白雪姫の接吻

坂水

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〈二幕 美雪〉第8話 夜回

8-1

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 森の奥深くでは宴会が開かれていて、赤々と燃える炎を囲み、二人は上等なぶどう酒とソーセージとケーキをごちそうになりました。女の子はこんなに楽しいことは生まれて初めてでした。 
 けれども、それは恐ろしい魔女の集会でした。ブドウ酒には獣の血が、ソーセージには森で行き倒れた旅人の肉が、そしてケーキには幼い子どもの骨粉が混ぜてありました。忘れ姫は実は魔女の子だったのです。
 宴会が終わると、忘れ姫は、女の子を出会った木のうろまで送ってくれました。二人はまた一緒にあそびましょうと約束し、お別れしました。
 女の子はしばらく森の中を迷いましたが、そのうちにお父さんが探しにきてくれたので、無事に帰ることができました。



 剥きたてのゆで玉子に似た質感のソルトケースは、どこをどう見ても毒薬には見えない。 
 高台の白い邸を辞去して自宅に戻り、真っ直ぐに二階の自室へと上がり、勉強机の上に置いた小瓶を見つめている。ふと家出の最中だったことを思い出すが、そんなことはもう些事にすぎない。そもそも明かりは点いていたものの鍵は閉っており、母はどこかへ出掛けているようだった。父は昨日から出張で、明日の夜まで帰ってこない。
 蓋を押し上げて、中身をほんのわずか手の平にふりこぼす。それはさらさら、きらきらした白い粒で、風邪を引いた時に病院でもらう薬に似ていた。匂いはまったくない。味は……味見するわけにもいかず、近づけた舌を慌てて引っ込る。手の平に残った粉をゴミ箱に入れ、ウェットティッシュで手を拭き、さらに洗面所で石鹸を泡立て念入りに洗う。
 毒薬なんて、全く馬鹿げていた。けれど、香世子さんからの十五歳のバースデープレゼントだ。無下に扱えるわけがない。何より、あの唇に逆らえはしない。
 ……逆らう? 自分で思っておきながら、ひどく奇妙な発想だった。
 一体、誰に。一体、なぜに。一体、どうやって。
 N西女。幼馴染。大日向有加。宝物。指輪。こうかんこ。母。キス。ソルトケース。
 歪な何かを感じながらも、私はそれを直視できない。そんな気力も余裕も意思もない。
 彼女は絶対に大丈夫と請け負った。きっと勝てる。何もかも上手くいく。だから、頑張ってね、と。
 ……でも、私は一体何を頑張れば良いのだろうか。

 その後、八時少し前になってようやく母は帰ってきた。どこへ出掛けていたかは言わず、こちらからも特に尋ねなかった。化粧をした顔ときっちりとした服装から母屋ではないことはうかがえたが。
 いつもより一時間以上遅い夕食となり、空腹であるはずなのに箸は進まず、私は大半を残してしまった。


 翌朝のコンディションはお世辞にも絶好調とは言いがたかった。勉強は捗らず、眠りは浅く、頭は痛い。食欲は無かったが、空腹でテストに臨むのは自殺行為だ。私は食卓に用意されていたホットミルクに山盛りの砂糖を三杯入れて飲み干した。
 行ってきますと口の中で呟き、のろのろと玄関を出る。
 鞄はずっしりと重く、一歩踏み出すごとによろけてしまいそうだった。今日は授業もなく、テストも二科目だけで普段よりずっと中身は軽いはずなのに。気分は身体を支配するものなのだろう。おなかに石を詰められた狼の足取りで、我ながら滑稽だった。
 心持ちとは裏腹に空は青く、薄いオーガンジーを透かしたような雲がたなびいている。いつもの習慣で銀色の郵便受けを覗くと、白い封書が入っていた。茉莉からの手紙だ。
 取り出して開封しようとして……違和感に気付く。それは幼馴染が送ってくる封筒とは微妙に手触りや形状が違っていた。両面を確認するが、そのどちらにも差出人も宛先も書いていない。切手も貼っていない。ならば、誰かが直接ポスティングしたということになる。
 妙な胸騒ぎに襲われ、その場で開封しようとして元々封が糊付けされていないことに気付く。封筒の重みが、常とは中身が違うことを訴える。開けた封筒の口が噛み付くのではないかと思うほどに恐々と指先を差し込めば、便箋よりも厚い感触――写真だった。
 
 取り出した一葉には、センサーライトに照らし出され、物語の一幕のように――どちらがヒロインかは不明だが――キスを交わす私と香世子さんの上半身が写し出されていた。


 誰が、どうやって、何のために。
 テスト前の独特の喧噪の中、私は一人席につき、机の上に置いた単語帳をめくりもせずに考えていた。
 最も疑わしいのは茉莉だ。私に会いに来た幼馴染が偶然あのシーンに出くわし、撮影した。その足でデータをコンビニやショッピングセンターの写真屋に持ち込みプリントアウト。いつものレターセットを持っていなかったため、出先で急遽調達した封筒を使用した。おそらくは、嫉妬のため。幼馴染である私が、茉莉以外に心を傾けたから……?
 一応の説明はつくけれど、納得し難い点も多い。
 なぜ封が開いていたのか。なぜ宛先が書いてなかったのか。二人の間の不文律が破られているのが解せなかった。
 私たちの母親は同級生であり、子ども時代からの友人だという。香世子さんのように一時的に引っ越してきたのではなく、生まれも育ちもこの市(当時は町だったというが)だ。そんな母親に抱く悩みは共通しており、二人して彼女らの過干渉にはうんざりしていた。だからいくら出先だといって、嫉妬していたからといって、宛先を書かずましてや封を開けたまま自宅のポストに投函するとは考えにくい。
 あるいは、告発のつもりなのか。けれどそれはあまりに危ない橋だ。朽ちた吊り橋を茉莉が渡ろうというなら、きっと私も対岸から足を踏み出す。結果、重みに耐え切れずに橋は落ち、二人して谷底に呑まれてしまうだろう。最も愚かしい選択だ。そういったこちらの思考を茉莉が読み違えるとは思えない。それぐらいには茉莉を信用している。

 では、茉莉以外の誰かなのか。思い当たる人物はいる――夕陽に透ける明るい薄い茶髪。大日向有加だ。もしかしたら彼女は香世子さんをストーキングしていたのかもしれない。だとすれば、香世子さんを待ち続けていた私の姿もどこかで見ていた……? 

 ぞっとして総毛立った次の瞬間、唐突に身体に衝撃が走った。

 何事かと椅子からずり落ちそうになった身体を上げれば、一人の男子がノートを振り回して猿じみてはしゃぎ回っていた。それを情けない声を上げた小柄な男子が追いかけていく。大方、今はまだやんちゃというくくりで済まされている男子が、気弱な級友の私物を取り上げ、そのついでに私の椅子の背にぶつかったのだろう。受験直前のテストを控えた教室の雰囲気を物ともしない行動は、ある意味、賞賛に値する。いじめの加害者に対する風当たりが強い昨今において、考えなしの馬鹿さ加減も。同時に吐き気がするほどの嫌悪を覚えるけれど。
 吐き気。本当に何かがこみ上げてくるような気がして、私はトイレへと向かった。
 こういう時、一人は便利だ。女子同士でつるんでいれば、いちいち断りを入れなくてはならない。気分が悪くなれば、〝大丈夫?〟〝ついてったげる〟〝保健室行く?〟などなどの気遣いという名の儀式も必要となる。

 テスト前のためか、いつもはポーチを持った女子で混雑している洗面所も閑散としており、寒々としていた。個室に入り一二度えずいたものの、何も出てこない。そのうちに吐き気よりも悪寒が勝り、早々に出てしまう。形ばかりに手を洗い、私は教室へ戻った。

 引き戸を開け、廊下と教室の境界で、けれど私は立ちすくんだ。教室の中央列の最後尾。その空いているはずの自席には誰かが座っていた。クラスの女子で、特に仲が良いわけでも、悪いわけでもない。理科の実験や体育のグループ分けで一緒になったなら、協力し合うというほどの。前の席の子と話していて、盛り上がってしまったために、ついつい座ったというところだろう。前の席の女子は、秋までは同じ女子グループでよくおしゃべりする仲だったが、十二月に入ってから必要最低限以外は口をきいていない相手だった。
 引き戸近くの席の男子が迷惑そうにこちらを見上げる視線に気付く。開け放ったままの戸から廊下の冷気が入り込んでおり、私は乱暴なぐらいに勢いよく戸を閉めた。その勢いのまま、やや前のめりになってつかつかと自席まで戻る。
「あ、ごめん。ちょっと借りてるー」
 私の席に座った女子は、こちらに気付いて軽い口調で言ってくる。なんの含みも嫌味も悪気もない。その無神経さが癇にさわった。
「テスト前だから、どいて」
 気分の悪さも手伝い愛想も愛嬌も素っ気もなく返せば、談笑していた二人は黙り込んだ。それでも私の席に座っていた女子は立ち上がり、前の席の女子もつられたように席を離れる。
 空いた自席へと戻り、私は急ぎ机の中に手を差し込んだ。テスト前のため、教科書やノートは入っていない。指は二三度、空を掻いてから、硬い紙の感触を捉えた。机からわずかに顔をのぞかせるように引っ張り出し、封筒とその中身を確かめる。トイレに行く前に机に隠すように眺めていて、他の誰かが座るとは思わず、そのままにして席を立ってしまったのだ。
 素早く引き出した封筒を、鞄に仕舞い込む。ついでに、鞄の中に入れていた陶製のソルトケースも確認する。隅に収まっていたそれを認めて、安堵の息を吐いた。
 喧噪の中、ふと視線を感じて顔を上げた。気付けば、前の席の女子と私の席に座っていた女子二人が窓際に立ち、一方がもう一方に耳打ちしていた。そうして顔を見合わせ、くすりと小さく嘲う。
 なにがおかしいというの――刹那、我を忘れて叫び出しそうになった。
 なんとか自制して止まり、もしやと考える。封筒の中身を見られたのか、あるいは……彼女らこそが送り主なのかと。
 いくらなんでも穿ち過ぎだと思う一方、もしかしたらとも思う。前の席の女子とは、かつては同じ女子グループに属していたけれど、志望校を変えたことから今はもうほとんど口もきいていない。鞄の中に入っていた『つぶつぶ小倉みそサンド』のビニル袋が脳裏を過ぎる。私を陥れようとする動機が全く無いわけではない。でもだとしたら、女子グループのメンバーは片手の指以上にいて、犯人はその誰でもありえてしまう。クラスメイトの八分の一以上が疑わしいなんて。
 誰が、どうやって、何のために。
 黙々と教科書を読む者、問題を出し合う子たち、余裕があるのか諦めたのか机に突っ伏して眠る背中。朝一番でまだ白く濁っていない黒板、碁盤目のような床、等間隔に並んだ机と椅子。それらは見慣れた、嫌になるほど馴染んだ、手垢じみた風景であるはずなのに。
 
 ……ここは、どこ?
 
 ざわめきが遠くなり、視界が黒く霞がかり、浮遊感に襲われる。確かに今自分は自席についているはずなのに、つぅっと席ごと教室から遙か遠く引き離された錯覚に陥った。
 
 ……私は、どこにいるの?
 
 もしかしたら誰かかもしれない。獣か、毒虫か、魔女か。
 もしかしたら潜んでいる。教室に、廊下に、図書室に。
 背後から覗き込まれている気配を感じて素早く振り返るが、そこには誰もいない。私は呆然としてしまう。
 右も左も、前も後もわからない。一体、いつの間に入り込んでしまったのだろう?
 光溢れる朝の教室で、私はたった一人迷い、身をすくめ、途方に暮れた。



 一時間目の英語は実力通りのできだった。解ける設問は解けるべくして、知らない英単語はわかるはずもなく。元々不得意な科目で、自分自身で結果が想像できる科目ではあった。問題は二時間目の国語だった。
 国語は得意科目で、いつもこの教科で英語や数学などの苦手科目の不足点をカバーしている。けれど、今回は出題された漢文で大きなミスをした。とある有名な故事についての問いだったかが、その意味を完全にはき違えていたのだ。
 テスト終了後、ざわめく教室で級友たちが今さっき受けたばかりのテストの答え合わせを始める。答え合わせと言っても正解を知っているわけではなく、各々が書いた回答を口々に言い合うだけなのだけれど。私はその輪に入っていかなかった。あやふやな憶測で、揺さぶられたくなかった。揺さぶられた自分が何をするか怖かった。
 だけれど教室という空間は牢獄で、受験生という身分は試験の奴隷で、聞かないという自由は得られない。漏れ聞こえる会話から、自分が国語の四分の一を失点したと知った。

 早足に図書室へ向かう。誰にも声を掛けられぬよう。心の内を見透かされないよう。鞄の中身を怪しまれぬよう。これではまるで、毒林檎を作りに誰も知らない秘密の部屋へ向かうお妃だ。そう思いながらも速まる足を止められない。
 訪れた図書室にはまだ誰もいなかった。いつもの一番端の席に座り、机の上に明日の科目の勉強道具を並べる。
 十分ほどして気配を感じた。この一週間で馴染んでしまった足音、椅子を引くタイミング、ペンケースのチャックの響き。
 私は顔を上げなかったし、大日向有加も声を掛けてこなかった。初めて図書室を訪れた日以来、彼女は馴れ馴れしく声を掛けてこない。廊下ですれ違っても、トイレで顔を合わせても、補習授業が一緒になっても、それがルールであるかのように。
 ほんの少しノートから視線を上げると、茶色い後頭部が見えた。こちらなどいないかのように、彼女はノートにシャープペンシルを走らせている。
 
 ――差出人はあんたなの。
 
 胸の裡と視線で問い掛ける。
 
 ――私を陥れたって香世子さんがなびいてくれるわけないのに。
 
 大日向有加は手を止めず、黙々と勉強を続けている。
 
 ――そんなにまでして、N西女の推薦を勝ち取りたいの。
 
 薄い背中が、細い首筋が、さらさらと揺れる髪が、振り向き答えるはずもない。代わりに図書室に響いたのはスピーカーから流れるチャイムだった。
 十二時二十五分。四時間目が終了したのだ。三年はテストが終われば帰宅となるが、他の学年は通常通りの時間割を過ごしている。授業から解放された生徒たちで学校は喧噪に包まれているはずだったが、別棟となっている図書室には静謐が満ちていた。大日向有加が持参したお弁当を広げる音が響くほどに。そして、椅子を引いて席を立つ様子が顔を上げずともわかってしまうほどに。
 大日向有加はポーチを手にして私のすぐ脇を通り過ぎ、図書室を出る。トイレに向かったのだろう。その際、彼女のポーチにぶら下がっていたブラウンのウサギのマスコットと目が合った。大日向有加はどちらかと言えばサブカル女子じみていて、ファンシーな小物は不似合いに感じられた。

 後には私一人だけが残される。他の誰もいない、静けき図書室。
 対角線上の席で、小さなお弁当箱が無防備に主の帰りを待っている。
 鞄の中では、香世子さんからもらったソルトケースが私の指先を待っている。
 これ以上ないぐらいの絶好の契機で、逆にうろたえた。
 冷静に考える必要があった。写真の差出人はわからない。ならば、誰であった時、最も悪い状況となるのか。
 茉莉であるならば、彼女は幼馴染だ、きっと関係を修復できる。仲違いしたクラスの女子ならば、卒業まであと数か月を凌げば良い。
 
 一番厄介なのは大日向有加だった場合だ。大日向有加は香世子さんのストーカーであり、恋情がいつ冷めるかわからない。そしてもし、もしも彼女がN西女の推薦を勝ち取ってしまったら。
 私はゆらり立ち上がった。この学年末テストで大日向有加に負けてしまったなら。

 ――大丈夫よ。美雪ちゃんは勝てるわ。私を信じてくれたら、絶対にね。

 香世子さんの言葉が天啓のように甦る。
 香世子さんの言葉は絶対だ。私はそれを一片も疑っていない。状況は、図ったようにお膳立てされていた。
 ああ、けれどもし、もしも大丈夫でなかったら。〝大丈夫〟という香世子さんの言葉を裏切り、大日向有加に負けてしまったなら。香世子さんはどれほど私に失望するだろう。

 ――貴女は絶対に大丈夫。何もかも上手くいくわ。私たちには絆があるもの。

 絆があるから大丈夫。大丈夫でなければ、『絆』は無かったと証明されてしまう……?

 ただでさえ私は『こうかんこ』を思い出せていない。でも、だからといって。
 鞄の中に手を差し入れ、ひんやりとした陶器の感触を確かめる。愛する息子と娘を森に捨てろと言われた父もこんな心地だったのだろうか。
 そもそも、と私は自問する。どうしてT高志望をやめたのか。どうしてN西女を志望したのか。どうして大日向有加に勝たなくてはならかったのか。
 ぐらぐらと沸騰して揺れていた頭が、ぴたり定まり、冷え、澄んでゆく。あの暮時の藍色の空のように。
 今、空は光をはらんだ鈍色、風は止んでおり、グラウンドには誰もいない。一枚絵のようなその瞬間。
 私は、淀みない動きで鞄からソルトケースを取り出し、音もなく対角線上の席へ歩み寄った。

 
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