白雪姫の接吻

坂水

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〈一幕 直美〉第2話 迷道

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「藤田さん。……直美さん」

 幼稚園の正門を出て最初の曲がり角、不器用そうな足音と、かすれ気味の声を聞く。振り返れば、美雪と同じりんご組の女の子、マリちゃんの母親――いや、違う。

「直ちゃん、相変わらず歩くの速いねえ」

 相変わらずのショートカットに、化粧っけのない丸顔。そこには元同級生の新森弥生がいた。
 彼女とは小学校、中学校が同じで、仲良しグループの一人だった。私と同様地元に残り、婿をもらい、子どもを産み、同じ幼稚園に娘を通わせている。もっとも今では、『同級生の弥生』というよりも、『マリちゃんのお母さん』というスタンスで付き合うほうが多く、他の母親たちの手前、必要以上にベタベタしないようにしていた。それでも二人きりになれば自然と昔の呼び名に戻ってしまうが。
「さっさと行っちゃうんだもん、少し走っちゃった」
 今朝、美雪を送った帰り、私は井戸端会議に参加していなかった。いや、参加する気になれなかったというのが正しい。私は暇さえあれば香世子との時間を反芻し、味わい、浸っていた。その清澄な水を余計なもので濁したくなかったのだ。そんな私の心中を察せるはずもなく、弥生は屈託なく笑う。

「さっき他のお母さんたちとも話していたんだけど、今日、ランチ行かない? 市役所の向かいにできたイタリアンのお店」
「やめとく。荷物届くの待ってなきゃいけないから」

 気分が乗らないし、香世子と度々食事やお茶をしているため、大分財布が軽くなっている。私はためらうことなく嘘をついた。
 弥生はわかりやすく肩を落とす。彼女は子どもの頃から金魚の糞よろしく私のあとを付いて回り、やや依存してくる傾向があった。頼られるとまんざらでもなかったが、最近少し疎ましい。

「この頃、あんまり顔出さないんだね」

 ポツリ呟くと風邪でも引いたのか、弥生は一二度、小さく咳き込んだ。どこか同情を引こうとしているような仕草に白々しさを覚える。最近、ちょっと忙しいのよと答え、その後は喋る気にもなれず、私は黙って歩みを進めた。その半歩後ろを弥生が歩く。昔と変わらぬ構図だった。
 黙々と歩き続ける。風が痛いほどに冷たい。いつもなら沈黙に耐え切れなくなった弥生が、何かと話しかけてくるのだが、今日は彼女も口を開かない。少し素っ気無くし過ぎただろうか。分かれ道に差し掛かった頃、私は適当な話題を提供しようかと肩越しに目をやったその時。
 弥生は羽織っていたフリースのポケットをさぐり、やおら白いカードを突き出してきた。
「これ、渡しておくね」
 受け取ると、それはハガキだった。文面をちらり確認して、ああ、次の幹事は弥生だったっけと理解する。それは年に一度、地元の仲良し十人弱で集まる、小さな同窓会の案内だった。

「毎日会うのに、郵送するのもなんだから」
「……ああ、うん。ありがとう」

 白い息を撒いて微笑む弥生に、気まずさを覚え、ぶっきらぼうに礼を告げた。
 と――、その時、天啓のようにひらめく。

「ねえ、これ、香世子も呼ばない?」

 カヨコ? 私の言葉に、弥生は鈍そうに首を傾げた。
「初瀬香世子よ。小五の終わりに転校した、あの高台の白い家の。彼女、去年の秋に帰ってきたの」
 息せき切って説明する。それは素晴らしい考えに思えた。香世子は私と会っている時、目を細め、とても懐かしそうに昔話を語り、また聴き入っていた。同窓会は継母との関係に疲れている彼女にとって良いリフレッシュになるに違いない。そして私自身、他の誰より美しく成長した香世子を皆に披露したいという思いがあった。

「ああ、初瀬……『カヨコ』なんて呼ぶから誰かわからなかった」
「今、彼女、実家にいるのよ。あの子も同窓会に誘って――」

 弥生は曖昧な表情を返してきた。長い付き合いでわかる、基本的にお人好しの彼女がそんな顔をするのは、余程、気が進まない時だ。それを承知の上で私は畳み掛けた。

「嫌なの?」
「嫌っていうか……いきなり人が増えるのはあんまり。もう皆に案内状出しちゃったし」
「メールで連絡すれば良いじゃない。アドレス知ってるでしょう?」

 T字路に立つミラーの前で足を止める。本来、ここで左右に別れるのだが、私は弥生に向き直った。
 周囲は田畑で人気が無い。弥生の背後には、高速道路の高架が横たわっており、自動車が猛スピードで行き交う走行音が空に響いている。もっともそれは子どもの頃から耳に馴染んだもので、最早無音と同じだ。その騒々しい静寂の中、弥生を見据えると――もしかしたら睨んでいたかもしれない――、彼女はためらいがちに言う。

「だって、皆、あんまり喜ばないと思う」
「どうして」
「……初瀬さんって、ちょっと変だったから」
「変?」

 視線で促すと、弥生は観念したように、
「人の話を聞いてなかったり、返事をしなかったり、約束を破ったり」
 確かに香世子にはぼんやりしたところがあったかもしれない。友人関係だけでなく、テストの点数は悪くないのに、授業中、教師に当てられ答えられなかったこともままあった。でもそれは、継母の居る家、転校したての学校と、常に緊張を強いられていた反動なのだ。
 私は、その因果関係をどう説明したものかと考える。むやみに香世子の家の事情を話すのは気が進まなかった。だが弥生はこちらが返事に窮したとでも勘違いしたのか、語気を強め、
「お嬢様ぶって、いっつもあの子、遊ぶ約束しても待ち合わせ場所に来なかったでしょう? それで直ちゃんがわざわざ迎えに行って」
「彼女、まだこのへんの地理が把握できてなかったのよ。迷子を迎えに行くのは当然じゃない」
「だって、半年経ってもそうだったよ。あれ、絶対わざとだよ。皆の気を引こうとしていただけ。そのくせ都合が悪くなると、しゃがみ込んで、だんまりになって」
 そこで気付く。弥生の顔は真っ赤だった。けれどそれは寒さのせいだけじゃない。
「こっちがさも悪いみたいに。だから、直ちゃんだって、」
「弥生、その辺にしときなさいよ」
 私はぴしゃりと言い放った。ぶたれた犬のようにびくりと硬直する弥生。要するに、彼女は私という友人を奪われて香世子に嫉妬しているだけなのだ。ここで弥生がクゥンとひと鳴き甘え声を出せば終わる話だった。しかし、予想に反して彼女は意固地に黙ったまま俯く。そうして、ぽつり呟いた。

「……あの家、気味が悪い」
「は?」

 間の抜けた声が漏れる。だが、弥生はこちらの様子には気を留めず、 
「子どもの頃からおかしな家だと思ってた。人の気配がほとんど無いし、たまに誰か見掛けても挨拶一つ寄こさないし」
 初瀬家が越してきて二十余年、とっくに地域に馴染んでおかしくない月日が経っている。だが、あの〈城〉は特別なのだ。愛想の悪さを気味が悪いと感じるか、高貴の証とするかは受け手の違いだ。そう反論しかけた私を、思いがけぬ強い視線が捉える。弥生からこんな目を向けられるのは初めてだった。

「うちの母が聞いたの」
「何を」
「お母さん、今年、自治会の役員で。自治会費の集金に行った時――」
「だから、何?」

 私は焦れる。弥生は寒さのためか、それとももっと他の何かを避けるためにか、自身を抱きしめるように腕を回し、

「悲鳴を、聞いたの」
「悲鳴?」
「悲鳴というか、呻き声みたいな。それだけじゃない、ドンドンっていう壁を叩く音や、物が倒れたり、ガラスが割れたりする音も。喧嘩っていうより、あれは……」

 弥生は目を逸らし、言葉を濁す。

「…………」
「あの家、表は綺麗だけど、裏では何が行われているかわからない」

 びゅうっと彼方より山おろしが吹き付け、弥生は身を縮ませた。その仕種は十歳当時の香世子に似ているようで、やはり全く違う。あの無垢な眼差しと、この感情に澱んだ瞳では。そんなことを思いながら、白けた気分で尋ねる。

「それで、どうしたの?」
「どうしたのって」
「もし本当に何かが起きていたなら、近くの家に助けを呼ぶとか、警察に連絡するとか、大人なら相応の対処があるでしょう?」
「だって、そんな……高台にはあの家しか建ってないし、お母さんは携帯電話を持たない人だし」
 うろたえる様を横目に、私は大仰に嘆息してみせた。
「〝大山鳴動して鼠一匹〟ってことわざ知ってる? どうせ皿を落として割った、ぐらいのことでしょ。それともなに、あすこは幽霊屋敷か悪魔憑きだとでも言いたいの?」
「嘘じゃないよ」
「嘘とは言ってない。だけどあんたが直に聞いたわけでもない」
「でも、あの家は、」  

「香世子が何をしたっていうの!」

 なおも言い募ろうとする弥生に、忍耐の糸が切れる。一度切れてしまえば、もう結び直せない。私は衝動のままに叫んだ。
「昔からあんたたちは全然変わらない。ぬくぬくとこの町で暮らしているというだけで偉そうに。一体、何を根拠に彼女を見下げるの?」
 校庭で、公園で、神社で、たった一人蹲っていた少女。彼女に手を差し伸べるのは私だけ。
 裸の王様は『愚か者には見えない服』を着ていたつもりになっていた。けれど、彼女は確かに纏っていたのだ、高潔なる白を。それはあまりに透明で、愚かな人間には決して視えない。弥生の母も、弥生自身も、私の家族も。私以外のこの町の人間は、誰も。
「彼女は子どもの頃から苦労してきた気の毒な人よ。いたわりこそすれ、迫害する理由は無いわ。それを少し変わっているというだけで陰険に」
 我知らず、私は弥生から受け取ったハガキをくしゃくしゃに握り締めていた。乱雑に開いて、ポケットの中に入っていたペンで欠席に丸を付け、弥生に付き返す。そして、きびすを返し、背中を向けたまま告げる。

「香世子は私の親友よ。妙な噂を広めたら許さないから」

 それは事実上の絶交宣言だった。私は、弥生よりも、他の同級生よりも、香世子を選んだのだ。後悔はない。むしろ清々しくさえある。そう、もっと早くこうするべきだった。二十年前から。

「……親友?」

 だから、その声に振り返るべきではなかったのだ。それは足に絡みつく蔓草。薙ぎ払うべきだったのに、引き千切らなければならなかったのに、思わず立ち止まってしまう。肩越しに測った二人の距離はすでに十メートルほど開いていた。
 弥生はうっすらと微笑んでいた。その場違いな表情に、私は眉をひそめる。貼り付けられた冬空と枯れた稲田を背景に、彼女は幼い娘に諭すようにゆっくりと言った。
「あの子が私たちと違うって、一番よく知っているのは直ちゃんじゃない」
 その微笑に浮かぶのは、嘲りでもなく、侮蔑でもない。最もしっくりくるのは――憐れみ?
 短い髪を風に弄らせたまま、笑みを浮かべたまま……どこか見知らぬ人のように、弥生は私を見つめていた。
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