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1巻
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しおりを挟む序章 タリカ・ブラックフォードという悪女
――頭が痛い。
こめかみを抉るような痛みと、吐き気。口内に溢れた苦い唾液のせいで、咳き込みそうになる。
「お嬢様!?」
「タリカ様!」
周りで誰かが焦っている声が聞こえる。
これは……私に声をかけているんだろうか。
――タリカ様。
私の名前はそんなおしゃれなものじゃ……いや、違う。
激痛の中でうっすら目を開くと、そこには見慣れない――いや、見慣れた白い天井が広がっていた。染み一つない真っ白な天井をぼんやりと見ているとやがて、視界に数人分の顔が飛び込んでくる。
「お、お嬢様……」
「お目覚めですか!? その、体調は――」
口々に言うのは、メイドさんのような格好をした女の人たち。
――いや、彼女たちは私に仕える侍女だ。コスプレイヤーじゃない。
「……わたくしは、いったい?」
絞り出した声は、少し掠れているけれど艶っぽくて愛らしい。
「お嬢様は、三日間も意識を失われていたのです」
「今朝になってうなされていたので、使用人一同心配しておりました……!」
「だ、旦那様にご報告しますね!」
一人分の顔が視界から消え、ぱたぱたと足音を立てて駆け去っていく。
……ああ、そうだ。
私は、タリカになったんだった。
私は、現代日本でOLとして暮らしていた。
大学卒業後、就職した会社は誰もが知っているような超一流企業だったけれど、ブラックもブラック、黒炭でさえ白く見えるほどの漆黒っぷりだった。
一ケ月の残業時間が百五十時間を超えたり、上司のパワハラでハゲかけたり、アプローチをかけてきたイケメン同僚と付き合おうとした矢先、彼が既婚者だと知ったり――まあ、色々あったものの持ち前の図太さでなんとか生き延びていた。
私はいつものように帰宅し、コンビニで買った裂けるチーズをつまみにビールを飲んでいた――はずなんだけど。
ひどい頭痛に襲われた後、気がついたら私はここにいた。
頭の整理が追いつかなくて一瞬混乱したけれど――数秒後には、すとんと全てが理解できた。
私の名は、タリカ・ブラックフォード。ここ、地球とは異なる世界に存在するグランフォード王国屈指の名門貴族ブラックフォード家の一人娘で、公爵令嬢。
グランフォード王国では、貴族の中でもとりわけ上位に位置する家の者のみ、「なんとかフォード」の姓を名乗ることを許されている。
つまり、この国において私はとっても偉い。
……そんなタリカは早くに母親を亡くし、周りの者によって大切に大切に育てられた。
母親譲りの美貌を持ち、しかも生まれた時から王太子と婚約している。
そういうわけで、タリカはとてつもなくウザ――いや、高慢で高飛車なお嬢様に成長してしまった。
平民を見下し、通っている国立学校では女王様然として振る舞い、令嬢たちを腰巾着に据え、見目のよい男がいれば側に侍らせ……とまあ、権力と美貌を振りかざし大変クソ――いや、我が儘放題をしてきた。
これまでは「公爵家のお嬢様だし、王太子殿下の婚約者だし……」ということで周りも大目に見ていた。けれど、とうとう我慢ならぬと王太子であるジェローム殿下から婚約破棄を言い渡されたのだ。
王太子、よい判断である。
ただしタリカは自分の何がいけなかったのかが理解できなくて、怒りまくった末、禁忌とされている古代呪術で元婚約者を呪い殺そうとした。
その結果呪術は失敗し、逆にタリカは命を失いそうになった。
しかし、生に執着する彼女はなんとか生き延びようと、新たな呪術を駆使して異世界を渡り歩く。そこでちょうどいいところにいた、「自分と魂の相性が合う」女を見つけ、その魂を奪って――今に至る。
なんで私がこんなことを全て理解しているのかというと。
私がタリカに魂を奪われた異世界の女であり、古代呪術の失敗のせいか、私の魂そのままでタリカ・ブラックフォードの中に入ってしまったからである。
今の私は、日本人として生きた記憶とタリカとして生きた記憶、両方を持っている。
しばらく頭痛で悩まされていたのは、二つの記憶が融合した際に色々と体が不具合を起こしたからっぽい。
そういうわけで、私は今、タリカ・ブラックフォードとして異世界で生きている。
魂だけぶん取られた「私」の体は、抜け殻になってアパートに横たわっているんだろうか。……なるべく早く誰かが見つけてくれることを祈ろう。
で、何が言いたいかというと。
「……こっちの私、クズすぎぃぃぃぃぃぃ!」
いきなり大声を上げたものだから、使用人たちをたいそう驚かせてしまった。一様に、私を怯えたような眼差しで見ている。
それはそうだ。
タリカは根っからの我が儘お嬢様で、使用人たちをあごでこき使い、気に入らない者は父親にあることないことを告げ口して家から追い出していた。
お嬢様の怒りを買ったらすなわち、クビ。
そういうことで、彼らはいつも青い顔をしてタリカの世話をしていたのだ。
「……我ながら、とんでもない悪女だわ」
使用人を下がらせて一人きりになった私は、ベッドに横たわり、真っ白な天井を見上げて呟く。
二人分の記憶を持っているけれど感情は私のものだから、タリカのこれまでの振る舞いや、周りの者に対してしでかしたことがいかに愚かだったのかがよく分かる。
グランフォード王国中の人間にとって、自分は、尊び傅くべき至高の存在。
そんな歪んだ考えを疑うこともせず、王太子の婚約者という身分を振りかざし、刃向かう者を踏みにじり、見目のよい男を側に侍らせていた。その結果、ジェローム殿下に婚約破棄を言い渡された。
「……自業自得ね」
そのままさくっと自殺でもしていれば、ある意味めでたしめでたしだっただろう。
そして、偶然タリカと「相性が合っていた」私が、無理矢理こちらの世界に引き込まれることもなかったはずだ。
「……いい迷惑だわ」
ケッ、と吐き出したけれど、その声は以前の私のそれよりずっと可愛らしい。
私はよっこらせ、と体を起こしベッド脇のドレッサー前に腰掛けると、鏡にかけられたベルベットのような手触りの覆いを外す。現れた鏡面には、お人形みたいな美貌の女の姿が映っていた。
美容に惜しみなく金を使ったからか、タリカは見事なプロポーションを持つ美女に成長していた。地球では染めない限りありえないだろう、ニンジンのような派手なオレンジ色の髪はつやつやで、くるんくるんと内側に巻かれている。目は、赤銅色。少しだけ目尻が吊り上がっているので、勝ち気な印象があった。
ついさっきまで寝込んでいたから、簡素な白のネグリジェを着ている。その下から主張する胸はこれでもかというほど張っていて、腰はちょっと押されただけでぽっきり折れてしまいそうなほど細い。
これ、本当に内臓が入っているんだろうか? 肋骨は大丈夫なのか?
自分の体をさわさわと撫でてみる。
異世界の令嬢、すばらしい体だ。毎日ビールとつまみの夜食で生きていた地球の私とは、大違いである。
……まあ、こんなに容姿が優れていることも、タリカの傲慢っぷりを助長する原因になってしまったんだろうね。
タリカは「こんなに美しく色気に満ちたわたくしは、我慢なんてする必要がない」ってマジで考えていた。お友だちにはなりたくないタイプだ。
――あ、そういえばタリカって、子分や取り巻きはいたけれど、いわゆる「友だち」はいなかったな。
そりゃそうだ。私だってなりたくない。
第1章 元悪女、本と出会う
皆様ごきげんよう。かつてクソな言動の数々を披露したタリカ・ブラックフォードでございます。
逆恨みでジェローム殿下を呪殺しようとした挙げ句、呪術に失敗して異世界人である私の魂を取り込み乗っ取られてしまったタリカ。
そんな彼女に憤りを覚えながら、私は、「もう元の世界には戻れない」ということを自覚していた。とはいえ、悲しいとか、何がなんでも戻りたいとか、そこまでの執着はない。
かつてタリカが使用した呪術には、「私」がこの世界で生きようと思うために、生まれ育った世界への未練を切り捨てさせる効果もあった。
「私」のことなんて何一つ考慮していない、本当に徹底したクソっぷりだ。
ちなみにグランフォード王国では、禁忌とされる呪術を使用した場合、よくて一生投獄、最悪処刑されてしまう。
おまけに呪い殺そうとした相手は王太子殿下。タリカは本来なら、スパーンと首を落とされても仕方のないことをやらかしたのだ。
でも、私も使用人から聞いて愕然としたんだけど――タリカを溺愛する父親・ブラックフォード公爵が、タリカが気絶している間に呪術の証拠を隠滅していた。
怪しい商人から買い取った呪術の本や、使用人に命じて方々から集めさせた呪いの品々は、全て処分。使用人にも口封じをし、他人の耳に入らないように対策を取っていたという。
……そういう馬鹿親なところが、タリカの性格を形作ってしまったんじゃないかと思う。
でも正直、私にとってはありがたい。
だって、ジェローム殿下に無礼を働いたのも呪術に手を染めたのも、タリカであって私じゃない。無理矢理異世界に連れてこられた挙げ句、別の人間が犯した罪に問われて首が飛ぶなんて嫌すぎる。
そんなタリカの父は、数日ぶりに目覚めた娘を見るなり号泣し、「おまえが無事で何よりだよ」「何か困ったことがあれば、お父様になんでも言いなさい」と鼻をかみつつ言った。
だからそういうところが……まあいいや。
久しぶりに娘が目覚めたということで、仕事から帰ってきたお父様は私を応接間に呼び、嬉しそうな顔で私と一緒にお茶を飲む。私の味覚はタリカに準じているようで、かつては紅茶が嫌いだったけれど今は普通においしく感じられた。
「……お父様、ジェローム殿下のことですが――」
このままお茶だけ飲んで、じゃあお休みなさいませ、なんてダラダラするわけにもいかないだろう。
思い切って私が切り出すと、お父様はびくっと身を震わせた。
「……私も陛下にかけ合ったのだが、ジェローム殿下の意志は固い。それに陛下も――その、今のおまえでは殿下の妃になるにはまだ勉強不足だろう、とおっしゃっていた」
「それってつまり、婚約破棄が確定されたということですよね」
一応タリカの記憶があるから、指摘する。娘のことを思ってわざわざ婉曲に伝えたというのに、当の本人がはっきり口にしたからか、お父様はうっと言葉を詰まらせた。
「……タリカ、おまえは気に病まなくていい。体調が戻り次第、一緒に王城に行って陛下と殿下への謁見を願い出よう」
「それは……なんのためにですか?」
「もちろん、タリカをジェローム殿下の婚約者に再び据えるよう、お願い申し上げるのだ」
お父様の言葉に、私は目を見開く。
タリカ――私が再び、ジェローム殿下の婚約者に?
私の脳裏を、ジェローム・グランフォード殿下のお姿が過る。
漆黒の髪に、エメラルドのような双眸。騎士団で訓練しているので、堂々たる体躯を持っている。繊細な優男というより、マッチョ系美丈夫といった感じだろうか。
そんなジェローム殿下とタリカは、お互いの相性を考慮して婚約したわけじゃない。
殿下が生まれた時から、「ブラックフォード家に娘が生まれたら、王子の婚約者にする」と決められていたそうだ。で、翌年にタリカが生まれたことで、約束どおり婚約は確定。
……私の記憶にあるジェローム殿下は、いつも険しい顔をしていた。
タリカと婚約破棄できた彼は今、晴れやかな表情をしているのではないだろうか。世間は間違いなく、殿下に味方するはず。殿下、国民からの人気も高いからね。
タリカとジェロームがよりを戻すのは、私としても歓迎できない。かといって、娘が殿下を慕っていると思って疑わず、しかも自らの権力に溺れているお父様を簡単に納得させることはできそうにない。
……となれば。
「……お父様、わたくし、疲れてしまったのです」
私はしょぼんとうな垂れ、膝の上で拳を固めた。薄いベニヤ板一枚でさえ叩き割ることができないだろう、華奢で小さい拳だ。
「わたくし、色々考えたのです。……このままジェローム殿下の婚約者に戻るよりは、一度己の身の振り方を考える時間を持つべきなのでは、と」
「タ、タリカ!? まさかおまえ、誰かに何かを言われたのか!?」
せっかく娘が一大決心を口にしたというのに、この人は。
お父様は私に詰め寄って肩をがっと掴むと、タリカと同じ赤銅色の目に微かな怒りと焦りを浮かべて叫ぶ。
「さては、使用人の誰かだな! 可愛いタリカが自信を失うよう、そそのかしたのだろう! そうだろう!?」
「違います! わたくしが自分で考えたのです!」
私は声を張り上げた。
部屋の隅に控えていた使用人たちは、顔面真っ青だ。お父様の言葉を聞き、自分たちの首が飛ぶかも……と不安になっているのだろう。
かつてのタリカなら、都合の悪いことは全て、罪をなすりつけやすい使用人など、他人のせいにしていた。
でも、私は違う。
「お父様、タリカのお願いを聞いてくださるのならば、このまま静かに過ごし、考える時間をください」
「だ、だが」
「お願いします、お父様」
以前のタリカのようにうるうるのお目目で懇願するのではなく、頭を垂れてそう願い出た。
娘の行動にお父様は息を呑み、戸惑いを含んだ声を漏らす。
「……不思議だ。おまえは本当にタリカなのか?」
「……それ以外の別人に見えるでしょうか?」
内心どきっとしつつ冷静に言うと、お父様は肩をすくめた。
「いや、おまえは私の可愛い娘だ。ただ……まさか、おまえがそのようなことを口にするとはな」
お父様はそれまでずっと掴んだままだった私の肩から手を離し、ふーっと大きな息をついた。
かつて国王陛下と並んで社交界で輝いていたというお父様は、年を取ってちょっとお腹が出っ張り始めてもなお魅力があった。
「……分かった。私もおまえにあれこれ期待し、息苦しい思いをさせてしまったのだろう。学校のことなどは気にしなくていいから、ひとまずゆっくり休みなさい」
……ああ、そうか。王太子に婚約破棄された女が、貴族の子息や令嬢のための学校にいたら、周囲は気を使うに違いない。
自分のためにも皆のためにも、さっさと退学するべきだ。
「ありがとうございます、お父様。……そのことですが、一つお願いがございます」
私は姿勢を正した。
私がお父様に願い出たのは、「退学届けを自分の手で提出したい」ということだ。
これは私なりのケジメなんだけど、お父様は最初大反対した。「そんなことをすれば、可愛いおまえが辛い思いをする!」ってね。
でも私も引かず、最後には「ブラックフォード家の人間としての誇りを失いたくないのです」とお父様が何よりも大切にする家名を持ち出して、首を縦に振らせた。
……思えば、こうしてタリカが父親と言い合いをするのも初めてだ。
これまでお父様はタリカの言うことをなんでも叶えたし、そもそも父親が反対するようなことはしなかったし。
そうして私は通っていた学校に別れを告げるべく、制服に袖を通した。この落ち着いた青いワンピースを着るのも、今日で最後になるだろう。
生徒との接触を避けるため、昼前に登校する。堂々たる白亜の校舎は、グランフォード王国の未来を担う貴族の子女たちが学び、交友を深めるための場所。
ジェローム殿下もここの生徒で、次期国王として学友たちと共に切磋琢磨されている。
……我が儘放題をし、男子生徒を下僕扱いし、気に入らない女子生徒をいじめ、成績を改ざんするよう教師を脅していた私が通うべき場所じゃない。
授業時間だからか、校舎内はしんとしている。
私は足早に学長室に向かって退学の旨を告げた。私の姿を見て明らかに警戒していた学長は、私が頭を下げて退学を願い出たことに少しだけ驚いた顔をしていたけれど、余計なことは言わずに書類を準備してくれた。
書類に必要事項を素早く記入し、お父様があらかじめ書いてくれた同意書を添えて事務室に提出する。私を見て事務室はざわっとなったものの、無事退学届けを受理してもらえた。
さて、用が済んだらさっさと退散するべきだ。生徒たちだって、我が儘放題した挙げ句、殿下に婚約破棄された憎き女なんて、見たくもないだろう。
私は見納めとばかりに校舎を見上げて――そのまま、動きを止めた。ついさっきまで誰もいなかった正面玄関前の庭園に、制服姿の青年の姿があったのだ。
ふわっとした柔らかな癖のある髪は焦げ茶色で、キツネのように吊り上がった勝ち気な目は琥珀色。体の線は細くてやや中性的な印象のある青年だ。その彼はその美しいかんばせを歪め、鋭い眼差しで私を睨みつけている。
右腕に筒状に丸めた大きな模造紙のようなものを持っているから、授業中だけど先生のお遣いか何かで正面玄関前の庭園を歩いていて、私を見かけた――ってところか。
どくん、と私の心臓が脈打つ。
彼のことは、嫌というほどよく知っている。
タリカより一つ学年が下で、侯爵家の次男だとかで階級も私より低い。でもジェローム殿下の学友の一人に選ばれるくらいの秀才だ。それに、ほとんどの生徒がタリカに頭を垂れて理不尽な扱いに耐えていた中、私の振る舞いにいちいち突っかかってきたし、不快な感情を隠そうともしなかった。
ちょっと意地悪そうな美貌の彼だけど性格がまるで合わなかったから、タリカも自分の下僕にはしたがらなかったレアな人物。
「……キース・ラトクリフ」
私が乾いた声で名を呼ぶと、彼は片頬を歪めた。
「……よくもまあ、ノコノコと戻ってこられたものだ。その面の皮の厚さだけは褒めてやろう」
彼の声は艶があり、微笑んで甘い台詞でも囁けば、あっという間に女子生徒たちを陥落させられるだろう。
でもタリカは彼とずっと衝突してきたため、彼が私に向けるのは甘い視線ではなく軽蔑の眼差し。紡ぐ言葉は優しさではなく棘に満ちていた。
真っ向から嫌みを吐かれても、私はぐっと拳を固めて唇を引き結んだ。
彼は我が儘放題なタリカを諫め、私がいじめた生徒を庇っていた。当時のタリカはそんな生意気なキースをぼろくそに扱っていたけれど、今ではその勇気を称えたい。
……だから、彼の暴言を甘んじて受けることしかできない。
どうやらキースは私がすぐに言い返すと思っていたみたいで、私が俯いて黙りを貫いていると、不可解そうに眉根を寄せた。
「……あんたらしくないな。なんだよ、いつものように俺のことをコケにしたらどうだ?」
「……そんなことできません」
私が首を横に振ると、いよいよキースは気味が悪くなってきたらしく、少し後ずさった。そんな、潰れた虫を前にしたような反応をしなくてもいいじゃん。
「……キース・ラトクリフ。わたくしは先ほど、退学届けを提出しました。今日は学舎に別れを告げに来たのです」
「たいが――は? 嘘だろ?」
「嘘ではありません」
私はバッグから退学届けの受理証明書を取り出し、素っ頓狂な声を上げるキースに差し出した。私と距離を取っていたキースはすぐさまこっちに来ると、勢いよく私の手から証明書を奪って、目を皿のようにして読み始める。
「……本物だ。あんた、本気で退学するのか?」
「ええ。わたくしがここにいても、皆に迷惑をかけるだけ。ジェローム殿下にも申し訳が立たないので、ここから消えるべきでしょう」
キースから視線を逸らし、私は白い校舎を見上げる。
本当は、タリカの尻ぬぐいなんてまっぴら御免だ。でも、私はタリカ・ブラックフォードとして生きている。理不尽だと思っても、これから数十年この世界で生きていくのならば、意を決しないといけない。
キースは絶句しているようだ。私は彼の手から証明書を取り返し、バッグに入れて彼に背を向ける。
「お、おい、タリカ・ブラックフォード!」
「わたくしはこれで失礼します。……キース・ラトクリフ。わたくしにこんなことを言う権利はないと思いますが、どうか、ジェローム殿下をよろしくお願いします」
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