浮帽子

坂水

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第8話

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〝『サトウカナエ』を知っていますよね――わたし、彼女の友人なんです〟
 
 さとの保育園に異動した初日、伊勢崎先生に言われた言葉だ。
 『サトウカナエ』という女性と面識はない。どの漢字を当てるのかもわからない。聞くまいとして、だからこそ、聞き覚えてしまった名だった。
 『サトウカナエ』はかつて勤めていた会社の取引先の担当者の婚約者であり、私は間接的に彼女の子どもを殺していた。
 
 よくある不倫話だ。
 
 一年半前まで、私は自動車部品を設計・製造する小さな会社に中途採用で勤めていた。
 事務採用だったが、急な発注や変更が多く、人手不足から私自身も設計や品質保証に携わるようになり、連日深夜まで働いていた。ものづくりの仕事は想像以上に大変で何度も泣かされたが、一つやり遂げるごとに興味は深まり、仕事に没頭した。毎夜、製作会議という名の製作談義に花が咲き、振り返れば、真夏のように鮮やかな日々だったと思う。何度、あの夏に帰れたらと願ったかわからない。
 彼は取引先の大手企業の開発設計部の人間で、十和田という名字から「トワさん」と会社の人たちから呼ばれていた。私はなんとはなしに、気恥ずかしくて十和田さんとしか呼べなかったけれど。いや、後々考えれば、「十和田さん」と呼ぶことで、他の人と差別化を図りたかったのかもしれない。彼は共同で開発していた試作品の責任者であり、ほとんど毎日朝から晩までこちらの会社に入り浸っていた。
 十和田さんが設計し、技術部長率いるチームが試作品を作り上げ、私が品質保証を担当する。試作品に対して高精度測定器でいくつもの検査をするのだが、その製品の意図や特性を把握して最良の方法を選び、正しい手順を踏まねば、望む結果は導き出せない。検査の結果次第で、試作品の修正方向も変わる。私は検査のたびに極度に緊張した。十和田さんや技術部長に、誤った検査結果を伝えて、危うくプロジェクトの舵をめちゃくちゃにしそうになった経緯があったからだ。その時は技術部長がそんな数値が出るはずないと気付き、再検査をして事なきを得たが。技術部長の口が悪いのはいつものことだし、技術チームの仲間も怒らなかったが、私はひどく恐縮してしまった。
 「臆病者のほうが、伸びるんだ」――そんな折、検査のたびに緊張して震えていた私に、十和田さんが掛けた言葉だ。仕事を怖がらない楽観的な人よりも、怖がって悲観的な人のほうが慎重になるから成長する。そんな意味合いだったのだろう。慰めるための方便だったかもしれないが、それでも救われた。肯定された気がしたのだ。
 そうして業務が連日深夜にまで及び、同じ時間を共に過ごし、一つの目標に向かって邁進していれば、自然と距離は縮まる。私は十和田さんと親密な仲になり、関係を持ってしまった。彼に婚約者がおり、結婚を数か月後に控えていると知りながら。

 どうしてそんなことをしでかしたのか。それまで私は学生時代も、社会人になってからも、積極的な恋愛はしたことはなかった。過去に二人とつきあった経験はあるが、どちらもなんとなく始まり、なんとなく自然消滅した。他人と合わせるよりも、一人の気楽さを好んでいたはずなのに。
 婚約者から彼を奪おうとは露ほどにも考えなかった。こういう状況に置かれた男女が揃えて口にする白々しい台詞であるとは重々承知している。でも、あの時は本当に奪おうなどと思わなかったのだ。ただ、ふれてみたかった。試作品をいとおしそうに撫でるその指で、ふれてほしかった。後先考えずに、どうしようもなく。ショッピングセンターで子どもがおもちゃを欲しがって駄々をこねるように。
 情事が明るみに出て、大好きだった仕事を失い、心労で婚約者が流産するとわかっていても、あの時の自分を止められはしなかっただろう。だからきっと、私はあの時、あの状況へ戻れば、その分だけ十和田さんと『サトウカナエ』の子どもを殺してしまう。何度でも。果たして、それを知っていても彼は私と関係を持っただろうか。
 いくつかの話し合いの場がもたれ、十和田さんは予定通りに結婚し、私は会社を辞めた。相手方に慰謝料も払わず、逆に会社からは退職金まで貰えたのは、間に入ってくれた会社の社長の温情だったのだろう。もっとも、社長は十和田さんの上司と昵懇であり、そして婚約者は元々取引先に勤めていたそうで、全てを内々に収めようとしていた上でのことなのかもしれないけれど。

 数か月ぼんやりして過ごしたが、必要に迫られ、私は就職活動を始める。元々、文系大学出身の私は、前職と同じ業界での再就職を希望しなかった。同じ業界にいれば、きっといつか顔を合わせてしまう。けれど、再就職した先が巡り巡って保育園となったのは皮肉だった。そして、『サトウカナエ』――今では、『トワダカナエ』となった――の友人がいるなんて。
 ひとの男に色目をつかった女、子どもを殺した女、保育園に相応しくない汚い女――そんなふうに伊勢崎先生が私を責めたことは一度もない。どういう経緯で私の名を知ったのか、どれほど『サトウカナエ』と仲が良いのかはわからないが、あの一言を除いて伊勢崎先生が私の行いについて言及することも断罪することもなかった。
 伊勢崎先生は保育のプロフェッショナルであると同時に、良識ある真っ当な社会人だ。そしてきっと、友人思いの情に篤い人でもあるのだろう。あの一言は、それら三者の規を越えないぎりぎりの牽制であり、譲歩であり、思いやりだった。そう思えばこそ、私は、先生たちが守るべき子どもたちにふれることは敵わない。
 なのに、一体どうしてこれほどまでに鈍感に忘れていられたのだろう。私は調子に乗りすぎていた。仕事に対しても、先生たちに対しても、子どもたちに対しても…… 
 だらりと垂らしていた手が、いつのまに繋がれていたのか。私は左手に灯るあたたかさにようやく気付いた。かのんちゃんの熱さとは全く違う、ほんのりとしたあたたかさ。
 見下ろせば、デスクの左脇に黄色い帽子が浮かんでいた。はっとして思い出す。時計を確認すれば、すでに午後七時半を回っていた。今日は七時までに仕事を片づけ、卒園式の通しの練習をすると約束していたのに。デスクの上にはまだ処理されていない書類が何枚も広げられていた。

「ごめんなさい、ゆう」

 ゆうはふるふると首を横に振る。隣に寄り添い、物思いに沈んでいる私をずっと待っていてくれたらしい。瞬間、ゆうを無茶苦茶に抱きしめて、いっそ連れ去ってしまいたくなった。今はもう、この子だけ。この子だけなのだ、私には。
 胸に迫り上がった奇妙な切迫感に押されて、つい、詮無きことを口に出してしまう。

「ゆうは、保育園の外に出られないの?」

 もしも出られるのなら、遠いどこかで暮らしたっていい。部屋を借りて、新しい仕事を探して、二人だけで暮らす。ゆうはおうちで留守番しなくちゃならないだろうけれど、その分、休日は必ず一緒にいる。一晩中、一緒にいられる。今よりずっと長く一緒にいられる。
 馬鹿げたことをと思う一方、もしかしたらという期待もあった。だが。
 ゆうは首を横に振るのをぴたりと止めた。考え込むようにして、数秒。ゆうはもう一度だけ首を横に振る。
 ふっと、肩の力が抜けた。そんな都合の良い話があるわけないのだ。仮にできたとして、保育園が大好きで、退園後もこっそりと来ていた子に、どうして園を離れようと言える? 提案したところで……とても頷いてくれるとは思えなかった。
 思い切り抱きしめる代わりに、せめて力を込めて小さな手を握り返す。ぬるい、溶け合うような、言い換えれば優しい温度だった。
 おゆうぎ室からピアノの音色が聞こえてくる。ピアノが得意な浅利先生が伴奏の練習しているのだ。卒園式は三月二十日。あと半月後に迫っていた。先客がいるなら、おゆうぎ室での練習は無理だ。あといくらも日が無いというのにもったいないことをしてしまった。
 ゆうは事務室のドアから頭を出して、ピアノに聞き入っていた。ほとんどが私の知らない曲だったが、何曲目かに流れてきた「おもいでのアルバム」はさすがにわかる。懐かしいメロディと共に、卒園式の情景が脳裏に描かれた。紺色のスモックにコサージュを胸に咲かせ、しゃちほこばった子どもたち。小柄なゆうはきっと他の子に埋もれてしまうだろう。でも私は彼女を見失わない。いつでも、どこでも、すぐわかる。なぜなら……
 そこまで思い浮かべて、私は呆然と呟いた。

「……ゆうには、無理だわ」

 ゆうは、卒園式に出席することができない。

 ここにいたって、私は気付いた。
 こちらの言葉を聞きつけたのか、戸口の脇で、目深に被った帽子の下からゆうは私をうかがう。私は私で、ゆうを見つめた。他の年長さんよりもずっと小柄な身体つき。仙道先生の話から計算すると、足掛け四、五年、ゆうは保育園にいる。彼女の成長は、亡くなった頃から止まっているのだろうか。
 己の迂闊さを呪うしかなかった。幼くとも、聡いこの子をごまかせはしない。
「ごめんなさい。ゆうは、卒園式に出られないの」
 ゆうは、わずかに小首を傾げたようだった。あるいは、そう見えたのか。彼女の表情が見えないことに救われるのは、なんとも皮肉であり、そんな自身を疎ましく感じる。束ねた髪に背中を押される心地で私は立ち上がって、声を絞り出した。
「あのね、ゆう。私、うっかりしていたの。忘れていたのよ、」
 言い終える前に。ゆうは、こくんと一つ頷いた。いつも通り、あっさり、ためらいなく。半ば条件反射のように。私はしばらくの間、ゆうを見つめた。
 ざらりとした何かになぜられた、そんな不快感がした。違和感、とでも呼べば良いのか。いや、違う。ふつふつ、ふつふつ、私自身の心が沸き立っているのだ。
 ゆうは聞き分けが良すぎた。それはゆうをほったらかしにしてしまった運動会でも、年末年始に会いに行くという約束を破った時でも。
 もっと怒って、癇癪を起こしたって構わないのに。泣いて、暴れて、叫んで、かのんちゃんみたいに真っ赤になって。どうして、遠慮なんてするの。そりゃあ、私は保育士の先生ではない。子どもの気持ちを受け止める術を知らない。本当の家族でもない。ましてや、ゆう、あなたの母親ではない――でも。
 あまりに身勝手な怒りだった。何の資格も権利もないくせに。子どもを産んだこともないくせに。子どもを殺した女のくせに。身勝手だと理解していたから、それ以上は何も言えなかった。
 私は黙り込み、ゆうもいつもと同じく黙り込んでいる。不貞の証拠を握ったけれど、家庭を壊したくない、そんな心持ちの夫婦のようで滑稽だった。

 後になって考えれば、この時、ゆうとて思うところは私以上にあったのだ。けれど口を閉ざしていたのは(話せないにしても、手紙だったり、かのんちゃんのように態度や行動で示したりしなかったのは)、結局、臆病だったから。私とおなじく。臆病者、そんなところだけはよく似た二人だった。
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