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2巻
2-2
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チュルル、と鳥がさえずった。何となく、挨拶されているような気がする。はじめまして……だろうか?
「えっと、はじめまして……?」
『はじめまして。ミーナだよ』
『ティルだよ。鳥の精霊同士、よろしくね』
私に続いて、ミーナとティルも挨拶をする。ティルの挨拶で分かったけど、この鳥も精霊なんだね。まあ確かに、「ミーナたちが生まれた」っていう森の中に精霊の鳥がいてもおかしくないけれど。
鳥は私たちの挨拶に応えるようにチュッチュとさえずり、おもむろに私の肩から舞い上がった。そうしてぱたぱたと飛んでいった先――森の奥に目を向けた私は、いつの間にかそこに立っていた人物とばっちり視線が合ってしまった。
すらりと身の丈の高い女性だ。出る所は出て、引っ込むべき所は引っ込んだナイスなプロポーションの体に薄いシーツ一枚を巻き付けたみたいな服を着ていて、足は私と同じく素足。肌は白色人種も真っ青になるくらいの白さで、つやつやと真珠みたいに輝いている。
波打つ髪は眩しいほどの金色で、うねりながら足元まで垂れ下がっていた。平安貴族かってくらい長いよ、髪。
きれいな卵形の顔は造形も整っていて、さんざん今までイケメン・美女を見てきた中でも、このお方がダントツだわ。なんというかもう、ひれ伏したくなるような神々しさと、優しく細められた金色の目の温かさに当てられて、ガクガク足が震えそうになる。
うむむ、ここで倒れたら一生の恥だぞ、玲奈!
金色の美人さんは私を上から下までじっくりと見た後、ふっと微笑んだ。
「初めまして、女神です」
天使の歌声のような美声で、開口一番に挨拶してくださいました。
「……あ、どうも。水瀬玲奈です」
「ええ、あなたのことはずっと前から知っておりました」
「そ、そうですよね。私も女神様のことは聞いていましたよ」
「そうですか? まあ、わたくしは有名人ですからね」
「ですよねー!」
あっはっは、うふふふ、と笑い声が静かな森に満ちる。チューン、とちょっと調子の外れたような声でさっきの小鳥が鳴いて、森の奥へと飛び去っていった。
……女神様って、こんなにフランクな方なの?
いやいや、友だち感覚で接しちゃダメだ!
私はぶるっと頭を振り、キラキラ光る別嬪さん――もとい女神様にしっかりと向き直った。
「あ、あの! あなたが女神様なんですね!」
「はい、そうです」
にっこりと笑う女神様。はらりと額に掛かる金色の髪がとてつもなく色っぽいです、女神様!
というか、私って今、「神」っていう存在と対峙してるんだよね。
まじですか、何ですかこのイベント。
「……えーっと、聞きたいことが色々あるんですけど」
「そうですね。あなたには多大な迷惑を掛けてしまいましたから」
そう言って、女神様は悲しそうに目を伏せる。金色の長い睫毛がお美しい。美人は何をしても様になるんだな、本当にッ!
「……皆実の時と違い、今回はあなたを導くことも、役目を伝えることもできませんでした。何も分からないままこの世界に放り出してしまって、ごめんなさい。たくさん苦労していたのを、天界から見ておりました」
「い、いえいえそんな……」
しまった。女神ってのに会ったら文句を言ってやろうと思っていたのに、言いたかったことが全部吹き飛んでしまった。私ごときがこんな美人さんに暴言なんて吐けないよ、ちくしょう!
「でも……私をこの異世界に召喚したのには、やっぱり理由があるのですね」
「はい。異世界の乙女について、大体の話は人間界にも伝わっているはずですし、そこにいるミーナとティルからも聞いたのではないですか」
名を呼ばれて、くつろいでいた二匹はぴょんと飛び上がった。
『そうだよ! 玲奈は特別だから、色々教えたんだ!』
『玲奈も自分で、色々調べてたよ!』
そうだ、と私は今まで知り得た知識を思い返す。
今から約五十年前、戦乱の最中にあったこの世界を救うため、女神は異世界から呼び寄せた女性に全てを託した。呼ばれた女性の名は、宮野皆実。彼女の必死の説得によって戦争は終結し、世界の破滅を防ぐことができた。そしてミナミは、自分を助けてくれた当時のベルフォード国王と結婚した――だったよね?
私の考えていることが分かるのか、微笑んでいた女神様が、ゆっくりと首を横に振った。
「人間界ではそのように伝えられていますし、精霊たちもあなたにそう教えたことでしょう。けれど、事実は若干異なっているのです」
「……えっと、それってミナミが病死と偽って地球に帰ったっていう?」
思い切って問うてみる。
王都エルシュタインの書記部にある秘蔵書庫では、ミナミが記した手記の複製版を読むことができた。ミナミは公では若くして病死したことになっているけれど、手記によると、本当はやむを得ぬ事情があり、泣く泣く地球に帰ったのだという。旦那様だった当時の国王と、まだ幼い子どもたちを残して。
でも、女神様は緩く首を横に振った。
「それはまた別の話ですね。……わたくしは確かに、わたくしが作り上げたこの世界を守るために皆実を呼びました。しかし、わたくしが彼女に期待した本来の役割は、戦争の終結ではなかったのです」
へ? ……なにそれ、どういうこと?
「……戦乱の世を鎮めるために、ミナミを呼んだんじゃなかったんですか?」
「違います。皆実本人にもそのことを伝えたのは、全てが終わってから――皆実が当時のベルフォード国王と結婚してからです。わたくしはただ、世界の崩壊を防ぎたかった。皆実は見事、わたくしの願いを果たしてくれました。戦争の終結は、そのついでに過ぎません」
な、ななな、なにそれ?
女神様はこの世界を守りたかった。だからミナミを呼んだ。戦争の終結は女神様の目的ではなかったけど、ミナミが女神の願いを果たそうと動いたおかげで戦争が終わりました。
――無理ッス。お手上げ。
「……じゃあ、何ですか。ひょっとして私もまた、同じように世界の崩壊を防ぐために召喚されたってことですか」
やさぐれ半分で聞いてみると、女神様はこっくり頷いた。
「そうです」
「えっ?」
「そうです」
「ちょ、待ってよ。まさか私にこの世界を救えっての!?」
「そうです」
冗談だと言ってください、女神様!
「いやでも、どう見たってこの世界、平和そのものですよ! 戦争なんてどの国でも起きてないみたいですし!」
「戦争が世界の崩壊を導くとは言っていませんよ」
……ああ、そうでした。ミナミの時も戦争を止めてほしかったんじゃなかったんだよね。
「そ、それじゃあ何が、世界の崩壊を招くことになるんですか?」
慌てて問いつめたけれど、女神様の回答はにべもなかった。
「それは、今は教えることができません」
「えー……?」
「皆実の時も同じです。皆実は、自分がよいと思うことを行った。その結果、世界の崩壊を防ぐことができたのです」
「そ、それじゃあ……私も、私が思うように動けばいいってこと?」
「そうです」
「……」
丸投げよくない!
攻略本を用意しろとまでは言わないよ! でもさぁ、せめて「この人を守りなさい」「この勉強をしなさい」くらい、啓示してくれてもいいじゃんか!
私のぶうたれた様子を見てか、女神様は困ったように微笑んだ。
「そう怒らないで。あなたは自分の信じる道を進んでください。あなたの存在が、この世界に定められた破滅の運命を覆すことになるのです」
「……私はただの、そこら辺にいる女子大生ですよ」
「そうですね。でも既に、あなたはこの世界の運命を動かしつつあります」
へいへい、「運命の歯車は既に、狂い始めているのだった――」ってやつですね。了解。
「皆実もあなたと同じでした。初めは何も知らない、何も分からない状態でした。だけどそこからどう動くべきか考え、己の気持ちに従って動き――世界を救ったのです。基本的に人間界に介入することを許されない私の代わりに」
それは確か、この世界の常識なんだよね。神様の世界も色々と大変なんだねぇ。
「ただ、あなたや皆実は異世界の人間。あなたたちをわたくしの手足として、この世界に新しい風を吹き込むことは許されているのです。現にわたくしは一度、あなたに力を貸しました」
「……そうですっけ?」
女神様の力を借りる? そんなことあったかしら?
女神様は考え込む私を見て、ゆっくり微笑んだ。
「……あなたは書記官になりたかった。だから勉強して、ベルフォード王国の王都で開催された登用試験に向かいました」
うんうん、そうですとも。それで、試験中にいきなり文字が読めなくなって……って、あああ!
「あの声!? 試験中に聞こえてきた……」
「覚えていてくれたのですね」
そう言って、女神様は笑うけど……あれ、女神様の声だったのか!
書記官の登用試験受験中は、精霊を使った不正防止のための腕輪の装着義務がある。それを着けたら、私の翻訳係になってくれているミーナたちとの絆が遮断されてしまい、文字の意味が理解できなくなった。周りの人の言葉も分からなくなって、焦りまくっていたら――
「あのままでは、せっかく動き始めた運命がまた止まってしまう可能性がありました。だから、あなたに少しだけ手を貸したのです」
「そういうことだったんですか……」
あの時、頭の中に呼びかけてきたのは女神様。彼女の力で、封じられていた言語理解能力が戻ったんだ。
運命を、動かすために――
ふと、私は顔を上げた。
「……つまり、私は書記部に――もしくは王都に行く必要があったのですね。女神様は、私が登用試験に落ちてフェスティーユ子爵領に戻ってしまった場合、破滅の未来に戻ってしまう可能性が高いとお考えだった。だったら、この世界を破壊に導く何かは、王都にある……」
ほぼ確信を持って、私はそう口にした。
あの、平和に見える王都に何かがある。いずれ、世界を滅ぼすことになるだろうきっかけが――
でも女神様は、やっぱりと言うべきか、緩く微笑むのみだった。今は答えられないって、さっき言ってたもんね。仕方ない。
だけど、王都に何があるんだろう。戦争か? また戦争か? ミナミの時の問題は戦争じゃなかったみたいだけど、今回もそうとは限らない。
ということは何だ、今以上に王家の方々と親密になっておけということか? 妙なフラグを立てるの、もう疲れたよ……
女神様は、静かに顔を上げた。いつの間にか、空は晴れ渡った青色から夕暮れ色に変わっている。この前もそうだったけど、ここの空って色が変わるの速いよね。
女神様は「時間ですね」と呟いて、私に視線を戻した。そして、私の背丈に合わせるようにしゃがみ込む。
「玲奈。わたくしの大切な子」
「は、はい」
「これからもたくさんのことが、あなたの前に壁となって立ち塞がるでしょう。でも……お願いします。あなたの力で、この世界を救ってください」
「はぁ……」
私は勇者様でも無敵の魔術師でも、最強の剣士でもない。ただの一般ピーポー。その辺に掃いて捨てるほどいる女子大生。
でも、私に何かできるのなら。私が頑張ることで、この世界のたくさんの人を救うことができるなら――
女神様は私の目を見て、満足そうに微笑んだ。そうしてなぜか、自分の左手薬指に嵌っていた指輪を抜く。
「……まだあなたに言えないことがあります。いずれ全てを伝えようと思っていますが、その前に――あなたが不安に感じていること、そのうちのひとつを解消する力を与えましょう」
女神様は、今自分の指から抜いたばかりのそれを、私の目の前にかざした。金色のリングにブリリアントカットされた青い宝石が付いた、シンプルな指輪だ。
「これを、あなたに。あなたは賢い子。この指輪も、きっと上手に使ってくれるでしょう」
女神様は体の横にぶらんと投げ出したままだった私の左手を取って、手の平にリングを乗せた。キラキラ輝く指輪は、思ったよりも冷たくて、見た目の割に軽かった。イミテーショ……いやいや、何でもありませんっ!
女神様はぎゅっと私の左手を握って、微笑んだ。
「……頑張ってくださいね、玲奈。ミーナとティルも、今後もよく玲奈を支えるように」
私の横でじっと待機していた二匹にもそう告げると、二匹は静かにその場で頭を垂れた。普段はちまっこくて可愛い印象の精霊たちだけど、今はとても神々しい。やっぱり、小さくても神様の遣いなんだな。
女神様が微笑んだ。それと同時に、じわじわと目の前に光が溢れてきて――
女神様に別れの挨拶をするよりも早く――私の意識は、光の中に溶けていった。
夢か現実か分からない時って、結構困るよね。「あれ? 今のって夢だっけ?」ってなること、多いと思います。
私、レーナ・フェスティーユもベッドから起き上がった瞬間は、「あー、リアルな夢だったなー」で済まそうと思ったんだけど。
しっかり握りしめた左手の中に件の指輪があったもんだから、夢オチじゃ終われないよね。
「……ミーナ、ティル!」
『おはよう、玲奈』
『どうしたの、朝から慌てて』
まずは忠実なる精霊たちに事実確認!
『私、さっき女神様と会ったりした?』
『うん、会ったじゃない』
『指輪持ってるでしょ』
さも当然、とばかりの返事があって、私愕然。
ああ、マジで女神様と会ったんですねぇ。いやしかし、美人だったなぁ……
手の中の指輪をしげしげと眺めていると、ドアがノックされた。あ、危ない。指輪落とすところだった!
「お嬢様、おはようございます。朝ですよ」
メイドの声だ。うーん、この指輪が何の役に立つのか気になるけど、まずは朝食に行かないと。
私はいそいそと立ち上がり、指輪をテーブルの引き出しの中にしまった。その後、これじゃ不安だと思い直して、ちょうど空っぽだった宝石入れに入れておく。
ぱちんと留め金を掛けて、伸びをする。色々疑問は残っているけれど、今日一日掛けて頭の中を整理しよう。
指輪を試すのは、それからだ。
今日一日は、お祭りの後片付け監督やら来客対応やらで潰れてしまった。
片付け監督は基本的にお父様の仕事なんだけど、急な来客があった時にはイサークお兄様が任されていた。イサークは昨日のことがまだ頭に残っているのか、外に出る時に「レーナも一緒に行こう」と誘ってくれた。ついにデレたな、お兄様。
「今朝のパンも美味しかった」
二人掛けのデッキチェアに並んで腰掛けていると、イサークが朝食の感想を言った。
私は館の騎士たちがお祭りの片付けをしているのを眺めつつ、答える。
「そうですか? お兄様に喜んでいただけて幸せです」
「……おまえの幸せは安すぎるぞ」
そう言いつつも、声がちょっとだけ震えている。ん? と思って横目で窺うと――あらあら、顔が真っ赤になってますよ、お兄様。
「お兄様、顔が」
「言わないでくれっ」
イサークはぷいっと顔を背けてしまった。さらさらした栗色の髪の隙間から、真っ赤な耳が覗いていますよ。
私はふふっと笑って、広々としたフェスティーユ子爵領の草原に視線を戻した。朝の冷たい風が気持ちいい。王都にいる間は書記官の仕事が忙しくて、午前中をのんびり過ごすなんて休みの日しかできなかった。毎日ゆったり過ごせて幸せ……っと、ここでだらけすぎたら職場復帰が辛くなる。
書記官長には、一応二十日間の休暇をもらっている。往復するだけで十日掛かるから、ここで過ごせる時期は十日間ほど。それももう八日が過ぎたから、明後日には王都に向けて発つことになる。
あと二日でレーナ・フェスティーユともまたしばらくお別れか……。というか私、いつまでこの二重生活を続けるんだろう? そろそろレーナ・フェスティーユが幽霊部員ならぬ幽霊令嬢になりそうだ。イベントの時だけ現れる幽霊。うん、気味悪い。
お祭りのセットを積んだ馬車がゴトゴトと音を立てて、緩い傾斜を下っていく。その馬車とすれ違うようにして、別の立派な馬車がうちの門をくぐってきた。またお客様だろうか。お父様もお母様も大変だ、本当に。
豊かなフェスティーユ子爵領を見ていると、本当にこの世界は破滅するのだろうかと疑問を抱いてしまう。女神様が言うんだからそうなんだろうけど、いまいち実感が湧かない。
だって昨夜の話だと、ミナミの時の世界滅亡の真の理由は戦争じゃないってことでしょ。戦争よりも恐ろしいものなんて、あるのかな? 五十二年前の大戦争も相当悲惨なものだったと聞いているけれど、それを超える何かが、あった。
そして今も、どこかに――おそらく王都に、ある。
今、引き出しの奥にある、青い石の指輪。「うまく使いなさい」って感じで女神様は言っていた。
あの指輪を使うことで、世界の崩壊を救うことができる? あんな小さな指輪ひとつで? まさかねぇ……
とはいえ、気になったら実行。善は急げ。
その日の夜、私は再び引き出しを開けることにした。
草木も眠る、丑三つ時――
私はテーブル脇のランプだけを点けて、手の中の指輪を眺めていた。
さっき廊下に出て様子を窺ったけど、両親も兄弟も全員眠っているようだ。階下に灯りが見えたけれど、あれはきっと夜の見回り中の騎士のもの。遅くまでお勤めご苦労様です。
指輪は、ランプの灯りを受けてキラキラと輝いている。重さはやはり、普通の指輪よりずっと軽い。でも、この輝きは偽物っぽくないな。この青い宝石も、よく見ると内部でぐるぐると光が渦巻いているようだ。きっとかなりのレアアイテムだ。
そういえば、この指輪をもらう直前、女神様に何か言われた気が……何だっけ?
そっと後ろを振り返る。ベッドサイドに据えられた猫用ベッドと小鳥用ベッドにはそれぞれ、ミーナとティルがちょこんと座っていた。どっちもちゃんと目を開けて起きているけれど、さっきからじっと動かないまま、こっちが何を言ってもろくに返事をしてくれない。
この子たちも、私が指輪を嵌めるのを待っているみたいだ。
――よし、なるようになれ、だ!
私は指輪を目の高さに持ち上げる。
さて、どこの指に嵌めようか? 女神様は確か左の薬指にしていたけど、そこって結婚指輪の場所だよね。詳しく聞いたことはないけど、お父様もお母様も同じ場所にお揃いのリングを嵌めてたから、こっちの世界にも地球と同じ習慣があるみたい。女神様は……神様だから、結婚しないのかな? よく分からん。
とりあえず、邪魔にならない指に嵌めよう。右手は利き手だからだめだ。作業する時に邪魔だから、私はアクセサリー類は左腕にしか付けない。
よし、中指でいいか。薬指と中指なら、太さも大して変わらないし。
――待てよ、女神様は全体的にすらっとしてたし、指も私より細いのでは? これで関節が太すぎて入らなかったら洒落にならないぞ、私。
考えても仕方ない。私はごくりと唾を呑み、右手で宝石の根本部分を摘んで、そっと左手の中指に通した。おお、さすが女神様からもらった特製指輪。なんと指の太さに合わせてサイズが縮まりましたよ! なーんて…………え?
瞬間、ぐらりと視界が揺れた。背後から膝カックンでもされたかのように、がくっと体勢が崩れる。前のめりに倒れそうになって、反射的に腕を突っ張った。
あ、あっぶな! 丑三つ時に自室のフローリングに顔面ダイブとか全然おもしろくない!
ふいに、ばさりと羽の音がした。ティルが暴れているのかな、と何気なく振り返った私は、その格好のまま停止してしまう。
わざわざ王都の自室から持ってきたミーナとティルのベッドは、どちらもそれぞれのサイズにぴったりで、夜になると二匹はすっぽりと布地に埋まってくうくう眠っていた。その顔がまた可愛いなぁ、と思ってたんだけど。
「……どちら様ですか?」
今、そのベッドの上には、見知らぬ動物たちが鎮座していた。
ミーナのベッドにいるのは、大型犬くらいの大きさはあろう、巨大な猫。きちっとお座りして尻尾を体に巻き付けている姿は凛々しいけど、ああ、せっかくのベッドがお尻の下で潰れちゃっているよ。
その隣には、これまたダチョウの本体くらいのサイズの、妙にビッグな大鳥様が。ばさっと翼を広げて――おおお、そうすると子どもベッドと同じくらいの幅になる。なかなか美麗な佇まいだけど……やっぱりお尻の下で、小鳥用のベッドが潰れていた。
二匹はぽかんとした私を見て、それぞれ擽ったそうに身を捩った。
『玲奈ったら、ぽかんとしちゃって』
『そうそう。そんなにびっくりしたの?』
頭に直接、声が響いてきた。この口調、ミーナとティルのものなんだけど、声が……ちょっと変わってない? 小さな女の子みたいな声だったのが、だいぶ大人っぽくなってませんか?
「……ミーナとティル……だよね?」
『そうだよ、ミーナだよ』
大猫はそう言って、くああ、とあくびした。うわぁ、牙一本の大きさが私の親指くらいありそうだ。
『これがティルたちが大きくなった姿。もっと大きくなれば、玲奈を背中に乗せることもできるよ』
そう言って、ティルも翼を収めてこてん、と首を傾げた。ああ、その仕草! あのちっちゃかったティルと全く同じ!
えええ、何ですかコレ。ひょっとしてこの指輪、精霊を巨大化させる効果があるんですか!?
『そうじゃないよ』
すかさずミーナが否定する。
『ティルたちが大きくなったんじゃないの。玲奈……気づいてないの?』
逆に不安そうにティルに問われてしまった。気づいてないの、って……ん?
私はそっと、自分の胸元に手をやった。何もない。服がない。いや、それはいい。よくないけど、今はいい。
恐る恐る手を下に滑らせる。ある。確かにある。ここしばらく失われていた膨らみが、ある。
まさか、まさか、と私は転げるように部屋の隅のドレッサーへ走った。おかしい、視界が違う。今までと見える世界が違う。肩先までの長さだったはずの髪が、胸元を擽っている。
どかっとドレッサーの椅子に座り込み、鏡面を覆っていた覆い布を一気に剥ぎ取った。ああ、このドレッサー、自分より背が高いから覆いを掛けるにも一苦労だったのに、今は難なく手が届いてしまう。
ミーナが気を利かせて、テーブルの横に置いていたランプを口にくわえ、ドレッサーに向かう私の横に掲げてくれた。ランプの光に照らされて、ぼんやりした鏡面に私の姿が浮かび上がる。
長い黒髪に、楕円形の顔。子どもの頃よりだいぶ目つきは柔らかくなっている。
日焼けしていない腕に、なけなしとも言っていいけれども確かにある、胸。
鏡には、全身素っ裸の、純日本人の顔立ちの女が愕然とした表情で映っていた。
……まさか、えええ! そういう効果だったの!?
私は鏡の前で、自分の顔やら体やらをぺたぺた触ってみた。全裸であることはこの際スルーだ。ネグリジェ? その辺に破れたものが転がってるんじゃないかな。
久々に見る本来の自分の姿に、ううう、涙が出そう……そうか、そういうことか。
今になって、女神様の言葉を思い出す。「あなたが不安に思っていることのひとつを解消する」とか言ってたよね。それって、体が幼女化していることだったのか!
試しに、左中指に嵌っている指輪を抜いてみる。すると――うははは、みるみるうちに体が縮んだぞ!
痛みを感じるとかめまいがするとか、そんな気配はない。さっきは急なことだったからバランスを崩してしまったけど、慣れたらなんてことない。
ついでに脇を見ると、ミーナとティルも元のサイズに縮んでいた。なるほど、私が大きくなれば君たちも大きくなれるんだね。
「えっと、はじめまして……?」
『はじめまして。ミーナだよ』
『ティルだよ。鳥の精霊同士、よろしくね』
私に続いて、ミーナとティルも挨拶をする。ティルの挨拶で分かったけど、この鳥も精霊なんだね。まあ確かに、「ミーナたちが生まれた」っていう森の中に精霊の鳥がいてもおかしくないけれど。
鳥は私たちの挨拶に応えるようにチュッチュとさえずり、おもむろに私の肩から舞い上がった。そうしてぱたぱたと飛んでいった先――森の奥に目を向けた私は、いつの間にかそこに立っていた人物とばっちり視線が合ってしまった。
すらりと身の丈の高い女性だ。出る所は出て、引っ込むべき所は引っ込んだナイスなプロポーションの体に薄いシーツ一枚を巻き付けたみたいな服を着ていて、足は私と同じく素足。肌は白色人種も真っ青になるくらいの白さで、つやつやと真珠みたいに輝いている。
波打つ髪は眩しいほどの金色で、うねりながら足元まで垂れ下がっていた。平安貴族かってくらい長いよ、髪。
きれいな卵形の顔は造形も整っていて、さんざん今までイケメン・美女を見てきた中でも、このお方がダントツだわ。なんというかもう、ひれ伏したくなるような神々しさと、優しく細められた金色の目の温かさに当てられて、ガクガク足が震えそうになる。
うむむ、ここで倒れたら一生の恥だぞ、玲奈!
金色の美人さんは私を上から下までじっくりと見た後、ふっと微笑んだ。
「初めまして、女神です」
天使の歌声のような美声で、開口一番に挨拶してくださいました。
「……あ、どうも。水瀬玲奈です」
「ええ、あなたのことはずっと前から知っておりました」
「そ、そうですよね。私も女神様のことは聞いていましたよ」
「そうですか? まあ、わたくしは有名人ですからね」
「ですよねー!」
あっはっは、うふふふ、と笑い声が静かな森に満ちる。チューン、とちょっと調子の外れたような声でさっきの小鳥が鳴いて、森の奥へと飛び去っていった。
……女神様って、こんなにフランクな方なの?
いやいや、友だち感覚で接しちゃダメだ!
私はぶるっと頭を振り、キラキラ光る別嬪さん――もとい女神様にしっかりと向き直った。
「あ、あの! あなたが女神様なんですね!」
「はい、そうです」
にっこりと笑う女神様。はらりと額に掛かる金色の髪がとてつもなく色っぽいです、女神様!
というか、私って今、「神」っていう存在と対峙してるんだよね。
まじですか、何ですかこのイベント。
「……えーっと、聞きたいことが色々あるんですけど」
「そうですね。あなたには多大な迷惑を掛けてしまいましたから」
そう言って、女神様は悲しそうに目を伏せる。金色の長い睫毛がお美しい。美人は何をしても様になるんだな、本当にッ!
「……皆実の時と違い、今回はあなたを導くことも、役目を伝えることもできませんでした。何も分からないままこの世界に放り出してしまって、ごめんなさい。たくさん苦労していたのを、天界から見ておりました」
「い、いえいえそんな……」
しまった。女神ってのに会ったら文句を言ってやろうと思っていたのに、言いたかったことが全部吹き飛んでしまった。私ごときがこんな美人さんに暴言なんて吐けないよ、ちくしょう!
「でも……私をこの異世界に召喚したのには、やっぱり理由があるのですね」
「はい。異世界の乙女について、大体の話は人間界にも伝わっているはずですし、そこにいるミーナとティルからも聞いたのではないですか」
名を呼ばれて、くつろいでいた二匹はぴょんと飛び上がった。
『そうだよ! 玲奈は特別だから、色々教えたんだ!』
『玲奈も自分で、色々調べてたよ!』
そうだ、と私は今まで知り得た知識を思い返す。
今から約五十年前、戦乱の最中にあったこの世界を救うため、女神は異世界から呼び寄せた女性に全てを託した。呼ばれた女性の名は、宮野皆実。彼女の必死の説得によって戦争は終結し、世界の破滅を防ぐことができた。そしてミナミは、自分を助けてくれた当時のベルフォード国王と結婚した――だったよね?
私の考えていることが分かるのか、微笑んでいた女神様が、ゆっくりと首を横に振った。
「人間界ではそのように伝えられていますし、精霊たちもあなたにそう教えたことでしょう。けれど、事実は若干異なっているのです」
「……えっと、それってミナミが病死と偽って地球に帰ったっていう?」
思い切って問うてみる。
王都エルシュタインの書記部にある秘蔵書庫では、ミナミが記した手記の複製版を読むことができた。ミナミは公では若くして病死したことになっているけれど、手記によると、本当はやむを得ぬ事情があり、泣く泣く地球に帰ったのだという。旦那様だった当時の国王と、まだ幼い子どもたちを残して。
でも、女神様は緩く首を横に振った。
「それはまた別の話ですね。……わたくしは確かに、わたくしが作り上げたこの世界を守るために皆実を呼びました。しかし、わたくしが彼女に期待した本来の役割は、戦争の終結ではなかったのです」
へ? ……なにそれ、どういうこと?
「……戦乱の世を鎮めるために、ミナミを呼んだんじゃなかったんですか?」
「違います。皆実本人にもそのことを伝えたのは、全てが終わってから――皆実が当時のベルフォード国王と結婚してからです。わたくしはただ、世界の崩壊を防ぎたかった。皆実は見事、わたくしの願いを果たしてくれました。戦争の終結は、そのついでに過ぎません」
な、ななな、なにそれ?
女神様はこの世界を守りたかった。だからミナミを呼んだ。戦争の終結は女神様の目的ではなかったけど、ミナミが女神の願いを果たそうと動いたおかげで戦争が終わりました。
――無理ッス。お手上げ。
「……じゃあ、何ですか。ひょっとして私もまた、同じように世界の崩壊を防ぐために召喚されたってことですか」
やさぐれ半分で聞いてみると、女神様はこっくり頷いた。
「そうです」
「えっ?」
「そうです」
「ちょ、待ってよ。まさか私にこの世界を救えっての!?」
「そうです」
冗談だと言ってください、女神様!
「いやでも、どう見たってこの世界、平和そのものですよ! 戦争なんてどの国でも起きてないみたいですし!」
「戦争が世界の崩壊を導くとは言っていませんよ」
……ああ、そうでした。ミナミの時も戦争を止めてほしかったんじゃなかったんだよね。
「そ、それじゃあ何が、世界の崩壊を招くことになるんですか?」
慌てて問いつめたけれど、女神様の回答はにべもなかった。
「それは、今は教えることができません」
「えー……?」
「皆実の時も同じです。皆実は、自分がよいと思うことを行った。その結果、世界の崩壊を防ぐことができたのです」
「そ、それじゃあ……私も、私が思うように動けばいいってこと?」
「そうです」
「……」
丸投げよくない!
攻略本を用意しろとまでは言わないよ! でもさぁ、せめて「この人を守りなさい」「この勉強をしなさい」くらい、啓示してくれてもいいじゃんか!
私のぶうたれた様子を見てか、女神様は困ったように微笑んだ。
「そう怒らないで。あなたは自分の信じる道を進んでください。あなたの存在が、この世界に定められた破滅の運命を覆すことになるのです」
「……私はただの、そこら辺にいる女子大生ですよ」
「そうですね。でも既に、あなたはこの世界の運命を動かしつつあります」
へいへい、「運命の歯車は既に、狂い始めているのだった――」ってやつですね。了解。
「皆実もあなたと同じでした。初めは何も知らない、何も分からない状態でした。だけどそこからどう動くべきか考え、己の気持ちに従って動き――世界を救ったのです。基本的に人間界に介入することを許されない私の代わりに」
それは確か、この世界の常識なんだよね。神様の世界も色々と大変なんだねぇ。
「ただ、あなたや皆実は異世界の人間。あなたたちをわたくしの手足として、この世界に新しい風を吹き込むことは許されているのです。現にわたくしは一度、あなたに力を貸しました」
「……そうですっけ?」
女神様の力を借りる? そんなことあったかしら?
女神様は考え込む私を見て、ゆっくり微笑んだ。
「……あなたは書記官になりたかった。だから勉強して、ベルフォード王国の王都で開催された登用試験に向かいました」
うんうん、そうですとも。それで、試験中にいきなり文字が読めなくなって……って、あああ!
「あの声!? 試験中に聞こえてきた……」
「覚えていてくれたのですね」
そう言って、女神様は笑うけど……あれ、女神様の声だったのか!
書記官の登用試験受験中は、精霊を使った不正防止のための腕輪の装着義務がある。それを着けたら、私の翻訳係になってくれているミーナたちとの絆が遮断されてしまい、文字の意味が理解できなくなった。周りの人の言葉も分からなくなって、焦りまくっていたら――
「あのままでは、せっかく動き始めた運命がまた止まってしまう可能性がありました。だから、あなたに少しだけ手を貸したのです」
「そういうことだったんですか……」
あの時、頭の中に呼びかけてきたのは女神様。彼女の力で、封じられていた言語理解能力が戻ったんだ。
運命を、動かすために――
ふと、私は顔を上げた。
「……つまり、私は書記部に――もしくは王都に行く必要があったのですね。女神様は、私が登用試験に落ちてフェスティーユ子爵領に戻ってしまった場合、破滅の未来に戻ってしまう可能性が高いとお考えだった。だったら、この世界を破壊に導く何かは、王都にある……」
ほぼ確信を持って、私はそう口にした。
あの、平和に見える王都に何かがある。いずれ、世界を滅ぼすことになるだろうきっかけが――
でも女神様は、やっぱりと言うべきか、緩く微笑むのみだった。今は答えられないって、さっき言ってたもんね。仕方ない。
だけど、王都に何があるんだろう。戦争か? また戦争か? ミナミの時の問題は戦争じゃなかったみたいだけど、今回もそうとは限らない。
ということは何だ、今以上に王家の方々と親密になっておけということか? 妙なフラグを立てるの、もう疲れたよ……
女神様は、静かに顔を上げた。いつの間にか、空は晴れ渡った青色から夕暮れ色に変わっている。この前もそうだったけど、ここの空って色が変わるの速いよね。
女神様は「時間ですね」と呟いて、私に視線を戻した。そして、私の背丈に合わせるようにしゃがみ込む。
「玲奈。わたくしの大切な子」
「は、はい」
「これからもたくさんのことが、あなたの前に壁となって立ち塞がるでしょう。でも……お願いします。あなたの力で、この世界を救ってください」
「はぁ……」
私は勇者様でも無敵の魔術師でも、最強の剣士でもない。ただの一般ピーポー。その辺に掃いて捨てるほどいる女子大生。
でも、私に何かできるのなら。私が頑張ることで、この世界のたくさんの人を救うことができるなら――
女神様は私の目を見て、満足そうに微笑んだ。そうしてなぜか、自分の左手薬指に嵌っていた指輪を抜く。
「……まだあなたに言えないことがあります。いずれ全てを伝えようと思っていますが、その前に――あなたが不安に感じていること、そのうちのひとつを解消する力を与えましょう」
女神様は、今自分の指から抜いたばかりのそれを、私の目の前にかざした。金色のリングにブリリアントカットされた青い宝石が付いた、シンプルな指輪だ。
「これを、あなたに。あなたは賢い子。この指輪も、きっと上手に使ってくれるでしょう」
女神様は体の横にぶらんと投げ出したままだった私の左手を取って、手の平にリングを乗せた。キラキラ輝く指輪は、思ったよりも冷たくて、見た目の割に軽かった。イミテーショ……いやいや、何でもありませんっ!
女神様はぎゅっと私の左手を握って、微笑んだ。
「……頑張ってくださいね、玲奈。ミーナとティルも、今後もよく玲奈を支えるように」
私の横でじっと待機していた二匹にもそう告げると、二匹は静かにその場で頭を垂れた。普段はちまっこくて可愛い印象の精霊たちだけど、今はとても神々しい。やっぱり、小さくても神様の遣いなんだな。
女神様が微笑んだ。それと同時に、じわじわと目の前に光が溢れてきて――
女神様に別れの挨拶をするよりも早く――私の意識は、光の中に溶けていった。
夢か現実か分からない時って、結構困るよね。「あれ? 今のって夢だっけ?」ってなること、多いと思います。
私、レーナ・フェスティーユもベッドから起き上がった瞬間は、「あー、リアルな夢だったなー」で済まそうと思ったんだけど。
しっかり握りしめた左手の中に件の指輪があったもんだから、夢オチじゃ終われないよね。
「……ミーナ、ティル!」
『おはよう、玲奈』
『どうしたの、朝から慌てて』
まずは忠実なる精霊たちに事実確認!
『私、さっき女神様と会ったりした?』
『うん、会ったじゃない』
『指輪持ってるでしょ』
さも当然、とばかりの返事があって、私愕然。
ああ、マジで女神様と会ったんですねぇ。いやしかし、美人だったなぁ……
手の中の指輪をしげしげと眺めていると、ドアがノックされた。あ、危ない。指輪落とすところだった!
「お嬢様、おはようございます。朝ですよ」
メイドの声だ。うーん、この指輪が何の役に立つのか気になるけど、まずは朝食に行かないと。
私はいそいそと立ち上がり、指輪をテーブルの引き出しの中にしまった。その後、これじゃ不安だと思い直して、ちょうど空っぽだった宝石入れに入れておく。
ぱちんと留め金を掛けて、伸びをする。色々疑問は残っているけれど、今日一日掛けて頭の中を整理しよう。
指輪を試すのは、それからだ。
今日一日は、お祭りの後片付け監督やら来客対応やらで潰れてしまった。
片付け監督は基本的にお父様の仕事なんだけど、急な来客があった時にはイサークお兄様が任されていた。イサークは昨日のことがまだ頭に残っているのか、外に出る時に「レーナも一緒に行こう」と誘ってくれた。ついにデレたな、お兄様。
「今朝のパンも美味しかった」
二人掛けのデッキチェアに並んで腰掛けていると、イサークが朝食の感想を言った。
私は館の騎士たちがお祭りの片付けをしているのを眺めつつ、答える。
「そうですか? お兄様に喜んでいただけて幸せです」
「……おまえの幸せは安すぎるぞ」
そう言いつつも、声がちょっとだけ震えている。ん? と思って横目で窺うと――あらあら、顔が真っ赤になってますよ、お兄様。
「お兄様、顔が」
「言わないでくれっ」
イサークはぷいっと顔を背けてしまった。さらさらした栗色の髪の隙間から、真っ赤な耳が覗いていますよ。
私はふふっと笑って、広々としたフェスティーユ子爵領の草原に視線を戻した。朝の冷たい風が気持ちいい。王都にいる間は書記官の仕事が忙しくて、午前中をのんびり過ごすなんて休みの日しかできなかった。毎日ゆったり過ごせて幸せ……っと、ここでだらけすぎたら職場復帰が辛くなる。
書記官長には、一応二十日間の休暇をもらっている。往復するだけで十日掛かるから、ここで過ごせる時期は十日間ほど。それももう八日が過ぎたから、明後日には王都に向けて発つことになる。
あと二日でレーナ・フェスティーユともまたしばらくお別れか……。というか私、いつまでこの二重生活を続けるんだろう? そろそろレーナ・フェスティーユが幽霊部員ならぬ幽霊令嬢になりそうだ。イベントの時だけ現れる幽霊。うん、気味悪い。
お祭りのセットを積んだ馬車がゴトゴトと音を立てて、緩い傾斜を下っていく。その馬車とすれ違うようにして、別の立派な馬車がうちの門をくぐってきた。またお客様だろうか。お父様もお母様も大変だ、本当に。
豊かなフェスティーユ子爵領を見ていると、本当にこの世界は破滅するのだろうかと疑問を抱いてしまう。女神様が言うんだからそうなんだろうけど、いまいち実感が湧かない。
だって昨夜の話だと、ミナミの時の世界滅亡の真の理由は戦争じゃないってことでしょ。戦争よりも恐ろしいものなんて、あるのかな? 五十二年前の大戦争も相当悲惨なものだったと聞いているけれど、それを超える何かが、あった。
そして今も、どこかに――おそらく王都に、ある。
今、引き出しの奥にある、青い石の指輪。「うまく使いなさい」って感じで女神様は言っていた。
あの指輪を使うことで、世界の崩壊を救うことができる? あんな小さな指輪ひとつで? まさかねぇ……
とはいえ、気になったら実行。善は急げ。
その日の夜、私は再び引き出しを開けることにした。
草木も眠る、丑三つ時――
私はテーブル脇のランプだけを点けて、手の中の指輪を眺めていた。
さっき廊下に出て様子を窺ったけど、両親も兄弟も全員眠っているようだ。階下に灯りが見えたけれど、あれはきっと夜の見回り中の騎士のもの。遅くまでお勤めご苦労様です。
指輪は、ランプの灯りを受けてキラキラと輝いている。重さはやはり、普通の指輪よりずっと軽い。でも、この輝きは偽物っぽくないな。この青い宝石も、よく見ると内部でぐるぐると光が渦巻いているようだ。きっとかなりのレアアイテムだ。
そういえば、この指輪をもらう直前、女神様に何か言われた気が……何だっけ?
そっと後ろを振り返る。ベッドサイドに据えられた猫用ベッドと小鳥用ベッドにはそれぞれ、ミーナとティルがちょこんと座っていた。どっちもちゃんと目を開けて起きているけれど、さっきからじっと動かないまま、こっちが何を言ってもろくに返事をしてくれない。
この子たちも、私が指輪を嵌めるのを待っているみたいだ。
――よし、なるようになれ、だ!
私は指輪を目の高さに持ち上げる。
さて、どこの指に嵌めようか? 女神様は確か左の薬指にしていたけど、そこって結婚指輪の場所だよね。詳しく聞いたことはないけど、お父様もお母様も同じ場所にお揃いのリングを嵌めてたから、こっちの世界にも地球と同じ習慣があるみたい。女神様は……神様だから、結婚しないのかな? よく分からん。
とりあえず、邪魔にならない指に嵌めよう。右手は利き手だからだめだ。作業する時に邪魔だから、私はアクセサリー類は左腕にしか付けない。
よし、中指でいいか。薬指と中指なら、太さも大して変わらないし。
――待てよ、女神様は全体的にすらっとしてたし、指も私より細いのでは? これで関節が太すぎて入らなかったら洒落にならないぞ、私。
考えても仕方ない。私はごくりと唾を呑み、右手で宝石の根本部分を摘んで、そっと左手の中指に通した。おお、さすが女神様からもらった特製指輪。なんと指の太さに合わせてサイズが縮まりましたよ! なーんて…………え?
瞬間、ぐらりと視界が揺れた。背後から膝カックンでもされたかのように、がくっと体勢が崩れる。前のめりに倒れそうになって、反射的に腕を突っ張った。
あ、あっぶな! 丑三つ時に自室のフローリングに顔面ダイブとか全然おもしろくない!
ふいに、ばさりと羽の音がした。ティルが暴れているのかな、と何気なく振り返った私は、その格好のまま停止してしまう。
わざわざ王都の自室から持ってきたミーナとティルのベッドは、どちらもそれぞれのサイズにぴったりで、夜になると二匹はすっぽりと布地に埋まってくうくう眠っていた。その顔がまた可愛いなぁ、と思ってたんだけど。
「……どちら様ですか?」
今、そのベッドの上には、見知らぬ動物たちが鎮座していた。
ミーナのベッドにいるのは、大型犬くらいの大きさはあろう、巨大な猫。きちっとお座りして尻尾を体に巻き付けている姿は凛々しいけど、ああ、せっかくのベッドがお尻の下で潰れちゃっているよ。
その隣には、これまたダチョウの本体くらいのサイズの、妙にビッグな大鳥様が。ばさっと翼を広げて――おおお、そうすると子どもベッドと同じくらいの幅になる。なかなか美麗な佇まいだけど……やっぱりお尻の下で、小鳥用のベッドが潰れていた。
二匹はぽかんとした私を見て、それぞれ擽ったそうに身を捩った。
『玲奈ったら、ぽかんとしちゃって』
『そうそう。そんなにびっくりしたの?』
頭に直接、声が響いてきた。この口調、ミーナとティルのものなんだけど、声が……ちょっと変わってない? 小さな女の子みたいな声だったのが、だいぶ大人っぽくなってませんか?
「……ミーナとティル……だよね?」
『そうだよ、ミーナだよ』
大猫はそう言って、くああ、とあくびした。うわぁ、牙一本の大きさが私の親指くらいありそうだ。
『これがティルたちが大きくなった姿。もっと大きくなれば、玲奈を背中に乗せることもできるよ』
そう言って、ティルも翼を収めてこてん、と首を傾げた。ああ、その仕草! あのちっちゃかったティルと全く同じ!
えええ、何ですかコレ。ひょっとしてこの指輪、精霊を巨大化させる効果があるんですか!?
『そうじゃないよ』
すかさずミーナが否定する。
『ティルたちが大きくなったんじゃないの。玲奈……気づいてないの?』
逆に不安そうにティルに問われてしまった。気づいてないの、って……ん?
私はそっと、自分の胸元に手をやった。何もない。服がない。いや、それはいい。よくないけど、今はいい。
恐る恐る手を下に滑らせる。ある。確かにある。ここしばらく失われていた膨らみが、ある。
まさか、まさか、と私は転げるように部屋の隅のドレッサーへ走った。おかしい、視界が違う。今までと見える世界が違う。肩先までの長さだったはずの髪が、胸元を擽っている。
どかっとドレッサーの椅子に座り込み、鏡面を覆っていた覆い布を一気に剥ぎ取った。ああ、このドレッサー、自分より背が高いから覆いを掛けるにも一苦労だったのに、今は難なく手が届いてしまう。
ミーナが気を利かせて、テーブルの横に置いていたランプを口にくわえ、ドレッサーに向かう私の横に掲げてくれた。ランプの光に照らされて、ぼんやりした鏡面に私の姿が浮かび上がる。
長い黒髪に、楕円形の顔。子どもの頃よりだいぶ目つきは柔らかくなっている。
日焼けしていない腕に、なけなしとも言っていいけれども確かにある、胸。
鏡には、全身素っ裸の、純日本人の顔立ちの女が愕然とした表情で映っていた。
……まさか、えええ! そういう効果だったの!?
私は鏡の前で、自分の顔やら体やらをぺたぺた触ってみた。全裸であることはこの際スルーだ。ネグリジェ? その辺に破れたものが転がってるんじゃないかな。
久々に見る本来の自分の姿に、ううう、涙が出そう……そうか、そういうことか。
今になって、女神様の言葉を思い出す。「あなたが不安に思っていることのひとつを解消する」とか言ってたよね。それって、体が幼女化していることだったのか!
試しに、左中指に嵌っている指輪を抜いてみる。すると――うははは、みるみるうちに体が縮んだぞ!
痛みを感じるとかめまいがするとか、そんな気配はない。さっきは急なことだったからバランスを崩してしまったけど、慣れたらなんてことない。
ついでに脇を見ると、ミーナとティルも元のサイズに縮んでいた。なるほど、私が大きくなれば君たちも大きくなれるんだね。
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