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第七話 憂鬱

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 来てほしくない時間は、早く来てしまうものだ。
 枕元に置いているスマホから毎度のけたたましいアラーム音が耳に響き、結羽の目が薄く開く。

「ん……」

 結羽はスマホを手に取り、鳴り続けているアラームを止める。
 億劫そうに上体を起こし、スマホに視線を落とすと、画面には学校の始まりである月曜日と表示されていた。

「…………」

 結羽はベッドから足を下ろし、閉めていたカーテンを開ける。
 朝日が差す向かいに立ち並ぶ住宅が視界に映る。

 それを一瞬眺めた後、結羽は踵を返し、自室を出る。
 階段から一階へ下り、リビングへ行くと、ダイニングキッチンでベーコンエッグを焼いている母親がいた。

「あら、結羽。おはよう」

 階段を下りる足音が聞こえ、振り返った母親が笑顔で挨拶をする。

「おはよう……お母さん」

 母親とは反対で、結羽は気怠げな声で挨拶を返す。

「いつもより早いわね。もしかして、学校でテスト勉強するの?」

「まぁ、そんなとこ……」

「えらいわね……でも、気を張り詰めないようにね」

「ありがとう」

 母親と短いやり取りをした後、結羽はふらふらとした足取りで洗面所に向かう。


 ◇ ◇ ◇


 水栓をひねり、結羽はぬるま湯で顔を洗う。
 それを数回繰り返していくと、意識が覚醒し、結羽は用意していたタオルで顔を拭く。

 洗顔した肌に保湿ケアをした後、呆然と鏡に映る自分を見ながら歯磨きをする。
 そして、やることを終えると、結羽は再び二階へ上がり、自室に戻る。

 今日は気温が高いとのことで、結羽は部屋着を脱ぐと、壁に掛けていた夏用の制服を取り外して袖を通す。
 程無くして、着替えるのを終えた結羽は姿見鏡で髪と制服を整えてから、授業で使用する教科書やノートが入った鞄を手に自室を後にした。

 一階へ下りると、スーツを着た父親がダイニングテーブルでテレビを見ながら朝食を頬張っていた。
 制服を着替えている間に来たのだろうと結羽は思った。

「お、結羽。おはよう、今日は早いな」

 テレビを見ていた父親がこちらを向き、結羽に挨拶をする。
 父親と視線が合い、結羽も挨拶を返す。

「おはよう、テスト近いからさ……早く学校行ってテスト勉強したくてね」

「真面目だなぁ~……お父さん、早起きしてまでテスト勉強してなかったな」

「真面目なのはテスト期間だけだよ。赤点取ると追試になるし、休日を削って追試受けるために学校行きたくないからね」

 結羽は言いながら、父親と向かい合う形で椅子に座り、目の前に母親が用意したベーコンエッグを食べ始める。
 程良く焼けたベーコンの肉汁にとろりとした黄身の味が口いっぱいに広がる。

「それでも、学生の頃から一夜漬けで勉強していた俺より立派だぞ。でも、あまり無理はするなよ……先週の金曜日、制服着たまんま寝落ちするくらい勉強してたんだろ?」

「……うん」

 ――先週の金曜日。

 結羽の脳裏に最悪な出来事が脳裏を過る。
 同時に、あの時の感触が全身を這うように蘇ろうとする。

「結羽?」

「え? あはは……あれは自分でもびっくりしたよ」

 父親に訝しげに名前を呼ばれ、結羽は動揺を隠そうと笑って誤魔化した。
 丁度、朝食を食べ終え、結羽は「ごちそうさま」と言って、椅子から立ち上がる。
 洗面所に向かって歯を磨き、鞄を肩に掛けて急ぎ足で玄関に向かう。

「いってきます!」

 結羽は言いながら玄関の扉を開ける。
 背後から両親の「いってらっしゃい!」と声が聞こえたところで、玄関の扉がバタンと音を立てて閉じた。


 ◇ ◇ ◇


 駅までの道のりを歩きながら、結羽は物思いに耽っていた。
 父親に金曜日のことを指摘されてドキッとしたが、何とか会話で切り抜けられて結羽はホッと胸を撫で下ろした。

「…………」

 いつも憂鬱と思っている月曜日が更に重く感じる。
 足を一歩ずつ踏み出す度、結羽の中で漠然とした不安が湧き上がる。

 程無くして、最寄りの駅に到着した結羽は改札口を通り、タイミングよく到着した電車に乗る。
 ドアの真横の隅を確保した結羽は、制服のポケットから取り出したワイヤレスイヤホンを耳に取り付けて、スマホの画面にお気に入りの音楽を表示させる。

 いつもならテンションが上がる音楽を聴くのだが、そんな気にはなれず、結羽は早まっている鼓動を鎮めようとチルアウトミュージックを再生した。

(このまま着かないでほしい……)

 窓から流れていく景色を眺めながら、結羽は無意味なことを願ってしまう。
 そんな願いは虚しく、数分後に電車は目的地である駅に到着するのだった。


 ◇ ◇ ◇


 学校に着く。
 今日からテスト週間が始まったからか、いつも朝練でグラウンドに来ている運動部の生徒はいなかった。

「着いちゃった……」

 結羽は手に持っているスマホで時間を確認する。
 画面には、午前七時五十分と表示されている。
 綾樹と午前八時に先週の金曜日に訪れた空き教室で待ち合わせという約束を守るため、結羽はいつもより早く家を出たのだ。

(この調子なら、時間通りに着くね……)

 結羽は憂鬱な気分で校門に足を踏み入れると、スマホから通知音が鳴る。
 画面を確認すると、そこには綾樹からのLINEの通知がきていた。

 トーク画面を開いて見れば、『空き教室に着いた。待ってるぞ』と到着の連絡だった。
 内容からして、数分前に学校へ到着したことに結羽は気づく。

 結羽は一旦立ち止まり、『今学校に着いた。すぐ向かうから』と返事してから昇降口に向かうのだった。


 ◇ ◇ ◇


 外靴から上履きに履き替えて、結羽はいつも使っている階段を上っていく。
 早い時間帯だからか、他の生徒や先生とすれ違うことなく、結羽の階段を上る硬質な足音が静寂な空間に反響する。

(条件は金曜日に満たしたはずだよね……)

 でも、動画の件はまだ解決していない。
 削除したところを実際に見たわけではなく、確かめたい気持ちと行きたくない気持ちがせめぎ合う。

 階段を上がる度、『あの時』の出来事が脳裏を過り、結羽の背筋にゾワリと悪寒おかんい上がる。
 一歩ずつ踏み出す足は震え、心臓がバクバクと早まり、これ以上先に進むなと本能が叫ぶ。

 だが、こんなところで立ち止まるわけにはいかない。
 結羽はまとっている恐怖を振り払い、鉛のように重い足を無理やり進ませる。

 やがて目的の階に到着し、結羽は空き教室がある角スペースに向かう。
 僅か数歩進むだけで、すぐに空き教室の前に到着した。

「…………」

 結羽は震える手を扉の取っ手に添える。
 大きく深呼吸をし、早まる鼓動を落ち着かせる。
 そして、意を決して、扉を横に引いたのだった。


 ◇ ◇ ◇


 扉を開けると、目の前にはスマホを手に窓を背凭せもたれにして立つ綾樹がいた。

「お、時間通りだな」

 扉の開く音に、スマホを眺めていた綾樹が顔を上げる。

「…………」

 結羽は扉を閉め、緊張を隠すようにキッと綾樹を睨みつけた。
 その表情を見て、綾樹はハァと溜め息を吐いた。

「なぁ……そう警戒すんな。というか、そんなとこ突っ立ってないでこっち来いよ」

「警戒するに決まってるでしょ……要件ならさっさと言ってよ」

「ふーん……」

 不意に綾樹の表情が冷たいものに変わった。
 その表情とあからさまにスマホを見せびらかす動作の意味に結羽はハッと気づいた。

「……っ」

 ――駄目だ、彼に逆らってはいけない。

 結羽はギリッと歯を食いしばり、震える足で一定の距離まで綾樹に近づいて立ち止まる。

「で……こんな早い時間に何の用?」

「おいおい、そう急かすなよ」

 威厳を保ちながら言葉を発する結羽に、綾樹は苦笑を浮かべる。

「お前さ……篠崎のどこが好きなわけ?」

「は?」

 返ってきた意外な質問に、結羽は目をぱちくりさせる。

「ま、お前にとって、篠崎はヒーローだもんな。大方、俺にいじめられて助けられた瞬間に惚れたんだろ? もしそうなら、結構単純だな」

「……ッ! そんなんじゃないッ!」

 確かに初めは結羽にとって、冬真はヒーローみたいな存在だった。
 でも、助けられたから好きになったわけではない。

「優しいところも好きだけど……篠崎くんの相手の気持ちになって考えるところに惹かれたのよ!」

 先ほどまで抱いていた恐怖と不安は消え、結羽は怒りで勝手に言葉が飛び出た。
 綾樹の質問に答えるのはしゃくだったが、冬真を好きになった過程を勝手に決めつけられ、侮辱されたことに結羽は許せなかった。
 まくし立てて話す結羽に、綾樹は唖然とした顔で見つめる。

「……こんなこと聞くためにわざわざ呼び出したわけ? それより、動画……ちゃんと消してよ」

 言いたいことを吐き出した結羽は踵を返す。
 が、一歩踏み出した時、背後から綾樹に腕を掴まれる。

「おい、待てって」

「……何?」

 結羽が振り返ると、綾樹は億劫そうにこちらを見ていた。

「俺の条件もう忘れたのか?」

「先週の金曜日、アンタの言う通りにしたじゃない。動画を消す条件は満たしてるでしょ?」

 結羽がそう言うと、綾樹はニヤリと笑みを浮かべた。

「俺、ヤらせたら消すなんて一言も言ってないけど?」

「……は?」

 結羽は耳を疑った。
 呆けている結羽を見て、綾樹は言葉を続ける。

「もしかして、それで消してくれると思ってた? ははっ、それなら残念だったな」

「……っ」

 結羽にとって、あまりにも絶望的な言葉だった。
『あの日』に全部解決したと思っていたからだ。

「そんなに動画消してほしい?」

「当たり前でしょッ‼︎」

 結羽はバッと腕を振り、綾樹の手を振り払う。

「どうすっかなぁ……」

 綾樹は「んー……」と視線を逸らして考え事をしてから、必死な目でこちらを見る結羽にひらめいた顔を返す。

「んじゃ、俺と勝負するか?」

「はぁ……? 勝負?」

「俺もそこまで鬼じゃねぇからな。お前にチャンスやるよ」

「勝負って、何やるのよ……?」

「テスト勝負。総合点で俺より高かったら動画を消してやる」

「本当に消してくれるんだよね……?」

「ま、俺に勝てるならな」

 いつもの意地の悪い笑みを浮かべる綾樹に、結羽の中で闘争心が燃え上がる。

「……上等だよ」

「決まりだな」

 そこで、朝の予鈴のチャイムが鳴り響く。
 壁に掛けている時計を見ると、午前八時十五分と差していた。
 窓の外と空き教室の向こうから、微かに登校して来る生徒たちのざわめきが聞こえてくる。

「せいぜい頑張れよ」

 綾樹はチャイムの音を合図に、結羽の肩をポンと叩いてから空き教室を後にした。
 空き教室に残された結羽は、グッと拳を握り締める。

(負けてたまるか……)
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