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第8話 ◆◇

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 できた妻だと思っていた。
 私は次男であったが、妻は両親によく仕えてくれていた。仕事をしていた兄嫁代わって、母を看取ったのは妻と言って良いだろう。
 そうして義家族に尽くし、一人息子を志望大学に入学させた後、妻はささやかな願いを口にした。隣県にある実家に戻って実母の面倒をみたい、と。
 妻にも兄がいたが、年が離れた兄夫婦にはすでに孫があり、孫守に忙しい。一方、K県の旧家である妻の実家は広く、部屋も余っている。義兄夫婦にとっては願ってもみない申し出だったろう。加えて息子も春から大学進学でK県に移住していた。
 そうなると、問題は残される私の身の回りの世話のみだった。こちらのマンションで義母と同居しても良かったのだが、兄夫婦がそれは体裁悪いと嫌がるし、義母も居を移したがらなかった。やっぱり無理かしらと言う妻に、独身時代は一人暮らしをしていたんだ、気にせず親孝行してくるといい、と胸を叩いた。
 できた妻だった。できすぎていた妻だった。
 だから、嘘を吐かれたと気付いた時に湧き上がったのは、罵りでも恨みでもなく、やりやがったという呻きと納得と快哉に近い感情だったのだと思う。
 けれど、その脇に追いやった気持ちが、時を経て弱った身体と心を燻らすだなんて、当時は想像もしなかったのだ。



 赤い軽自動車からいつもの医院──総合市民病院ではなく、町医者──の第二駐車場に降りると、頑健な体躯の中年男性が壁のごとく立ちはだかっておりました。
 もっともトクラベごときなので、痛くも痒くも怖くもありませんでしたが。ただ、鬱陶しく暑苦しく犯罪臭くありました。本日も金色帯びた良き日和でしたが、台無しにするような。
 もちろん、用があって、病を得ているというのに秋風にさらされて突っ立っているのでしょう。それを承知の上で、ふんと鼻息ふかして、なれど黙したまま横を通り過ぎようとすれば、まて、まて、まてまてい! と無遠慮に二の腕を掴まれました。

「なんですか。鬱陶しいし、暑苦しいし、犯罪臭いですよ、存在」 

 一瞬、氏はうっと怯みましたが、

「だからといって、これはなかろう、むしろこっちが犯罪だ!」

 と、多少、力をゆるめつつも、こちらを引っ張っていきます。そして、氏の空色の車の横に連れてこられた時には、昨日の出来事を思い出しておりました。

「謝ってください」

 ぴかぴかの車体の凹みを前に、ああ? と実にヤカラっぽい声をあげる戸比氏に、わたくしは身の潔白を主張しました。

「だから、私ではありません。ユーイチローです」

 はああああ? と、氏の人相はヤカラからレベルアップしてヤクザみを増してゆきます。ですが、私は事実を申し上げているだけのこと。

「ですから、おたくのムスコ氏がボコしたのです。目元そっくり」

 氏の頭上にクエスチョンマークが乱舞しているのが感じられました。

「はあああ? ああ? あ、え、なんで」

 しらんがな。
 エセ方言が飛び出しそうになりましたが、考え直して口を閉じました。さっさと受診を終えて帰宅して家事をすべく、戸比氏の腕を振りほどき小走りで駐車場の出口へ向かいます。氏より早く受付に辿り着き、診察券を出そうという小さきたくらみでした。
 戸比氏は、あっ、と我に返り、こちらの意図を察したのかばたばたと追ってきます。しゃらくさい。
 必死に足を動かしますが、身長が高い氏の方が忌々しくも脚長く、分があります。
 わたくしは氏の腕に飛び付いてぶら下がり、自ら錨となり、動きを止めようと試みました。そしてその反動をもってして前へ出ようとしたその時。
 勢いよく第二駐車場へ乗り込んできた漆黒のSUVが、わたくしたちの眼前で急ブレーキを踏みました。間一髪。あやうく、病人から怪我人二人へとジョブチェンジあるいはダブルワークとなるところでございました。
 その乱暴な運転に、本来、こちらが抗議を申し立てるべきだったのでしょう、しかし。

「親父!」

 車から降りてきた人影に、怒鳴る前に怒鳴られました。

「・・・・・ユウイチロウ?」

 戸比氏はまさに鳩が豆鉄砲を喰らったような面相となられました。もちろん半分はマスクで隠れていたのですが。

「いい年して往来でいちゃついてみっともない。恥を知れ、恥を!」

 立ちはだかったユーイチロー氏は、やはり戸比氏そっくりで、ワンサイズ下。だのにブルゾンの襟を立てた姿には妙に迫力というか凄みがありました。格が違うといいますか。戸比氏はヤクザの三下風情、ユーイチロー氏は幹部並の風格が滲み出ておりました。はて、普通、親子関係では逆じゃないかしらんと思わなくもなかったのですが、客観的な個人の感想なのだからしようがありません。
 ユーイチロー氏は、戸比氏の腕にぶら下がったままのわたくし──見ようによっては腕を組んでいるように見えなくもない──を一瞥して、ハッと嘲るような息を放ちました。

「やっぱりあんたにも女がいたんだな。どおりでろくに見舞いにも来ようとしないはずだ。それにしたってこんなカッパ頭!」
「この方はふともも視姦の準痴漢行為者で、あえていうなら点滴隣人です、カッパではありませんボブカットです!」
「いや、ちょっ、なんでここに、オヤジ呼び初めてだろ、いや、うん、ああ、だから、浮気していたのは俺じゃなく母さんだ!」

 ヒッ、ヒッ、ヒッ、と啼くジョウビタキの声をBGMに、澄み切った空に向かって、三者三様言いたいことを盛大に撃ち放ち。
 ・・・・・・え、と。三人が顔を見合わせのは、なんとも気まずいことでありました。
 一体、次の挙動をどうすれば良いのか。
 燦々たる秋の陽射しの下、途方に暮れかけた大人たちを救ってくれたのはやはり時間でした。病院の午前診療受付は午前11時30分まで。
 ほぼ真上に来た太陽に、わたくしは同じく立ち竦んでいた戸比氏に、ウケツケ! と馬の尻を叩かんがごとく叫び、走り出したのでございます。
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