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〈二幕 美雪〉第5話 再演
5-1
しおりを挟む昔々、あるところにお母さんを亡くし、おばあさんと暮らす女の子がいました。
女の子の髪が結えるほど長くなったある日、遠くの町で暮らしていたお父さんが女の子を迎えにきました。新しいお母さんがやってきたので、新しい家で一緒に暮らそうというのです。女の子はおばあさんを好いていましたが、泣く泣くお別れしました。
継母は綺麗な人でしたが、物静かで、なかなか仲良くなれません。お父さんは仕事で帰ってこないので、女の子は毎日ひとりで遊んでいました。
良く晴れた日、家の中で遊ぶのに飽きた女の子は散歩に出掛けることにしました。継母は、女の子に決して森に入ってはいけません、森には恐ろしい狼や魔女が棲んでいるから、と厳しく言い付けました。
新しい町を歩くのは初めてで、女の子は弾む心地で歩きます。継母が言っていたような怖いことなんてありません。女の子はずんずん進みました。
*
『白』には、孤独で寂しく物悲しいイメージがつきまとう。
幼馴染から受け取る手紙はいつも白かった。
本来なら感情が殴り書かれ幾重にも塗り重ねられるはずの便箋は、しかし何の色にも染まっていない。
清浄な白に、本当に何の感情も無かったのか、それとも別の思いが込められていたのか、私は問うべきだったのだろう。
けれど透明な水にインクを垂らしたが最後、瞬く間に黒く汚染されてしまうのではないかと、恐れていた。
きけない、わからない、ふれられない。
それは、白い邸に住む年上の女性にも同様に抱いていた疑心だった。
坂を上がり、木立を抜けたその先に建つ高台の白い邸には、美しい人が住んでいた。
訪れるたびに、甘くとろける、上等なお菓子を振る舞ってくれるその人。
胸の鼓動が速く打ち付けるのは、お菓子への期待か、坂を駆ける息切れか、それとも。その時の私は、湧き上がる感情にまだ名前を付けていなかった。
「香世子さん、」
真っ白な吐息と共に吐き出した声は、少しばかり震えていたかもしれない。十二月初旬。例年よりも冷え込みが厳しく、年内中に積雪があるだろうと天気予報士が言っていた。ちらり見上げた空は、なるほど重たげな鈍色をしている。
駐車場に停められた、空の色とは対照的な赤いフォルクスワーゲンからほっそりとした人影が出てくる。そう身長が高いわけでもないのに、すらりとした印象があるのは、華奢なヒールのブーツと細身の灰色コートのおかげだろうか。白いモヘアのスヌードとつやつやの黒髪がその人の顔を一層小さく見せていた。
彼女と並べば、田舎の公立中学のセーラー服の自分がいかに野暮ったいか思い知らされる。それでも私はご主人様を待ち続けていた犬のように駆け寄った。
「今日は、美雪ちゃん。寒いわね」
香世子さんは、いくつも年下の私に、こうして挨拶をしてくれる。だから私も遅まきながらこんにちは、と返す。
「仕事の帰り?」
「そう。雑誌の打ち合わせよ」
香世子さんは車の後部座席にまわり、置いてあったいくつかの荷物を取り出した。一番大きくてずっしりと重たげな革鞄(エディターズバッグと言うらしい)を自分の肩に掛け、他の小さくて軽い紙袋をこちらに寄越してくる。
「悪いけど、玄関まで運んでくれるかしら?」
熱いお茶をごちそうするから、とチャーミングに微笑んだ。
こういう時、香世子さんは本当に気遣いの人だと思う。私は一も二もなく頷き、香世子さんの後に続いて、高台の白い邸へとつながるアプローチに足を踏み入れた。
初瀬香世子。香世子さんは、隣家で一人暮らしをしているご近所さんだった。隣りと言っても、この辺りは土地だけはむやみにあり、自宅と香世子さん宅は数百メートルほど離れている。その間に他の家が無いから、まあ、隣りは隣りだろう。自宅の前の道路が緩やかな坂になっており、その上がった先の高台に香世子さんの洒落た外観の白い邸が建っていた。
私が幼稚園の頃に引っ越してきたというが、元々はこちらが実家で、戻ってきた、というほうが正しいのかもしれない。母とは同級生で、短い期間だけれどクラスメイトだったこともあるという。
母と同級生。同い年。つまり、彼女は四十代前半のはずだけれど、きちんとティーポットで、もちろんティーカップは温めて紅茶を淹れているその人はとてもそんな年に見えない。せいぜい三十代前半、二十代だと言われても信じてしまうだろう。独身でフリーライターという職業を差し引いても、驚くべき若さと美貌だった。
「お砂糖は三つだったわね。熱いから気をつけて」
ようよう暖房が効いてきたリビングで、シックな色合いのソファに身を埋めていた私にかぐわしい匂いが届く。焼き菓子を添えて、ティーカップをテーブルに置くその指先には派手すぎないマニキュアが丁寧に塗ってあった。
「寒かったでしょう。でも、受験生なんだから気をつけてね」
香世子さんはローテーブルを挟んだ向かいに腰掛け、上品に苦笑する。全部お見通しなんだ、と私はお手上げの気分で、柔らかすぎないソファに背を預けた。
親でもなく、教師でもなく、同級生でもない。けれど今、私が最も信頼している人間。それが香世子さんだった。とは言っても昔から親しくしていたわけではない。香世子さんと話すようになったのはこの一年ぐらいのこと。
去年のちょうど今頃、N市に全国模試を受けに行った帰り、私は地元の駅に着いてから、駐輪所に停めておいた自転車の鍵を試験会場に忘れてきたことに気付いた。家まで歩けば四十分以上かかる。私は携帯電話を持っていない。迎えを頼もうと、比喩でもなんでもなく蜘蛛の巣が張っていた公衆電話から自宅や同じ敷地内の祖父母が住む母屋に電話をかけたが、外出しているのか誰も出ない。両親の携帯番号を控えた手帳は通学鞄に入れており、今日は別のバッグで来たので、連絡しようがない。空はもったりと黒く重たげ、今にも泣き出しそうで、北風はますます勢いを強めて。
「どうしたの、美雪ちゃん?」
ワンマン電車が行ってしまい、無人駅となった改札のベンチで途方に暮れていた私に、ごく自然な、古くからの知り合いのような声が掛けられた。
さびれた駅とその背景に広がる冬の田畑とは不似合いなトレンチコートをひるがえす女性。
知ってはいた。あの高台の白い邸の住人だと。ごく近所ではあるけれど、どこか近寄りがたいあの邸。彼女自身は回覧板を持ってきたことがあったかもしれない。でも、そういったやりとりは母や祖父母がしていたから、自分とは関係がなかった。世間話どころか、挨拶だってろくに交わしたことがない。存在しているというだけで、なんの接点も無かった人。そういう意味では、テレビの向こうの芸能人と同じだった。
その美しい人が、こちらの肩に手を置き、心配そうに顔を覗き込み、挙句「パーキングに車を停めてあるから、送ってあげるわ」と申し出るなんて(路駐のスペースが十二分にあるこの市で、わざわざパーキングを使用していることも驚きだった)。
突然のことに私は遠慮したが、香世子さんは、いいのよ、と微笑んだ。私とあなたのお母さんは親友だったんだから、と。
親友。その時、初めて母と香世子さんが同級生だと知った。惚けた私を香世子さんはあれよとあれよと真っ赤なフォルクスワーゲンに押し込み、今日のように高台の家に招いてお茶とお菓子を振る舞ってくれたのだった。
それから香世子さんとは急速に親しくなっていった。友人、異性、進路。中学三年ともなると悩みも多く、私は相談相手に飢えていた。香世子さんは、悩みには的確な助言をし、愚痴には共感を示し、勉強にはコツを教えてくれた。彼女は間違いなく、私にとってプラスの存在だ。にも関わらず、香世子さんと会うのに、面白くない顔をする人物がいる。
母だ。曰く、仕事をしている大人の元に中学生が押しかけるなんて、迷惑以外のなにものでもない、と。
その言い分はわからなくもないが、今の私には香世子さんが必要なのだ。親でもなく、教師でもなく、同級生でもない。なんのつながりがないからこそ、嘘がない関係が。
同時に、つながりが無いということは、会える機会もまれということ。だから私は、帰宅してもすぐにはうちに入らず、敷地内に身を潜め(田舎なので敷地は広い)、赤いフォルクスワーゲンが稲田に挟まれた道を切り裂くように走ってくるのを待つ。偶然、同じ時間に帰ってきたふうを演出するために。
わざわざ会いに行くのは駄目でも、偶然会って、挨拶を交わし、荷物持ちをして、お礼にお茶を振る舞われるのはしようがない。不可抗力だ。もっとも、数百メートルも離れた高台の邸までわざわざ出向くことについては、言い訳ができないけれど。
私と香世子さんは視線を合わせて共犯者の笑みを漏らした。
「それで、第一志望は決めたの?」
「やっぱりN西女にしようと思う」
そう、と香世子さんは自分のティーカップにお茶を注いだ。
N西女はN市の私立女子高校だ。今から一か月前の十一月上旬、それまで第一希望にしていた県立T高校への進学に、私は今更ながら迷っていた。T高校は地元の歴史ある学校で、上の下の私の成績にも見合っている。公立で、自転車で通えて、進学率もそこそこ、おまけに制服は中学のセーラー服のリボンを変えるだけ済むというなんとも身の丈に合った学校だ。同級生の進学率も高く、おそらく我が中学で最も志望者の多い高校だろう。決して悪くはない。けれど、親も、教師も、同級生も、当然であり、正しい選択だという顔をしていて、一片の疑いも持っていないのが唐突に不気味に感じられた。
本当にT高校で良いのか、身近な人達に尋ねても意味はない。何が不満なの。いいじゃないT校。そんなわかりきった答えが返ってくるだけ。私の知り合いといえば、狭い枠組みの中で、わかりやすく配置された人達ばかり。親も、教師も、同級生も、目には見えない線に沿った立ち位置が決まっていて、配役からはみ出ないよう、はみ出させないように振る舞っている。それに反発するほど子どもではない。処世術、という生き方のテクニックだと理解している。悪いことではない、と思うけれど……
けれど香世子さんは違った。彼女に決められた配置などない。イレギュラーで、軽やかで、不思議な存在。寒々とした無人駅に舞い降りた印象そのままに。
彼女は親身に進路相談に乗ってくれて、インターネットや仕事のつてでN西女を含めたいくつかの高校の情報を集め、一緒に検討してくれた。
「お友達のほうは、大丈夫?」
香世子さんは紅茶をティースプーンで掻き混ぜながら、なんの気なしに問うてくる。けれどそれは、砂糖三個を落とした紅茶よりも甘い一言だった。心はあっさりと溶け崩れてしまう。
私は纏わり付いていた迷いを振り払い、制服のポケットから一通の手紙を取り出した。
白い邸を訪れる前、自宅の郵便受けから回収したものだ。ごくオーソドックスな白の封筒。宛先は私であり、封は私の手によってすでに開けられていた。無言のまま差し出せば、香世子さんもまた黙ったまま受け取り、中から白い便箋を取り出して、視線を落とす。そんな仕草さえ、古い映画の女優じみて絵になった。
手紙の差出人は新森茉莉。同じ時期、同じ産院で過ごした生後一週間からの幼馴染だった。個人宛の手紙を第三者に読ませるというのはマナー違反なのかもしれない。けれど、おそらく、この手紙に関しては怒られようがない。なぜなら。
「……また、真っ白なのね」
彼女の言葉に頷く。幼馴染からの手紙はまったくの白紙だった。
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