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〈終幕 美雪〉第10話 証明
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しおりを挟むそれはまったく清浄で、聖上で、正常な笑顔だった。あらゆる年代のあらゆるシーンでの笑顔の見本になる、という意味で。なんの悪意も悪気も嫌味もない。そう、いっそ彼女は無邪気だった。
「あなたの言葉、あなたの表情、あなたの振る舞い。兄妹が落とした小石やパン屑を辿るみたいに、とても注意深く見ていたの。真実のあなたは、級友を虐げ、幼馴染を罠に陥れ、目的のためなら自分自身をも騙す」
こんな綺麗な笑顔で、甘い飴玉を舌に乗せたまま、細い指先で頬を撫ぜ、偶然を装いながら耳たぶに触れながら。
「あなたは彼女そっくりだった。私が大嫌いなあの人に」
――狼の仔は狼。羊の仔は羊。王様の子はお姫様。継母の娘は意地悪な姉。
「ならば、香純は私に似た娘になったでしょう。愚図で引っ込みじあんで泣いてばかりいる」
それで良いの。良かったのよ。
香世子さんは視線を空にやり、繰り返す。昏く平坦だった瞳に灯がともる。晴れ晴れとした笑顔。降りしきる雪は紙ふぶき。全てが演出のように、彼女は女優めいて美しかった。
――私の愛すべき娘よ。
香世子さんは再び私を見つめ、この上なくいとおしげに両の頬を包み込んだ。
いや、見つめているのは〝私〟ではない。それがわからぬほどの愚か者ではない。〝私〟じゃない……では、私は。
「わたしの、こと、」
声がこぼれ出た。出てしまった。その時の自分がどんな表情をしていたのか。涙と鼻水、嫉妬と羨望、羞恥と恐怖が入り混じり、とても無垢とは呼べないだろう。
「もちろん好きよ。大好き。嫌ってなんかいない」
「でも、そっくりだって」
大嫌いなあの人に。そう、その花の唇で告げたばかりじゃないか。
おばかさんね、年上の美しい人は耳元で熱っぽく囁く。
「だからこそ証明できたわ。だからこそ可愛くて、憐れで、愛しくてならない」
――世界中で二番目に愛してる。
まじまじと香世子さんの白いかんばせを見上げる。その笑顔が演技なのか心からのものなのか、わからない。それほど完璧だった。
呪いだ。長い長い脚本を経て、ようよう気付く。これは呪いなのだと。呪いとは毒だ。遅効性の、死にはいたらない、けれど確実に心身を蝕む。嫌われ、憎まれ、軽蔑されているのに、いや、だからこそ愛されているなんて。
そして香世子さんは、毒の効能を正しく理解し、私が理解しているということも承知している。香世子さんと視線が絡む。彼女は私を嗤う。それはとても満ち足りた笑顔。あまりに甘くとろける白雪姫の毒。
でも、もう呪いだと、毒だと知ってしまった。それを知って黙っていられるほどのお人好しではない。気付いたなら、断ち切り、解放されることだって可能なはず――
控えめなベル音が雪降る石段の静寂を壊した。香世子さんはすっくと立ち上がり、マントの内側から携帯電話を取り出して迷い無く応答する。
「……もしもし。うん。そう、うん」
うん。
その響きに違和感を覚えた。彼女の声でそんなにも気安い音を聞くのは初めてだった。仕事先の相手ではない。親戚だろうか。それともごく親しい友人か。
うん、うん。ふふ、ふ。うん。それで? もう。いいけど。うん。わかってる。じゃあ。
相槌、うながし、挨拶。特に意味の無い言葉の連なりが、けれど胸をざわつかせた。
素知らぬ顔で通話を切り、携帯電話を仕舞う所作を眺める。その眼差しを、会話の途中に電話に出るというマナー違反への非難だと受け取ったのか、彼女は殊勝な謝罪を口にした。いや、きっとわかっていて、意味を取り違えてみせた。
「ごめんなさいね」
「別に、」
私は香世子さんの脚本に乗ってみせる。
そんなことで気を悪くするほど狭量ではない。ただ珍しく思っただけで。許すという行為は、立場にアドバンテージを与える。だから許すついでに誰から?と訊くつもりだった。だのに。
「もう行かなくちゃ。さようなら、美雪ちゃん。悪いけど、ここからは一人で帰ってちょうだい」
あまりにあっさりとした口調だった。片足ギプスの受験生を置き去りにすることを少しも悪いと思っていない。駆け引きも忘れて勢い込んで尋ねてしまう。
「どこ、行くの?」
「C空港よ」
香世子さんは続けて欧州のとある国名を挙げた。
「フライトまでもうあまり時間が無いわ。まあ、この雪じゃ飛ぶか怪しいけれど」
「……仕事?」
取材旅行だろうか。だが、彼女の次の台詞は私の想像を大きく裏切った。
「結婚するの」
ひらり、と。蝶が舞う仕草で左腕の白い指抜きからなお白い指先を覗かせた。小さな赤い火の玉のような光。私とこうかんこしたというアミュレス・アミュレットだと思っていたそれは薬指にはめられており、よくよく見るとデザインも違う。大人向けの落ち着いた意匠ではあるけれど、石の大きさは同じくらいで、瑞々しい果実を思わせる輝きだった。
「石榴石、私の誕生石よ。もうすぐこの世から〝初瀬香世子〟は消えていなくなるわ」
呆気にとられた。年上の美しい人は、いつだってシンデレラの魔法使いのように私を驚かせた。けれど同時に、深い納得も与えてくれていた。白い邸の書斎で、母が問うていた。なぜ、今だったのか、と。違う、今しかなかった。あれはそういう意味だったのだ。連鎖して繋がるものがいくつも浮かび上がってくる。
尋ねたいことはいくつもあった。しかし、本当に尋ねるべきことはたった一つ。震えそうな声音を押さえ付け、
「……もう帰ってこないの?」
「どうかしら。婚約者はあちらの企業に招聘されているから、その都合次第ね。場合によってはそれも良いでしょう。私の仕事には片をつけたし、車は棄てたし、家は親戚に任せたわ。置き土産よ。墓守やら介護要員としてアテにされていたみたいで、さんざん嫌味を言われたから、差し上げることにしたの」
「おかしい……そんなの、おかしい!」
香世子さんは母と同い年、四十三歳。いや、誕生石が石榴石ならば、私と同じく一月に誕生日を迎えたのか。そんな人が今更、婚約者だ、結婚だなんておかしい。ありえない。嗤ってしまう。嘲笑するつもりだった。いい年して恥知らず、うまくいきっこない、やめとけば。
だのに。
滂沱と流れる涙を止める術がなかった。
一番情けなく、口惜しかったのは、香世子さんとの別離や婚約者の存在に気付かなかったことではなく、彼女の誕生日を知らなかったこと、知ろうともしらなかったことだった。一月八日は、美雪ちゃんのお誕生日でしょう。何か欲しいものがある?――その台詞に何故、香世子さんの誕生日はいつ? 貴女は何が欲しい? そう返さなかったのか。目の前にぶら下げられた甘いお菓子に目が眩んでいた。そんな自分が、香世子さんに〝うん〟とてらいなく言わせる相手に敵うはずがない。仮に先ほどの通話が迫真の演技だとしても、何も言えるはずもなかった。
香世子さんが置き去りにするのは、私の恋心だった。
「目が溶けてしまうわ。いい子だから泣きやんでちょうだい」
ハンカチで拭われたそばから涙と鼻水が流れ出る。無様だとはわかっていたが、傍にいてくれるなら身体中の水分が干上がるまで泣いたって構わない。
雪は重く激しく降り注ぐ。天使の梯子はとっくに外されている。ただ陰気なばかりの灰と紫の冬の空。
身体は冷え、尻と脚は痛み、下半身は濡れ汚れている。恋しい人は私を大嫌いな〝彼女〟に似ているから愛しいとのたまう。
狂っている。
それでも。世界中で二人きり。この暴力的で甘美で矛盾だらけの世界に一分一秒一瞬でも長く浸っていたかった。
「はだは雪のように白く、ほっぺたは血のように赤く、髪の毛は、この窓わくの木のように黒い子どもが、うまれたらいいのだけれど……」
唐突に発せられた、詩でも諳んじるような口調に、面食らう。香世子さんは、くすり、と笑う。
「近い将来、美雪ちゃんも結婚して、王子様のような旦那様を迎えるのでしょうね」
ぼんやりとひとりごとのように紡がれた香世子さんの言葉に私は首を横に振った。私が欲しいのは王子ではない。
「白雪姫のように、きっとあなたにそっくりな可愛らしい子が生まれるでしょう。女の子が生まれたなら、贈り物を送るわ。世界中のどこにいても」
世界中のどこにいても、お前を見ている。業は、受け継がれる。お前を逃しはしない。十五の誕生日に紡錘に刺されて眠りにつくと予言された姫と同じく。
睦言めいたそれは、実のところ呪いだった。
この美しい人は喪った娘を証明する、ただそれだけのために、私を監視し続けると言う。これが狂気でなくてなんであろうか。
それでも構わなかった。貴女がいてくれるのなら、まだ見ぬ我が娘すら差し出そう。私も大概狂っていた。
「さあ、もう本当に行かなくちゃ」
咄嗟、汚れた手で白い裾を掴む。きかない子ね、と忌々しげに寄せられた眉根すら美しい。毒はどうしようもなく私の身体中に蔓延っていた。断ち切るならば、この身ごと切り刻まなけれな無理なのだ。断ち切るにはあまりに甘美過ぎるのだ。
なお裾を離そうとしない私に、小さな嘆息が落とされる。
「そうだわ、お菓子をあげましょう。美雪ちゃん、甘いもの好きでしょう?」
だから離して頂戴、言外に命じられる。彼女が差し出してきたのは黄色い包み紙のキャンディーだった。ハイヤーの運転手からもらった飴玉だ。こんなもので揺れ動くほど子どもではない。
「それとも、赤い方が良い?」
はたして私の心中を読んだのか。
喘ぐように香世子さんを見る。繊細な雪のヴェール越しに見る彼女は微苦笑を湛えていた。目の前にぶら下げられた甘いお菓子。我慢できるはずがない。
あか、と呟くやいなや。
乱暴に腕を引かれて、唇を重ねられた。半開きだった口の中に、かろんとした飴玉と熱く柔らかく湿った舌が入り込む。受け入れたと思ったらすぐに奪い返された飴玉を追いかければ、舌は絡み蠢き、自然と相手へと入り込み、熱に溶け出し、糖度を増す。なぞられ、なでられ、なぶられ、境が曖昧になる。接合は口だけのはずなのに全身がぐずぐずと崩れゆく感覚に襲われた。溶けるのは飴なのか、香世子さんなのか、私なのか――このキスが終わる頃、私も融け消えて無くなればいい。
唐突に突き飛ばされ、世界は終わった。
香世子さんは素早く身を離し、背を向けてさっさと石段を下り出す。
余韻も何もあったものでなかった。慌てて身を起こすが、濡れた下半身とギプスに包まれた左脚ではとても追いつかない。呼べど叫べど懇願すれど、彼女は振り返らなかった。
ようやく石段を下りきった時、香世子さんの姿はなく、エンジン音だけがかすかに響いていた。ハイヤーが停まっていたはずの角まで、左脚をかばい、重いスカートをまとわりつかせながら走る。
漆黒のハイヤーは角の少し先、すでに真白く埋まった稲田に挟まれた道路に停車していた。
「香世子さん!」
私の叫びに呼応したわけではないだろう。後部座席のドアがわずかに開き、黒い学生鞄がまるきりゴミを放るがごとく落とされた。そしてウィンカーが一度だけ瞬き、ハイヤーは滑らかに発進した。
あとには何も残らない。夢のように美しい雪が淡々と全てを塗り潰そうとしていた。
――いつもより遅くに帰宅した娘に何が起こったか、母はすぐには理解しなかった。あるいはしようとしなかった。
仕事帰りでスーパーの袋をぶら提げた母と自宅の敷地に入ったところで出くわした。
片足だけのサンダル、汚れた制服、泣き腫らした顔。もうとっくに帰宅しているはずの娘が、汚らしい身なりで、憔悴し、無言のまま戻ってきたなら、どんな親でも慌てるだろう。
どうしたの、なにがあったの、どこに行っていたの。顔を蒼白に染め、激しく肩を揺さぶられ、問い質された。そんな慌てふためく母を見るのは随分と久しぶりだったが、特別な感慨は生まれなかった。
玄関を抜けて着替えを取りに二階へ上がろうとする私の腕を掴んだ母に、肩越しに告げる。神社へ合格祈願、と。
母が息を呑んだのが伝わってきた。
……大丈夫なの。抑揚なく尋ねる母に頷く。蒼白を通り越しどす黒い顔色となった母はそれ以上問うてこなかった。私も話す気にはなれなかった。あのひとときは間違いなく、私と香世子さんだけのものだったから。
ゆるりと腕が放され、私はシャワーを浴び、母は夕食の仕度にかかり、父が帰宅して食卓を囲み、通常のルーチンに戻る。戻さねばならなかった。
N西女の一般入試は、二週間後に迫っていた。
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