11 / 22
刹那編
第十一話 咲かない花
しおりを挟む
――いつからこんな風になったのか……。
刹那は時折考えていた。
当時幼かった刹那は今とは違い、他者に暴力を振ることに強い嫌悪を抱いていた。
刹那はとある山奥の古い一軒家で両親と三人で暮らしていた。
しかし、その一軒家を纏う雰囲気は、決して穏やかではなかった。
貧しい暮らしのため、幼い刹那は小さな体で村へ下りて、細かく割った薪を売るために毎日のように仕事をしていた。
小さな体での作業は窮屈なこともあるが、刹那にとっては苦ではなかった。
一通り薪割りを終えた刹那は、割った薪を拾い集め、村へ下りる時に使用する背負子に薪を縄で括りつける。
「母さん、町に行って来るよ」
刹那は井戸で水汲みしている母親に声を掛ける。
「まあ、こんなにたくさん……」
母親は水が満ちた桶を井戸の傍に置き、背負子を背負った刹那に歩み寄る。
懐から白い手拭いを取り出すと、肌に伝っている刹那の汗を拭う。
「山を下りるのは大変だから、作業なんかやめて遊びに行ってもいいのよ」
「大丈夫だよ! それに、この稼ぎで腹一杯食べられるなら、オレはそれでいいんだ」
「刹那……ありがとう」
自分たちの暮らしのために、小さな体を張って支える刹那に母親は感謝でいっぱいだった。
しかし、それと同じくらい子供らしいことをさせてあげられないことに申し訳ない気持ちがあった。
せめて自分に甘えてほしいと願った母親はある提案をした。
「刹那。稼いだ分で何か欲しい物買ってきなさい」
「え、でも……」
「いつも刹那には苦労かけてるからね。自分へのご褒美として何か買っておいで」
「ありがとう! 母さん! じゃあ、オレ行って来るね」
刹那は薪を括りつけた背負子を背負い直し、山を下る方角へ体を向ける。
後ろを振り向くと、母親は手を振り、刹那も同じように手を振り返した。
そして、町に繋がる長い道のりを歩いて行くのだった。
✿ ✿ ✿
いつものように一通り町を回り、刹那は商品となる薪を村人に配って売り歩いていた。
やがて背負子が軽くなった頃、見慣れた広い間口を通り、並ぶ商家を見て回った。
(母さんが前に食べさせてくれた水飴でも買おうかな……)
刹那は僅かな金銭を手に、以前母親が連れて来てくれた飴屋に向かった。
慣れた足取りで通りを右に曲がり、更に歩いて次の角を左に行くと、飴屋と筆で書かれた看板が見えてきた。
「すみません、水飴一つください」
刹那が声を掛けると、奥から年配の男性が「はいよ」と顔を出した。
大きな壺の蓋を開け、細い棒で水飴を掬い、形を整えていく。
「まいど、水飴一文だよ」
男性は刹那から一文受け取ると、水飴を渡した。
「どうも」
刹那は男性にお礼を述べると体の向きを変え、飴屋を後にした。
そのまま帰路に着くと、先ほど購入した水飴を二本の棒で練り始める。
「こうしてだんだん色が変わっていくのが面白いんだよな……」
回して練って数分経つと、透明だった色に変化が起き、柔らかかった水飴が程よい固さになる。
そろそろ頃合いだと判断した刹那は、完成した水飴を口に頬張る。
「ん~! 最高!」
舌から水飴の甘美な味が口いっぱいに広がり、先ほどまで疲弊していた刹那の気分を高揚させた。
水飴の味を楽しみながら斜面になっている山道を登り、食べ終わる頃には住居している平屋に到着した。
井戸の傍では、食器を洗っている母親の姿があった。
「母さん、ただいま」
「刹那、おかえり」
「母さん、見て。薪全部売れたんだ、ほら」
空になった背負子を見せると、母親はにっこりと笑みを浮かべ、刹那の頭を撫でる。
「刹那、いつもありがとう。大変だったでしょ……」
母親に労りの言葉を掛けられ、刹那は会心の笑みを返す。
「ううん、全然! また明日も売ってくるよ!」
「ありがとう……でも、あまり無理はしないでね」
母親の言葉に刹那が頷いた時だった。
「――おい、早く来いよッ‼︎」
突然、正面にある平屋の入り口からけたたましい怒声が響き渡った。
野太いその声に二人は驚いて体を跳ねさせ、反射的に平屋の方に顔を向ける。
声主の矢継ぎ早に発せられる言葉は、母親の名前を呼んでいた。
「刹那、来て」
「……母さん」
母親は震える手で刹那の手を取ると、平屋から離れる。
刹那は体が釣られるまま母親の後に続くと、古い納屋に到着する。
そして、母親は刹那を納屋に入れると、体を屈ませてお互いの目線を合わせる。
「母さんがいいよって言うまで、絶対に出てきちゃダメだからね」
「え……? 母さん!」
母親は刹那の有無を聞かず、納屋の引き戸を閉めた。
閉じられた暗影の空間が刹那を包み、引き戸の向こうで遠ざかる母親の足音が聞こえた。
これから何が始まるのか、刹那はわかっていた。
できることなら、この扉を開けて母親を追い掛けて引き止めたい気持ちでいっぱいだった。
けど、母親との約束とその先にある恐怖で足が竦んで動けずにいた。
「……っ!」
扉の向こうから、刹那の嫌いな音が耳に響いてきた。
物が壊れる音、人を恐怖で縛るような怒鳴り声。
そして、胸を締め付ける甲高い悲鳴。
それらの音が入り混じって、まるで地獄のようだった。
(母さん……母さん……)
刹那は壁の隅で体を縮こませ、耳を塞ぐ。
どうすることもできない自分の無力さに涙を流し、母親が無事でいるのを祈ることしかできなかった。
✿ ✿ ✿
どれくらい時間が経ったのだろうか。
いつの間にか、けたたましく響いていた音が止み、静寂が訪れる。
刹那は手から耳を離し、立ち上がる。
引き戸の前に行くと、向こう側から引き摺るような足音がこちらに近づいて来る。
引き戸が開くと、そこには口の端から血を流し、着物が所々破れた母親の姿があった。
「刹那……」
名前を呟いた直後、母親は自力で体を支えるのに限界がきたのか、膝が崩れ落ちた。
「母さんッ!」
刹那は前のめりに倒れ込む母親の体を咄嗟に支えた。
「っ!」
慎重に体勢を立て直そうとした時、刹那は言葉を失った。
母親の袖が捲れた肌には、痛々しい赤黒い打撲の痕が散らばっていた。
その傷が扉の向こうに起きた全てを物語っていて、刹那は恐怖で心臓がバクバクと早鐘を打ち、体を震わせた。
顔を青ざめる刹那の肩に温かい熱が触れた。
「刹那……もう出てきて大丈夫よ。あの人は山を下りていないから……」
母親は震える刹那の肩を抱き、か細い声でそう告げる。
心地良い優しい声音と陽だまりのように温かい手に、緊張して固まった刹那の体が解ける。
そして、ぎこちなく立ち上がる母親の手に引かれ、刹那は住居している平屋に向かった。
✿ ✿ ✿
玄関に足を踏み入れると、見慣れた六畳間の居間が惨状に荒れていた。
縁側に組み込まれた障子はいくつか穴が空いていて、畳の上には割れた皿やお椀の破片が散らばっていた。
刹那は体を屈ませ、目の前に落ちている食器の破片を片付けようと手を伸ばす。
だが、破片に触れる直前、母親に手を止められる。
「刹那、ダメよ」
「母さん……でも」
「危ないから。お掃除は母さんがやるからいいのよ……刹那は夕飯ができるまで外で遊んでおいで」
そう言って、無理に笑みを浮かべる母親に刹那はチクリと胸を痛ませた。
自分を外に行かせた後、いつも気づかれぬよう一人で泣いているのを知っていたからだ。
「わかった……」
一人になりたいという母親の気持ちを察し、刹那は平屋から出た。
✿ ✿ ✿
この付近には刹那と同年代の子供はおらず、決まっては一人遊びが多かった。
刹那が考えた遊びは、足元に落ちている細長い小枝を拾い、地面に絵を描くくらいしか思いつかなかった。
「…………」
夢中で線を結びつけている地面には、母親が笑っている顔が描かれていた。
(母さんが心の底から笑ったのっていつだろう……)
刹那の記憶で母親はいつも泣いてばかりだった。
例え笑ったことがあっても、自分は大丈夫だと言い聞かせる作り笑みしかなかった。
刹那が物心つく前から、母親は毎日のように夫から暴力を振るわれていた。
父親は酷い酒乱でろくに働かず、日中平屋にいるか山を下りて町へ出かけることが多かった。
母親は父親からの暴力に怯えながら、家事や小さい畑仕事など汗水流して働いていた。
刹那は幼いながらも母親が背負う気苦労を感じていたのか、年相応の我儘を言うことがなかった。
自分の生き甲斐である母親を支えたく、刹那は自分のことは常に後回しにしていた。
(どうやったら、笑ってくれるかな……)
母親の悲しむ顔を見たくなく、刹那はなるべく一緒にいて、冗談言っておどけて母親を和ませた。
そして、いつか母親が作り笑みではなく、心の底から幸福に笑ってくれることを願っていた。
「ん……?」
刹那はふと地面から顔を上げると、木と木の間で死角になっていた場所で桃色に色付いた花の木を見つけた。
もっと近くで見たく、刹那は絵を描くのを中断し、花の木に向かった。
「すごいな。もう冬が近づいているのに……」
まだ蕾だが、寒さが強まる冬にかけて咲かせる花に、刹那は感慨深げに見つめている。
「そうだ!」
唐突に何かを閃いた刹那はくるりと踵を返し、平屋に向かう。
玄関を通り、勝手場に行くと、丁度炊き終えた白米を茶碗によそう母親を呼び掛ける。
「母さん! 来て来て!」
「刹那、どうしたの?」
「いいからいいから! 見せたいものがあるんだ!」
ぐいぐいと着物の袖を引っ張って急かす刹那に、母親は怪訝に思いながらも手に持っていた杓文字を置いて外へ出た。
刹那は母親の手を引いたまま平屋の裏に周り、先ほど見つけた桃色の花の木に向かった。
「見て! こんなところに花があったんだよ!」
刹那が指差す方向に見上げた母親は、こんな場所に花の木があったことを知らなかったのか吃驚した顔をする。
「驚いたわ。うちの裏に花があったなんて……この花はサザンカかしら」
葉の縁に触れ、母親は花の名前を呟く。
「この花、サザンカっていうの?」
「ツバキに似ているけど、葉の縁がギザギザしているからサザンカね。サザンカは秋の終わりから冬の始まりにかけて花を咲かせるのよ」
「へぇ……」
初めて知るサザンカの生育に、刹那は感嘆な声を漏らす。
「いつ咲くかな……」
「そうね。咲くのが楽しみだわ」
そう言って、サザンカの蕾を見上げながら小さく微笑を浮かべる母親に、刹那の心は喜びに満ち溢れる。
(よかった……母さん喜んでくれた!)
一時的にしか見られない母親の笑顔は、まるで開花していない蕾のようだった。
でも、刹那はいつか咲くこのサザンカのように、笑顔の花が咲いてほしいと願うのだった。
刹那は時折考えていた。
当時幼かった刹那は今とは違い、他者に暴力を振ることに強い嫌悪を抱いていた。
刹那はとある山奥の古い一軒家で両親と三人で暮らしていた。
しかし、その一軒家を纏う雰囲気は、決して穏やかではなかった。
貧しい暮らしのため、幼い刹那は小さな体で村へ下りて、細かく割った薪を売るために毎日のように仕事をしていた。
小さな体での作業は窮屈なこともあるが、刹那にとっては苦ではなかった。
一通り薪割りを終えた刹那は、割った薪を拾い集め、村へ下りる時に使用する背負子に薪を縄で括りつける。
「母さん、町に行って来るよ」
刹那は井戸で水汲みしている母親に声を掛ける。
「まあ、こんなにたくさん……」
母親は水が満ちた桶を井戸の傍に置き、背負子を背負った刹那に歩み寄る。
懐から白い手拭いを取り出すと、肌に伝っている刹那の汗を拭う。
「山を下りるのは大変だから、作業なんかやめて遊びに行ってもいいのよ」
「大丈夫だよ! それに、この稼ぎで腹一杯食べられるなら、オレはそれでいいんだ」
「刹那……ありがとう」
自分たちの暮らしのために、小さな体を張って支える刹那に母親は感謝でいっぱいだった。
しかし、それと同じくらい子供らしいことをさせてあげられないことに申し訳ない気持ちがあった。
せめて自分に甘えてほしいと願った母親はある提案をした。
「刹那。稼いだ分で何か欲しい物買ってきなさい」
「え、でも……」
「いつも刹那には苦労かけてるからね。自分へのご褒美として何か買っておいで」
「ありがとう! 母さん! じゃあ、オレ行って来るね」
刹那は薪を括りつけた背負子を背負い直し、山を下る方角へ体を向ける。
後ろを振り向くと、母親は手を振り、刹那も同じように手を振り返した。
そして、町に繋がる長い道のりを歩いて行くのだった。
✿ ✿ ✿
いつものように一通り町を回り、刹那は商品となる薪を村人に配って売り歩いていた。
やがて背負子が軽くなった頃、見慣れた広い間口を通り、並ぶ商家を見て回った。
(母さんが前に食べさせてくれた水飴でも買おうかな……)
刹那は僅かな金銭を手に、以前母親が連れて来てくれた飴屋に向かった。
慣れた足取りで通りを右に曲がり、更に歩いて次の角を左に行くと、飴屋と筆で書かれた看板が見えてきた。
「すみません、水飴一つください」
刹那が声を掛けると、奥から年配の男性が「はいよ」と顔を出した。
大きな壺の蓋を開け、細い棒で水飴を掬い、形を整えていく。
「まいど、水飴一文だよ」
男性は刹那から一文受け取ると、水飴を渡した。
「どうも」
刹那は男性にお礼を述べると体の向きを変え、飴屋を後にした。
そのまま帰路に着くと、先ほど購入した水飴を二本の棒で練り始める。
「こうしてだんだん色が変わっていくのが面白いんだよな……」
回して練って数分経つと、透明だった色に変化が起き、柔らかかった水飴が程よい固さになる。
そろそろ頃合いだと判断した刹那は、完成した水飴を口に頬張る。
「ん~! 最高!」
舌から水飴の甘美な味が口いっぱいに広がり、先ほどまで疲弊していた刹那の気分を高揚させた。
水飴の味を楽しみながら斜面になっている山道を登り、食べ終わる頃には住居している平屋に到着した。
井戸の傍では、食器を洗っている母親の姿があった。
「母さん、ただいま」
「刹那、おかえり」
「母さん、見て。薪全部売れたんだ、ほら」
空になった背負子を見せると、母親はにっこりと笑みを浮かべ、刹那の頭を撫でる。
「刹那、いつもありがとう。大変だったでしょ……」
母親に労りの言葉を掛けられ、刹那は会心の笑みを返す。
「ううん、全然! また明日も売ってくるよ!」
「ありがとう……でも、あまり無理はしないでね」
母親の言葉に刹那が頷いた時だった。
「――おい、早く来いよッ‼︎」
突然、正面にある平屋の入り口からけたたましい怒声が響き渡った。
野太いその声に二人は驚いて体を跳ねさせ、反射的に平屋の方に顔を向ける。
声主の矢継ぎ早に発せられる言葉は、母親の名前を呼んでいた。
「刹那、来て」
「……母さん」
母親は震える手で刹那の手を取ると、平屋から離れる。
刹那は体が釣られるまま母親の後に続くと、古い納屋に到着する。
そして、母親は刹那を納屋に入れると、体を屈ませてお互いの目線を合わせる。
「母さんがいいよって言うまで、絶対に出てきちゃダメだからね」
「え……? 母さん!」
母親は刹那の有無を聞かず、納屋の引き戸を閉めた。
閉じられた暗影の空間が刹那を包み、引き戸の向こうで遠ざかる母親の足音が聞こえた。
これから何が始まるのか、刹那はわかっていた。
できることなら、この扉を開けて母親を追い掛けて引き止めたい気持ちでいっぱいだった。
けど、母親との約束とその先にある恐怖で足が竦んで動けずにいた。
「……っ!」
扉の向こうから、刹那の嫌いな音が耳に響いてきた。
物が壊れる音、人を恐怖で縛るような怒鳴り声。
そして、胸を締め付ける甲高い悲鳴。
それらの音が入り混じって、まるで地獄のようだった。
(母さん……母さん……)
刹那は壁の隅で体を縮こませ、耳を塞ぐ。
どうすることもできない自分の無力さに涙を流し、母親が無事でいるのを祈ることしかできなかった。
✿ ✿ ✿
どれくらい時間が経ったのだろうか。
いつの間にか、けたたましく響いていた音が止み、静寂が訪れる。
刹那は手から耳を離し、立ち上がる。
引き戸の前に行くと、向こう側から引き摺るような足音がこちらに近づいて来る。
引き戸が開くと、そこには口の端から血を流し、着物が所々破れた母親の姿があった。
「刹那……」
名前を呟いた直後、母親は自力で体を支えるのに限界がきたのか、膝が崩れ落ちた。
「母さんッ!」
刹那は前のめりに倒れ込む母親の体を咄嗟に支えた。
「っ!」
慎重に体勢を立て直そうとした時、刹那は言葉を失った。
母親の袖が捲れた肌には、痛々しい赤黒い打撲の痕が散らばっていた。
その傷が扉の向こうに起きた全てを物語っていて、刹那は恐怖で心臓がバクバクと早鐘を打ち、体を震わせた。
顔を青ざめる刹那の肩に温かい熱が触れた。
「刹那……もう出てきて大丈夫よ。あの人は山を下りていないから……」
母親は震える刹那の肩を抱き、か細い声でそう告げる。
心地良い優しい声音と陽だまりのように温かい手に、緊張して固まった刹那の体が解ける。
そして、ぎこちなく立ち上がる母親の手に引かれ、刹那は住居している平屋に向かった。
✿ ✿ ✿
玄関に足を踏み入れると、見慣れた六畳間の居間が惨状に荒れていた。
縁側に組み込まれた障子はいくつか穴が空いていて、畳の上には割れた皿やお椀の破片が散らばっていた。
刹那は体を屈ませ、目の前に落ちている食器の破片を片付けようと手を伸ばす。
だが、破片に触れる直前、母親に手を止められる。
「刹那、ダメよ」
「母さん……でも」
「危ないから。お掃除は母さんがやるからいいのよ……刹那は夕飯ができるまで外で遊んでおいで」
そう言って、無理に笑みを浮かべる母親に刹那はチクリと胸を痛ませた。
自分を外に行かせた後、いつも気づかれぬよう一人で泣いているのを知っていたからだ。
「わかった……」
一人になりたいという母親の気持ちを察し、刹那は平屋から出た。
✿ ✿ ✿
この付近には刹那と同年代の子供はおらず、決まっては一人遊びが多かった。
刹那が考えた遊びは、足元に落ちている細長い小枝を拾い、地面に絵を描くくらいしか思いつかなかった。
「…………」
夢中で線を結びつけている地面には、母親が笑っている顔が描かれていた。
(母さんが心の底から笑ったのっていつだろう……)
刹那の記憶で母親はいつも泣いてばかりだった。
例え笑ったことがあっても、自分は大丈夫だと言い聞かせる作り笑みしかなかった。
刹那が物心つく前から、母親は毎日のように夫から暴力を振るわれていた。
父親は酷い酒乱でろくに働かず、日中平屋にいるか山を下りて町へ出かけることが多かった。
母親は父親からの暴力に怯えながら、家事や小さい畑仕事など汗水流して働いていた。
刹那は幼いながらも母親が背負う気苦労を感じていたのか、年相応の我儘を言うことがなかった。
自分の生き甲斐である母親を支えたく、刹那は自分のことは常に後回しにしていた。
(どうやったら、笑ってくれるかな……)
母親の悲しむ顔を見たくなく、刹那はなるべく一緒にいて、冗談言っておどけて母親を和ませた。
そして、いつか母親が作り笑みではなく、心の底から幸福に笑ってくれることを願っていた。
「ん……?」
刹那はふと地面から顔を上げると、木と木の間で死角になっていた場所で桃色に色付いた花の木を見つけた。
もっと近くで見たく、刹那は絵を描くのを中断し、花の木に向かった。
「すごいな。もう冬が近づいているのに……」
まだ蕾だが、寒さが強まる冬にかけて咲かせる花に、刹那は感慨深げに見つめている。
「そうだ!」
唐突に何かを閃いた刹那はくるりと踵を返し、平屋に向かう。
玄関を通り、勝手場に行くと、丁度炊き終えた白米を茶碗によそう母親を呼び掛ける。
「母さん! 来て来て!」
「刹那、どうしたの?」
「いいからいいから! 見せたいものがあるんだ!」
ぐいぐいと着物の袖を引っ張って急かす刹那に、母親は怪訝に思いながらも手に持っていた杓文字を置いて外へ出た。
刹那は母親の手を引いたまま平屋の裏に周り、先ほど見つけた桃色の花の木に向かった。
「見て! こんなところに花があったんだよ!」
刹那が指差す方向に見上げた母親は、こんな場所に花の木があったことを知らなかったのか吃驚した顔をする。
「驚いたわ。うちの裏に花があったなんて……この花はサザンカかしら」
葉の縁に触れ、母親は花の名前を呟く。
「この花、サザンカっていうの?」
「ツバキに似ているけど、葉の縁がギザギザしているからサザンカね。サザンカは秋の終わりから冬の始まりにかけて花を咲かせるのよ」
「へぇ……」
初めて知るサザンカの生育に、刹那は感嘆な声を漏らす。
「いつ咲くかな……」
「そうね。咲くのが楽しみだわ」
そう言って、サザンカの蕾を見上げながら小さく微笑を浮かべる母親に、刹那の心は喜びに満ち溢れる。
(よかった……母さん喜んでくれた!)
一時的にしか見られない母親の笑顔は、まるで開花していない蕾のようだった。
でも、刹那はいつか咲くこのサザンカのように、笑顔の花が咲いてほしいと願うのだった。
0
お気に入りに追加
1
あなたにおすすめの小説
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?
すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。
「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」
家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。
「私は母親じゃない・・・!」
そう言って家を飛び出した。
夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。
「何があった?送ってく。」
それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。
「俺と・・・結婚してほしい。」
「!?」
突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。
かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。
そんな彼に、私は想いを返したい。
「俺に・・・全てを見せて。」
苦手意識の強かった『営み』。
彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。
「いあぁぁぁっ・・!!」
「感じやすいんだな・・・。」
※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。
※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。
それではお楽しみください。すずなり。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
💚催眠ハーレムとの日常 - マインドコントロールされた女性たちとの日常生活
XD
恋愛
誰からも拒絶される内気で不細工な少年エドクは、人の心を操り、催眠術と精神支配下に置く不思議な能力を手に入れる。彼はこの力を使って、夢の中でずっと欲しかったもの、彼がずっと愛してきた美しい女性たちのHAREMを作り上げる。
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる