下もカスミも、皆私の言うことを信じてくれているんだな。夢で見た場所を調べたいなんて、「所詮は夢」と言われてしまったら、ぐうのも出ない。いい年して夢に惑わされて、と一笑いっしょうされても仕方ないのに。
 でも、みんな私に協力してくれている。私の立場や身分のせいもあるだろうけど、殿下だってお忙しいのに、自分の時間をいてまで私に手を貸してくださっているのだ――
 うん、こうやって考えごとをする時間もしい。私は今し方殿下が積み上げたばかりの本を手に取って、付箋ふせんが挟まれた箇所を確認していく。
 家の形や周りの風景、小道の様子など、細かいところに集中しながらページをめくり――
 ――どくん、と心臓が脈打ったのが、分かった。

「……あった」

 思わず、唇から言葉がこぼれる。かたわらで殿下が反応して、「どのコルメル画ですか?」と身を乗り出してくるのが分かったけど、私は何かに取りかれたかのように、その風景に見入っていた。
 さびれた集落。集落の周りには、お情け程度の低い柵がぐるりと張られていて、奥の方にはゴロゴロとした大粒の岩石が転がっているのがわかった。
 私から見て左側には、不格好な形に切り取られたケーキみたいな崖が写っている。それがちょうど太陽をさえぎる位置にあるため、コルメル画全体が薄暗く、どんよりとした寂しい村のイメージを前面に押し出していた。
 そして手前には、白くすすけた墓石が。私が夢で見たアングルとは真逆だけど、間違いない。このコルメル画を見た途端とたん、私の脳みそがストップを掛けたんだ。「あ、この風景知ってる」ってデジャビュが襲ってきて。
 殿下は硬直した私の目線を追ってコルメル画を見ると、視線をゆっくりと下にずらした。


「『イーシュルン北部の名もなき貧村ひんそん』――撮影者は、有名なコルメル撮影家ですね」
「イーシュルン、とは……?」

 私はからっからに渇いたのどを震わせて問う。
 何でだろう。イーシュルンなんて聞いたことのない地名なのに、殿下の口からその名前を聞いた途端とたん、背筋にぞくっと悪寒おかんが走ったんだ。
 殿下は私を見つめて、ゆっくり唇を開いた。

「……イーシュルンは、ここエルシュタイン北東部にある領地。一時の栄光も今はおとろえ、徐々にさびれつつある辺境の町です」
「……北東」
「領主の名は、バドライン――王国北東部一帯を昔から領土として所有する、歴史の古い伯爵家です」



 第2章 アリーシャの記憶


 私が夢で見た場所は、ベルフォード王国バドライン伯爵領北東部のイーシュルンの集落だった。
 それが判明した後、殿下はさらに資料を集め、バドライン伯爵領に絞り込んだコルメル画集を見せてくれた。その中には、例のさびれた村のことを詳細にしるした書籍もあって、私は確信を得る。
 バドライン伯爵。なーんか、嫌な予感しかしない名前だ。ヴェイン様に付きまとうなとかなんとか、ギャンギャンまくし立ててきたメリダ・バドラインというお嬢様。カップをぶつけられ、カスミが怪我をしてしまったあの瞬間が目に浮かぶ。
 ちなみにさんざん振り回してしまった殿下には、あの後「お礼なら、私に『あーん』をしてください」と要求された。それくらいならと、執務室に戻ってからマカロンを「あーん」で食べさせる。殿下はとても幸せそうに頬をゆるませていたけれど、男の浪漫ロマンって、よく分からない。
 その後はカスミと一緒に作戦会議を行った。私としてはすぐにでもバドライン伯爵領に乗り込みたかったのだけど、王都を出て伯爵領に向かうにはそれ相応の理由が必要である。
 書記官レンだと、理由があまりにも弱すぎた。レイリアで行くのは敵陣に裸で突撃するようなものだし――だとしたら残されたもう一つの姿を使うしかない、という結論になったのだ。病弱な子爵令嬢が聖地巡礼のために辺境の教会を訪れる、という設定ならどうだろうと。
 聖地巡礼ってのは、その名の通り国中の聖堂や教会を巡礼する、「女神様の加護を受けて回ろうぜツアー」みたいなものだ。修道女や神官はもちろん、貴族の方々も社交シーズンを過ぎた頃には、ふらっと聖地巡礼の旅に出たりするらしい。気軽に領地を離れるんだなとも思うけど、その気軽さが今は有り難かった。
 王都にいるお父様たちに手紙を出すと、すぐに快諾かいだくの返事がきた。女神様の任務がメインとはいえ、「領内に引き込もりがちな長女が外に出る」というていを取るのはお父様たちにとっても好ましい状況だったようだ。
 ただし、「一人で行かせるのは不安だし、外聞がいぶんも悪いからイサークも連れて行け」というお言葉が添えられていた。慌ててイサークに確認を取りに行くと、すでにお父様から連絡を受けていたらしく、げんなり顔で「……どうせ巻き込まれるんだし、関わらないよう抵抗するのは、もう諦めた」とおおせになった。本当に迷惑掛けます、お兄様。
 加えて、レンがしばらく書記部を空けることも書記官長たちの承諾を得られた。イサークと一緒にちょっと故郷に戻ると言ったら、前回みたいにあっさり許可が下りたんだ。書記部は多忙だけど、有休とかは取りやすいんだよね。ありがとうございます、書記部の皆さん。
 そうして最後の休暇申請先は、近衛騎士団第四部隊だ。

「二つも姿を持っていれば、苦労することもあるだろうな」

 私の上司である近衛騎士団第四部隊隊長ヴェイン・アジェント様はそう言うと、ふんと鼻を鳴らして笑った。
 鈍い金色の髪に、意地悪げに吊り上がった紫色の目。どことなく冷たそうな美貌のイケメンだけど、部下思いでとても頼りがいがある。悪の精霊をほうむることができる聖剣を陛下からたまわるほど、騎士としての才能に恵まれた御仁ごじんだった。さらに彼は持ち前の鋭い観察眼で、レン・クロードとレーナ・フェスティーユが同一人物であることをすでに見抜いている。
 アジェント伯爵の弟である彼は貴族社会の世知辛せちがらさも重々承知していて、私が「レーナの姿で聖地巡礼に出たいので」とこっそり伝えると、少し考えた後に承諾してくれた。

「ただ、どれほど大人びていようと、おまえは子どもだ。兄同伴どうはんとはいえ、無茶はするな。……なんというか、おまえは聖地巡礼などをするがらではないと思っていた。おまえ、何が目的だ?」
「目的、と言われても、たまにはレーナの姿で外に出るべきだと考えたからですが……」

 ヴェイン様の鋭い問いにも、私はすっとぼけの姿勢をつらぬいた。
 ヴェイン様には、「ベルフォード王国北部あたりに行く」と、アバウトなことしか伝えていない。ここでずばっと「バドライン伯爵領」と言うのははばかられた。何だか、嫌な予感がしたから。
 あんじょうヴェイン様は一度だけ追及してきたけれど、私が口を割るつもりがないと悟ってか、あっさり諦めてくれる。そうして、「行くのは構わんが、帰ってきたらこき使わせてもらうぞ」と、いつもの意地の悪い笑みを浮かべたのだった。


   ***


 がたんごとん、と馬車が揺れる。
 私はイサークと二人、バドライン伯爵領に向かう馬車の中にいた。
 イサークが呼んだ馬車は特注の一級品だったからか、ゴツゴツした道を通っても、全くお尻が痛くならない。ビジネスクラスシート、パネェ。何度か乗ったことのあるエコノミー馬車とは大違いだ。
 イサークは、目的地を聞いてもむっつりとうなずくだけだった。「本当におまえは世話が焼ける」「突拍子とっぴょうしもないことばかり言い出して」とは愚痴ぐちるけど、「何が目的だ?」とは聞いてこない。好奇心の強いイサークのことだから本当は知りたくて仕方がないんだろうけど、あえて突っ込まずにいてくれたのだ。その気遣きづかいと我慢が、とても有り難い。女神様に関わることだから、以前私の身を案じて女神様に文句を言っていたイサークにはなんとなく言いにくかった。
 私は今、清楚な白のワンピース姿だ。短い髪を隠すために、頭からすっぽりベールをかぶっているが、このよそおいは、未婚の貴族令嬢が聖地巡礼する際の定番の格好なので目立たない。巡礼時に髪をき出しにするのは無作法なことらしく、修道女じゃなくてもベールをかぶるのが一般的だ。なるべく分厚い生地を選んだから、髪形がけて見えることもない。
 私の対面に座るイサークも、白を基調とした礼服仕様の上着とズボンを身につけている。これも、貴族の青年が聖地巡礼の際に着るのが望ましいと言われている服装だ。私は黒髪も相まってモノトーン調の地味子じみこにしか見えないけど、さすがお兄様。シンプルな白の貴族服も大変似合ってる。もう十五歳を迎えようとしているからか、顔つきも前よりずっときりりとしていて、大人のお姉さんが放っておかないような危うい魅力をかもし出していた。
 我が兄ながら罪作りな男だな、イサーク。

「……何だその目は」
「いやぁ、イサークはいつ見てもれするような美男子だなぁ、と思って」
「……思ってもいないことをしゃべるその舌を、引っこ抜かれたいのか?」

 どこで覚えたのか、物騒なおどし文句を放ってくるイサークだけど、顔は真っ赤だ。照れてる。間違いない。
 私はそっと、車窓しゃそうに掛かったカーテンをめくって外の様子をうかがうが、すぐに手を離した。さっきから風景がほとんど変わっていない。色気のない砂利道じゃりみちが延々と続いているだけだった。

「……あまりカーテンを開くな。何が起こるか分からないぞ」

 向かいから、イサークの不機嫌そうな声が上がった。私が窓のはしっこに引っかかってめくれ上がっていたカーテンを戻すと、イサークははあ、とうれいのもったため息をついた。

「なぜだろうな……おまえが来てからというもの、俺はおまえに振り回されっぱなしだ」
「ええ……本当にありがとうございます」

 私が居住まいを正してお礼を言うと、彼はふいっと顔をそむけて、不機嫌そうにまどわくひじを乗せた。

「……別に。ただ、おまえを監督できるのは俺くらいしかいないだろ」
「おっしゃる通りです。ありがとうございます、おにい――」
「イサークだっ!」
「イサーク様」

 元兄は、顔を真っ赤にして「……もう黙ってろ」と言い捨てた。
 さてさて。よろしくお願いします、イサーク。


 数日にわたる馬車の旅をて、私たちはバドライン伯爵領に入った。
 私はてっきり、バドライン伯爵領の大半は活気のある町で、ごく一部の辺境だけがあんな風に荒れ果てた寂しい荒野なんだと思っていたが、実際は違った。

「バドライン伯爵領はだいぶ苦しい状況――今は領地の中心都市だけがなんとか繁栄を保っている状態で、大半はこのような殺風景な光景だ」

 馬車から降りたイサークはそう言って、かさかさに乾いた土をブーツの先で蹴飛ばした。湿り気がないからぶわっと土埃つちぼこりが舞い、辺りはしばらく白っぽいもわもわに包まれた。

「ここらも、大昔は緑豊かな農村地帯だったと言われている。だが、五十年前まで続いた戦乱によって大地は焼け、草木がえなくなったらしい。民たちは以前のような生活――牛を飼い、作物を育て、木々から果実を採取する方法では生計を立てられなくなった」
「……戦争だけが原因なのでしょうか」
「鋭いな。……多くは語れないが、おまえの予想はまあ、あながち間違いではないと言っておく」

 イサークが冷めた目で周囲を見回すので、すぐにピンときた。
 この一帯がさびれた原因は領主の力量が足りなかったから――もしくは、中心都市を守るために生活苦の村を見捨てたからなのだろう。
 私は、以前出会ったメリダ・バドライン伯爵令嬢の姿を思い出してみる。確か彼女を最初に見たのは、夜会でだった。ヴェイン様にまとわりついているところを、上階から見下ろしたんだっけ。
 夜会で着ていたドレスも宝石も、一級品だったと思う。王妃様も彼女に注意しろとは言ったけど身なりについては触れてなかったから、その点においては令嬢として合格点に達していたんだろう。
 でも、バドライン伯爵領がこれだけ荒廃していることに伯爵が焦り、その娘であるメリダもよい相手を見つけようと躍起やっきになっているなら――なるほど、ヴェイン様と接触することの多かった私は、彼女にとって目障めざわりだな。

「……レーナ、見てみろ」

 イサークから声が掛かったので、私は彼が呼ぶ方に歩いていった。あちこちに大きな石がゴロゴロ転がっていて足場が悪いため、フェスティーユ子爵家から付いてきた騎士たちが私に手を貸そうとしてくれる。まあ、実際の私は箱入り令嬢じゃないからそうそうこけることはないし、万一こけたとしてもさほど困らないけど、手は有り難く借りておく。
 イサークは馬車をめた場所より少し先で、こちらに背を向けて立っていた。私が近づくと振り向いて、ちょいちょいと手招きしてくる。

「ここ……来てみろ。足元には気を付けろよ」
「はい」

 つなぐ手を騎士たちからイサークにバトンタッチし、彼に案内されて私はイサークの隣に立った。
 ――そして、はっと息を呑む。
 私たちが立っているのは、切り立った崖の上だった。眼下には岩がゴロゴロと転がる荒れ地が見える。くらっとするほどの高さではないし、私は高所恐怖症でもないので怖くないが、ここから落ちれば死ぬだろう。
 そして、辺りには同じような崖がいくつも――ここ以上に急な角度でそびえ立っていた。
 ここらの地形の断面図を作るなら、イメージとしては、三十度、六十度、九十度の直角三角形。馬車は、三十度の斜面を上ってきた。つまり私たちは、現在六十度の角の上に立っているってことになる。
 崖の下を見下ろせば、岩がゴロゴロ転がる荒野と、その陰にひっそりと隠れるようにして存在する、小さな村が――

「……あれが、おまえの探していた村か」

 イサークが隣で小さく問うてくる。その声も、びゅうびゅうと耳元に吹き込んでくる風の音にさえぎられて聞こえづらい。
 ああ、これだ。私は夢で、この音も耳にしていた。背筋がゾクッとするような、寂しい風の音を――
 村の位置を確認した私たちは、来た道を逆戻りする。そそり立つ崖を迂回うかいして、さっき私たちが見下ろしていた小さな集落に馬車を進めた。
 車輪が立てるゴトゴトという音に合わせ、私の胸も高鳴っていく。向かいのイサークにまで心音が聞こえるんじゃないかってくらい、緊張していた。

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