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〈一幕 直美〉第3話 暗転
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香世子は一瞬驚いたように瞳を見開き、次にゆっくりと目蓋を伏せた。サティの音楽に耳を傾けるように。そして紅茶を一口啜り、ほうっと長い吐息を落とす。
「それが、あなたの脚本なのね」
――この紅茶、ちょっと渋いわね。そんな台詞と置き換えても違和感の無い口調だった。
私の戸惑いをよそに、香世子はティーカップを静かに下ろす。ソルトケースの粉末をケーキに振りかける。クリームをすくって舐める。
そこには狼狽とか、迷いとか、怒りとか、余計な感情は見当たらなかった。ごく普通に、ごく普通のことをしているという単純な動作の連続。だというのに、どこか薄ら寒く、不安な気持ちが湧いてくる。耐え切れず、私は、香世子?、と彼女の名を呼んだ。
「色々と誤解があるようだけど、美雪ちゃんを連れ出したのは、私じゃないわ」
――私、白いコートなんて持っていないしね。
さらりとした口調に、眉をひそめる。香世子の脇に畳んで置いてあるコートはどう見たって白い。言い逃れにしては――それこそ香世子には似合わないが――、あまりにお粗末すぎる。
私の視線に気付いたのか、彼女は微苦笑して、ふわり、白いカシミアを開いた。それは目に痛いほどの純白――
「ね。コートじゃないでしょう?」
緩やかに広がる扇形。だがそこにあるべきものが見当たらない。袖がない。それは、白い、カシミアのケープだった。
「あなたの前では羽織ったことがなかったかもしれないわね。ほとんど建物の中で会っていたから」
「…………」
「なんなら不審者を見たという子たちの前で、これを着て、サングラスを掛けてみせましょうか。賭けてもいいわ、きっと違うと首を振る」
丁寧に畳みながら言う香世子に、私は二の句が継げない。
「美雪ちゃんが連れ出されたのは何時頃のこと? 昨日の午前中は病院、午後はずっと家にいたわ」
「……そんなの」
いくらでもごまかせる。コートだってそうだ。子どもにケープとコートの見分けがつくはずない。ケープとは別に白いコートを持っているのかもしれない。ようやっと出した声を、しかし香世子は遮るように続ける。
「私はこの町で目立ち過ぎるもの。幼稚園なんか覗いていたら、すぐに通報されてしまう。自分を客観的に見られるほどには大人になったつもりよ」
――昔はそれができなくて、辛い思いもしたけれど。
彼女はふっと笑みを浮かべた。口元に皺が寄った、ひどく乾いたそれ。
私は棒立ちになって香世子を見つめた。
……おかしい。香世子は変だ。罪を明らかにされて取り乱さないのはもちろん、そもそも、彼女はこんな饒舌家だったろうか。今更ながら、二十年来の幼馴染に違和感を覚える。大人になって美しく羽化した? けれど根本は変わっていないと考え直したはずで、でも、だけど――
私は混乱した。困惑、と言っても良いかもしれない。目の前の香世子は、確かに香世子なのに、私の知らない表情をのぞかせる。
「もし仮に、あなたを死ぬほど憎んでいたとしても、白昼堂々、美雪ちゃんに手を出したりしない。そんな馬鹿じゃないわ」
あなたを、死ぬほど、憎んでいたとしても。
例え話であっても、まさか香世子の口からそんな台詞が出るとは思わず、思考が止まる。そして次の言葉に、私はさらに動揺した。
「美雪ちゃんを連れ出したのは、新森弥生さんよ」
――直ちゃん。お人好しの古い友人の丸顔が弾けて消える。
どうして彼女の名が出てくる? 確かに顔見知りの弥生ならば、さほど警戒心を抱かせず、適当に言いくるめて美雪を連れ出せるかもしれない。けれど、さっぱり意味がわからない。そもそも、なぜ香世子と弥生に接点があるのか。
クリームをもうひとすくい、彼女は言う。
「白状するとね、弥生さんは私に協力してくれたの」
「……おかしい、そんなの。だって弥生は、貴女のこと変って」
愕然としながらも返す。だからこそ寒風吹きすさぶ小道で反論してやったのだ。庇ったのだ。絶交してやったのだ。香世子、貴女を守るために。
「そう。彼女は本当に善い人ね。昔から変わらない。お気の毒なぐらいだわ。大嫌いなあなたにも同じ母親として同情して、私に近付かないよう忠告したのね」
目を細め、唇を三日月に描き、密やかに笑む。清潔さとは程遠い、じっとり艶かしいとさえ形容できる表情。
――大嫌いなあなた。
明らかな悪意が込められた言葉は蛇。ちろちろと扇情的に揺れる赤い舌、ぬめりと濡れた鱗が膚の上を這い回り、見えない鎖となって縛り付ける。
身動きできない中、どこか遠くで鐘が鳴り響いた気がした。午後五時、遊びの終了を告げる音。帰り道、一人、また一人と手を振り去ってゆく仲間達。そうして……最後に二人だけになって、ようやく息を吐くのだ。家までの、ほんの短い距離。
今、ここにいるのは二人、私達だけ。
誰の邪魔も入らない。誰からも咎められない。誰の目も気にしなくて良い。思う存分、素直に話せる。
なのに、どうして、貴女がそんなことを言う?
この町で唯一の味方である私に。
救けてあげる、そう手を差し伸べているのに。私の手を振り払う?
「弥生さんはね、ずぅっと昔からあなたを憎んでいたのよ」
香世子が笑う。ぐるんと縄跳びが目の前をかすめる。蠢く虫。散らばった筆記用具。給食のプラスチックトレイ。雑巾。一際大きく鐘が鳴り響く。そんなのは――そんなのは、許さない。
「――かめこっ!」
すぅっと。衝動のままに吐き出した叫びを、自分自身の耳で捉えた瞬間。沸騰した血が一気に氷点下まで下がった。
光射し込むリビングいっぱいに静寂が満ちる。
香世子は皮肉めいた笑みを消し、無言のまま、無表情に、無心に私を見上げていた。あの漆黒の兎の眼で。いや――灯がともる。平坦な印象だったその瞳に。
「ようやく、その名で呼んでくれたのね」
王子に捜し当てられた娘のように。父親と再会した兄妹のように。魔女の呪いから目覚めた姫君のように。
香世子はこの上なく幸福そうに、微笑んだ。
「それが、あなたの脚本なのね」
――この紅茶、ちょっと渋いわね。そんな台詞と置き換えても違和感の無い口調だった。
私の戸惑いをよそに、香世子はティーカップを静かに下ろす。ソルトケースの粉末をケーキに振りかける。クリームをすくって舐める。
そこには狼狽とか、迷いとか、怒りとか、余計な感情は見当たらなかった。ごく普通に、ごく普通のことをしているという単純な動作の連続。だというのに、どこか薄ら寒く、不安な気持ちが湧いてくる。耐え切れず、私は、香世子?、と彼女の名を呼んだ。
「色々と誤解があるようだけど、美雪ちゃんを連れ出したのは、私じゃないわ」
――私、白いコートなんて持っていないしね。
さらりとした口調に、眉をひそめる。香世子の脇に畳んで置いてあるコートはどう見たって白い。言い逃れにしては――それこそ香世子には似合わないが――、あまりにお粗末すぎる。
私の視線に気付いたのか、彼女は微苦笑して、ふわり、白いカシミアを開いた。それは目に痛いほどの純白――
「ね。コートじゃないでしょう?」
緩やかに広がる扇形。だがそこにあるべきものが見当たらない。袖がない。それは、白い、カシミアのケープだった。
「あなたの前では羽織ったことがなかったかもしれないわね。ほとんど建物の中で会っていたから」
「…………」
「なんなら不審者を見たという子たちの前で、これを着て、サングラスを掛けてみせましょうか。賭けてもいいわ、きっと違うと首を振る」
丁寧に畳みながら言う香世子に、私は二の句が継げない。
「美雪ちゃんが連れ出されたのは何時頃のこと? 昨日の午前中は病院、午後はずっと家にいたわ」
「……そんなの」
いくらでもごまかせる。コートだってそうだ。子どもにケープとコートの見分けがつくはずない。ケープとは別に白いコートを持っているのかもしれない。ようやっと出した声を、しかし香世子は遮るように続ける。
「私はこの町で目立ち過ぎるもの。幼稚園なんか覗いていたら、すぐに通報されてしまう。自分を客観的に見られるほどには大人になったつもりよ」
――昔はそれができなくて、辛い思いもしたけれど。
彼女はふっと笑みを浮かべた。口元に皺が寄った、ひどく乾いたそれ。
私は棒立ちになって香世子を見つめた。
……おかしい。香世子は変だ。罪を明らかにされて取り乱さないのはもちろん、そもそも、彼女はこんな饒舌家だったろうか。今更ながら、二十年来の幼馴染に違和感を覚える。大人になって美しく羽化した? けれど根本は変わっていないと考え直したはずで、でも、だけど――
私は混乱した。困惑、と言っても良いかもしれない。目の前の香世子は、確かに香世子なのに、私の知らない表情をのぞかせる。
「もし仮に、あなたを死ぬほど憎んでいたとしても、白昼堂々、美雪ちゃんに手を出したりしない。そんな馬鹿じゃないわ」
あなたを、死ぬほど、憎んでいたとしても。
例え話であっても、まさか香世子の口からそんな台詞が出るとは思わず、思考が止まる。そして次の言葉に、私はさらに動揺した。
「美雪ちゃんを連れ出したのは、新森弥生さんよ」
――直ちゃん。お人好しの古い友人の丸顔が弾けて消える。
どうして彼女の名が出てくる? 確かに顔見知りの弥生ならば、さほど警戒心を抱かせず、適当に言いくるめて美雪を連れ出せるかもしれない。けれど、さっぱり意味がわからない。そもそも、なぜ香世子と弥生に接点があるのか。
クリームをもうひとすくい、彼女は言う。
「白状するとね、弥生さんは私に協力してくれたの」
「……おかしい、そんなの。だって弥生は、貴女のこと変って」
愕然としながらも返す。だからこそ寒風吹きすさぶ小道で反論してやったのだ。庇ったのだ。絶交してやったのだ。香世子、貴女を守るために。
「そう。彼女は本当に善い人ね。昔から変わらない。お気の毒なぐらいだわ。大嫌いなあなたにも同じ母親として同情して、私に近付かないよう忠告したのね」
目を細め、唇を三日月に描き、密やかに笑む。清潔さとは程遠い、じっとり艶かしいとさえ形容できる表情。
――大嫌いなあなた。
明らかな悪意が込められた言葉は蛇。ちろちろと扇情的に揺れる赤い舌、ぬめりと濡れた鱗が膚の上を這い回り、見えない鎖となって縛り付ける。
身動きできない中、どこか遠くで鐘が鳴り響いた気がした。午後五時、遊びの終了を告げる音。帰り道、一人、また一人と手を振り去ってゆく仲間達。そうして……最後に二人だけになって、ようやく息を吐くのだ。家までの、ほんの短い距離。
今、ここにいるのは二人、私達だけ。
誰の邪魔も入らない。誰からも咎められない。誰の目も気にしなくて良い。思う存分、素直に話せる。
なのに、どうして、貴女がそんなことを言う?
この町で唯一の味方である私に。
救けてあげる、そう手を差し伸べているのに。私の手を振り払う?
「弥生さんはね、ずぅっと昔からあなたを憎んでいたのよ」
香世子が笑う。ぐるんと縄跳びが目の前をかすめる。蠢く虫。散らばった筆記用具。給食のプラスチックトレイ。雑巾。一際大きく鐘が鳴り響く。そんなのは――そんなのは、許さない。
「――かめこっ!」
すぅっと。衝動のままに吐き出した叫びを、自分自身の耳で捉えた瞬間。沸騰した血が一気に氷点下まで下がった。
光射し込むリビングいっぱいに静寂が満ちる。
香世子は皮肉めいた笑みを消し、無言のまま、無表情に、無心に私を見上げていた。あの漆黒の兎の眼で。いや――灯がともる。平坦な印象だったその瞳に。
「ようやく、その名で呼んでくれたのね」
王子に捜し当てられた娘のように。父親と再会した兄妹のように。魔女の呪いから目覚めた姫君のように。
香世子はこの上なく幸福そうに、微笑んだ。
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