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〈一幕 直美〉第4話 白日
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しおりを挟む――いつもより遅くに帰宅した娘に何が起こったか、継母はすぐに理解した。
彼女は警察には訴えず、娘の身体と精神と将来を慮って全てを忘れなさいと言い聞かせ、電光石火の素早さで様々な手配をした。
おかげで、というべきか他の誰にも――父親にすら――この一件は知られていない。継母は、血の繋がらない母娘の不仲を理由に、自身を悪者に仕立て上げてでも、娘を逃がした。
それが正しい判断だったのかどうかはわからない。だけども、私は自分で自分を殺さずに済んだ。もしかすると、どこか陰があったふうな継母は、私と同じ『被害者』だったのかもしれない――
香世子は滔滔と話していた。
私は、膝の間に顔を埋めて泣いていた。涙がとめどなしに流れた。
「あの日、私はあなたを待っていた。それが私とあなたの暗黙のルールだったから。でもだからこそ、待ち続けてさえいれば、あなたが迎えに来るのだと信じていた。だけど、やってきたのは狼で、私は置き去りにされたままだった」
苦笑の気配。けれど香世子が本当にどんな表情をしているか、怖くて確かめられない。
しばらくの沈黙の後、香世子は問うた。
「……全部、あなたの差し金なの? あんな目に遭わせなきゃならないほど、私は嫌われていた?」
「違う! 私のせいじゃない、私は何にもしていない、ただ――」
込み上げるものに突き動かされ、私は顔を上げる。目の前にあるのは私を見据える兎の眼。それは黒々と平坦で、一筋の光も射していない。私はようやく知る――これは純真無垢な眼差しなどではなかった。一切の感情を断ち切った眼……。
嫌ってなどいない、ただ二人きりになりたかっただけ。だけど怖くなって逃げ出した。
夢だと思い込もうとした。夢であれば良い。夢だったに違いない。
香世子がこの町から姿を消して事件を隠蔽したことにより、私にとっても現実だったのか夢だったのか、曖昧になった。曖昧な記憶は時の流れの中、転がり削られ丸まって、ほぼ完全に『夢』として落ち着いた。
そして二十年ぶりに届いた年賀状。白いカードには何の含むところも感じられなかったけれど、全くあの『悪夢』を思い出さなかったわけじゃない。私は迷いに迷い、慎重を期して返信を出さなかった。すぐ近くに香世子がいる――その事実にくらみそうになりながらも、なんとか自制した。
だけど。いや、だからこそ。私は偶然という運命を期待して、どこへ行っても彼女の姿を探していた。ショッピングセンターでの偶然の再会は、理性への都合の良い言い訳になった。
不安は残っていたが、私は彼女との甘い時間に酔いしれた。同時に、笑いかける香世子を実感すればするほど、あれはやっぱり『夢』だったのだ、『夢』にして良いのだと安堵した。でなければ、貴女、私に微笑むはずがないでしょう? そんなとろけるような笑顔で。いじめていた事実すらきっと夢。〝私達、友達じゃない〟――そう。友達である私が貴女を見捨てるはずがない。そんなことを認めてしまえば……お互いに都合が悪くなってしまうでしょう?
「あなたは私を迫害していたわ。それはこの身が忘れない」
恨みや湿っぽさが込められた台詞ではない。だからこその真実味。私の懺悔とも言い訳とも懐柔ともつかぬ言葉は、易々と切り捨てられる。香世子は静かに私を見つめ、感情のない声音で続けた。
「この一カ月、私が茶番を演じていたのは、あなたを観察したかったから」
「……観察?」
「あなたがどんな大人になったか、確かめたかったの」
香世子は、ねえ、知ってる? と小首を傾げる。合わせて黒髪がさらりと揺れた。
「白雪姫のお妃様は死ななくてはいけないのよ」
伏し目がちに、紅茶にソルトケースの粉末を入れ、ティースプーンで掻き混ぜながら、
「多くの子ども向けの絵本では、ラスト――焼けた鉄の靴を履かされたお妃が死ぬまで踊らされる――が割愛されているわ。あるいは、お妃は改心して皆で仲良く暮らしましたとさ、というふうに書き換えられている。だけど、ある臨床心理士曰く、悪いお妃がきちんと死なないことには、子どもの心に不安が残ってしまうそうよ」
こくり、と紅茶を一口。そして眩しそうに窓の外を眺め、
「私もそう思うわ。いくらこの町が変わっても、私が大人になっても、やっぱり不安だった。ちっとも安心できなかった」
――あなたが、この町にいるから。
平坦な瞳に、波紋が揺れた。
「私は毎日あなたを観察していたわ。あなたの家を覗いて、ショッピングセンターで待ち伏せして、あなたの家の周りを歩いていたこともある。……でも、正直、拍子抜けしたわ。私が見た貴女は呆れるほどに母親だった。毎日送り迎えをして、お弁当を作って、寝しなに絵本を読んであげる、美雪ちゃんの優しいママ」
ティーカップとソーサーを持つ手が震え、カタカタと音を立てる。
「私がこうありたいと思った母親像、そのものだった」
そして、震えているのは、声もまた同様。
「いじめられたことも、かめこと呼ばれていたことも、置き去りにされたことも、全部を忘れたっていい。いいえ、実際、忘れるべきなんでしょうね。だってあなたはもう、いじめっ子ではなく、美雪ちゃんの優しいママなんですもの。今やそれがあなたの配役、スタンダード。あなたにいじめられたと、あなたに人生を狂わされたと喚いても誰も信じやしないの。この町の全てが私に優しくなったように」
まくし立てているわけではない。どちらかと言えば、淡々としている。けれど明らかに香世子は興奮していた。それは彼女の目を見れば明白だった。
「でも、それならそれでいいの。なんなら継母を虐待? その虚構を受け入れたって構わない。だけどその代わり――」
唇だけを避け、すべての赤味を絞り出した蒼白の面で、香世子は吐き出すように言う。
……お願い。香純を返して。
香世子は娘の死があまり悲しくなかったと言った。死を願っていたと。安堵したと。でもそんなのは建前に過ぎなかった。それとも、あまりのショックに心が麻痺していたのか。あるいは、絶望を回避するために『悲しくなかった』という予防線を張っていたのか。
私が犯した罪は、彼女を深く傷つけ、人生を狂わせたかもしれない。だけど、香世子の娘の事故とは直接関係がない。その件に関しては、いくら私を恨んでも、憎んでも、復讐しても、それこそ筋違いというもの。理知的な彼女に全く相応しくない発言だった。それほどに娘を愛し、後悔していた。ならばこそ、加害者である私は許しを乞うためにその願いを利用すべきだった。彼女の無茶ぶりを叶えるべきだった。せめて、どうすれば良いか土下座でもなんでもして彼女から聞き出すべきだった。
だけれど、そう言った香世子は、二十年前も、再会してからも、はじめて見る泣き出す子どもの表情をしていたから。思わず答えてしまう。
――そんなこと、できない。
それは目の前でクラッカーを鳴らされた驚きの顔。香世子は目を見開き、口を半開きにして――思い切り歪めた。くしゃりと。癇癪を起こした美雪そっくりに。そして、手を振り上げ……私を叩いた。叩いて、叩いて、叩き続けた。
「……ごめんなさい」
ただただ、泣きながら頭を垂れるしかなかった。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。
私は小賢しい子どもだった。だから友達同士の喧嘩で手を上げたり、上げられたりしたことはない。ましてや香世子に感情のままにぶつかられるなんて。顔だけを手で覆い、あとは一切抵抗しない。他にできることはない。
悲痛な叫びが降ってくる。降り降り積もる、溶けない雪。
――今更、謝るぐらいならどうしてあんなことしたの。私が何をしたっていうの。私の何がおかしかったというの。おかしいのはあんたたちじゃない。猿山の猿のくせして。あんたがいなければ私は幸せでいられた。香純に優しくしてあげられた。香純を返して。香純を返しなさい。できないなら死んで。死になさい。死んでおわびしなさいよ! ……
押し沈めていた二十余年。癒すことも、慰められることもなかった傷。忘れることだけが唯一の対処方法だった。でもだからこそ、傷は完治しなかった。けれど、香世子はこの町に戻って来ざるを得なくなった。私や美雪の存在は無意識のうちに生乾きの傷を膿ませた。そして『親友』との再会に浮かれた私はさらに彼女の傷をえぐった……
被害者たる香世子は過去にさいなまれ、母になりきれなかった。
加害者たる私は何事もなかったフリをして、美雪の母となった。
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
許さない。許さない。許さない。許さない。
握りこぶしの一つ一つは大して力強くない。子どものような手。身を縮め、叩かれながら思う。継母といる時、香世子もこうしてひたすら耐えているのだろうか――、と。
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