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第1話 仄かな香り

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 喫茶店、カフェ・ボヌール。

 私が働くこのお店は、神楽坂かぐらざかの路地裏にある。木造建築で、テーブル席が二つとカウンターのみの小さな喫茶店だ。
 壁には、写真やドライフラワーをかざり、店内にいろどりをえる。写真は、旅好きのマスターが各地で撮ったもの。ドライフラワーは、完全私の趣味である。

 また、壁沿いには本棚が置かれていて、大小様々な本がびっしりと詰まっている。これらは静哉せいやさんの私物だ。家に本が入りきらないとのことで、このお店にたくさん持ってきたらしい。ちなみに私も、こっそり雑誌や漫画を置いている。



 コップをきながらお客様を待っていると、カランカランとドアの鈴が鳴った。

 セーラー服姿の彼女は、ひかえめ目な様子で店内をキョロキョロとする。そのおどおどとした雰囲気とは異なり、スカートは極端に短く、メイクも濃い。先端恐怖症の私が思わず目をそらしたくなるほど、とがったネイルをしていた。

「いらっしゃいませ」

 私は爪を見ないようにしつつ、声をかけた。

「一人なんですけど……」

 人差し指を立て、小さな声で答える彼女。見た目の印象と性格が全然違うように見えた。

「一名様ですね、こちらへどうぞ」

 カウンター席に案内すると、マスターがメニュー表と水をスッと用意してくれる。そのまま私のそばに来て、小さな声で耳打ちした。

「あの子のこと頼むね。そこまで色はくないけど、気を抜かないように」
「はい、お任せください」

 私は口角をあげた。

 先ほどの彼女に目を向けると、カウンターにひじを乗せ、頬杖をついている。彼女は肩を落とし、何度もため息をついた。静かな店内にどんよりとした空気がただよう。

「何か悩み事ですか?」

 私はそっと話しかける。すると彼女は申し訳なさそうにうつむいてしまった。

「……あ、いや、すみません……」
「いえいえ、謝らないでください。ここはお客様に幸せを届ける喫茶店なんです。私でよければいくらでもお話聞きますよ」

 私がそう言うと、彼女はゆっくりと顔をあげた。その表情は、来店したときよりも少しやわらいで見える。

「幸せを届ける……ため息つくと幸せが逃げるって、よく言いますもんね」

 いたたまれない気持ちになったのか、彼女は手で顔を隠すように前髪をいじった。

「……それは違いますよ」
「え?」
「ため息をつくと幸せが逃げるんじゃなくて、幸せじゃないからため息が出るんだと、私は思います」

 彼女のハッと息をのむ音が聞こえた。

「そっか、なるほど……」

 か細い声で呟いた。


 緊張、ほぐれたかな?



 ――それから私たちは、好きなことや趣味について話し、だんだんと打ち解けていった。彼女、安藤あんどう帆夏ほのかちゃんは、どうやら友達付き合いに悩んでいるそうだ。

「帆夏ちゃんの話をまとめると、友達といるときに息苦しさを覚えてしまうって感じかな」
「はい……もちろんみんなのことは嫌いじゃないんです。でも一人になったときの解放感が心地良くて、なんだか後ろめたい気持ちになってしまって」

 うんうん、と相づちを打ちながら話を聞いていると、帆夏ちゃんに何もおもてなししていないことに今さら気づく。私は思わず「あっ!」と声をあげてしまった。

東雲しののめさん……?」
「帆夏ちゃん、飲み物用意してなくてごめん! 何がいい?」
「そういえばそうでしたね。話に夢中になっていて注文するの忘れてました……東雲さんのおすすめはありますか?」
「おすすめかぁ……わかった! じゃあちょっと準備してくるから、本でも読んで待っていてくれる?」

 私は店の本棚を指さす。

「わかりました。おすすめ楽しみです」

 そう微笑んだ彼女は、本棚を物色ぶっしょくしに席を立った。

 私は急いで裏方へ行き、とある豆を選んだ。静哉さんの要望で導入した手動式ミルに豆を入れ、ゴリゴリという音に耳を傾けながら豆をく。
 ろ紙をドリッパーにセットし、コーヒーを受けるサーバーに乗せた。そこに先ほど挽いた豆を平らになるように入れる。ドリップ用ケトルで、「の」の字を描くようにお湯を注いだ。コーヒーのこうばしい匂いが、鼻孔びこうをくすぐる。

 何度かお湯を注ぎ、適量になったらドリッパーをゆっくりとはずした。コーヒーをカップに入れて、完成だ。

 コーヒーの抽出は一発勝負、とマスターがよく言っていた。均一に注ぎ、均一に抽出する。お湯の温度、注ぐときの高さにまで気を配り、最高の一杯をお客様に届けるのだ。


「うん、これでよし」


 再びカウンターに戻ると、帆夏ちゃんは少年漫画に熱中していた。私に気づくとサッと漫画を閉じる。

「お待たせしました」
「ありがとうございます」
「ささ、冷めないうちに飲んでみて」

 彼女はフーっと息をふきかけてから、ゆっくりと一口飲んだ。

「おいしい……」
 かすかに目が細められる。

「これ、ブラックコーヒーなのに、甘い香りがします。バニラ……ですか?」
「大正解。これはフレーバーコーヒーって言ってね、焙煎ばいせんするときにバニラの香りを豆につけて作ったものなんだ。ほかにも、チョコレートやキャラメルの香りをつけたものもあるんだよ」
「へぇ~」

 興味深そうに帆夏ちゃんはコーヒーを見つめた。

「……帆夏ちゃんはさ、今の自分好き?」

 さりげなく私が問いかけると、彼女は曖昧あいまいな表情を浮かべた。

「うーん」と首を傾け、ネイルを見せながら困ったように笑う。

「こういう見た目は、あんまり好きじゃないかもです」
「そっか。友達と離れたあと解放感があるって言ってたけど、どこか無理しているのかもしれないね。気を張っていたのかも」

 帆夏ちゃんはカップを両手ではさむ。

「そうかもしれません……内気な自分を変えたくて、メイクとか色々頑張ってみたんです。今の友達と一緒にいても浮かないようにって」
「その友達もきっと、帆夏ちゃんの見た目を理由に、一緒にいるわけじゃないと思うよ。ちゃんと帆夏ちゃんの良いところを見てくれてるはず」
「はい。そうだと嬉しいです」

 彼女はそう言うと、残りのコーヒーを一気に飲み干した。

「今日は話を聞いてくれてありがとうございました。スッキリしました」
「いえいえ、無理せず頑張ってね」
「はい、ごちそうさまでした」

 帆夏ちゃんはお店で販売しているコーヒー豆を一袋購入して帰った。きっと今頃「なんでコーヒーなんて買ったんだろう」と不思議に思うはずだ。
 なぜならこのお店での記憶はなくなってしまうから。ここはそういうお店だ。

「あの子、来店したときよりだいぶ顔色も良かったですね」
「そうだね。色も薄くなっていたよ」

 静哉さんとマスターは口々に言った。
 マスターには、その人の色が見える。落ち込んでいる人、悩んでいる人の顔に、黒いモヤがかかるのだそうだ。私と静哉さんにはそれらは見えない。

「大した助言もできませんでしたが、大丈夫でしょうか……?」

 不安な気持ちを打ち明けると「あとはあの子次第だよ」とマスターは私の肩に優しく手を置く。

 また会えますようにと願いながら、私は閉店作業をおこなった。



 とはいいつつ翌朝、やっぱり彼女の様子が気になった私は、こっそり帆夏ちゃんの最寄り駅に向かった。電柱の陰に隠れていると、制服姿の女子が目に入る。

 帆夏ちゃんは昨日とは違い、スカートは丁度膝くらいの長さに伸ばされ、メイクもナチュラルな感じになっていた。あんなにとがっていたネイルもなく、高い位置で一つに結ばれていた髪は下ろされ、落ち着いた雰囲気をまとっている。

 そういえば昨日、好きな女優さんの話をした。きっと彼女を目標にイメチェンしたのだろう。改札口で待っていた友達たちは、みんな目を丸くして驚いている。
 帆夏ちゃんは友達に向かって何か言っていたようだが、ここからはよく聞こえない。でもその後の笑顔を見る限り、大丈夫そうだ。

 私は来た道を引き返し、人混みの間をスルスルと抜けていく。

「大学行くか~」

 背中をらせ、大きく深呼吸した。
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