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〈二幕 美雪〉第7話 毒薬
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……毒薬といっても、そんな大層なものではないわ。服用後二十四時間、集中力や思考力が低下するだけ。ええ、副作用はないし、服用の形跡も残らない。
どうやって入手したか? ふふ、仕事柄、業界の方と会う機会も多いのよ。K県からの帰りに、頼み込んでわけてもらったの。だからお金の心配なんて無用よ。第一これはプレゼントなんだから、安心して。
明日のテストは国語と英語、明後日が社会と数学と理科だったわね。
明日のテストでもし……ほんのちょっぴり、出来が悪いと感じたら、こっそり大日向さんのお弁当か飲み物に振りかければ良い。指先でほんの少しつまんで、大日向さんがよそ見した時にかけてしまえばわからない。薬の効果は丸一日。翌日のテストまで有効よ……
『毒薬』という現実感に乏しい響きのためだろうか。香世子のさんの説明は遠い遠い異国の昔話でも語るように、薄幕を隔てて私の耳に届いていた。
白い、陶製の、ソルトケース。
自宅のキッチンに並んでいたとしてもまったく違和感のない人畜無害な顔をしているというのに。
これが、毒薬?
大日向有加に飲ませる?
お妃が毒林檎を食べさせたのと同じに?
……私が、同級生に?
「そんな不安そうな顔をしないで。毒薬なんていうのは言葉のあや。ほんのり気持ち良くなってもらうためだけの栄養剤みたいなものよ」
再び、白い指先が頬に添えられ、漆黒の眼差しでとらえられる。覗き込まれてしまえば、私は身動きできなくなる。反射的に身を引く、その直前。
「N西女、受かりたいんでしょう。新森茉莉さんのためにも」
紅い唇から紡がれる言葉に、絡め取られる。
茉莉。心を閉ざしてしまった幼馴染。今は離れてしまった親友。白い手紙の送り主。
「実際にN西女を見に行って決めたんでしょう」
そう。何度かN西女に赴き、茉莉の新たな住まいからの経路を確かめ、この学校ならばと思った。
「大丈夫よ。美雪ちゃんは勝てるわ。私を信じてくれたら、絶対にね」
いつもと同じように、香世子さんは玄関まで私を送ってくれた。
時刻は午後六時半。白いソルトケースを入れて、何倍も重くなった心地がする通学鞄を片手に、私は玄関のドアノブに手をかける。
「美雪ちゃん、ちょっと待って。これも持っていってくれるかしら」
香世子さんは玄関に置いてあった紙袋を三つ四つ選び出してこちらに持たせてくれた。三回忌の残りのお菓子の詰め合わせだろう。
たたきに下りてつっかけを履き、両手が塞がってしまった私のためにドアを開けてくれる。そしてこちらを先導するように玄関を出て、門扉を開けるためにアプローチを辿った先まで来てくれた。
そのいつも通りの気遣いと、鞄の中に押し込めた存在のちぐはぐさに、夢でも見ている心地だった。十二月の夜風は冷やかだったが、私の煮立った頭を冷やすにはまだ足りない。ぼんやりと香世子さんの背を追う。
門扉に設置されたセンサーライトが反応し、細身のシルエットが浮かび上がった。ふいに、その背が振り返り、思い出したように訊いてくる。何気ないふうに。別れ際に。
「三回忌のことは、お母さんに聞いたの?」
「あ、うん。おかあ――母も、心配してたみたい」
「……そう。あの人が」
気付く。逆光になっていて、その表情までは確かめられない。けれどその呟きのトーンは、昨夜、藍色に染まっていた母が漏らしたものとひどく似通っていた。
「美雪ちゃん?」
立ち止まってしまった私を、香世子さんは呼ぶ。けれど気付いてしまった私は動けない。
二人とも無関心を装っている。けれど母と香世子さんの間には、良かれ、悪しかれ、何かある。
「どうしたの、美雪ちゃん」
熱いような、冷たいような、ナイフを突き立てられたような痛みが胸を抉る。それとも今度こそ、胸のたがが外れてしまったのだろうか。音もなく。
なんでもないと答え、開けてくれた門扉を足早に通ろうとした時、なんの冗談か、香世子さんは再び門扉を閉じてこちらを通せんぼした。何もこんな時にふざけなくても、とほとんど初めて彼女に対して苛立ちを覚える。あるいは、それは別種の感情だったのかもしれない。不満を露わにした視線を送るが、香世子さんはまったくひるむことなく微笑みを返してくる。
足を止めざるを得なかったその一瞬。香世子さんは素早く唇を重ねてきた。
冷たく、柔らかな、二度目のキス。
白く整った面は変わらずに微笑んでいた。センサーライトは、その対象が美しければ、女優を照らすスポットライトに成り代わる。混乱して煮立った頭に女優は囁いた。吐息を吹きかけるように、耳元に直接。
「今日は何度も口元を見ていたわね」
あまりに強烈な差し水だった。物欲しげに見つめていた紅い林檎めいた唇がさらに深く弧を描く。
瞬時にして頭は零下まで冷やされ、次の瞬間、再沸騰する。その大きすぎる温度差に、貧血にも似た気の遠くなる感覚に陥った。
私を突き落とし、しかし助けてくれたのも香世子さんだった。くずおれそうになる身体を、細腕一本を脇の下に回して抱き止める。この華奢な腕のどこにそんな力が蓄えられているのか、まったく不可解で、不相応で、理不尽だった。
恥ずかしさのあまり逃げ出したい。けれど彼女の腕も眼差しも唇までもが、それを許さない。私にはまだ舞台に上がる美しさもドレスも度胸もないというのに、香世子さんはこちらの手を甘く優しく強引に引いて、ライトが降り注ぐ舞台へと誘うのだ。
手に持っていた紙袋が門扉に当たり、ガサガサと無粋な音を立てる。黒い瞳に、紅い唇に、白い面に縫い止められて私は身動きがとれない。香世子さんは優雅に踊り続ける。
でもね、と、香世子さんは空いた手の人差し指で私の唇を押さえた。それは私も同じなの、と。
「そんな泣きそうな顔をしないで。貴女は絶対に大丈夫。何もかも上手くいくわ。……私たちには絆があるもの」
繰り返される呪文めいた言葉。
――だから、頑張ってね。美雪ちゃん。
囁きと共に、もう一度、唇が重ねられた。
どうやって入手したか? ふふ、仕事柄、業界の方と会う機会も多いのよ。K県からの帰りに、頼み込んでわけてもらったの。だからお金の心配なんて無用よ。第一これはプレゼントなんだから、安心して。
明日のテストは国語と英語、明後日が社会と数学と理科だったわね。
明日のテストでもし……ほんのちょっぴり、出来が悪いと感じたら、こっそり大日向さんのお弁当か飲み物に振りかければ良い。指先でほんの少しつまんで、大日向さんがよそ見した時にかけてしまえばわからない。薬の効果は丸一日。翌日のテストまで有効よ……
『毒薬』という現実感に乏しい響きのためだろうか。香世子のさんの説明は遠い遠い異国の昔話でも語るように、薄幕を隔てて私の耳に届いていた。
白い、陶製の、ソルトケース。
自宅のキッチンに並んでいたとしてもまったく違和感のない人畜無害な顔をしているというのに。
これが、毒薬?
大日向有加に飲ませる?
お妃が毒林檎を食べさせたのと同じに?
……私が、同級生に?
「そんな不安そうな顔をしないで。毒薬なんていうのは言葉のあや。ほんのり気持ち良くなってもらうためだけの栄養剤みたいなものよ」
再び、白い指先が頬に添えられ、漆黒の眼差しでとらえられる。覗き込まれてしまえば、私は身動きできなくなる。反射的に身を引く、その直前。
「N西女、受かりたいんでしょう。新森茉莉さんのためにも」
紅い唇から紡がれる言葉に、絡め取られる。
茉莉。心を閉ざしてしまった幼馴染。今は離れてしまった親友。白い手紙の送り主。
「実際にN西女を見に行って決めたんでしょう」
そう。何度かN西女に赴き、茉莉の新たな住まいからの経路を確かめ、この学校ならばと思った。
「大丈夫よ。美雪ちゃんは勝てるわ。私を信じてくれたら、絶対にね」
いつもと同じように、香世子さんは玄関まで私を送ってくれた。
時刻は午後六時半。白いソルトケースを入れて、何倍も重くなった心地がする通学鞄を片手に、私は玄関のドアノブに手をかける。
「美雪ちゃん、ちょっと待って。これも持っていってくれるかしら」
香世子さんは玄関に置いてあった紙袋を三つ四つ選び出してこちらに持たせてくれた。三回忌の残りのお菓子の詰め合わせだろう。
たたきに下りてつっかけを履き、両手が塞がってしまった私のためにドアを開けてくれる。そしてこちらを先導するように玄関を出て、門扉を開けるためにアプローチを辿った先まで来てくれた。
そのいつも通りの気遣いと、鞄の中に押し込めた存在のちぐはぐさに、夢でも見ている心地だった。十二月の夜風は冷やかだったが、私の煮立った頭を冷やすにはまだ足りない。ぼんやりと香世子さんの背を追う。
門扉に設置されたセンサーライトが反応し、細身のシルエットが浮かび上がった。ふいに、その背が振り返り、思い出したように訊いてくる。何気ないふうに。別れ際に。
「三回忌のことは、お母さんに聞いたの?」
「あ、うん。おかあ――母も、心配してたみたい」
「……そう。あの人が」
気付く。逆光になっていて、その表情までは確かめられない。けれどその呟きのトーンは、昨夜、藍色に染まっていた母が漏らしたものとひどく似通っていた。
「美雪ちゃん?」
立ち止まってしまった私を、香世子さんは呼ぶ。けれど気付いてしまった私は動けない。
二人とも無関心を装っている。けれど母と香世子さんの間には、良かれ、悪しかれ、何かある。
「どうしたの、美雪ちゃん」
熱いような、冷たいような、ナイフを突き立てられたような痛みが胸を抉る。それとも今度こそ、胸のたがが外れてしまったのだろうか。音もなく。
なんでもないと答え、開けてくれた門扉を足早に通ろうとした時、なんの冗談か、香世子さんは再び門扉を閉じてこちらを通せんぼした。何もこんな時にふざけなくても、とほとんど初めて彼女に対して苛立ちを覚える。あるいは、それは別種の感情だったのかもしれない。不満を露わにした視線を送るが、香世子さんはまったくひるむことなく微笑みを返してくる。
足を止めざるを得なかったその一瞬。香世子さんは素早く唇を重ねてきた。
冷たく、柔らかな、二度目のキス。
白く整った面は変わらずに微笑んでいた。センサーライトは、その対象が美しければ、女優を照らすスポットライトに成り代わる。混乱して煮立った頭に女優は囁いた。吐息を吹きかけるように、耳元に直接。
「今日は何度も口元を見ていたわね」
あまりに強烈な差し水だった。物欲しげに見つめていた紅い林檎めいた唇がさらに深く弧を描く。
瞬時にして頭は零下まで冷やされ、次の瞬間、再沸騰する。その大きすぎる温度差に、貧血にも似た気の遠くなる感覚に陥った。
私を突き落とし、しかし助けてくれたのも香世子さんだった。くずおれそうになる身体を、細腕一本を脇の下に回して抱き止める。この華奢な腕のどこにそんな力が蓄えられているのか、まったく不可解で、不相応で、理不尽だった。
恥ずかしさのあまり逃げ出したい。けれど彼女の腕も眼差しも唇までもが、それを許さない。私にはまだ舞台に上がる美しさもドレスも度胸もないというのに、香世子さんはこちらの手を甘く優しく強引に引いて、ライトが降り注ぐ舞台へと誘うのだ。
手に持っていた紙袋が門扉に当たり、ガサガサと無粋な音を立てる。黒い瞳に、紅い唇に、白い面に縫い止められて私は身動きがとれない。香世子さんは優雅に踊り続ける。
でもね、と、香世子さんは空いた手の人差し指で私の唇を押さえた。それは私も同じなの、と。
「そんな泣きそうな顔をしないで。貴女は絶対に大丈夫。何もかも上手くいくわ。……私たちには絆があるもの」
繰り返される呪文めいた言葉。
――だから、頑張ってね。美雪ちゃん。
囁きと共に、もう一度、唇が重ねられた。
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