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 第1章 始まりの日


 炎天下の中、熱いアスファルトの道を、私は歩いていた。
 首筋をつうっと、汗が流れていく。全身に汗をかき始めたことを自覚した私は、慌てて腕に抱えた紙封筒をしっかりと手に持ち直した。自分の汗でレポートを汚してしまったら、教授になんと言われることか。
 道行く人たち――とりわけ女性陣はみんな、大きな日傘をかたむけている。日焼けはお肌の天敵というわけだ。半袖ブラウスに膝丈のスカートという出で立ちの私は、紫外線をもろに食らっていた。が、仕方ない。焦って家を出たので、日傘を持ち出す余裕もなかったのだ。
 私――大学三年生である水瀬玲奈みなせれいなは、大学への道を急いでいた。
 手にした紙封筒はそれほど大きくも重くもないのに、ずっしりとした存在感を私にひしひしと与えている。分かってますよ。レポートを提出期限ギリギリに出そうとする私が悪いんですってば。
 選択科目の中でも一番楽そうなやつを選んで、しかもそれが試験なしのレポート提出だけで単位をもらえるんだから、よきことかな、と思っていた。授業態度もまあまあだし、隣の席でいつも隠れて乙女ゲームをしていた友だちよりは、しっかりした性格だと思う。
 ただ、計画性がないだけだ。


 目の前で信号が青から赤に変わる。私は苛立いらだちながらもきちんと足を止めた。直後、背後からやってきたロードバイクのお兄さんが颯爽さっそうと赤信号の歩道を渡っていく。馬鹿め。発進しようとした車にクラクションを鳴らされおって。
 じりじりと照りつける太陽はもうそろそろ南中から外れつつあったけど、それでもまだ日は高い。日が高いから、影が短く日陰も少ない。街路樹の下に作られた黒々としたわずかなスペースには、押しくらまんじゅう並みに信号待ちの人々が殺到していた。見ているだけで、逆に暑苦しい。
 ぱっぽー、ぱっぽー、と信号機が暢気のんきな音を立てる。真夏の市街地は、アスファルトから熱気が噴き出しているかのように蒸し暑く、目の先にある信号機が蜃気楼しんきろうのようにゆらゆらゆがんで見えた。
 ここの信号は赤になるとなかなか変わらないことで有名だ。やっと変わったと思っても、十秒かそこらであっという間に赤色に戻るため、私の大学では「学生キラー」のあだ名で呼ばれている。この信号機のご機嫌を損ねたために講義に遅刻する者が、後を絶たないのだとか。
 それにしても、やっぱり暑い。信号も、まだ変わらない。
 私は辺りに目を向けた。ほとんどの木陰には人が密集しているため、近寄るのさえ億劫おっくうだ。
 横断歩道から数歩後退することになるが、空いている影があった。木の角度によるものだろうか、珍しいほど真ん丸な影だ。さほど大きくないけれど、私一人くらいなら余裕で入れるだろう。
 私は黒々としたそこに一歩、足を踏み入れる。

「……え?」

 ぐいっと、体が重力に従って下方に移動する。影に踏み入れたはずの私のパンプスの裏は、固いアスファルトを踏みしめることはなかった。すかっと足が空を切り、そのまま前のめりに倒れ込む。

「あ、え、ちょ……!」

 反射的に前方に手を突っ張った拍子に、持っていた紙封筒が落っこちた。勢いで吹っ飛んだそれは、街路樹の脇に放り出されてしまったようだ。
 でも、そちらに目をやるゆとりはない。
 私の足元には、マンホール大の大穴が空いていた。人一人をすっぽり呑み込んでしまいそうな、黒々とした穴。
 ふたの外れたマンホールに落ちるっていうのは、まさにこんな感覚なんだろうか。
 私はろくに悲鳴を上げることもできず、真っ暗な闇の中へと落ちていく。

「だ、だれか……!」

 闇の中に呑み込まれる。手を伸ばしても、ただでさえ小さな外界の光は、あっという間に遠のいていった。
 何も見えない、何も分からない状態になっても、不思議なことに、信号機の立てるぱっぽー、ぱっぽー、という音はいつまでも私の耳に響いていた。


   ***


 マンホールに落ちたら、そこは緑の森でした。
 いや、まさにそんな感じだった。さすがに落ちた直後は死を覚悟したんだけれど、ここは黄泉よみの国でも、これからお迎えが来るって雰囲気でもなさそうだった。
 あの後、いつの間にか正座みたいな体勢になってゆっくりと下降運動を続けていた私は、そのまま緑色の芝生の上に着地した。別に、某有名アニメの少女のように空から降ってきたわけじゃない。真っ暗な霧が晴れたと思ったらそこは、人の手が加わってなさそうな大自然のど真ん中だったってことよ。
 で、私は口をぽかんと開けたまま、草地の上に正座をしていた。
 両手を膝の上に乗せた状態で、周囲をぐるっと見回す。そこは、三百六十度見渡す限りの森林で、私はちょうど木々がぽっかりとひらけた空き地のような場所に座り込んでいた。
 足元の草は柔らかくて、新鮮な緑の香りがする。子どもの頃に遠足で行った運動公園も、こんな匂いがしたっけ。
 頭上を見上げると、絵の具の原色のような真っ青な空が広がっている。よく晴れた空だけれど、さっきみたいな真夏の空ではない。木々の間を吹き抜ける風は気持ちよくって、日差しも心地よい。
 私は、ゆっくり立ち上がった。いつの間にか、パンプスは脱げてなくなっていた。素足のまま地面に棒立ちになった私は、乙女ゲームにいそしむ大学の友人・真理恵まりえのことを思い出した。
 真理恵が大好きな乙女ゲームにはいくつか、こんな感じの森のシーンやスチルがあったと思う。イケメンの王子様やら騎士やら執事やらがゲーム画面の中央にドカンと現れて、主人公とのラブストーリーが進んでいく。私はゲームはもっぱらRPG派だったから、森で出てくるのがモンスターじゃなくってイケメンだってことに激しく違和感を抱いたものだ。
 とりあえず、私はゆっくりと右手を持ち上げて右の頬をつねってみた。うん、普通に痛い。じゃあ、現実なんだね、これ。
 ……いやいや、この状況をあっさり受け入れちゃダメだよね。
 まあとにかく、言わせてください。

「……っざけんなーぁ!」

 私の渾身こんしんの絶叫は、晴れ晴れとした空の中へ消えていった。


 さて、これからどうすべきなんだろうか。
 私は草地にぺたんと座り込んだまま、途方に暮れていた。頬をつねって痛いということは、夢を見ているわけじゃないってこと。現にそろそろ、お腹空いてきたよ、私。
 くうう、と情けない音を立てる腹部を撫でて――ん? 
 私ははっとして、自分の胸部に手の平を押し当てた。薄いブラウス越しに、ごわごわした布の感触がある。この歳にしては残念なサイズの胸をおおう下着だ。
 いやいや、今はそんなところでへこんでいる場合じゃないし。
 私は周りに誰もいないのを確認して、そっとブラウスのボタンを上ふたつほど外し、隙間からのぞき込んだ。
 そこにあったのは、洗濯板も真っ青の見事な絶壁を描く胸部と、サイズが合っていないどころかガポガポに浮いてしまっている下着。
 え、なに、これ。どういうこと? 私、ついに胸が縮んじゃったのですか? 
 でも、おかしいのは胸だけじゃないことに気づいた。両手の平を目の高さに持ち上げてみる。……うん、妙だ。私の手はもっと大きくて、もっと節っぽかったはずだ。こんなにつやつやうるおってもいない。
 あと、今着ている服が妙に大きい。実はさっき立ち上がった時からそうだったけれど、スカートがずるりとずれてお尻の一番厚みがあるところに引っかかっている状態だった。これ、ウエストでホックを留めるタイプなんですけど。
 それから、なんで私はこんなに髪が短いんですか。頭の後ろでお団子にできるくらい伸ばしていたはずなんですけど、誰が切ったんですか。
 いきなり自分の身に起こった変化に、私はついていけずにいた。なんとなく、考えたら結果が見えてきそうなんだけれど、それを認めるのが怖かったのだ。
 ――私、ひょっとして体が縮んでます? 
 某探偵漫画の主人公じゃあるまいし、まさかねー、まさかねー……
 あはは、と放心状態だった私だが、ぼうっとしすぎて周りの気配を察せられないほどのお馬鹿じゃない。
 ――ぞわっと首の後ろが冷たくなるような感覚。
 私ははじかれたように身をひるがえし、ささっとボタンを留め直した。いつの間にか、抜けるような青色だった空は濃紺のうこんに変わっていた。日が落ちるの早すぎでしょ? 
 薄暗い森の奥から、がさがさと葉っぱが擦れる音だけが妙に大きく耳に届いた。残念なことに、肩から提げていたはずのカバンは見あたらない。おかげでスマホで周囲を照らすこともできなかった。落下中にどっかに落としたか。くっ、最新型だったのに。
 でも、灯りなんて必要なかった。というのも、あっちの方からご丁寧にやって来たんだ。
 ふわふわとした光の玉。まずはそんな印象だった。広葉樹の幹の隙間から、ふわりふわりと飛んでくる光の玉が、ふたつ。うわぁ、なんだか人魂ひとだまみたいなんですけど。
 ふたつの玉は、私の手前で止まった。地上一メートルほどの所で空中待機するそれらは、バスケットボールくらいの大きさだった。よくよく見ると、ふたつは少しだけ色が違った。私から見て左側は赤というかオレンジ色っぽくて、右側は青みがかった炎の色をしていた。確か、赤と青では青い炎の方が熱いんだっけ? さすがにコレを触って確かめてみる勇気はないけど。
 光の玉は、その場で静止している。私もどうしていいか分からず、そのままの体勢でいた。しばらくの間、私たちのお見合いが続く。
 そうしていると徐々に、ふたつがそれぞれ動き出した。赤っぽい方は草地の上に降りて、青っぽい方は上昇運動を開始して、私の頭上まで舞い上がる。
 そして、変化した。
 まず、足元の赤っぽい方。こっちはキラキラ輝きながら長細く形を変えて、贈答用のハムのかたまりみたいになった。そこから手足みたいなのがにょきにょきと伸びて、三角形の耳まで生えてしまって――

「……猫?」

 思わず声を出すと、驚いたことにそいつは、にゃあ、と答えた。
 光の形が整い、小さな粒子状の光が霧散する。と、そこにいたのは予想通りと言うべきでしょうか、三角形の耳とすんなりとした四肢、そしてぴんと立った尻尾を持つ、見事なトラ模様の子猫だった。
 私が息を呑んでいる間に、もう片方も変化を起こしていた。頭上に浮いたそれは、トラ猫と違ってまず、一対の大きな平べったい何かを生やした。そこからまたうにょうにょと形を変え、五秒の後には、見事な長い尾を持った小鳥の姿に変化を遂げた。
 なんと、光の玉が猫と鳥に姿を変えましたー! 
 ……いや、何なの、これ? 
 というか、こやつらをどうすべき? トラ猫ちゃんなんか、すでにくつろいで私の膝で丸くなっているんですけど。鳥さんだって、私の頭に着陸してまったりくつろいでますけど? 
 そりゃあ、モフモフ二匹に囲まれて幸せですとも。モフモフ大好き。
 でも、本当にこの状態からどうしろと言うんだろうか? 


 空は、もう夜と言っていいくらいに暗く染まっていた。ここらには街灯なんてものはなく、月も出ていない。この謎のトラ猫も鳥も、もう光っていないし。
 ……やれやれ、本当に何が何だか。
 相変わらず二匹は、私の体の周りでくつろいでいる。いや、可愛いんだよ。可愛いけど、そろそろどいてほしい。
 猫ちゃん、鳥さん、と呼ぼうとしたけれど、ふと思いついたことがあって一旦口を閉ざす。
 私はペットを飼ったことがないけど、一度は飼ってみたいと思っていた。せっかくだし、名前で呼んでみたらどうだろうか? 呼んでみても、反応しなければしないで構わないし。

「……ミーナ、そろそろ膝から降りてよ」

 私はまず、トラ猫に呼びかけた。近所で飼われていたトラ猫と同じ名前だ。私が愛想良く近づいても、いつもメンチを切ってくる、なかなか気丈な猫だった。
 それから、頭の上に乗っかる鳥にも。

「ティル、さすがに重いから降りて。肩の上ならいいから」

 ひよこのようなメジロのような丸っこい鳥にも、そう呼びかける。これは、何かの漫画で見た名前だ。
 反応してくれたらおもしろいなぁ、くらいの気持ちで名前を付けてあげたんだけど、事態は思ってもいなかった方向に動いた。
 勝手に付けた名前を呼んだとたん、後ろ足でカリカリと耳の後ろを掻いていた猫が顔を上げ、頭上でくつろいでいた鳥がバサッと音を立てて翼を広げたのだ。
 直後――

「……うおっ!?」

 夜の色に染まっていた森林に光が満ちた。光の洪水、といったところだろうか。光源は言うまでもない、私の膝と頭にいる二匹の謎生物たちだ。何百ワットなんですかってくらいまぶしい。そして、熱い! 
 膝と頭からどいて! 熱いっ! 焦げる! 禿げる! 
 トラ猫ことミーナが大きく伸びをして「ニャーっ!」と勇ましい声を上げ、鳥ことティルも、「チューンっ!」と高く鳴く。
 そこで私の意識は、ふっつりと途絶えた。


   ***


 目が覚めると、そこはウッディな感じの小屋の中でした。
 そろそろこの展開にも慣れてきたね。意外と適応力あるんだろうか、私。それともあまりのめまぐるしさに頭のネジが飛んでしまったんだろうか。
 私が今いるのは、山奥のログハウスって雰囲気の小さな部屋だった。丸太を組んで造られた壁と床と天井。しかも暖炉だんろまである。本物を生で見るのは初めてだ!
 そこでは、ぱちぱちと火がぜていて暖かい。窓の外は相変わらず暗かった。
 ……ん? でも空のはしっこがうっすらと明るくなっている。ひょっとして夜明けだろうか。
 私は横になっていたベッドから身を起こした。そして気づく。
 私、服を着替えさせられてるんですけど。

「……おお、目が覚めたか」

 どばん! とドアが外から開いた。すうっと冷えた風が吹き込んできて身震いする。それに気づいたのか、声をかけて入ってきた人物は「悪い悪い」と言ってドアを閉めてくれた。
 だが、一度冷えた空気はなかなか暖まらない。私は上掛けを体に巻き付けて、じっと来客の様子をうかがった。
 とにかく大きい。そしていかつい男の人だ。身長は百九十センチ近くあるんじゃないかってくらいで、プロレスラーも真っ青な、見事な筋肉がまぶしい。こんなに寒いのに、タンクトップのようなシャツ一枚だ。見ている方が寒々しくなるけれど、男の人は「ちょっと暑すぎるかな?」とか言いながら暖炉だんろの火をじっと見ている。あ、お願いだから消さないでください。
 髪は硬質な茶色で、勝手な方向にピンピンとねている。顔もとにかくワイルドで、ギリシャ彫刻のように彫りが深い。きれいな緑色の目といいその風貌といい、日本人じゃないってことは分かった。だから、ぱっと見た感じも四十歳くらいに見えるけれど、ひょっとしたら本当はもうちょっと若いのかもしれない。外国人の年齢って、よく分からない。
 それに、この人がしゃべっている言葉。どう聞いても、日本語じゃない。かといって英語でもないし、フランス語でもドイツ語でもなさそうだ。
 何が不気味って、私、その言葉が理解できるんですよ。そして当然のように、その謎言語を私も話せるのが分かる。

「……自動翻訳ほんやくパネェ」
「何か言ったか、ボウズ?」
「いや、何も……」

 ……違った、論点はそこじゃない。
 とある可能性にはっと思い至り、私は青ざめる。そして、自分の体にぺたぺたと触れてみた。やっぱり体は縮んでいるみたいだけれど……よかった。性別は女のままだ。

「……私、女です。ボウズじゃないです」
「お? そうなのか?」

 男の人は言われて初めて気がついたようだ。首をひねって、「だからあんな変なもの着てたのか?」と言う。ブラジャーのことか。悪かったな。
 私が三白眼さんぱくがんで睨みつけると、男の人はうーんと伸びをした後、高みから私を見下ろしてきた。別に睨まれたわけじゃないけれど、大男から見下ろされるってなかなか緊張する。相手がいかつい大男だから、余計に。

「名乗り遅れたな……俺はアルベルト・フェスティーユという。ベルフォード王国フェスティーユ子爵家当主だが……嬢ちゃんには分からないか」

 いえ、分かりましたよ。
 ――ここが異世界だということが。


 親切な大男――もといアルベルト・フェスティーユは、ベルフォード王国っていうところに住んでいて、子爵位を持っていて、相当偉い人らしい。

「ここは俺の領地なんだ。夜中に見回りをしていたら不思議な音がして……駆けつけてみると精霊がいたものだからな。おまけに嬢ちゃんは倒れているしで」

 精霊ってなんですかそれ、と問う前に、彼の言いたいことは分かった。
 さては、やつらだな。

『そうだよ、玲奈!』
『おはよう、玲奈』

 突然、可愛らしい声が脳内で響く。私がびくっとベッドの上で震えると、私の中から――ちょうど胸の辺りから、ぽんっと丸っこい毛玉がふたつ、飛び出した。
 毛玉二つは……ああ、やっぱり! 私が森の中で出会って勝手に名前を付けた、トラ猫と鳥だった。って――

「しゃ、しゃべった! 聞きました、今の!?」

 思わず大声を上げてアルベルトさんを見る。するとアルベルトさんは「ん?」と首をかしげた後、思い出したように手を打つ。

「ああ、そういえば契約者にだけは、精霊の言葉が分かるそうだな。悪いけど、俺にはニャーとチュンしか聞こえないなぁ」
「精霊……この子たちが?」
「知らなかったのか?」

 私のつぶやきに、アルベルトさんの方が驚いたようだ。

「嬢ちゃんくらいの歳で精霊持ちってのはそれほど多くない。おまけに二匹も従えてるとなれば、相当な事情があるんだろう」
「……」

 事情は……ない、とは言えない。でも、この人に言ったからといってどうなるんだろう? 
 地球から来ました。
 なぜか体が縮んでいるようです。
 精霊に名前を付けたら気を失いました。
 そんなことを言っても、不審がられるだけだろう。
 私はぎゅっと上掛けを握りしめた。不思議と怖くは、ない。
 でも、ただただ不安だった。

「……よく、分かりません」
「うん?」
「なんで私がここにいるのか……なんで精霊っていうこの子たちがついているのかも、よく、分かりません」
「ん? ……家は、どこなんだ?」
「……家も、どこにあるのか…………」
「……嬢ちゃん、名前は?」

 恐る恐るといった感じで尋ねながら、アルベルトさんは私のベッドの前に膝を突いた。そんな体勢になっても、私よりずっと背が高い。

「玲奈と言います」
「レーナか?」
「いや、玲……やっぱりレーナでいいです」

 たぶん、「れいな」って名前は、この世界の人には発音しづらいんだろう。アメリカの人とかは母音が連続する単語が発音しにくいって、英語か何かの授業で聞いたな。レーナならレーナでいいや。ほんのちょっと発音が違うだけだし。私がこだわらなければいい話だ。
 アルベルトさんは腕を組み、しばらく黙っていた。怖い顔はしていないけれど、それでも目の前で太い腕を組んでたたずまれたら、そりゃあ威圧感がある。おまけに近い。せめてもうちょっと距離を取ってほしいんだけど――正直に言おうか悩んでいると、アルベルトさんの方が先に口を開いた。

「なあ、嬢……レーナちゃん」
「はい」
「君、よかったらうちの子にならないか?」
「……はい?」


   ***


 緑豊かな王国、ベルフォード。
 五十年以上前に平定された大戦争を最後に、この世界は国家間の戦争を終えた。各国内で小さないさかいや政変は起きているものの、正面から国家同士でいがみ合うことはなくなったのだという。
 ベルフォード王国も、かつては凄惨せいさんいくさを繰り広げていたそうだが、ある時、人間たちの愚かな殺し合いに心を痛めた創世の女神が、人間界に一人の女性を送り込んだ。
 うら若い女性であった彼女は平和の大切さを説き、荒ぶれる勇士をなだめ、戦死した者に涙し、貧しい者にもその手を差し伸べたと言われている。
 女神が異世界から連れてきたその女性は、世界からいくさを取り除いた。これからは武力で他国を威圧するのではなく、己が国を豊かにすることで他国に勝ってみよとうたったのだ。
 アルベルトさんは、そんなベルフォード王国フェスティーユ子爵家の長男として生まれた。彼女のおかげで、その頃にはすでに平和で平等な国造りが始まっていたそうだ。
 彼は、十歳を超えた頃から国の士官学校に通い、青年時代は近衛騎士団に所属していた。父の引退を機に子爵位を継ぎ、今は最愛の妻と子どもたちと共に穏やかな生活を営んでいるという。


 ――とまあ、そんな感じでこの国とアルベルトさんについての説明を受けた後。私はアルベルトさんにくすんだ鏡のようなものを見せられて、ようやっと今の自分の姿を認識することができた。まあ、大体予想通りだったけれど。
 簡単に言うと、頭の中や記憶は二十歳そのまま、体だけが十二歳程度の頃に逆行していた。鏡面に映った自分の顔を見ていると、ああそういえば小学生の頃はこんな顔してたっけ、と妙に納得してしまった。


 当時は男の子並みに髪を短くしていた。目が細くて釣り気味だから、目つきの悪い男の子によく間違えられたっけ。体格ももちろん小さくなっているし、胸は皆無かいむ
 ちなみに、アルベルトさんに歳を聞かれた時には黙っておいた。逆に「何歳だと思ってましたか」と聞くと、「九、十歳くらいかな?」と即答された。
 小学校高学年の時の私はひたすら縦に伸びている時期だったから、すでに百四十センチはあった。でも、この世界では、今の私はどうやら十歳程度の「ボウズ」に見えるんだという。アルベルトさんのような外国人顔の人から見たら、私は年齢相応には見られないんだろうな。髪も短いし。面倒だから、その通り十歳だ、と言っておいた。
 ちなみにアルベルトさんが話してくれた女神やらのくだりは、「へえ、そうなんですね」で流しておいた。「実は私も異世界から来たんですよー」「こう見えて実は二十歳なんですよー」なんて突拍子もないことを言われても、アルベルトさん、困るだけだろうし。


 その後私は、アルベルトさんに連れられて小屋を出た。出てから気づいた。この小屋の周りは例の森林ではなく、草原とゆるやかな山脈の合流地点である平野だった。
 それとなくアルベルトさんに聞いてみたんだけれど、私が倒れていたのはこの小屋の近くの茂みで、ここら周辺の歩いていける距離に緑豊かな森林なんてないんだとさ。
 そうか、じゃあ気を失った後、私は謎の力でここまで大ワープしてきたってことか。
 もう驚くことさえ億劫おっくうになる。

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