白雪姫の接吻

坂水

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〈幕間 香世子〉

3-5

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 二十年ぶりに戻ったその町は、しかし森ではなくなっていた。胸に去来したのは郷愁ではなく、奇妙な違和感。私は少なからずの衝撃を受けた。
 
 田んぼの脇を流れる用水路から漂ってくる、濁った水の匂いは変わらない。閑散とした風景も、遥か彼方の山並も。だが、広さの感覚が驚くほど変化していた。子どもの頃はあれほど広大に思えた町も、車ならばほんの数分で横断できる。カーナビなどに頼らずとも真っ直ぐ走れば、国道に突き当たる。日用品の買出し、外食、映画、銀行、果ては美容院、マッサージ、全ての用事を済ませられる大型ショッピングセンターまで出来ていた。
 どこへでも行ける、どこにいても良い、どこも怖くない。あんなに恐ろしく、暗く、果てが無かった〈森〉は、今や地方の開けた暮らしやすい一市町村に過ぎなかった。
 
 もちろん、わかっていた。町が変わった、それは一側面の真実ではあろう。だが一番の原因は自身が変化したから。大人になったから。そう頭で理解していても、そこはかとない理不尽さを拭い切れなかった。
 
 実家に戻ってしばらく、私は冬眠中の動物よろしく家の中で過ごした。それこそ亀のようにじっと。家事をこなし、原稿を書き、時折、カーテンの隙間から高台の下の家並を眺める。柔らかな陽射しが照る小春日和の中、広い敷地を有する古い農家の純和風邸宅が見下ろせた。そこにも変化は訪れていた。同じ敷地の中、かつては庭だった場所に玩具めいた赤い屋根の小さな家がちょこんと置かれている。そのあまりの鮮やかさに、私は目をすがめた。
 だが、いい大人が何日も家に閉じこもっていられない。必要に迫られ、今度はリハビリ患者よろしく、おっかなびっくり外に出始めた。実際に外出してしまえば、怯えることなど何一つない。風は穏やかで、空は澄んで、気候は快い。多少、私の毛色は目立っていたかもしれないが、誰かとすれ違っても、くすくす笑われることはなかった。役場で嘘を教えられることも、駅で待ちぼうけになることも、ない。人々は、私に無関心で、かつ優しかった。


 新森弥生と再会したのはそんな折だった。役員である母親に代わって自治会費を集めにやってきた彼女と顔を会わせた瞬間、息が止まった。
 弥生は〈彼女〉の取り巻きの一人だった。もっとも〈彼女〉自身はいじめっ子達から私を護る『正義の味方』を演じており、弥生はそれに敵対する役どころを演じていたので、一見しただけではその繋がりはわからなかったが。私自身、随分後になって知った関係性である。どちらにせよ、弥生は、私を迫害する先鋒の一人だった。
 二十年の時を超えても、身に染み込んだ恐怖は消えない。咄嗟、どんな表情を、言葉を、声を返せば良いのかわからない。目には見えぬ蔓草が音も無くはびこり、私を動けなくする。過去の記憶は、社会人生活で培ったコミュニケーション能力など一息で吹き飛ばした。
 だが、こちらが黙っていると、「同じクラスだったよね?」と、弥生は屈託無く笑い掛けてきた。まるで何事も無かったように。反射的に私は笑みを返し……安堵し、そして安堵した己に、言いようのない惨めさを感じた。
 それから、弥生は度々我が家を訪れるようになった。おぼろげながらもこちらの事情を察し、何くれと世話を焼いてくる。まだこの町での勝手がわからない私にとって、その厚意はありがたかった。私達は昔からの友人のように振舞った。

 それなのに……親切にされればされるほど、苦しい。

 頭では理解していた。現在が良いなら、過去は掘り返すべきじゃない。
 ――全てを忘れておしまいなさい。振り返っては駄目、二度と戻ってはならない。継母が言った通り、やり過ごすべきなのだ。五年、十年先、私がこの町を出られる可能性はとても低い。白馬に乗った王子も、魔法使いのおばあさんも、親切な狩人もやって来ない。あとは緩やかに朽ち果てるのみ。だったら、大人しい、善良な、汚れなき一市民を演じているべきなのだ。上書きされた喉越しの良い爽やかな脚本を、素直に受け取れば良い。そうすれば、きっと誰もが優しくしてくれる。正しい方角を示してくれる。森の奥深くに置き去りにされて途方に暮れることはない。それは子どもだった私が喉から手が出るほど欲しかったもの。
 
 だから、原本など、初めから無かったことにして。
 
 でも。だったら……
 唐突にミルクの入ったグラスが脳裏に浮かんだ。娘は砂糖を入れて甘くした牛乳が好きで、よく真っ白になった口の周りを拭ってやった。音を立てて、グラスが倒れる。こぼれたミルクは元には戻らない。香純を叱りながら床を拭く。雑巾も洗わねばならない。力任せに何度もこする。何度も何度も。小学校の細長い水場、アルボースを使っても牛乳の臭いは落ちない。じゃあそれ、かめこ用の雑巾ね。油性ペンで記される名前。うっわ、なにコレ、かめクサー!
 連鎖する追憶。それに呼応するように、子どもの澄んだ笑い声が弾ける。誰? 香純? それとも〈彼女〉? 薄暗い部屋の中、その声音はなおも鮮烈に響き渡った。
 ……部屋の中? そう、ここは結婚後の新居でもなく、ましてや小学校の教室でもない。正気に戻って掛け時計を見上げれば、午後二時半。あの赤い屋根の家の女の子が帰ってきたのだ。手をつないで、歌をうたいながら、と一緒に。それが、現実。

 原本を忘れて、新しい脚本を演じる。

 でも、だったら。
 どうして、私の娘はいないのだろう?
 どうして、私は娘の死を願ったのだろう?
 どうして、私は娘を愛せなかったのだろう?
 
〝そんなこともわかんないの? かめこってば、アっタマおかしいんじゃなーい?〟

 警鐘のように鳴り響く、嘲笑。
 でも。――おかしいのは、本当に、私?
 張りつめていた何かが、音も無く切れた。
 
 問い詰めれば、弥生はあっさりとかつての仕打ちを認めた。自分はとてつもなく恐ろしい面相をしていたのかもしれない。我が家を訪れ、出されたお茶を啜り寛いでいた弥生は、滑稽なほど蒼褪めてみせた。システムキッチンのカウンター越し、夕食の下拵えをしながら滑り込ませた問い。偶然――本当に偶々――、包丁を握っていたせいもあるかもしれない。
 弥生は、〈彼女〉に私を仲間外れにするよう指示されていた、演じさせられていた、本当はやりたくなかったのだと喚いた。
 もっともらしい話ではあった。ある意味、弥生も被害者なのかもしれない。実際は、善良で大人しく鈍い子だ。それが私を前にした時だけ豹変していた。罪悪感があったからこそ、今こうして罪滅ぼしと言わんばかりに親切にしてくれているのだろう。だけれども、今の私にとってそんなのはどうでも良かった。弥生など、目ではない。
「手を貸してくれる……?」
 床にへたり込んだ弥生の耳に、吹き込むように囁く。

 全てを忘れておしまいなさい。振り返っては駄目、二度と戻ってはならない。
 私は思う。継母の言う通りにできらどんなに良かっただろう。だけども忘れられなかった。真っ白な灰の中、真っ赤な熱を孕み、燻っていた埋み火。ほんの小さなきっかけが吹き込まれれば、すぐさま炎は燃え上がる。
 真っ暗な森。獣か、毒虫か、魔女か――何が待ち構えているかわからない。それでも、もう、うずくまるだけの子どもではいられない。己の足で分け入る。

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